10-21

 8月7日(水) 18:58


 

「はい! これで今日の収録は終了です! ありがとうございましたー!」



 あれから――――


 星野尾さんは午後もずっと収録を続け、殆ど休憩も挟まずに約9時間、ずっと咲良ひなげしの台詞を喋り続けていた。

 幸いにも、本編の台詞は今回で無事網羅。

 ラジオとか特典音声とかが残っているから、今後も仕事は続いていくらしいけど、今日で大体の収録は完了だ。


「へにゃー……ありがとうございました~……」


 あのタフな星野尾さんも流石に疲労困憊らしい。

 ヘロヘロな顔で収録ブースから出て来た。


「それでも一日で終わるのなら大分マシな方だよ。ゲームの収録は丸三日缶詰とか普通にあるからね。その分ギャラは良いけど」


 そう俺に呟きつつ、朱宮さんは苦笑しながら星野尾さんを出迎える。

 ……結局この人、一日中ここにいてくれたな。

 どうやら今日はオフだったらしいけど……それにしたって、面倒見が良いってだけでは説明が付かない。


「お疲れ」


「……え? なんで?」


 朱宮さんが来る事を知らなかったらしい星野尾さんは、ヘロヘロだった顔を引きつらせて小刻みに揺れていた。


「何かトラブルでも起こしちゃいないかって心配でね。でも、問題はなかったみたいだ」


「当たり前でしょ……私を何歳だと思ってんの……?」


 いつもの星野尾さんだったら眉を顰めて大声で怒鳴るくらいはするだろうけど、そんな気力はもう残っていないらしい。


 それに、朱宮さんの言葉も決して煽りとか挑発じゃない。

 小さいながらも問題はブース外で起きていた。


 星野尾さんの台詞への拘りは概ねスタッフに好印象だったけど、それは全員って訳じゃない。

 クリティックルのスケジュール管理を行っている人や、今後別の仕事が入っている人達からは少しだけど不本意だという声が漏れ出ていた。


 それを朱宮さんが全部フォローしてくれていた。


 本来ならマネージャー代理で来ている俺にクレームが殺到するところ。

 でも勿論、現場経験なんて皆無でそもそも業界の事なんて一切わかっていない俺に対処できる筈もない。


 そこでようやく理解した。

 朱宮さんが今日ここへ来たのは、俺の為でもあったんだ。


 有名声優の彼がいるだけで、俺や星野尾さんへの当たりが全然違う。

 朱宮さんが防波堤になってくれなかったら、もしかしたらギスギスした現場になっていたかもしれない。

 朱宮さんは『終夜プロデューサーと縁が深い君にそんな事はしないよ』と言っていたけど、そんな保証は何処にもないからな……


「何にしてもお疲れ。夕食、三人でどう?」


「……奢りだったら良いけど」


「決まりだな。深海君とはもう話が付いてる。祈瑠の好きな店に行こう。何処が良い?」


「え、ちょっと待って。ホントに? 私の好きなトコで良いの?」


「ああ」


「待って……! 今調べるから!」


 タダで好きな店の食事が出来ると知って、星野尾さんのテンションが爆上がりした。

 あれだけ過酷な仕事をしておいて、何処からそんな元気が湧いてくるんだか……声も枯れてないし。


「こういう所だけは、向いてるのかもしれないけどね」


 どうやら朱宮さんも同じ事に感心していたらしい。


 本当は、収録が終わったらスタッフの人達がご飯に連れて行ってくれる予定だったみたいだ。

 ただ朱宮さんがそれをやんわりと断って、俺達だけで行く事になった。

 

「……まあ一応ね。ここのスタッフがどういう人達なのか、まだちょっと把握できてないから」


 要するに、万が一星野尾さんが毒牙にかからないようにする為……だよな。

 ここへ来た理由は俺の為でもあったんだろうけど、やっぱり本命は星野尾さんを守る為だったんだろう。


「過保護ですねえ」


「そんな事はない……と思う」


 学生ならともかく社会人なんだから、そこまでしなくても――――とは勿論言わない。

 ただ、まあ、何と言うか……俺、邪魔なんだろうなって思わずにはいられない。


「決めた! お寿司と中華も捨てがたいけど、今日は喉に刺激がいかないのが良いから……イタリアンが良い!」


「了解。帰りが遅くならないよう、駅の近くにしようか」


 イタリア料理か……

 パスタとピザくらいしか食べた事ないし、そもそも外食でイタリア料理店に入った記憶がない。

 マナーも良く知らないし……

 

「っていうかこの格好で大丈夫ですかね」


「大丈夫大丈夫。畏まった所には予約なしで急にはいけないし、祈瑠だってそんな所は想定してないから。だよね?」


「当たり前でしょ? 学生を連れて行くんだから。それなりのトコよ、それなりの」


 そう言って星野尾さんがスマホをズイッと近付けてくる。

 画面に映っていたのは――――『カジュアルイタリアン』と書かれている、リーズナブルなお店だった。


 あ、ピザもある。

 助かった……でもちょっと申し訳ない気もするな。


「来未兄、今日はありがとうね。こんな長い時間付き合ってくれて。好きなの食べて食べて! こいつガッツリ稼いでるから!」

 

「そうでもないけどね……でも、この店だったら何頼んでくれても大丈夫だから」


 お、大人だ……朱宮さんから大人の余裕を感じる。

 ウチのカフェに来る時は童心に返ってるみたいな感じだから、頼れる大人モードの朱宮さんは珍しいかもしれない。


「ん……rain君からSIGNが来てる。今渋谷にいるって」


 え、何その連絡。

 わざわざ自分の現在地を報せるって……え、もしかしてそういう……?


「……」


 うわ!

 星野尾さんが露骨に不機嫌そうな顔!


 えー……これって修羅場?

 急過ぎない?


「折角のタイミングだし、rain君も誘ってみようか。例のコラボの話も出来るかもしれないし」


「あ、いや、それはまた別日でも全然……」


「もう送っちゃったよ」


 もう送っちゃったんですか!?

 いや俺は別に何も問題ないし、何だったら終夜絡みの事でrain君には話聞きたいとも思ってたけど……


「……」


 星野尾さんの顔から生気が消えているような……

 これ、やっぱりそういう事だよな。


 幼なじみは結局勝てないとか、そういう話なんだろうか……?


「あ、あの! 星野尾さんもいるって伝えました?」


「うん。こっちは三人って言ってある」


 それだと具体名を出したかどうかわからない!

 あーでもしつこく聞くのもなあ……


「あ、返事来た。店に直接行くって」


 リアクション早っ!

 っていうか当たり前みたいに来るんだな!

 rain君らしいと言えばらしいけど……これだけ早いと何か勘ぐっちゃうって。


「えっと……星野尾さん、大丈夫?」


「は??何が??大丈夫って何が??ご飯食べに行くだけなんだから大丈夫とかなくない??」


 息継ぎも瞬きも一切しない……

 怖いよ。

 ゲームや漫画だったら絶対目のハイライト消えてるよ……


「待たせる事になったら悪いし、早く行こうか。ここから歩いて10分とかからないから」


「は、はい」


 それはつまり、約10分後にドロドロの修羅場が待っているって訳ですね。


 ……嫌だ!

 正直恋愛に関してはちょっと興味津々なタイミングなんだけど、俺が知りたいのはこういう寒気がするようなやつじゃない!


「そうね。早く行って早く食って早く帰りましょっか」


 星野尾さんの喋るスピードが通常の倍くらいになってる。

 どうなるんだこれ。

 とてもじゃないけど、俺には潤滑油みたいな役割は無理だ……


「……あれ?」


「え、今度は何ですか」


「深海君……今、顔が……感情が表情に出てるよ」


「そりゃ出ますよ」


「え? 出ないって言ってなかったっけ?」


「私も来未からそう聞いてるんだけど。実際いつもポーカーフェイスだし……あっ本当! すっごく困ってる!」


 朱宮さんだけじゃなく星野尾さんからも指摘されたって事は、本当に表情が作れているんだろう。

 それ自体は、少し前から改善傾向が見られていたから驚きはない。


 でも、これで何となく要領みたいなのはわかった。

 自分でも持て余すくらいの強い感情が生じると、表情にも現れるんだ。


 逆に言えば、普通の人が出来るように表情筋を使って自己の感情を表現するような真似は出来ていない。

 あくまで自然発生。

 希望は見えたけど、まだまだ完治には程遠い。


「良かったじゃない! 来未に送ってあげなきゃ! ちょっと写真……動画の方が良い?」


「そうだね、動画がわかりやすいかも。深海君、今の表情キープできる?」


「いや……そこまでしなくても大丈夫なんで……」


 何故か、俺の表情で不穏だった空気は改善された。

 それに関しては良かったけど……結局、10分後に修羅場が訪れるのは変わりないから、素直には喜べなかった。


 

  


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