10-15

 8月7日(水) 09:32



 今日は星野尾さんの収録が行われる日。

 再度上京した東京は、前に来た時よりも少しだけ暗く見えた。

 それは多分、俺の心情の変化なんだろう。

 

 レコーディングスタジオがあるのは恵比寿だ。

 山梨から中央本線で高尾駅まで行き、中央線で八王子へ移動。

 そこから渋谷まで特急で移動し、恵比寿まで徒歩で約20分歩き――――駅近くのビルに到着した。


「……意外と大きいですね」


 勿論、そのビルが全部スタジオって訳じゃない。

 この3階にスタジオがあるらしい。


「……」


 星野尾さん、渋谷で合流したっきり一言も喋ってない……凄い緊張がこっちにも伝わってくる。


 一応、この日を迎えるに当たって俺もゲームのボイス収録について少しだけ調べてみた。


 ゲームはアニメと違って、台詞の量がかなり多い。

 勿論、作品やキャラによって量自体には相当な幅があるけど、少なくともメインとなるキャラはかなりの台詞を喋る。

 フルボイスの場合は数万もの台詞量に及ぶという。


 俺みたいな素人がイメージするのは、台本を持ってマイクの前で映像を見ながら台詞を言っていく感じなんだけど、ゲームでもアニメでもしっかりした映像があるケースはそれほどないらしい。

 特にゲームに関しては、映像……というか絵自体がないという。

 開発と並行してレコーディングする為、まだ素材くらいしかないというのが実状だ。


 勿論、なんの取っ掛かりもなく台本を読むだけって訳じゃない。

 既に前回の打ち合わせの時に資料は一通り貰っているし、その後も追加で送って来た中に、星野尾さんが演じる咲良ひなげしのビジュアルや基本的な口調はちゃんと載っていた。

 まずはそれを読み込んで、このキャラがどういう声を発するのかをイメージとして作り込む事が必要……だそうだ。


 Virtual[P]Raiseは育成ゲームだから、いわゆるバトルパートはない。

 このバトルパートってのが意外と厄介らしくて、常にテンションを高くしつつ、様々なパターンの掛け声を発していく必要があるから、途中でこんがらがったり声の調子がおかしくなったりする事もあるという。


 今回星野尾さんが挑む収録は基本、Vtunerらしい『お喋り』だ。

 ただし、バトルパートほどじゃないけどゲーム実況のようにテンション高く奇声……もとい、掛け声を発する台詞もあるらしい。

 当然、星野尾さんも事前に様々なVtunerの喋りを研究して、ある程度のバリエーションは用意してある。


 準備は万全。

 この日を迎えるにあたって、やれる事はやってきた。

 後はそれをしっかり仕事としてアウトプットするだけ……って偉そうに言ってたのに。


「星野尾さん。そんな怯えなくても大丈夫ですよ。試験じゃないんですから」


「いえ。これは試練よ」


 ……会話が噛み合ってない。

 本当に大丈夫かな。


「情けないって思ってるでしょ?」


「そんな事はないですよ。でも、ここまで来て緊張で力が出せませんでした、ってなるのはキツいですし、何処かで覚悟決めないと」


「決めるのは簡単なのよ。私だって色んな職種で色んな事やってきてるんだから。レポーターの仕事で犬連れて歩いてた一般人にインタビューしたら骨が見えるまで噛まれた話聞きたい?」


「聞きたくないです……」


「失敗とかアクシデントは何度だって経験してきてるの。だから開き直るのはカンタン。でもね……」


 星野尾さんは、スタジオのある3階を見上げながら……歯を食いしばっている。


「開き直っても、結局怖いものは怖いのよ。またチャンスを掴めないんじゃないかって」


「それは……」


「アンタはゲーム。来未はアニメとコスプレ」


 ……?


「私は学生時代、絶対にこの仕事をしたいとか、この事なら誰にも負けないとか、これ取り上げられたら死ぬとか、そういうのがなかったのよ。社会人になるとね、それが後々響いてくんの。諦められちゃうのよ。もう次に行こうって。これ以上ここにいても仕方ないって。私はそれを何十回も繰り返して、一つも身にならなかったの」


 流石、16の職業を転々としてきた肩書きの渋滞女王。

 説得力が違う……


「これが天職だ、って思った瞬間だって何度もあるの。でも一番にはなれなかったし、二番にも三番にも四番にも五番にもなれなくて……一度もうお前の居場所はないって言われると、縋り付く事が出来なかったなあ」


「それは仕方ないですよ。これじゃなきゃ生きて行けないなんて自分に嘘ついて縋っても、何処かで破綻しますし」


「高校生が言うじゃない。一丁前に」


 俺の答えはお気に召さなかったみたいだけど、声に張りが出て来た。

 あと一息だ。


 でも時間が……10時20分前には着かないといけない。


「またダメだったら……来未と二人で慰めてくれる?」


「それくらいなら、幾らでもしますよ。ウチの店が繁盛したら、バイトとして雇うって選択もありますし」


「バイトにまで困ってないから!」


 ……よし。

 良い声だ。


「星野尾さんには多分、色んな武器があり過ぎるんだと思います。だから『これじゃなきゃダメだ』とはならない。色んな可能性があり過ぎて、あれがダメならコレがあるって気になれる。その繰り返しで今の星野尾さんが在るのなら、それはそれで他にない強みじゃないですか」


「え……」


「別にこれから他の声優さんと競う訳でもないし。っていうか、本来この仕事を得るにはオーディションで競らなきゃいけないのに、勝手に舞い込んで来たんだからダメ元くらいで良いんですって。ホラ行きますよ」


「ちょっと! 途中まで良い感じだったのに急に投げやりになってない!?」


「あと2分! マジ時間ないですって!」


 もし遅刻……じゃないにしろ20分前集合を破ったら、マネージャー失格だ。

 3階なら階段の方が早い。

 普段関わりもしないようなビルの中を、全速力で駆け上がった。





「それじゃ始めましょうか」


 結構長かった事前の打ち合わせが終わり、ついに収録が始まった。


 ……と言っても、レコーディングは星野尾さんがするから、俺は外野から見守るだけ。

 休憩に入ったら飲み物や携帯加湿器を出したりする程度だ。


 ゲームのボイス収録は基本、一人で行う。

 決して広くないスタジオで、椅子に座って行う事が多い。

 アクションシーンは立って演じる方が良いって人が多いみたいだけど、ドラマパートは基本、座っての収録だそうな。


 ゲームのボイス収録は台詞の多さもあって長丁場になりがちで、少しでも手際よくやっていく必要がある。

 一つの台詞が1~2行あるとして、それを一気に数百ぶっ通しで収録し、一区切り。

 そこで間違った台詞、ディレクション的に問題アリの台詞などをやり直し、次に移行――――って感じで延々と続いていく。


 掛け合いをする相手がいないから、断片的な台詞が次々と発せられていく。

 それは流れ作業のようで、たまにある棒読み口調な台詞はこの淡々とした空気にそのまま呑み込まれてああなってるんだなと思わずにはいられない。


 これは事前に調べた事じゃないけど……ゲームの台詞は、アニメと違って台詞と台詞の間にはテンポがない。

 台詞の進行はプレイヤーがボタンを押すタイミングで決まる訳で、テンポを作るのはプレイヤー自身だ。

 とはいえ、1~2行の台詞内におけるテンポはあって、読む速度、抑揚、イントネーションなどがキャラを、イベントシーンを、そして物語を演出していく。


 

『好きだと言ってくれて、とても嬉しく在りました。御礼申し上げますわ』



 ……所々日本語が変なのは、キャラの特性だ。

 咲良ひなげしは丁寧で物腰柔らかだけど、何処かポンコツ。

 ちょっと人気出そうなキャラなんだ。


 星野尾さんの声は、確かにこのキャラにあっている。

 本人に似たような所があるからなのかもしれない。

 次々と発していく台詞の中にも、彼女ならではの情感というか、個性が発揮されている気がする。


「マネージャー君。ちょっといいかな」


 ……お、来たか。

 

 俺はこの日、あくまで星野尾さんのマネージャーとして来た。

 でも、やる事が特にないこの時間を利用して、俺には俺のすべき事が他にある。


「社長、着いたみたい。何か話があるんだよね?」


「はい。既にアポは取ってるんで……一旦外に出ても大丈夫ですか?」


「ああ、こっちは大丈夫。この調子ならお昼の休憩まではノンストップでいけそうだしね」


 なんの役職かは知らないスタッフの方に確認を取って、一旦ビルの外へ出る。


 やる事は……言わなきゃいけない事は沢山だ。

 咲良ひなげしと鍵宮クレイユのコラボレーションの打診と、その商業的利用。

 裏アカデミの進捗確認と今後について。


 そして――――



「本日は貴重なお時間を頂きありがとうございます」


「堅苦しい話は不要だよ。学生の貴重な時間を貰うのはこちらも同じだ。近くの飲食店で良いかい?」


「はい」



 終夜について。



 俺は……いや。

 俺が、終夜父と話さなきゃいけない。





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