10-2

 8月4日(日) 11:12



「来たか」


 休診日にわざわざクリニックを開けて、アヤメ姉さんは診療室で待っていた。


「……」


 俺の顔を見たアヤメ姉さんは、一目でこれまでと違う事を見抜いたらしい。

 目を見開いて、口に手を当てて暫く絶句していた。

 こんな顔、今まで見た事がない。


「まだ全然、ぎこちないんだけどね」


「……フフ。回復した途端に随分贅沢な事を言うじゃないか」


 自分でも、実感がある。

 今、自分がどういう表情をしているのか。

 勿論、他の人みたいに上手に笑ったり怒ったりは出来ないけど、口角はちゃんと動いているし、目の周辺の筋肉が動いているのも、なんとなくわかる。


「良かった。いや……良くやった。本当に、ここまで良く堪え忍んできた。辛い事も沢山あっただろう」

 

「姉さん……そんな事ないよ。かけた迷惑に比べれば全然」


「こんな時まで遠慮するな。素直に喜べ」


 こっちが少し戸惑うくらい、アヤメ姉さんは喜んでくれた。


 正直、表情が戻った事に対しての喜びはそれほどじゃない。

 元々実感が伴わない喪失だったから、それが改善されたところでやっぱり実感はない。

 でも、こうやって今まで支えてくれた人達が『良かった』と言ってくれるのは、胸が熱くなる。


「叔母さん……母上は喜んでいたか?」


「泣いてた」


「そうか。恐らく一番思い詰めていたのはあの人だろう。良い親孝行が出来たじゃないか」


「寧ろ、やっと親不孝を止めたって言った方がいい気がするけど」


「無自覚の反抗期の終焉か。成程、間違ってはいない。君は一つ、大人になった訳だな」


 そんな自覚も当然ない。

 でも、母さんが泣いてくれたのを心から嬉しく思えた自分には、ちょっとだけ安堵した。

 表情がないからといって、別に劣等感とか引け目があった訳じゃないけど、俺はちゃんと母さんの事を好きだったんだなって思えたから。


「両親がぜひアヤメ姉さんを招待したいって。お礼がてら、色々話を聞きたいそうだけど」


「今日か?」


「予定が何もなければ、今夜。店は早めに閉めるって」


 俺としては、あんまり大袈裟にして欲しくない気持ちもあるけど……アヤメ姉さんにはずっと支えて貰ったし、そういう機会を設ける事に反対するつもりは当然なかった。


「そうだな……生憎今日はデートの約束もないし、窺うとしよう」


「了解。ちょっと待って、親父に連絡入れるから」


 事前の準備もあるから、最初にこれを聞いてSIGNで伝えろと言われてたんだ。


『アヤメ姉さんOK』


 ……と。

 これで良し。 


「そんな祝いの時間に水を差すのもなんだから、詳しい話はここでするとしようか」


「了解。何処から話せば良いのかな」


「出来れば昨日の行動と心の動きを詳しく。そこから更に遡れるなら尚良い」


「わかった。まず――――」


 ここへ来る前、アヤメ姉さんから『回復に至るまでの過程を出来るだけ詳しく話して欲しい』とは言われていた。

 それは姉さんの論文を完成させる為に重要な情報だし、どうして俺が表情を取り戻せたのかを頭で理解する事で、更に回復を早めるって狙いもあるらしい。

  

「……こんなトコかな」


 取り敢えず、思い付く事は全て話した。


「ありがとう。一応、私なりに回復のプロセスを整理してみたよ」


「え……もう?」


「元々、君の状態は改善傾向にあった。そこから更に良くなっていくのは予想できたし、私なりに原因や病巣については検討を重ねて来ていたからな。そこに裏付けとして君の話を当てはめるだけだから、大層な事はしていない」


 こういう所はやっぱりプロだよな。

 最近、以前にも増して一つの道を極めている人が眩しく見えるようになったけど、アヤメ姉さんはその代表かもしれない。


「さて、ここからは少し専門的な話をさせて貰うとしよう」


 浮かれ気分だった訳じゃないけど――――アヤメ姉さんのその声は、少し昂揚気味だった俺に冷静さを植え付けた。


「これまで、君にも何度か言って来たが……君の症例の場合、原因を追及する事、それを君自身が知る事は、プラスに働くとは限らない。寧ろ別の問題を生じる可能性もある。だから今まで君の深層心理や過去については慎重に扱って来たが、今の君なら受け入れられると判断し、全て話したいと思う。原因を知る事で生じるリスクより更なる回復への効果の方が遥かに大きいと判断しての事だ」


「……」


「良いか?」


「勿論」


 俺自身に特別な判断材料がある訳じゃない。

 専門家であるアヤメ姉さんの判断に従うまでだ。


「では早速だが、君が表情を失った直接的なきっかけは、血の繋がった母親……千鶴さんを失った事にあると、私の論文を見た同業者は口を揃えていた」


 ……やっぱり、そう思われるよな。

 でもアヤメ姉さんはずっと、それについては否定的な立場を取っていた。


「喪失体験に伴い、自己の感情を喪失する心理的な動きは、一つの典型ではある。それが表情の喪失という形で現れたとしても矛盾はない。しかし君の反応を見ていると、余りその部分に強い負荷が掛かっているようには見えなかった」


「母の死が、それほどショックじゃなかったって事なのかな」


「そうじゃない。恐らく、死の意味そのものを理解していなかった。当時6歳のお前が、人の死を深く理解していたとは思えないからな」


 死ぬって事自体は、絵本やアニメでなんとなく知ってはいたと思う。

 でも確かに、それが身近な人……母親に起こるなんて、ピンとは来ないかもしれない。


「当時の事は、君の父親から聞いている。千鶴さんの死後、君は特に塞ぎ込む様子はなかったそうだが、時折母親を探したり待っていたりする事があったそうだ。母を失った自覚がなかったと強く推察される」


「その頃の俺なりの現実逃避とか?」


「無自覚でそうしていたのかもしれないな。何にしても、君の父親はその状態を懸念し、気を紛らせる為にゲームを与えた。出来るだけ多くの繋がりを感じられるゲームが良いと、登場するキャラクターが多いゲームを選んだそうだ」


 ……え?

 今の話は全然知らなかった。

 

「そのゲームってもしかして……ソーシャル・ユーフォリア?」


「正解だ。君の父親が昔、アルバイトで世話になった会社の作ったゲームだそうだ」


「へ?」


 また初出の情報だ。

 親父、ゲーム制作会社でバイトしてたの?

 しかも……ワルキューレの前身で?


「君はそのゲームにのめり込んで、毎日ずっと遊んでいたそうだ。勿論、時間制限を設けてな。それに伴って情緒も安定したらしい。ゲームにハマると不健康になるというイメージが根強いが、逆の事例も珍しくはない」


 そりゃそうだ。

 ゲームは娯楽で、楽しい事だらけなんだから、節度さえ守れれば情緒を育てる事にも繋がる筈。

 自己管理できない段階で与えるのなら、与える側が管理すれば良いだけの話であって、それを怠るから問題が生じる訳で。


「だが、そんなある日に突然、君の表情が消えた」


「……」

 

「プレイ時間自体は健全な範疇だった。ゲーム浸りになっていたのが原因とは考え難い。だが生活面でも何ら問題はなかった。ここだけの話だが、DVの可能性も疑った程だ」


「え、それって家庭内暴力の事だよね?」


「君の父親がそんな事をする人間ではないのはわかっていたが、あらゆる可能性を検討しなければ決して答えには辿り着けないからな。当然、すぐに却下したが」


 先入観を持たずに追及する、って事か。

 万が一DVが原因だったら治療方針も根本的な部分から変わりそうだしな。


「そこで私は、可能性を三つに絞った」


「三つも?」


「候補はその十倍以上あったから、これでも大分狭めた方だ。一つ目は『ゲームの内容』。当時の君は相当そのゲームに入れ込んでいたようだから、ゲーム内の出来事が影響を与えた可能性がある」


 それってつまり、ゲームと現実の区別が付かないって事か……それだったら自分にガッカリだ。


「二つ目は、当時の人間関係。人間の精神に最も多大な影響を与えるのは人間との関係だからな。特に幼少期は外部から受ける影響の力が大きい」


 多分、母さんの事を言っているんだろう。

 当時の俺には友達はいたみたいだし、まだ4歳の来未との仲が拗れるとも考え難い。

 

「そして三つ目は、その複合。そこには母を失った事も含まれる」


「……どういう事?」


「ゲーム内の出来事に、千鶴さんの死や人間関係の悩みを強く刺激する内容が含まれていた場合、そのゲーム内体験と現実の体験がリンクし、脳内に強い負荷が掛かった可能性がある。特殊ではあるが追体験の一種だな」


 要するに……ソーシャル・ユーフォリアの中に、身内の死や人間関係の苦痛を表現したストーリーやイベントがあった、って事か?

 だとしたら――――

 

「多分、それだと思う」


「私もその可能性が高いと踏んでいる。あのゲームは前半は取っつきやすいが、後半はかなり暗い。それが君の嘆きや苦しみにシンクロしたのかもしれない」


 ……仮にそれが原因だとしても、親父の所為じゃない。

 多分、親父なりに色々考えた上で、当時既に古いゲームだったソーシャル・ユーフォリアを選んだんだろうから。

 ただの結果論だ。


「良い表情をするじゃないか。君の葛藤が手に取るようにわかる。素晴らしい成果だ」


 褒められた、わーいうれしー……とは勿論ならなかった。


 



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