9-43

「母さんがお前の事で悩んでいるのは、当然俺もわかっている。ただ、母さんも自分の中に溜め込むタイプでな……しかもそれを指摘すると怒るんだ」


「じゃ、やっぱり親父にも相談してなかったんだ」


 サバサバしているようで、実は内向的。

 そんな母さんの性格は、俺もよく知っている。

 長年一緒に住んでいるんだから当たり前だ。


「何度かケンカになってな。出来るだけそうならないようにしている内に、お前に対する複雑な気持ちとか、千鶴の事とか、実の母親じゃないとか、そういう問題についてはお互い全く口にしなくなった。その事が余計に結子を傷付けてるんだろうなと」


 結子……母さんの名前。

 親父が口にするのは珍しい。

 親父は常に『母さん』と呼んでいる。


 きっと、そうする事で俺達に『お前らの母さんはこの人だ』って意識を植え付けたかったんだろう。

 それは、小学生の頃にはもう察していた。


「俺がもう少し、ちゃんと出来る大人だったらな……上手い具合にお前も母さんも来未も傷付けずに、良い塩梅で突っ込んだ話も出来た思うんだが。結局、家庭が壊れない事を第一に安全運転で今日まで来ちまった」


「俺に気を遣った結果だろ? 自分で言うのもなんだけど、俺みたいなのは一番厄介だと思うよ。いつ爆発するかわからないって感じだもんな」


「……まあ、いっそ弱音ばかり吐く子供の方が良かったって思う事もあったな」


 親父の言う事は冗談でも何でもなく、間違いなく本当だろう。


 俺は自分の表情がない事について、家族に弱音を吐いた事は殆どない。

 来未なんかには軽くイジられたりする事もある。

 これも、一見すると『腫れ物に触るでもない、粗雑に扱うでもない、ちょうど良い接し方』なんだろう。


 でも違うんだ。

 そういうフランクな雰囲気にしている事で浅いやり取りに終始し、決して踏み込まないし踏み込ませない。

 そんなバリアみたいなのを張っていたんだ、ずっと。


 ただこれは、間違いじゃないと今でも思う。

 専門家のアヤメ姉さんがずっと看てくれているし、家族とのそういう距離感についても『そのままで良い』と言って貰っている。

 実生活では『現状維持』に留めて、精神医療の観点から治癒を目指すって方策だ。


 だから俺も母さんも、本音を言い合った事なんて一度もない。

 きっと今後も、そういう機会はないだろう。

 俺が無邪気な子供の頃だったらまだしも、お互い言いたい事を言えるような年齢じゃなくなった。


「お前の扱いについては、アヤメから事細かに聞いてるからな。解離性障害……だったか。それの亜種みたいなものだと診断しているから、強い刺激を与えるのはリスクが大きいんだと」


「知ってるよ。俺もそう聞いてるから」


 例えば解離性健忘――――トラウマ級の辛い思いをした時、人はその記憶を無意識に消去する事で苦痛から逃れようとする。

 その記憶を強引に思い出させようとすると、当時の苦痛まで一緒に蘇る事もあり、場合によっては心が壊れる。

 というか、心を壊さないように忘却しているんだから、無理やり思い出したら壊れるのは当たり前だ。


 それと同じで、俺の表情を強引に取り戻させようとすると、俺がどうにかなってしまう恐れがあるという。

 原因がハッキリしていないから、何処に地雷があるのかわからない。

 結果、突っ込んだ話が出来なくなる。 


 万が一、深い話をして俺の精神がパンクでもしたら、母さんは責任を強く感じて、今のままの生活が出来なくなるかもしれない。

 終夜母のように、いなくなってしまう事だってなくはない。

 

「母さんもそうだが……お前もずっと辛かっただろ。苦しくないフリして、母さんを気遣ってたんだからな」


「それはもう慣れたよ」


「……済まんな」


 俺の返事は、別に諦観の念を伝えたかった訳じゃない。

 でも親父にはそう聞こえたらしい。


 もどかしい。

 俺は別に家族の誰も恨んでいないし、母さんだって好きだ。

 新しい母さんが母さんじゃなかったら、俺はきっと今頃何かが破綻した人生を歩んでいたに違いない。


「母さん、今はどんな感じ? ライバル店の事もあって、ここ何週間は大分キツかったと思うんだけど」


「……何とか凌いだ、って感じだな。キャライズカフェの不調を喜ぶのは同業者として良くない事だが、正直救われた」


「そっか」


「誰にも言うなよ」


「?」


「キャライズカフェの開店初日の夜、母さんはこっそり泣いていた」


 ……そんなに追い込まれてたんだ。

 ウチのカフェの詳しい経営状況は、俺や来未には聞かされてない。

 だから、閉店の危機だなんだって騒いじゃいたけど、本当にどれくらい深刻だったのかは、親父と母さんしか知らない。


「一応、今は大丈夫だ。学生のお前が心配する事じゃない。まあ店の方はまあまあヤバいけどな!」


「全然大丈夫じゃねぇ……」


「お前達が色々と骨を折ってくれたように、俺達も俺達でお客様が減らないよう考えてはいる。これでも10年以上、個人経営の店を持たせてきた実績があるんだ。あんまりナメんなよ?」


「……信用して良いのかなあ」


 とはいえ、あのカフェは親父と母さんで始めた店だ。

 自分の城くらい自分達で守るって言うのなら、信じるしかない。


「お前も高校生になって、それなりに色々考えるようになって来た。だから一つだけ、お前に関する立ち入った話をしてやろう」


「何だよ。大袈裟な前フリだな」


「お前が確実に食いつく奴だ。ゲームに関する話だからな」


 ……まあ、食いつくけどさ。


「お前自身は、ゲームを現実逃避の手段だと思ってやっちゃいないだろう。でも俺達は、お前にゲームで現実を忘れて欲しくてゲームを始めさせた」


「!」


 それは……どういう事だ?


「お前が小学生に上がる少し前だったか。千鶴の病状はその頃にはもう厳しくてな。幼いお前に、そういう母親の姿を記憶させるのを……千鶴が嫌がった」


「本人が?」


「勿論だ。俺はそんな事を気にするなと何度も行ったし、周りの親族も同じ意見だった。それでも千鶴は、お前のトラウマにだけはなりたくないと頑なでな……極力、お前の関心が自分に向かないようにして欲しいと訴えて来やがった」


「それで、俺にゲームを宛がったのか……」


「俺自身、色んなゲームをやり込んで来たが、そういう時に何を薦めればいいかなんてわかりゃしない。色んな人達の意見を聞いて、力を借りた。同年代の子に一緒にやって貰うのが良いって、知り合いの子を連れて来て貰ったりな。その時に、結子の力を借りた」


 ……そうだったのか。

 母親の記憶が極端にないのは、そういう理由もあったんだな。


 聞けてよかった。

 親父と母さんの馴れ初めとか、正直今でも聞きたくはないけど。


「お前にとっちゃ、今更なんだよって話だろうが……ゲームだけじゃない。人だけじゃない。いろんなものがお前を育ててきた。それだけは、親として伝えておこうと思ってな」


「実感は持てないけど、わかったよ。心には留めておく」


「それで良い。別に『俺は一人じゃないんだ』みたいなノリまでは求めてない」


「なんだそれ」


 フザけてるのか真面目なのか、今一つわからないけど……今まで見て来なかったものが少しだけ、視界に入った気がした。


「母さんと、少しだけ話してみるよ」


「大丈夫か?」


「ああ。今までみんながしてくれたように、突っ込んだ話はしない。それはずっと、母さんが俺の為にしてくれた事だから」


 無駄には出来ないし、したくない。

『自分をさらけ出して、本音をぶつけ合って思いの丈を伝える』のが絶対的に正しいなんて、誰が決めた?

 本心を隠しているから本物の関係じゃないなんて、誰が決め付けられる?


 俺と母さんには、俺と母さんだけの理想の関係性がある。

 俺がずっと見て見ないフリをしてきたのは、そこんトコだ。


 結局、自己中だったんだ俺は。

 母さんが苦しんでいるなんて、想像は出来ても裏を取ろうとしなかった。

 自分の都合で、勝手に想像で留めていただけだ。


 でも今日、ようやく証言を得た。

 その上で、俺が母さんに言うべき事は――――





「ありがとう」


 まず、これしかない。

 でも何の事だかわからないって顔でキッチンの方から振り向いてくる母さんの顔を見ると、若干の後悔が押し寄せて来る。


「何? 急に。終夜さん所に泊まるのを許可した事?」


「それじゃない。いや、それもあるけど。なんつーの……こういう感じにしてくれて、みたいな?」


 いざ話すとなると、言葉が出て来ないな。

 事前に立派な作文書いて入念に用意してきたんだけど……それを読むように話すのは、やっぱり違う気がする。


「何。意味わからないんだけど」


「まあ、順を追って話すと、終夜の母親が家を出ていったって話を聞いてさ。昨日あらためて思ったんだ。あー、ウチの母さんは出て行かなかったなって」


「あのねえ。なんで母さんが出て行かなくちゃいけないの」


「なんとなく」


「……フフッ。何それ」


 深くは突っ込んでこない。

 俺も、具体的な話はしない。


 でも、これで良い。

 俺と母さんは、これで良いんだ。

 お互い、自分を守る事で相手を守るのが大事なんだ。


 だけど――――それだけじゃ今までと同じ。

 俺が見て来なかった母さんに、伝えなきゃ。


「俺のこれが治ったらさ。墓参りでも行こうよ。みんなで一緒に」


「……」


「いつも墓前に立って手は合わせるけど、話す事ないんだ。覚えてないから。でも家族全員で行ったら、何か伝わるかな」


 気を遣う事で、気を遣い過ぎていた。

 だから、母親の墓参りは家族バラバラでして来た。

 何かを変えなきゃいけないとしたら、まずはそこじゃないかと思った。


「そんだけ」


「……」


 母さんは、何も言わなかった。

 俯いたまま、何度も頷いていた。


 俺は表情を見せない。

 だから、他の人にとって俺は、ずっと俯いているようなものなんだろう。

 少なくとも、真顔でいる以上は機嫌が良いとは思われないから。

 

 だけど、伝わるんだ。

 だって今、伝わってきたから。


 この距離感で良いんだ。

 何も恥じる事はない。

 母さんは母親じゃなく母さんで、それを無理にねじ曲げなくても良いんだ。


 何かを達成したような、何かを失ったような、変な気分で自室に戻る。

 これで、俺に表情が生まれるなんて虫の良い話はないだろう。

 本編を進める為の必須イベントを消化した、みたいにはいかない。


 暫くゲームから遠ざかっていたから、よくわかった。

 確かに俺は、ゲームがなかったらキツかったかもしれない。 

 

 でも向き合った。


 俺は、他人の良い所ばかりを見ようとしていたけど、違う。

 そうやって自分を誤魔化していた。

 やっと、そういう自分を見つけられた。


 昨日までと明日からで、何かを変えるつもりはない。

 だけど、色々とズレた所を確認できたのは、凄く意味がある事だったんじゃないかって思いたい。

 

 始まりはなんであれ、過程で嫌に思って納得できない事があっても、好きになったものは、好きなままで良いんだ。

 

 たったそれだけの事を、遠回りして遠回りして、俺はようやく理解した。


 

 そんな一日だった。





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