9-42

 山梨は田舎だけあって人工の光が少なく、光害と呼ばれる『星空が見え難くなる弊害』が殆どないに等しいから、星空が綺麗に見える。

 特に、長野との県境にそびえる八ヶ岳は全国でも屈指の天体観測スポットとして有名だ。


 でも、そんな星空も地域住民の俺達には大してありがたみはない。

 晴れた日の夜なら、外に出て上を見るだけで何の苦労もなく広がっている光景だからな。


 ただ、当たり前にあるその星空は、あらためて見ると恐ろしいくらい綺麗で、何処か非現実的に見えた。

 普段は夜になって外を出歩く事はしないし、窓から顔を出して夜空を見ようともしない。

 当たり前だからこそ、意識しなかったら目に入らない。


「親父、白髪生えてる?」


「まあな。普段は染めてるからわからないだろうけど……これでも客商売を考えて、俺もそれなりにやってんの」


 親父の顔なんて、それこそ毎日見ている。

 なのに、白髪交じりの髪を見たのは初めてだった。

 それだけ、意識して見ていないっていう証なんだろう。


 ……ずっと見てこなかった事は他にもある。


「コンビニでコーヒーでも買ってくか?」


「いや……コーヒー別に好きじゃないし。他の飲み物も特にいらない」


「なら、このまま公園まで散歩継続か」


 親父とこうして肩を並べて歩いたのは、何時振りだろう。

 もう思い出せないくらい昔な気がする。

 少なくとも、中学の頃はそんな事をした記憶がない。


「話ってのは、母さんの事だな?」


「うん」


「"母親"の事もか?」


「……そうだね。そっちにも繋がる話だと思うから」


 俺を生んだ、死別した本当の母親の事を深く聞こうとした事は一度もない。

 その母さんへの遠慮が、そもそも歪の始まりだったのかもしれない。

 だから今日、それを変える時が来たんだ。


「終夜、一人暮らしでさ。父親はゲームプロデューサーとして派手に色々やってるから家庭を顧みる暇もないみたいで、それに愛想つかした母親は出て行ったそうだ」


「なんと。家庭崩壊か」


「客観的に見ればそうだよな。それで、ウチとは全然違うなって思ってたんだけど……よく考えたら、ウチはウチで別の意味で壊れてる所があるなって」


 仲は確実に良い。

 ウチくらい、親と子が会話する家庭もそうそうないだろう。

 何しろゲームとカフェっていう共通の話題があるから、会話には全く困らない。


 そういう家だから、今までずっと……内在している問題に触れずに来た。

 表面は殆ど普通の状態なのに、いつの間にか中で虫歯が進行していて突然痛み出すように。

 若しくは、シロアリにやられてスカスカになった家の柱のように。


 俺たち家族は、上手くいっている風を装って、深い話を全くしてこなかった。

『カフェが潰れるかもしれない』って時さえ、具体的な話は避けて来た。


 別にそういう家庭があっても良いとは思う。

 でも、終夜の家族や水流との関係から色んな事を学んできて、わかった。

 このままだと、取り返しがつかない事になりかねないって。



「母さんはさ、俺のこの無表情の原因を自分の所為だって思ってるよね」


 

 ――――親父の足が止まる。


「……成程。そういう切り口か」


「意外だった?」


「そうだな。母さんは、少なくとも俺が知る限りでは、お前にそう疑われるような素振りすら見せてなかったからな」


 ……やっぱり、そうだったのか。

 母さんの俺に対する距離感には何の不満も違和感もなかったけど、遠慮みたいなのは感じていた。


 それは……罪悪感だったのか?


「お、着いたな。続きは公園の中で話すか」


 公園――――と言っても、デートコースになるような綺麗で広々とした公園じゃなく、幼稚園児が遊ぶような規模の公園。

 手入れが全然行われていないのか、滑り台はサビついて、ジャングルジムも所々ペンキが剥がれている。

 ベンチも綺麗とは言えず、座る気にはなれない。


 かといって、親父と二人でブランコに揺られるのは嫌だ。


「向こうの雲梯の近くにあるベンチなら、割と綺麗なままだ。向こうへ行くか」


「へえ。詳しいんだな」


「お前や来未が小さい頃、ここで遊ばせてたからな。今もたまに、その頃を思い出しに来る」


 ……初めて知った。

 それは多分、母親の事を思い出している時間なんだろう。


「さて。まずはお前の話ってのを聞こうか」


「うん」


 親父の言う通り、雲梯の傍にあるベンチはさっきのとは全然違っていて、明らかに新しい。

 比較的最近作られた物なんだろう。

 そこに腰を下ろすと、何か一気に重い物がのし掛ってきたような気がした。


「さっきも言ったけど、終夜の家の事に少し関わったからか、最近家族内の人間関係について思うところがあってさ」


「それが母さんの事か」


「……母さんはさ、俺の事をどういう風に思ってるのかな」


 実の母親じゃない、つまり実の息子じゃない俺に対して、どんな気持ちで今まで接してきたのか。

 それを本人の口から聞く機会なんてなかったし、俺の方から聞く事も勿論できない。

 だからずっと、この件に関しては避けて来た。


「お前はどう感じて来た? 母さんは、お前にどんな顔をして来た?」


 俺を試すようなその物言いには腹が立ったけど、親父なりに探りを入れようと必死なのは伝わってくる。

 今までこんな事を一切言って来なかった息子に突然突っ込んだ話をされれば、そりゃ困惑もするよな。


「母さんはずっと、俺が居心地の悪さを感じないように、あの家にいたくないって思わないように、俺を育てて来たんじゃないかな……って思う」


「気に入らない言い方だな。上から目線で母親を評価するとか、何様だお前」


 そう言われても……でも確かに、今のは生意気だった。


「なんつーか、過剰に気さくなんだよな」


「おう、それで良い。それならまあ、納得だ」


「親父もそう思う?」


「まあ……な。さっきのもムカ付いたけど、当たってるっちゃ当たってる。極力、お前や来未に対して感情的にならないよう努めてるのは間違いないな」


 ああ、それだ。

 俺がずっと感じていた、不満でも違和感でもない、でも何か喉に引っかかるような感じは、今の親父の言葉に集約されている。


 母さんから、感情を感じ取る事が出来ないんだ。


「ムキになって、理屈じゃなく感情で怒る事を良しとしない時代だ。そこを抑えるのは、今の時代に親をやってる人間としての責務だろう。でも母さんがそういう風にしているのは、皆がそうしているからじゃない。お前や来未への……あと、千鶴ちづへの遠慮だ」


 千鶴。

 久々に聞いた。

 俺を生んでくれた母親の名前だ。


「千鶴がいなくなったのは、お前が6つの時だったな。来未はまだ4歳で、ちょうど物心がつくかどうかって時期だったが」


 俺は小学生に上がる前後の記憶が殆どない。

 でも全くない訳じゃなく、印象に残っている幾つかの事は断片的に覚えている。


 その中に――――母親の記憶はない。


 この事は、親父やアヤメ姉さんにも話してある。

 だから当然、俺のこの表情を作れない原因として最初に検討されたのは、母親との死別だった。


 人間は、自分で抱え込めないほどの苦痛やショックを感じた時、それを自分から切り離して防衛しようとする習性がある。

 その習性が暴走して、苦痛を遠ざける為にその原因となっている記憶を失ったり、自分が自分でないような感覚になったり、自分の中に複数の人格を作り出して『主観』を薄めたりするケースを解離性障害と診断する事がある。

 だから、俺は真っ先にその疾患を疑われたし、今もそれと同じメカニズムが有力視されている。


 でも、母親との死別がトラウマになったからといって、何年もの間ずっと表情がなくなるというのは、解離性障害の症状としては奇特過ぎるらしい。

 というか、そういう形で症状が現われ、しかも一時的じゃなく固定化されるのは考え難いそうだ。


 だから、母親との死別が原因という説は、一旦保留――――事実上の取り下げとなった。

 確かに母親の記憶はないけど、6歳までの記憶が曖昧なのは普通の事らしいし、そこに殊更解離性障害を持ち出すのは適切と言い難い……というのが、アヤメ姉さんの見解だ。


 どうも、それが母さんにとって良くなかった。


「千鶴との別れが原因なら、母さんも割り切れたんだろう。だがそれを否定された事で、原因は自分にあると思ったんだろうな。お前が……自分を母親だと認めたくないから、表情を消して内にこもっていると」


「……やっぱり、そうだったんだ」


『やっぱり』って言葉は、厳密には不適切だ。

 つい最近まで、こんな事思いもしなかった。

 終夜の母親の、て限界に達した結果出て行ったって話を聞いて、ようやくその可能性に気が付いた。


 母さんが苦しんでいるかもしれない。

 ずっと苦しんできたのかもしれない。

 その可能性に、俺は全く気付けなかったんだ。


「当然、俺はそんな事はないって思ってるし、母さんにも言い続けてきた。でもまあ、俺の言う事なんてアテにならないし、本人にとっては誰に否定されようと割り切れるものではないだろう。俺の不徳の致すところだ」


「それを言ったら……悪いのは俺だろ? 母さんをそんな風にした原因は俺なんだし」


 心が痛い。

 気持ちが沈んで行くのがわかる。

 俺のこの病気は――――母さんをずっと、苦しめてきたんだ。


「バカな事を言うな。良いか? 今のお前の言葉、二度と口にするな」


「……」


「返事は」


「……はい」


 親父の顔は、決して厳しくも怖くもなかった。

 それが却って、今までで一番怒っているように見えた原因かもしれない。


 親父は初めて、俺を本気で叱った。


 でもそれは、俺が今まで見てこなかっただけかもしれない。

 そんな気がした。



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