9-41

「くぁ……」


 欠伸が出た事で、今の自分が睡眠欲を前面に出しているとようやく気付く。

 結局、睡魔はそれまで一度も襲ってくる事はなかった。


「朝、ですね……」


「朝、だな……」


 カーテン越しに見える空が白い。

 徹夜は初めてじゃないけど、まさか他人の家でそれをする事があるなんて思いもしなかった。

 修学旅行でも、こんな経験とは全く無縁だったな……


「今から駅に行けば、片道2000円のバスで帰れるな」


「そうですか。ちょうど良かったですね」


「うん。ちょうど良かった」


 俺も終夜も全く頭が回ってない。

 夢中になってこれまでの裏アカデミについて語り合ったからな……もう完っ全に抜け殻。

 取り敢えず、スマホでバスの料金と時刻を確認するので精一杯だ。

 

「じゃ、行くな」


「はい。ありがとうございました。着いたら連絡して下さい」


「わかった。学校、頑張れる範囲で頑張るんだよな?」


「はい。頑張れる範囲で頑張ります」


「おう。頑張れる範囲で頑張って」


 最早、自分でも何言ってるのかわからないくらい意識がフワフワしてるけど、取り敢えず終夜の部屋を出て、マンションも出る。


 朝特有の新鮮な空気が心地良い――――筈なんだけど、それすらもピンと来ない。

 なんか夢の中みたいな感覚だ。

 本当はコンビニでおにぎりでも買っておきたいんだけど、なんか食欲すら湧いてこない。


 結局、そんなよくわからない夢心地のままバスに乗り込み、バスに揺られ、気付いたら家に帰っていた。



「……大丈夫なの?」


「全然大丈夫。俺も仕事頑張らないと」


 帰宅直後、母さんが心配していたけど、そのまま店の手伝いに移行。

 ミュージアムには滅多に人が来なかったけど、そこで眠る事なく無事最後まで勤め上げ、いつ食ったかわからない食事を終えて自室に戻った。





 7月13日(土) 20:27





「あれ!?」


 え……もうこんな時間?

 今日一日の記憶が殆どない!

 俺、今まで一体何してたんだ……?


 徹夜明けの一日、ヤバいな。

 脳が終始働いてなかった。

 接客らしき事を一回した気がするけど、それすら曖昧だ。


 そして一切寝てない筈なのに、今はやけに意識がギラギラしている。

 眠気は全くない。

 どうなってんのこれ。


 ……あ。


 しまった!

 終夜に連絡入れるの忘れてた!


 あいつ、心配してるんじゃ……



『着いた』



 ……あれ。

 家に着いた直後にSIGN送ってるな、俺。

 これも全く記憶にない……どうなってんだ、逆にスゲーな。


 でも既読が付いてない。

 もしかして寝てるのか?

 まあ、徹夜明けだし土曜だから寧ろその方が普通か。


 ……いやいや。

 俺が家に着いたのって朝の10時くらいだぞ。

 10時間以上も寝るのは流石に……


 あ、今付いた。



『すみませんごめんなさいう』『なんかいつの間にか寝ててて』『起きたり夕方の6時だったでご飯食べに行ってて』『帰ってボーとしてら今気付きました』


 おーおー焦ってる。

 誤字脱字がスゴいな。


『いや、俺も今スマホ見たから大丈夫』『今日はずっとボーッとしてたから』


『そうだったんですか』『ぼーっ仲間ですね』


 そんな仲間は嫌だ。


『あの』『昨日は本当ありがとうございました』『今日もですね』


『こっちこそ』『修学旅行みたいで楽しかった』


『わたし、修学旅行に良い思い出ないです』


『俺もそんなにないかな』


『陰キャあるあるですね』『最初の班決めで躓いて、それからお情けで親しくない人達に入れて貰って』


『俺はそういうのはないかな』


『ぼーっ仲間解散です』『さようなら』


 ……ホントに切りやがった。

 まあでも、何事もなくて良かった。


「兄ーに! 本当に何事もなかったの!?」


「しつけーな! あと部屋に入る時はノックしろ!」


 あんまり記憶がない今日一日、唯一覚えているのは来未のウザさ。

 何度も何度も『昨日終夜さんと何もなかったの?』『ホントに何もしなかった?』『なんで?』と聞いてくるから、いい加減温厚な俺もキレそうになった。


「はぁ……ヘタれ過ぎ。兄ーにが終夜先輩の家に泊まるって聞いてこっちは一晩中ヤベーヤベーって心の中で言ってたのに」


「何がヤバいんだよ。お前は無関係だろ」


「だって身内のそういうのって嫌じゃん。なんかゾワゾワした」


 ……それはちょっとわからなくもないけど。


「本当に何もなかったって事は、兄ーには水流ちゃんに決めたんだね」


「いや、そういう事じゃ……そもそも天秤に掛けてるみたいな表現も人聞き悪いから止めろ」


「あーもうヤだヤだ。あんなにゲーム一筋でストイックだった兄ーにが、女の子の家に外泊してしかも別の女がいて……やってらんねー」


 来未は謎のイライラを俺にぶつけるだけぶつけて出て行った。

 あと、別に俺はストイックだった訳じゃない。

 そりゃゲーム一筋だったのはそうだけど。


「あ、兄ーに」


 うわ、急に戻って来るな!


「終夜先輩の家に泊まった事、水流ちゃんに黙って欲しかったら何か奢って」


「そう言うと思って駅近くのキャライズで『ダブルコーク』のボールペン買ってきた。アユムの」


「兄ーに最強! マジありがとー!」


『ダブルコーク』は今、来未が一番ハマってるアニメ。

 スノーボードの技を競うイケメン男子達の物語で、なんかよくわからんけどアユムってキャラが好きらしいからそのグッズ買っておいた。


 ……なんだろう、この罪悪感。

 露骨に買収したからだろうか。


 でもなあ……昨日の事を水流が知ったら、やっぱり……その……何とも思わないって事は……いやでもなあ……どうなんだろうなあ……

 大体、付き合ってない相手に『俺、女子の家に泊まっちゃいました!』って自白するのは絶対違うよな。

 かといってデートまでした相手に他の女子の家に行ったって情報が流れるのも……やっぱり黙ってるのがベストだと思うんだよ。


 身近にこういうのを相談できる人がいないのは辛い。

 そもそも、俺がこんなトピックで悩む事自体がバグってるからな……

 人生何があるかわかんないよな、本当。


 よし、決めた。

 水流が終夜の事を何か聞いてきたら、その流れで話そう。


 終夜が悩んでいる事は、水流にも話しておいた方が良いと思うんだよな。

 二人は結構仲良くしてるっぽいし、同性の味方がいる方が終夜も何かと助かるだろうし。


 でもその流れ以外でこの件を自分から話すのは無理。

 沈黙を守ろう。


 ……水流からのSIGNはなし、か。

 こっちから連絡を入れたいところだけど、俺と話して変に惑わせるのも良くない。

 終夜と同じように、水流も自分自身と向き合っている最中だからな……


 ふと思う。

 俺も、二人のように自分自身と向き合うべきなんじゃないかと。

 今までずっと、向き合ってなかったんじゃないかって。


 終夜と話した時、自分が抱えているものが少しわかった気がする。

 何が俺を強張らせているのか。


 もしかしたら――――母さんの事かもしれない。


 母さんに嫌な思いをさせられた事なんて、ただの一度もない。

 母さんが家にいる事、同じ食卓を囲む事を嫌だと思った事も一切ない。

 でも……やっぱり『本当の母親じゃないんだから、ちゃんとしなきゃ』って思いは常にある。


 母さんは適度に優しいし、適度に厳しい。

 そのバランスを崩したのを見た事がない。

 まるで、それがお互い理想的な関係を築く上で一番無難だと言わんばかりに。


 本当なら、それで良い筈なんだ。

 絶対に間違いじゃない。

 なのに、俺はそんな母さんの態度や言動に、何処か冷めたものを感じてしまっている。


 きっと、母さんも同じだ。

 来未のように、裏表のない子供なら何の気兼ねもなく親子になれる。

 でも、俺みたいに距離を置きたがる……適度に扱い易く、適度に扱い難い子供には、作為的なものを感じてしっくり来ないんじゃないだろうか。


 問題は、母さんが本当はどう思っているか――――じゃない。

 それを邪推している俺自身だ。

 俺はずっと、そんな自分と向き合って来なかった。


 もしかしたら俺は、そういう自分を見ないフリをする為に……ゲームに打ち込んでいたんじゃないか?


 俺がずっと、時間を忘れてゲームに夢中になっていたのは、どうしても母さんを受け入れられない、家族として本当の意味で心を許せていない、そんな狭量でショボい自分を認めたくなくて、現実逃避していたんじゃないか?


 俺も、終夜と同じように、母さんの期待――――本当の親子のような関係になれる子供になれなくて、自分自身に絶望して、諦めていたんじゃないか……?


 所詮は、昨日の終夜との会話の中でふと浮かんだ思いつきに過ぎない。

 これが的を射ているかどうかは、アヤメ姉さんに話してみるしかないだろう。

 アヤメ姉さんなら、今の俺の話を精神医学的に解釈してくれる筈だ。



 でも、その前に……



「ちょっといい?」


 どうしても聞いておきたい事がある。

 母さんじゃなく、親父に。


「なんだ? 家にいるのに電話で」

 

「母さんには聞かれたくない話があるんだけど」


「……わかった。お前の部屋に行く」


「いや、親父を部屋に入れたくないから、別室にして」


「お前それちょっと待てよ! いやそれはないだろ! 冗談でも聞きたくなかった!」


 冗談でもなんでもない。

 親父を部屋に入れるなんて、無理。

 ましてそこで二人顔を合わせて会話とか……想像しただけで具合悪くなる。


「だったら外に出ろ。歩きながらで良いだろ。近所に公園もあるし」


「それで良いよ」


「年頃の息子って娘よりキツいな……育て方が悪かったのか」


「多分、違う」


「……」


 そんな会話を経て、家を出る。

 親父は……いた。


「たまには親子水入らず、夜の散歩も良いもんだな」


「……別に」


 親父と並んで歩くなんて、何時以来だろう。

 そういう事を思うくらい、俺はやっぱり……


「で、母さんに聞かれたくない話って何だ」


「うん……」


「ま、想像はつくがな」


 その親父の言葉に、思わず立ち止まる。

 まさか、俺の母さんへの遠慮を気付いていて――――


「避妊はしたんだろうな」


「……は?」


「もし、してなかったのならお前……俺でもちょっとドン引きだぞ。終夜さんの親御さんには自分で説明しろ。一緒に頭下げてやるから」


「何の話してんだよアホか!!」


 俺は生まれて初めて、近所迷惑になるのを覚悟で大声を出した。





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