9-39

 それから――――


 終夜の憂いや不安がなくなった訳では勿論ないけど、学校に関しては多少無理してでも通うという事で話は纏まった。


 それが正しいのかどうかは、俺や終夜にはわからない。

『逃げても良い』という言葉が今の終夜に適応されるべきかどうかさえわからない以上、自分の事は自分で守るしかないというのが俺達の出した結論だった。


 逃げても良いかどうかを決めるのは、結局は大人だ。

 子供がそれを願っても、大人が許さなければ逃げられないし、子供が迷っていても大人が逃げなさいと言えば逃げる事になる。

 保護者に生活を守られ、教師に将来を守られている立場で、真の意味での自由選択なんて存在しない。


 だったら、現在でも未来でもない、その狭間にある自分の心は、壊れる事を覚悟してでも自分で守るしかない。

 苦痛の日々になるとしても、高校中退という学歴がもたらす不利益を考えれば、そのデメリットは享受すべきだ。


 アヤメ姉さんが日頃言っている事がある。


『どんな薬にも、メリットとデメリットがある』


 薬というと、病気や怪我を治す為の物で、デメリットがあるとすれば副作用しかない――――と俺は思っていた。

 でも精神科の薬の場合、他にも幾つかのデメリットがあるらしい。


 まず、利くかどうかわからない。


 この病気にはこの薬が絶対に効く、という保証はない。

 この薬が望ましい、という医師の判断の下に処方され、実際に効果があるかどうかを経過観察していくのが精神科の基本的な治療方針とされている。

 場合によっては、全く効果のない薬を処方され、使用する事になる。


 当然、そこにはコスト面でのデメリット、時間的なデメリット、無駄に副作用だけ生じてしまう事による生活面でのデメリットがある。

『精神科の薬を貰っている』という事自体を受け入れられない人もいるらしい。

 今よりも大分前の時代、精神疾患の一部は差別の対象だったらしく、薬を飲んでいる事を他人に知られたくないという人も未だにいるそうだ。


 それらのデメリットを全て精査した上で、それでも薬効をはじめとしたメリットが上回れば、薬を使用すべきだ。

 でもその基準や判断は、自分だけでは出来ない。


『精神科の薬に、特効薬は存在しない。基本的には対処療法だ。抗うつ薬で鬱病が即座に完治する訳ではなく、あくまで症状の緩和から寛解までの道筋を作るのみ。ではどんな時に、いつまで薬を飲むかと言えば……これはもう、私達医者が知識と経験と状況判断によって決めるしかない』


 アヤメ姉さんはそう言いながら、責任の重さを再確認していた。


 そしてこれは、薬剤に限った話じゃない。

 薬っていうのは、例えば俺が今日ここに来たような事も含まれる。


 俺が終夜に話した事や、二人で決めた事が、メリットだけとは限らない。

 間違った判断、誤った決断によって終夜の人生が悪い方に行く事だって考えられる。

 そうなった時、俺に責任が取れるかと言えば、取る意思があったとしても現実的には厳しいだろう。


 それでも、終夜は学校へ行くと決めた。


「親への反抗の為に学校に行かない、なんてつもりは全然なかったんです。本当に、学校に行く意味が見出せなかっただけです。でも周りの人や学校の先生、将来わたしの学歴を評価する人達は、そうは思わないかもしれませんよね」


 親に人生を狂わされた、なんて評価は要らない。

 そんな架空の将来への反抗の為に、終夜は学校へ行くという。


 そんなもんで良いと思う。

 学校に行く理由なんて。

 俺なんて『みんな行ってるから』以外の理由は特にないし。


 それから、終夜は俺が学校でどんな生活をしているかを執拗に聞いて来た。

 友達と言えるような奴はいないけど、話をする相手くらいはいる。

 女子に絡まれる事も稀にあるけど、別に何もない――――そんな下らない話を幾つかすると、終夜はとても参考になったと怪しい事を言っていた。


 そして、肝心のアカデミについては、本編のストーリーを進める前に可能な限りサブクエスト(オーダー)を受けようという事で話がついた。

 続きが気になるのは事実だし、水流も自分が足枷になりたくないという意思を見せてはいるけど、もう少しだけ待ちましょうと終夜の方から言ってきた。

 ゲームを学校から逃げる言い訳にはしたくないから、『ログイン出来ればする』くらいの姿勢でやりたいらしい。


 俺はその訴えを、如何にも終夜らしいと思った。

 それを伝えると、露骨に嫌な顔をしていた。



「……じゃ、そろそろ帰るな」


 時間は……21時40分。

 2時間くらい喋ってたのか。


 SIGNだったら、ここまで話し込む事は出来なかっただろう。

 なんだかんだ便利だし気軽に対話できるけど、文章にするとどうしても一旦整理しちゃうから、剥き出しの本心を知るのは難しい。

 表情とか声色もあるし。


 だから、金と時間をかけて来た事自体には後悔はない。

 終夜が今後、この一日を何か良い方のきっかけにしてくれれば、尚更言う事はないけど。


 さて……この時間だとバスも電車も無理だな。

 タクシーは最初から選択肢にない。

 泊まり確定だ。


 一泊するのは予定通りだから、そこは別に問題はない。

 予約は入れてなかったけど、この周辺の格安ホテルに電話を入れれば、何処か空室はある筈――――



『申し訳ございません。本日は満室でして……』

『今日はもう埋まっていまして……』

『すみません。もう一杯で……』



 ……ありゃ。

 そうか、今日は金曜だから宿泊客が多いのか。

 でも、それにしたって――――

 

「そう言えば、毎年この時期に近くで花火大会やってます」


「それだ!」


 花火大会って言うと8月のイメージが強いけど、7月もやるのか。

 参ったな……だったら安いホテルは全滅じゃないか?


「あの、泊まっていくんですよね?」


「うん。この辺に4000円以内で泊まれる宿ってない?」


「ゼロ円ならありますけど」


 ……え?


「ここです」


「…………いや。それは、ちょっと」


「その代わり、ベッドはないですしお布団もわたしのしかないんで、タオルケットで雑魚寝になりますけど」


「そういう問題じゃない! つーかお前は平気なのかよ!」


「大丈夫じゃないですか。恋人未満ですから」


 なんだその他人事みたいな言い草!

 そもそも恋人じゃないんだったら尚更ダメだろ!


 ……一人暮らしの女子の家に宿泊?

 無理無理無理無理。

 色々無理。


 なんでこいつ、顔色一つ変えずにそんな事を言い出せるんだ……?


「その……わたしも平気って訳じゃないですから、そこは誤解しないで下さい」


「あ、良かった」


「そこは安心するとこじゃないです」


 いやホラ、世間知らずっぽい感じが結構あるから、『男を家に泊める事が世間的にどうなのか』って意識が完全に欠落しているかと……そもそもそれ以前の問題なんだけど。


「当たり前ですけど、いやらしい事はバツです。ダメ、絶対ダメ」


「そう、そこ! それを警戒するのが普通だろ!? っていうかもっと危機感持て!」


「持てないですよ。そういうの、経験して来てませんから」


 ……俺もです。


「なんというか、貞操の危機! みたいなのが自分に降りかかってくる実感が全くないんですよね。春秋君がここに泊まったとして、わたしに何か性的な事をしてくるイメージが湧かないです」


「性的って言うな」


 でも、言いたい事はわかる。

 こっちも同じだ。

 ここに泊まったとして、自分の中の性欲がどんな反応を示すのか、正直サッパリわかんない。


 勿論、だからって泊まって良いって話にはならない。

 親に何て言えば良いんだよ。

 いやそういう事じゃなく、倫理的に……いやいや、そういう問題以前に、常識的にダメだろ。


「戸惑いとか怖さとかはありますよ。あと自分の家に他人がいる異物感も。でも、一晩くらいならなんとか」


「提案してきた側の割に嫌々過ぎないか……?」


「一人が好きなんです。わたし」


 まあ……俺だって自分以外の人間を部屋に入れて寝るのは微妙だよ。

 来未や父さんでも嫌だ。

 母さんに至っては、お互い気を遣い過ぎて気疲れしそうだ。


「それなら……」


「でも、わたしの為に来てくれた春秋君に、これ以上出費をさせる罪悪感もあります。かといって、宿泊費やタクシー代をわたしが出すっていうのも、なんか……変ですし」


「それは変というか、いかがわしい」


「ですよね」


 終夜が金を出すって案は論外だ。

 俺がクズになっちまう。


 かといって、ここに泊まるのも気が引ける。

 ぶっちゃけ、終夜にどうこうするって事はないと思う……多分。

 でも、自分が血迷ってしまわないって保証もない訳で、それは絶対に許されない事だから、やっぱり選択肢には入れるべきじゃない。


「ま、気持ちだけ受け取っておくよ。最悪、ネカフェで……」


「高校生が夜間にネカフェを利用するのは禁止されてると思いますよ」


「……本当だ」


 近辺のネカフェを調べてみたけど、何処も22時以降は高校生立入禁止。

 映画館もダメか。


 ……高校生ってバレなきゃいいんじゃないか?


「春秋君、いつも無表情だから大人っぽくは見えますけど、顔立ちはあんまり大人っぽくはないです」


「ぐっ……」


 確かに、俺はどっちかと言えば童顔……


「でもこんな大学生だって普通にいるだろ? 堂々としてればバレないって」


「そんなリスク犯して、もし学校や家に通報されたらどうするんですか? そもそも、高校生一人でホテルって泊まれるんですか?」


「それは……事情を話せば……ここに来るのは伝えてるから、親父か母さんに電話で話して貰えば大丈夫だろ」


「微妙じゃないですか」


 そう言われると、自信がなくなってきた。

 急遽決めた事とは言え、考えなしだったな……


「泊まっていけばいいじゃないですか。わたしと春秋君の仲ですし、いとこが家に泊まるようなものだと割り切れる自信はありますよ、わたし」


「だから何で提案する側が嫌々なんだよ!」


「別に嫌って訳じゃないです。他の誰でも嫌ですけど、春秋君なら」


「え」


「……ギリ?」


 疑問系で言われても、こっちはなんて言って良いかわかんねーよ。


「どっちみち、今からホテル見つけるのは無理だと思いますよ。他に泊まれる施設もないですし、年齢を偽るなんて論外です。決めて下さい」


「そう言われても……」


「そもそも、わたししかいないとわかってる家に、男一人で来ている時点で既に不道徳では?」


「……確かに!」


 認めざるを得なかった時点で、俺は完璧に言いくるめられていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る