第06章 アカデミック・ファンタジア -off rain-

6-1

 笑顔が苦手だった。

 そんな記憶が確かにある。


 でも、心の底から可笑しい事があれば、意識する事なく笑っていたのは確かだ。

 他の人がそうであるように、俺もそう出来た筈だった。


 けれど、口角が上がる瞬間に明確な違和感が生じていた――――その感覚は微かに残っている。


『笑うな』


『お前は笑ってはいけない』


『笑う資格などない』


 そんな声が、何処からか聞こえてきた。

 そういう記憶もある。

 当時の俺に、果たして『資格』という言葉の意味が理解出来ていたかどうかは定かじゃないが――――





「何か非日常的な事でもあったのか?」


 不意に、視界が収束する。

 散漫だった風景は輪郭を帯び、そこにはもう何度も足繁く通ったクリニックの見慣れた光景が広がっていた。


「どうしてそんな事を聞くのか。という顔だな」


「そんな顔、出来るのならしてみたいけど」


「表情というのは、半分くらいは他者認識で出来ている。小説のくだりに『目を見ればわかる』的な表現が多用されているだろう?」


「本当にわかるものなのかな、目を見て」


「わかる訳がないだろう。眉間に寄せた皺や瞼の落ち具合なら兎も角、瞳が感情によって形状や色彩を変える事などない」


 アヤメ姉さんの――――精神科医との雑談は、治療の一環らしい。

 本当に単なる雑談だとしても、医師と話すという事実だけで患者には好影響が生まれるケースも少なくないし、何より病状の把握には会話が必須とのこと。

 ある種のカウンセリングみたいなものなんだろう。


 今日は定期受診の日じゃない。

 昨日、アヤメ姉さんの方から連絡が来て、顔を見せにくるようにと半ば強引に呼ばれて来た。

 医師にこんな形で呼び出され、患者の身としては心中穏やかじゃない状態でクリニックの扉を開いたというのに……


「実は今日、セカンドオピニオンを頼まれていた二組の患者が揃ってキャンセルしてきてな。暇だから呼んだ」


 開口一番、こんな事を言いやがった。

 勿論、それが100%真実とは思っていない。

 アヤメ姉さんは必要ない時に患者と連絡を取る事を良しとしないのを知っているから。


 とはいえ、肩すかしを食らったのは事実。

 嫌味の一つくらい言って帰りたいと思っていた矢先、カウンターを食らってしまった。


「で、どうなんだ?」


「非日常、ってやつ? 確かにあったと言えばあったけど……」


「聞こう。どんな些細な事でも構わない」


 多分、親父から俺の日頃の行動について連絡が行っている筈。

 この質問も、既に確信を得た上で俺に聞いているんだろう。


 その事について不満や苛立ちはない。

 俺自身、許可をしている事だし納得済みだ。

 最初は監視されているような感じがして落ち着かなかったけど、今はもう本当に何とも思っていない。


「有名人と知り合いになった」


「ふむ。アイドルの握手会にでも行ったのか」


「それを知り合いと言い切ったら確実に別の病気だよね……」


 本気で誤解されている訳じゃないだろうけど、患者の立場としては聞かれた事には素直に答えるべきだろう。

 有名声優、そしてそのツテで――――有名イラストレーターと知り合いになった事を。


「絵描きか。クリエイティブな方向の有名人とはな。実際に会った訳ではないのだな?」


「うん。SIGNで会話しただけ。それもほんのちょっと」


 先日、俺はrain先生と話をした。

 ……ただ、その時は軽い挨拶のみ。

 相当忙しいらしく、直後に担当編集から催促の連絡があり、後日改めて話をするって事でその場はお開きになった。


 こっちとしては、rain先生ほどの有名人がウチみたいな場末のカフェに何かを提供してくれるってだけで十二分。

 でも、それすら伝えられず今に至る。

 そういう焦りやもどかしさが、表情には出ていなくても態度に出ていたのかもしれない。


「他の最近知り合った面々とはどうだ。確か同世代の女子だったろう。交友関係は良好か?」


「ああ、それは、まあ。最初はゲームの中と外とで全然違う感じになるのかなって思ってたけど、意外と違和感なく交流出来てると思う。オフ会もやったし」


「例の今やっているゲームか。タイトルは……アカデミック・ファンタジーだったか」


 惜しい。

 にしても、一般人に自分のプレイ中のゲームについて触れられると妙に気恥ずかしいな。

 特にファンタジー系は。


「そのゲームは楽しいのか?」


「うん。その代わり疲れるけどね」


「……」


 ふと――――アヤメ姉さんの目が見開いたような気がした。

 元々妖艶な雰囲気の人だけに、そういう顔は珍しい。

 

「な、何?」


「いや。それより先程の質問にちゃんと答えて貰っていないが。結局、仲良くやれているのか?」


「あー、うん。結構親しくはなれたよ。同級生と後輩で、どっちも直接会って話してる」


「良い傾向だな。人と接する事で情操を育めば、君の人生はより豊かになる。表情があっても、なくてもだ」


「なくても……か。そういう覚悟も必要なのかな」


 弱気になったつもりはなかった。

 でも、励ましの言葉が欲しかったのかもしれない。


 そんな俺の思惑は、アヤメ姉さんの一声によって崩された。


「君の表情喪失に関して、私なりの見解を伝えておきたい」


「……?」


 見解。

 それ自体はこれまで何度か聞いている。

 でも、こう改めて前置きしたって事は、これまでとは違う何かを伝えようと――――教えようとしている?


「私は、君の症状は解離の一種だと診断している」


「解離……」


 解離性障害については説明を受けているし、解離の症状も頭に入っている。

 いわゆる『幽体離脱』に代表されるように、自分の意識が身体の外に飛び出たような錯覚や、自分で自分の身体を背後から見ているような、そういった感覚を抱くものらしい。

 でも、それが俺の表情喪失と何の関係が……?


「無論、典型的な解離ではない。相当に歪だ。端的に言えば、解離性健忘によって表情の作り方を忘れているという解釈だ」


 解離性健忘についても、以前アヤメ姉さんの口から聞いた事がある。

 主に心因性の記憶喪失だ。


 解離は『精神の防衛本能』によって起こる……というのが一般的な解釈らしい。

 自分の心が耐えきれないようなストレスや心的外傷による強い衝撃を受けた時、それから逃れるようとする心理によって生じる病状なんだとか。


 例えば、虐待などによってもたらされる苦痛に耐えられなくなった時、自分の人格を自分自身から切り離し、新たな人格を生み出す事で『別人』となる。

 別人になれば、その苦しみは他人事となり、心を蝕まなくなる。

 勿論、別人格を生み出すのも、その人格に切り替わるのも、全て無自覚だ。


 解離性健忘は、記憶を手放す事で苦痛から逃れるというタイプの解離らしい。

 苦痛の原因を忘れてしまえば、その苦痛からも逃れられる――――ある意味最もシンプルな理屈だ。


 だとしたら……俺は表情を作る事に苦痛を感じていたのか?

 それも、記憶を失わなければ心が壊れると脳が判断するくらいに?


「恐らくこれが最も論理的な解釈だと思う。心因性である事は、これまでの検査からも明らかだからな」


「解離性健忘……それって治るんだっけ?」


「記憶が蘇る事もあるし、ずっと蘇らない事もある。記憶が蘇る事で苦しむ場合もあれば、そうでない場合もある。どうしても記憶を回復させたい、そうしなければ日常生活に支障が出るというケースでは、催眠を用いて治療を試みる事もある」


「催眠って、もしかしてあの催眠術?」


 ヒモを付けた五円玉をイメージして、右手をゆらゆら揺らしてみる。

 ふざけたつもりはなかったけど、アヤメ姉さんの顔は少し呆れているように見えた。


「テレビ番組の催眠術と治療方法の催眠は全く違う。本来の催眠を真似られては困るから、誤ったイメージが一般化している現状は都合が良いとも言える」


「へえ、そういうものなんだ」


「君のケースでは積極的に治療を行うべきかもしれない。表情を作れないのは社会に出る上で大問題だからな。日常生活への支障ありだ」


 それは、俺自身が一番わかっている。

 ただ――――


「ただし、強引に記憶を戻そうとする事で生じるリスクは無視すべきじゃない。何より、解離性健忘は確定診断ではない。見当違いの治療で無駄にリスクを背負わせるのは、医者として最悪の選択だ」


「……」


 そのリスクがどの程度なのか、素人の俺にはわからない。

 となれば、アヤメ姉さんに従うしかないだろう。


「でも、どうして今になってこの事を俺に? もう結構前から考えてたんでしょ?」


 解離が原因という発想は、精神科医であるアヤメ姉さんならとうの昔に出ていたものだろう。

 この分野ではかなりメジャーな症状だ。


「これまでの君には話すべきではないと判断していた。だが事情が変わった」


「事情って?」


「先程、ゲームの話をしている時、君の表情筋に微細ながら変化が生じた」


 ……え?


「無論、目視のみでは断定は出来ん。だが確かに頬の辺りが微かに動いたように私には見えた」


 アヤメ姉さんの声が――――やけに波を打っている。

 俺の意識がフワフワしているからかもしれない。


 これは……高揚感だ。


「まだ表情と言うには程遠い。でも顔の筋肉が感情と連動して動いた意味は途方もなく大きい。大きな一歩だ」


 本当にそう思う。


 治せるかもしれない。

 その可能性が、ついに浮上した。

 まだ実感はないけど。


「アカデミック・ファンタジーというゲームで遊ぶ事は君に好影響をもたらしているのかもしれないな。しばらく続ける事を勧める」


「精神科医が患者にゲームを勧める事なんてあるんだ」


 逆なら幾らでもありそうだけど。

 何しろ、ゲームはアニメ共々引きこもりや精神疾患の原因扱いされる事が多い。

 真っ先に止めるよう言ってくる職業ってイメージだ。


「無論、入れ込み過ぎは良くない。依存的、或いはそこまでいかなくとも生活が乱れるような遊び方は論外だ。一般的に言えばコンピュータゲームと私たちの患者との相性は悪い」


 依存か……耳に痛い言葉だ。 

 実際、俺はゲームに依存している。

 もしこの世界からゲームが消えれば、俺はきっと抜け殻みたいになるだろう。


「その節度を守る事を大前提とするならば、ゲームなどの娯楽をヘルスケアやセラピーに利用出来ないか模索している研究は世界中で行われている。君らの世代にはゲームで心を躍らせる子が大勢いるからな」


 俺もそのケースの一つ、って訳か。

 実際、落ち込んでいる時にゲームをプレイして嫌な事を忘れるなんて日常茶飯事。

 それを心のケアに利用するって研究があっても全然不思議じゃない。


 でも……実際にそういう研究がされているのなら、ちょっと興味があるな。

 ゲームという娯楽はどうしても低く見られがちだし、その地位向上を担う職業があるのなら、なってみたい気もする。


 まあ、それよりまずは治療実績を自分の身体と心で作らないとな。


「今日はこの辺で良いだろう。次は定期受診の時に来なさい」


「うん」


 顔の筋肉が無自覚で動いた。

 それがアカデミック・ファンタジアによる好影響の産物……の可能性がある。

 この二つの可能性が、俺にどうしようもなく勇気をくれる。


 今の生活は間違ってない――――そう思えるから。


「深海」


 去り際、アヤメ姉さんは背を向けたまま、柄にもない言葉をくれた。


「君の表情は必ず戻る。今の症状は絶対に治る。私が治す」


 彼女もまた、高揚していたのかもしれない。

 だとしたら……


 俺たちは医者と患者であり、同時に仲間だ。

 戦友だ。 



「俺も、絶対に治るよ」



 その決意表明は、俺にとって――――決してささやかでない転機となった。


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