休まらない家


 ──ただいま。


 なんて言葉は生まれてから1度も言ったことがない。

 学校が嫌で、逃げる場所といったら、大抵は家なんだろうけど、私の場合はそれが無い。

 家も嫌いな場所だったから、不登校にすらなれなかった。

 


 茜の家は、古びた団地の二階にあった。

 玄関を開けるとすぐに、タバコの嫌な匂いが漂ってくる。

 今日もあの女が居座っている。父が連れてきた、新しい女だ。

「おかえり。あれ、なんで髪濡れてんの?通り雨でも降られた?」女はキッチンの前で、いつもの様に立ってタバコを吸っていた。

 馴れ馴れしく話しかけられたくなかった茜は、無視して奥の部屋へと入っていった。

「…ほんと可愛くないわ」

 茜はすぐさま、我慢して着ていた湿ってる制服と靴下を脱ぐと、冷えきった身体を温める為に、シャワーを浴びに行った。

 温かい……。手足の血行が徐々に良くなってくるのが分かる。

 そうだ…あとで靴乾かしとかないと…もう嫌だ…。


 私はいつまで耐えればいいの──。


 また、涙が溢れてきた。シャワーのお湯と、涙が一緒になって、身体を伝って流れ出ていった。

 この辛く苦しい現状も全部、流れていってしまえばいいのに──。


 


 茜がお風呂から出る頃には、夜の7時を回っていた。お腹が鳴った。茜はいつも自分の食べる物は自分でやるしかなかった。

 今日も自分でご飯を炊いて、レトルトカレーを温めて、ご飯にかけて食べた。


 その間、女は父の部屋でお酒を飲みながら、テレビを観ていた。父が仕事から帰ってくると、二人は一緒に夕食を食べる。たまに手料理を作って待ってる時もあった。茜はこの人もそのうち、父に愛想つかして出ていくだろうと予想ができていた。本当の父を知れば、誰も寄り付かない。


 両親が別れる前から父には散々な目にあってきた。母にお金をせびったり、暴力を振るわれたり。母が出て行ってしまってからも、父は働こうともせず、亡くなった祖母のお金で暮らしていたが、あっという間にそのお金はギャンブルで無くなり、今やっと日雇いの仕事をしている。

 今ではもう、私にほとんど関心はなく、むしろ私が居るだけでお金がかかる存在だから、邪魔に思っている。高校も行かせてもらえるか分からない。もし高校に行ってもいじめが続くなら、働いた方がマシだけれど。



 ***



 夜中の一時過ぎになると、二人は決まってセックスをする。女の喘ぎ声が毎回五月蝿くて、全く眠れない。想像しただけで気持ちが悪い……。

 茜はイヤフォンをして、大音量で音楽を聴く。


 そして薄暗い中、茜は自傷行為を始める。


 初めて自傷を知ったのは、茜が11歳の時だった。

 当時は本当に死のうかと思ってやり始めたのだが、段々とそれ自体が癖になり始めて、今に至る。


 左手首にカッターの刃を当てて、ゆっくりと切る。

 血がぷつっと現れると、そのまま腕に伝って、下に垂れる──。それで私は自分の存在を改めて確認した。


 私はまだ、生きている──。



 自傷をする事で、ストレスがなくなっていくような感覚に浸る。


 二回目は素早く切ってみた。

 すぐに温かい血が、ゆっくりと溢れ出てくる。

 目を閉じて、脈を感じた───。


 三回目の時、茜は無意識に誤って深く切ってしまった。

 茜は慌ててティッシュで押さえた。脈が速くなっている。手首が熱くなって、当てた所がすぐに真っ赤に染った。

 しばらくすると、やっと血は止まったが、まだ鈍い痛みだけが残った。


 騒がしい音楽を止めると、一気に静まり返る。二人はもう寝たのか、声は聞こえてこなかった。


 茜は暗闇に慣れた目で、太い絆創膏を探して、みつけて貼ると、疲れたのかすぐに眠りについた。

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