9.再び再び幼馴染のヨルと覆水盆に返らない話

9-1




 蝉の声が煩い。

 額を、頭皮を、背中を、胸を流れる汗の感触にいらいらしながら真夜は頭を振った。長い前髪を両手ですくって後ろに撫でつける。煩い。真夜は昔から虫の類の一切を嫌っていた。当然、蝉もその範疇に含まれる。


 昔、真夜は虫の類が怖かった。脚のたくさん生えたムカデや蜘蛛はもちろん、甲虫やクワガタ、バッタなど子どもたちの憧れである定番の昆虫たちさえ、視界に入るのも嫌だった。

 虫を見つけると、幼い真夜の足は竦んだ。凍りついたようにその場から一歩も動けなくなって、誰かが――それは両親でも幼馴染の姉妹でも自分より幼い子どもであってもいい、とにかく誰かが――真夜の側にまでやってきて初めて、自分がその忌わしいものと対峙しなくてもよいと知って初めて、やっと安心して泣くのだった。たいていの場合、彼を恐怖から救う役目は幼馴染の姉が担った。彼より四つだけ年上の、当初は彼女もまたか弱い幼子でしかなかったはずだが、真夜にとって彼女ほど頼もしい味方はいなかった。ほとんどヒーローのようだった。遠くで泣く誰かの声を聞き、飛んで駆けつけ悪者の手から救ってくれる、アニメのヒーローのような。真夜は同い年の幼馴染とも遊ばずに、その姉の彼女にくっついて回った。まるで自分の姉のように、慕った。兄弟のいない真夜は彼女を姉として独占できる幼馴染を羨ましく思ったものだった。いや、正直にいえば疎ましくさえ思っていた時期もある。なぜなら、彼のヒーローが彼を救わなくてはいけない原因――たいていは虫がらみで泣かされることになった――をつくるのは、ヒーローの妹である幼馴染だったからだ。

 虫の類を忌み嫌う理由が恐怖から気味の悪さにシフトする頃、彼ら三人の関係も大きく変化することとなった。まず真夜は泣かなくなった。手のつけようがないほどがさつでお転婆だった幼馴染はしだいにおとなしくなり、いつしかその笑顔は翳りがちになり、どころか真夜の陰気さが憑いたかのようによく泣く子どもになった。振り回される立場はいつしか逆転した。それら変化の大きな理由である彼ら二人にとってのヒーローは、十四歳という若さでこの世を去った。




 ジーワジーワ、という耳障りな音が一時遠ざかり、やがてまた大きな雑音となって彼の耳を煩わせる。

 しばし、思考が一人歩きしていたようだ。部活中だった。部員の多いサッカー部のメニューは、いくつかのグループ分けにしておこなわれることが多く、今は二年生がメインになったグループが走り込みをしているところだった。コーチの号令とともにスタートするそれは、再び辞めの号令がかかるまで延々ダッシュし続けなくてはならない過酷なものである。ついさっき第一グループとして終えたばかりの真夜ら一年生グループのメンバーは、グラウンドに座り込んでこうべを垂れたり仲間らと雑談したりと、好き好きにくつろいでいた。

 今朝からずっとこんな感じだった。こんな感じ。つねに上の空、つねに物思いに耽ってしまう。埒のないことばかりに思考を奪われてしまう。まッたく練習に身が入らない。二学期早々幸先悪いスタートに思えた。


「あれ、北川じゃね?」


 真夜から一メートルほどしか離れない位置でグラウンドに脚を投げ出し座り込んでいたチームメイトが、校舎の方に顔をねじりながら言った。隣で片膝を立てあぐらを掻いた別のチームメイトが「お前目すげーいいな」と感心しているのを、真夜は興味なく聞いている。


「あんな髪してんのあいつぐれーじゃん」

「そうだけど。目え細めてやっと赤いかってくらいしかわかんね」

「手え振ったらわかるかな?」

「お前おんなじクラスか。仲いいの?」

「まー、それなりに。いい奴じゃん。かっこいーし、近くにいたら女と喋れる」

「はは、バカみてー。超モテるよな、前はそうでもなかったけど」

「え、うそ」

「や、前からキレーな顔はしてたんだけど、女みてーでさ。中三くらいからか急に背伸びて、そっからな。女って超こえー。今までそうでもなかったくせに、急にちやほやしだして」

「あ、同中?」

「そーそー。シンヤも同じ。な?」


 だしぬけに水を向けられ、真夜はちらりと二人の方を見、だが急には返す言葉が浮かんでは来ず、肩をすくめるにとどめる。


「てか、こいつらすげー仲悪りーの。シンヤと北川」

「え、なんで?」

「知らね。なんで?」


 別に。ぶっきらぼうに答えたが、内心これまで二人の間に起きた様々な因縁を思い出し、ふつふつと怒りがぶり返す真夜だった。

 いつからそうだったのかは定かではない。真夜とそいつは別の小学校出身だったし、中二中三と同じクラスになったものの、一年生のときはそれぞれ別のクラスだった。それなのに、そいつは真夜の姿を見つけるたび露骨にその綺麗だが翳りのある表情を歪めた。最初はただ、感じの悪い奴だとしか認識のなかった真夜も、いつしか彼の名を思えたし、何より決定的な出来事となったのはそいつのバイト先で――


「あ、めずらし。朝日ちゃんいる」

「え?」「は?」


 そこで初めて、真夜は校舎側に体向きを変えた。


「どこ? お前ホント目えいーな」

「俺的には頭いいほうが嬉しかった」

「はは、間違いねー」

「アサ、どこにいんの」一歩、二人に近づきむすりと訊ねる。

「ん? わかんねーの? カレシなのに」ニヤニヤとチームメイト。「北川の横、座ってんじゃん」


 ぶり返した怒りの上に、あらたな怒りが新雪のように重なり積もってゆく。舌打ちが出る。


「めずらしーね。グランドにいんの」

「いつも一緒に帰ってんだよね、シンヤと。朝日ちゃん、どこで練習終わるまで待ってんの……って、え、どこ行くんだよお前」


 怒りが大きなエネルギーとなって、真夜の体を駆り立てた。怒りに任せ、百メートル走のスピードで校舎へと駆けた。地獄の走り込みを終えた直後とは思えないほど安定した走りだった。

 許せない。

 誰の許可を貰ってそいつと喋ってるんだ。

 同じクラスなのだ。教室に居させればこっそり接触を図るかもしれない。軽音部の部室は北校舎にある。グランドへ向かわせたら、渡り廊下を歩く彼女と鉢合わせになるかもしれない。しかし、放課後中図書室に籠らせていれば、そんな心配は無用になる。何しろ相手は自分の興味外の分野はからきし駄目、英語と音楽しかできない筋金入りの馬鹿なのだ。ことさら苦手な教科が国語という奴が、図書室になど近寄るはずもなかった。そこは一番、彼女を隠すのにはうってつけの場所だった。学校中で一番安全なシェルターだった。

 なのに、出てきてどうする。想像は今日、全て不愉快な現実となった。今にも怒鳴りつけたい衝動を全て脚を前に運ぶためのエネルギーへ変換し、ひたすら駆けた。

 あと、10メートル。それで石段の一番下に着く。そしたら叫ぼう。怒りで前後が見えなくなっていた真夜には、まさかこの後二人に別れが待っているとは微塵も想像だにできなかった。







 中間テスト一週間前になったが、大会の近いサッカー部は今日も練習があった。とはいえ、文武両立に重きを置くのが校風という彼らの高校である。通常より短縮されたメニューが終わったのは、普段より二時間近くも早い時間だった。それでもすっかり日は落ちて、あたりは夕闇に包まれている。秋のつるべ落とし。この時期午後五時も過ぎれば外は真っ暗闇で(ナイター照明がギラギラと照らすグラウンドでの練習は悪くない、と真夜は思う)、普段ならまだ部活動中の時間帯であったが今日は生徒の影もほとんど見えない。

 制服に着替え、チームメイトらと駐輪場までやって来たとき、真夜は忘れ物に気がついた。文化祭の準備中に体操着が汚れたので、一旦持って帰って洗おうと思っていたのだった。明日はまた体育の授業がある。今日じゃなければ駄目だった。真夜は舌打ちをすると教室に戻る旨を伝え、彼らと別れた。


 15分後、すでに施錠されていた教室から無事に目当てのものを回収する。鍵を返しに訪れた職員室から出た真夜は、急な喉の渇きをおぼえた。何か甘いものが飲みたかった。甘いものでも飲まなければやってられない。この時間購買部はもう閉まっているが、自販機は24時間営業である。南校舎を一旦出た真夜は、購買部のある中央校舎へ向かって渡り廊下を歩いた。

 汗はしっかり拭ったし、制汗剤もたっぷり振った。それにもかかわらず、真夜の肌は不快にじめついた。空気が滴りそうな、湿った宵だった。台風が近づいているのだった。全身の疲労感と相まって頭がどんよりと重く、軋んだ。自分がどうしようもなく愚鈍な存在になったように感じた。


 渡り廊下をゆっくり歩き、中央校舎の下までやって来た。うすら明るい安蛍光灯のおよそ二倍とも見える、自販機の照明は安定的に供給された電力を消費し、輝いていた。制服のスラックスのポケットに手をつっこみ、小銭を漁る。十円玉ばかりが目立ったが、銀貨も混じっている。自販機へ自分の手のひらを持ってゆき、真夜は熱を持って暖かくなったプラスチック製の透明なディスプレイに額をくっつけるようにして、小銭を探した。指の先で120円分をつまんでから、紙パックジュースは100円で足りるという事実を思い出す。自販機から体を離したところで、この世で一番不快な声を背後に聴いた。


「松田くんじゃーん」


 名前を呼ばれたことに反射神経が作用し、無意識に振り向いた。しかし真夜の脳は優秀なので、振り返りきるより早く声の主を算出する作業は終了し、その顔正解を確認する前にげんなりとしてしまった。舌打ちが出た。これも反射的に。


「練習終わったんすか? 一人?」


 何がそんなに愉しいことがあるのかと問い質したいくらい、にこやか――真夜にはというふうに見えたが――で、爽やかな笑顔だった。答えることも会話をする必要性もないと判断し、真夜は無視を決め込み、再び自販機に向き直る。

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