9-2
「オレはねー、今日はテストだったの。漢字の。まいるよなー、文化祭まであと一ヶ月もないじゃん? 練習超忙しーのにさー、こんなことしてる場合じゃないって。土井ちゃんってホント空気読めねーよね」
土井先生な、と真夜のクラスを受け持つ年若い担任が、顔を渋めている姿が脳裏に浮かぶ。彼の担任の先生は国語の教師であり、比較的国語の点数のよい真夜はまるでお門違いながら相談されたこともある(おそらく同中だというだけの理由で)。いわく、「北川は本当に日本人なのか?」。俺に言われても。外人なんじゃないっすか。ぶつぶつと返事をしたことは、記憶に新しい。
「たしかに朝日ちゃんって覚えが早えーんだけど、とにかく時間がねーの。なんで一日って24時間なんだろ。最近ガッコでの時間も合わせたらオレら、だいたい15時間以上は一緒にいる計算になんだけどー」
それでも足りねーくらいなんだけどね。オレらに足りないのは時間っていうか。ひたすら無視を決め込む真夜の後ろで、宿敵はベラベラと一人で喋り続けている。馬鹿みたいに真っ赤な頭をしたそいつの脳みそは、髪色と同じで馬鹿みたいに真っ赤なのだろう。だから日本語ができねーんだよと真夜は心の中だけで罵っている。この馬鹿トサカ頭は、まともに相手にするだけ無駄だと。コインを入れる。チャリンと銀貨が転がり落ちる音がして、同時に自販機に備わった無数のボタンが赤く点灯した。
「てか、聞いちゃったんだけど」
ここにきて真夜の態度が気に障ったか、そいつの喋り方が挑むようなトーンに変わった。
「別れたんだってー? 朝日ちゃんと。なんでも? 好きな人ができたとか? とうとうフラれたんすね?」
振り返って一瞥をくれる。相手にする必要もなかったし、こんな安い挑発に乗るほど持て余してはいないと真夜は思っていた。怒りも、ストレスも。だがそれは、嘘だ。そのことは真夜が一番よく知っている。
☆
「ま、いーんじゃね。お似合いなんじゃねえの」
吐き捨てるように真夜は言った。
自販機のボタンを押す動作が乱暴で、それがこちらに腹を立ててのことなのだとしたら、こんなに愉快なことはないと北川くんは口元をつりあげた。ガコンという派手な音を立てて、いちごオレが落ちる。
「え、え、なにそれ? それってオレらのこと、応援してくれるってことですかあ? やっぱそう見えちゃう?」
「……。」
しゃがんでいちごオレのパックを取りだす真夜は、北川くんの声など一切聞こえないように振舞っている。
しかしここぞとばかり、北川くんは言葉を連ねる。攻撃のための言葉を。復讐のための言葉を。自販機が並ぶのと反対側にある柱にもたれ、腕を、その長い脚を組んで。この非道な男によって朝日が、今までどれほど非道な扱いを受けてきただろう。今が、それらの反逆のチャンスだった。この自己中心的な男の手によって、今までどれだけ朝日が苦しめられてきただろう。そういう意味ではまた、北川くんは感謝さえしているのだった。
「感謝してんだよね。松田くんには」
それで実際に、それを言葉にする。真夜は答えなかった。北川くんに背を向けたまま、紙パックの穴にストローを挿す。だが口にすることなく、ただじっと佇んでいる。
「朝日ちゃんを手放してくれてありがと。おかげで朝日ちゃんがどれだけ凄い人なのか、どれだけ素晴らしい人なのか、みんなに知らしめることができる。オレらとバンドを組んだことで、朝日ちゃんの歌がみんなのモノになった」
へらへらしているようでその実、北川くんの目はギラギラと、むしろ怒りをたたえている。お前一人が、お前みたいなしょうもない男が独占していいもんじゃねえんだよ、彼女のことは。彼女の、歌は。その目は相手に噛みつかんばかりの怒りを、たたえている。
真夜はやはりその言葉も無視したが、その場を立ち去ろうとはしなかった。何を考えて、ただ言われるがまま黙っているのかがわからないのが不気味に思えた。顔だけのいい、この性悪男は、こんなふうに相手に好き勝手言わせておいて我慢ができるような奴ではないということを、北川くんは嫌というほど知っているのだ。
「ホントは内心悔しくてたまんねーんじゃないの? オレに大事な朝日ちゃん取られて。よりにもよって、オレに。あんなに毎日毎日べったべたにひっついてたクセに。手とか繋いじゃってさあ? 公認の仲ってつもりだったんだろーけど、それって、別れちゃったら凄げー恥ずかしーヤツだよね」
真夜はそこで再び北川くんを振り返り、初めて笑った。ひどく歪んだ顔をして。「まさか」
「ただ都合がよかっただけの存在だし」
北川くんの表情から笑みが消えるのは一瞬のことだった。代わりに、真夜の顔には趣味の悪い薄ら笑いが貼りついている。
「お前だったらさせてもらえないようなこともたくさん愉しんだし。いろいろと。
北川くんの顔色が変わった。さっと体を起こしたかと思うと次の瞬間には、真夜の体は吹っ飛ばされ、自販機に背中を打ちつけていた。遅れて頬に熱が走り、じわじわと痛みが広がっていった。北川くんが殴ったのだ。
自販機にもたれかかった姿勢のまま、真夜はひしゃげた紙パックからこぼれ出たいちごオレが地面に水たまりをつくるさまを、うつろな目をして見つめた。
「もう一度言ってみろ」
北川くんの声は震えていた。
怒りのあまり瞳孔は開ききり、頭に血がのぼり顔は真っ赤になっている。
「もう一度言ってみろ!」
ぶッ殺してやる、そう叫び、再び拳を振り上げ真夜に向かっていった。
★
何が起こっているんだろう。その光景が目に飛びこんでくると同時、あたまのなかが真っ白になった。
軽音部のある北校舎を出、渡り廊下を歩いていた。そしたら数メートル先、中央校舎の下に、先に行ってしまったはずの北川くんがいて、その姿を認めたと思ったら、それはほんの一瞬のできごとだった。
一瞬のことだった。北川くんが、その隣にいたらしいヨルをちからいっぱい殴りつけたのだった。
「北川くん!」
何が起こってそうなっているのか。そもそも二人はどういう関係なのだろうか。理解は追いつかなかったが、考えるよりも早く叫んでいた。もつれる足で必死に駆け寄る。あんな細い体の一体どこに、あんなエネルギーが隠されていたのだろう。うちの学校のサッカー部は県内でも有数のサッカー強豪校だ。そのトレーニングメニューの過酷さは、この学校の中でもトップクラスだと聞く。細くはみえても普段の厳しい練習で、鍛えあげられたヨルの体は鋼のようだ。いくら同じくらいの背丈と言っても、運動部のヨルと北川くんではフィジカル的に差がありすぎる。なのに、その体はあっけなく吹き飛ばされてしまった。がしゃあんとすごい音がした。吹っ飛ばされたヨルの体が自販機にぶつかった音だった。
「北川くん! だめっ」
二度めの声はほとんど悲鳴になった。再び北川くんがヨルに殴りかかろうとするように、拳を振りあげたのだ。
その腕にすがりつく。「ギターが……」大事な手なのに! ギタリストがこんなことしていいわけがない。怪我なんかしたら、「ギターが弾けなくなっちゃうっ」
突然飛びだしてきたわたしに驚いたように、北川くんがあわてた声をあげる。「あっ朝日ちゃん!?」怒りや緊張でこわばっていた体がゆるむのがわかった。
自販機に背中を預けぼんやりしていたヨルが、よろめきながら体勢を立て直した。「……何回だって言ってやるよ」唾を吐く。地面に落ちたそれは赤く染まっていた。
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