8.父との会話、再びアキちゃんについての話

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 九月の半ばごろ、父の誕生日があった。

 五年ほど前、母は父と別れ、わたしを連れて住み慣れた街を出て隣の街に引っ越した。会おうと思えばいつでも会える距離だし、会ってはいけないという取り決めもない。だから離縁後もちょくちょくわれわれは会った。しかし高校入学以来、まだ一度も会ってはいなかった(いつでも会えると思えばこそ、足が遠のくものなのだ)。お誕生日おめでとうのメールを送ると、一緒に飯でも食おうというお誘いがあり、今日がその日だった。


「大きくなったな」


 そう言ってテーブルを挟んで向かいに座る父は、あいかわらずにみえた。小柄でたくましく、およそ一社の長にはみえない。短く清潔に刈り上げた髪(よく見ると白いものが混じっているのにわたしは気がつく)の印象からいっても、どちらかといえばスポーツ選手のようである。ランニングと水泳が趣味、筋トレが日課という人なのである。


「でもこないだ会ったのって、受験前だよ。変わらないよ」


 それから半年ちょっとしか経っていない。そう考えてすこし、愕然とした。それからまだ、たった、半年ちょっとしか経っていないのか。ひじょうに長い時間が流れた気がする。だってほんとうに、いろいろなことがあった。いろいろなことがあったが、内外ともに成長した気は、しない。それでも父の目には、なんらかの変化がみられたのだろう(さすが肉親という気がする)。

 いろいろなこと――ほんとうに、いろいろなことがあった。ヨルと同じ高校を受験し合格した。ヨルと恋人同士になった。ヨルと一方的に別れた。バイトを始めた。ヨルと決定的に別れた。バンドを組むことになった。それからまだ半年。前回父に会った際には、隣にヨルもいた。その前も、その前の前も。「ヨル、連れてこればよかったかな」父はヨルのことを大変いたく気に入っている。大好きなのだ。


 ヨルとはあれ以来、一度も話していない。こないだの最終決戦があってからもう半月が経っていた。


「いや、たまには父娘水入らずが嬉しいよ。最近の話を聞きたい。うちの可愛い娘は最近どうしてるんだ?」


 ゆっくりと冷酒の小さなグラスを傾けつつ、父は微笑む。

 このお店は、幼い頃からよくきた。父と母と、または父と母とヨルとヨルのご両親と。父たちとわたしだけということもあったし、ヨルの父とヨルとわたしということもあった。父たちが仕事でも普段使いでも贔屓にしている、馴染みの料理屋。小鉢の種類が豊富でおいしい、上品な割烹のお店。


「バイトを始めたの。それからバンドも始めた。わたしのギターが、その、好きっていってくれる人がいて」

「バイトにバンドかあ。へえ。楽しそうじゃないか」

「うん。楽しいよ。バイトはね、中華屋さんなの。注文を全部中国語でオーダーするんだよ」

「ああ、あの国道沿いのところか?」

「そうそう。先輩たちがみんないい人でやさしい。よくしてもらってる」

「高校はどうだ?あの学校は勉強難しいだろ」

「いまのとこ、大丈夫。授業さえちゃんと聞いてたらなんとかなる感じ。うまくやってるよ」

「友だちもできたか?」

「うん」お休みの日によく遊びにいくのはめぐちゃんくらいのものだけれど、学校に行けば仲良くしてくれる子はいる。


 父は大変機嫌がよかった。仲居さんを呼んで冷酒の追加を頼むと、わたしにも飲み物の追加がいらないか、食後のデザートはいつもらうかと訊ねた。どちらもまだいいと言う。


「久しぶりだもん。今夜はゆっくり話したいね」とわたしが言うと、父は、

「本当にお前はよく……」と言って、しかし、「いや、なんでもない」と言葉を切った。


 わたしはニコニコしている。


「ギター、大事にしてるよ。わたしが弾いてるのをずっと聴いてくれていた人がいて、その人がバンドに誘ってくれたの」

「それは凄いことだな。お父さんの友だちもきっと喜ぶよ。バンドでもアサがギターを弾くのか?」

「誘ってくれた子がギター担当なの。わたしはどっちかといえば、歌担当。ギターボーカルね。ロックバンドだから、ギターの子がエレキギターも教えてくれるって。すごいんだよ、誘ってくれた子はね、自分で曲をつくれるの」

「へえ、作曲かあ」

「うん、作詞作曲。だからいずれはオリジナルもどんどんやっていって……まあ、先のことはわからないけど」


 北川くんは、いずれこのメンバーでプロになりたいと言っていた。たしかに彼らは上手い。だからこそ、その中にわたしはほんとうに必要なのか、不安になる。


「いいねえ、ガールズバンドか」

「や、」違う、とわたしは言いかけた。誘ってくれたのは男の子で、

 しかし先に父の言葉がかぶさった。「ところで、ヨルは元気か?」


 あ、とわたしは思い、言わんとする言葉をひっこめた。それから、でもそれもそうかと納得する。それも、そうだな。ヨルと恋人どうしになったけれどもう別れていて、今は男の子三人とバンドを組んで毎晩遅くまで練習をしているなどと報告をして、変に心配かける必要などない。


「ヨルは元気だよ。うちのサッカー部、夏の大会予選、いいところまでいったらしいんだけど。ヨル、レギュラーなんだよ。二人しかいないんだって、一年生のレギュラーは」だから、ヨルは学年じゅうでも大変よくモテる。

「さすがだな。ヨルのお父さんもね、サッカーが上手かった。スポーツ全般得意だったんだ」

「ヨル、よくお父さんに似てるもんね」年々、ヨルは彼のお父さんに似てゆく。気難しそうに眉間にしわを寄せるところも、気に入らないことがあるとどんどん口数が増えてゆくところも。

「お父さんは逆だったなあ。とくに球技はだめだった。昔からチビだったから足だけは速かったけれど、あとは全然。図書室に篭って本ばかり読んでいたな」

「えー、そうなんだ。意外。逆かと思った」


 ヨルのお父さんがスポーツ万能というところが、とくに。父がスポーツ不得手というところもまた、とくに。父は小柄で五十を越えた今でも活発で身軽な印象を受ける。ヨルのお父さんも瘦せ型ではあるが、インテリっぽいというか、一度だけ入らせてもらった書籍に並ぶ本のラインナップからいっても文学青年だったんだろうなとばかり思っていたから。


「僕の方が頭は良かったんだよ? 生徒会にも入ったし、学年でも勉強は良くできた方だと思う。まあ、ヨルのお父さんはスポーツだけじゃなく、勉強もよくできたけどね」

「お父さんが本をよく読んでたってのが、不思議」

「はは、家にあった本のほとんどはお父さんの蔵書だよ。離婚したときにほとんどヨルの家にあげてしまったけれど」


 そうだったのか。


「でも一度も本読めなんて、わたしお父さんには言われてないし」

「僕が言わなくても千代さんが言うだろう? あんなにガミガミ言われちゃ読む気もなくなるだろうし、嫌われたくなかったからね。可愛い娘には」


 千代さんは母の名だ。わたしは微笑んで、今度会うときには何かおすすめの本を貸してもらう約束をした。


「そろそろデザートもらおうか。もうこんな時間だ」


 追加の冷酒も空にした父が腕時計を確認する。21時半を過ぎたところだった。




 父はことあるごとに、わたしが姉に似てきたと言う。幼い頃からそれはわたしにとって最上級の褒め言葉だったが、ある時期を過ぎて以来一度もそれを口にはしない。

 ある時期を過ぎてから、わたしたち家族にはたくさんの禁忌ができた。

“姉に似ている”も、そのうちの一つ。というより、姉の名を出すことそのこと自体が、禁忌になってしまった。

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