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今朝はヨルもめぐちゃんもいない、入学以来初となる一人登校。しかししょっぱなから朝寝坊をして、いつもより到着が遅くなってしまった。一人では何もできない人間なのかわたしは……若干打ちひしがれつつできるかぎりの早足で教室へ向かっていたところ、パッと顔をあげたら、そこに、北川くんがいた。そこからは無意識での行動だった。一組の先の角を曲がり、そのまま階段で二階まで駆けあがった、ところで、われにかえる。
逃げる必要なんて、あったか?
「あー、バカだ」
わたしは足を止め、体を折った。あがった息を最短で整える努力をする。早く教室に行かないと、遅刻になってしまう。でもあの人だって、わるい。なんだってあんな、人の名前を大声で。
南校舎の二階は、二年生のクラスがある。今しがた登校してきた人たち、すでに登校してきて談笑している人たちで廊下は溢れていた。こんなところを突っ切っていったら目立ってしかたがないけれど、今階段を降りていって、また一組から三組の前を通って自分のクラスまで歩くなんて、時間の問題を無視したとしても、まっぴらごめんだった。極力目立たないように体をちいさくして、こそこそと廊下の端――そこからまた下に降りれる階段がある――まで小走りで移動するほうがいくらかましである。かばんを胸の前で抱え、意を決する。
「あれ、朝日ちゃん?」
中央まできたところで、声を掛けられた。必要以上にビクッと反応してしまう。かばんが落ちる。どすん。
「そうだよね。一年のスリッパだし。はは、超ビビッてる」
「和也ー誰?」
「あー今度うちのバンドに入る子」え?
「えっ?楽器弾けんの!?」え、え?
「なんかちんまくて、かわいらしーな。超意外ー」え、え、え?
周りをぐるりと2年生の男の人たちに囲まれて、フリーズしてしまう。え? え? え? え?
「なんでこんなとこいんの?」
和也と呼ばれた人が、落としたままだったかばんを拾ってくれ、差し出した。コチコチになったまま無言で受け取る。
髪の毛が、頭のてっぺんのところで金髪と黒髪と、左右で染め分けされている。プラスチックフレームのおしゃれメガネ。あ、北川くんのうしろで、
「ど、ドラム叩いてた人、ですか」
そうだ、たしか、こんな、派手おしゃれな人だった。まさかおんなじ学校の人で、先輩だったとは。
「そうそう、自己紹介してないよね? 途中で帰っちゃったもんね」
「す、すみません」慌てて頭を下げる。「せっかく演奏してくれたのに、失礼しましたっ」
「ぜんぜん? 北川焦ってんの面白かったし。北川と一緒かと思ったけど、ひとり? 何してんの?」
「や、それが」逃げてきたとは言えない。
「和也、何? この子上手いの? 何やんの?」
「うちのギターのお墨付き。ギタボやんだって」
「や」まだ決まったわけじゃ……。
「へー北川の。超うめーんじゃないの、じゃあ」
そこで、チャイムが鳴る。世界が2トーンほど明るくなった心持ちになった。ありがとう神様!「で、ではこれで!」わたしは頭を下げ、廊下の端へ向かって急――ごうとしたところで、腕を掴まれてしまう。へ?
「和樹ーちょっと来てー」
「え、な、」
「何、お前らサボんの?」
「遅刻とかてきとーに言っててよ」
「え、サ、サボ?」なんで?
ドラムの先輩がドアのところでどなると、教室中央あたりの席に座っていた男の人がふらりと立ちあがり、読んでいたらしい文庫本を手にしたままこちらへやってきた。
「誰」無愛想にそれだけ言う。見た目の線の細さから想像できるよりもずいぶん、低い声だった。
「うちの新ギタボ。紹介まだだったよね、こいつベースね」そう言って、黒髪をボサボサにした(寝癖? ところどころハネたままだ)猫背の先輩を指差し、「じゃ、行こうか」わたしの手を引いたまま、進行方向へまっすぐ歩みを進めた。
どこにですか。
「じゃ、あらためて自己紹介しとくか」
「はっ、初めましてっ。杉村朝日です」
「知ってる」と寝癖先輩。
「えっ」
「それに初対面じゃないし」と和也先輩。
わたしの手を引き、和也先輩は階段をあがった。三年生のクラスがある三階を過ぎ、屋上へ続くドアのある踊り場に腰をおろす。その隣に、北川くんバンドのベーシストらしい寝癖頭の先輩が座った。無言で長い前髪の隙間から、めっちゃ、こちらを見ている。
「なんで」ですか。
「あいつホントストーカー並みだもんね。音源も聴いてるからアコギと歌が上手いのも、俺ら知ってるし」
「お、音源?」きのうのライブハウスのおじ……お兄さんも言っていたけれど、どういう意味だろう?
和也先輩は説明する。「北川が録音してきたやつね。あいつ、朝日ちゃんフリークだから。ずっと。朝日ちゃんの演奏録るのが趣味みたいなもんだから」
「録っ、えええっ!?」
録音!?
「い、いつから?」
「いつからだっけ? もう、あいつが中二んときからずっと聴いてるよね。キモいよね」
言葉もない。赤くなればいいのか青くなればいいのかわからず、とにかく、目がぐるぐるする。
「俺君の声が好きだな。高いんだけど聴いてて不快じゃないしむしろきれーだし、表現力があるよな。上手いよ」
「あ、ありがとうございます……」
「アコギのテクも、さすがあれが惚れるだけあるし、な?」
話を振られた黒髪の先輩が無言で、うなずく。その間もずっとこちらを凝視していて、なんというか、こわい。しかし、時折前髪の隙間から覗く目がうつくしく、この人、髪を切ったらとてもきれいな顔をしているんじゃないかと、思った。きれいな、女顔。
「じゃ。今度はこっちの紹介ね」
ドラムの先輩が背筋をのばし、制服のネクタイを正す仕草をしてみせる。
「俺は和也。ドラムで、いちおうリーダーってことになってます。で、隣の無口な暗いのが和樹。ベース。昨日の演奏見てたっしょ? 別人で驚いたくない?」
「ああ、まあ」
たしかに。きのうのベースはほんとうに恰好よかった。プレイもそうだし、頭をぶんぶん振ったり前後に揺れたり、アグレッシブでパワーのあるパフォーマンスに圧倒された。やっぱりステージ上とそれ以外では別人みたいになるものなのだろうか。甲本ヒロトみたいに? わたしも?
しかし、
「ええと、和也、先輩と」ドラムの派手おしゃれ先輩を指さし、それから黒髪寝癖先輩をさす。「、和樹先輩」覚えにくいな。
「ああ逆逆」
「えっ」わたしったらなんて失礼な! 慌てて謝罪の姿勢に入るが、
「うっそー。あってるあってる」
「……。」
あきれて言葉をうしなう。ぼうぜんとしていると、その隙をつく格好で、だしぬけに和樹先輩が身をのりだしたかと思うやぬっとこちらに腕をのばし、わたしの髪に指をさしこんだ。
「!?」
「髪、サラサラ。細」
「ホントだねー。きれーな黒髪。染めないの?」
「や、ま、まだ学生ですし」学生の本分は勉学ですし。なかばパニックになってかしこまってしまう。そのあいだもずっと和樹先輩はわたしの髪をもてあそんでいる。と、思うとさらにずいと体をのりだし、「ひゃあっ」
「こら和樹。急に女の子の髪の毛の匂いかいじゃだめ」
「いい匂いするかと思って」ようやく体を引きあぐらをかくと、そんなことを真顔で言うのだった。
「した?」「した」
この人も変態だった。バンドマンは変態しかいないのか。
「バンドに入ったら、髪染める気ある?」
「え」
「すでに和樹が黒だからさー。ぜってー染めねーって言い張るし」
「絶対やだ」
「ね? だから朝日ちゃんが、うーん、ピンクとかどう?」
「ぜ、」わたしはぶるぶる震えてしまう。「絶対いやです」
「そっか」
ここで和也先輩がすっくと立ち上がり、高らかに宣言するのを想像する。じゃあこの話はなかったことに!
しかし、そうはならなかった。バンドのリーダーの先輩はうんうんとうなずくと、あっさり「じゃあそれでいいや」と言った。
「え」いいんですか?
「いいよ。朝日ちゃんは、その容姿とハイテンションなパフォーマンスで、ガツンと男どものギャップ萌えを狙いましょう」
隣で激しく同意とでも言わんばかりに、黒髪寝癖先輩がふかぶかと何度もうなずいた。
って、いうか、
「あの、わたしまだ、バンドに入る話オーケーしてないんですけど」
おそるおそる言う。ふたりはポカンとしている。
「それに、バンドに入れたいって言ってるのって、北川くんだけなんですよね? おふたり……和也先輩と和樹先輩は、それでいいんですか?」
ふたりは顔を見合わせ、
「え、入ってくんないの?」と、和也先輩が目をまるくして言った。
「や、」入ってもいいかなとは思ってるんですけど、「北川くん以外知らない人だったし」
「もうお互い知らない仲じゃなくなったね」
「おふたりはわたしの音楽知らないと思ってたし」
「バッチリ音源確認済み」
「おふたりがわたしのことどう思ってるかわからなかったし」
「俺らは君を歓迎するよー。大歓迎」
わたしは黙った。もう、断る理由がなくなってしまった。
「まだなんかある?」和也先輩がニヤニヤとわたしの顔を覗きこんだ。
「……前向きに検討させていただきます」
エー、と、和也先輩が不服そうな声をあげる。
「ここはよろしくお願いしますじゃないのー?」
「や、誘ってくれたのは北川くんですし」苦笑いする。お返事は彼にするのが筋かと。
「じゃ、呼んじゃお」
「え」
和也先輩はパチンとケータイを開くと、こちらにカメラを向け、「え?」写真を撮り、「え、いま写真……」すごい速さでメールを打ち込み、送信した。
「いま写真……」
「あと10秒で来んじゃない?」
「え?」
その言葉のあと、はたして、階下からダダダダとこちらに近づいてくる音がした。どんどん近づいてくる。
どんどん、
「なっ、なんで和也くんが朝日ちゃんの写真持ってんの!?」
北川くんだった。
「ほら、ホントに10秒で来たっしょ」和也先輩はゲラゲラ笑っている。話にもう飽きたのか、和樹先輩は持ってきた文庫本を開いている。カバーをはずしてむきだしの新潮社文庫。『鍵・瘋癲老人日記』。タニザキだ(やっぱり変態かもしれない)。
「えっ、あ、朝日ちゃん、なんで」やっとわたしに気づいた北川くんが一歩あとじさり、戸惑っている。
「一緒にいまーすって送ったじゃん。写メだけ見たのかよ」
わたしはとりあえず、苦笑いで、会釈をする。
「まあ座れよ。朗報だぜ」ニヤニヤ、和也先輩が言う。「朝日ちゃん、うちに入ってもいいって」
北川くんの動きが止まる。ピタリとすべての動きが止まり――表情もすべてニュートラルに――、しばし、無言でこちらを見つめたかと思うと、一言、しずかにゆっくりと「信じられない」と言った。それからじわじわとつま先から脚を這い、胸から頭へと興奮がのぼってくるふうに、声のトーンも高まった。
「マジか! 信じられない!」
最後はほとんど叫ぶようだった。
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