6-5







 週明けのその朝、めずらしく北川くんは始業のチャイムが鳴るよりもずいぶん早くに登校していた。人もまばらな、午前八時になろうかという時間の教室。今しがた着いたところであるが、すでに、学校へなんか早くに来るもんじゃないなと半分後悔している。自分の席にカバンを置くともう、手持ち無沙汰になって落ち着かない。何度も朝日の席に目をやっては廊下を覗き、ということを繰り返していた。机の上にも横にもカバンがないから、まだ登校してきていないということだ。わかってはいても、ソワソワは治らなかった。


「めずらしーな、北川」

「今日は遅刻じゃねーのな」


 次々と教室へ入ってくるクラスメイトらから野次を受ける。うるせー。爽やかに笑って舌を出し、北川くんはギターケースを背負ったまま、教室から出た。ドアをくぐる数秒のあいだ、ギターを部室へ置きにゆくかどうかを迷ったが、どこへも行かないことにした。先に置いてくるべきだったのだ。ケースを降ろすと窓側の壁にもたれ、廊下を左手から歩いてくる生徒たちを眺めた。ときおり手前の三組、同クラスの四組、彼の前を通りすぎてゆく五組の男女生徒らが彼に挨拶をする。北川くんはそれにすべて笑顔で返した。

 朝日は北川くんと同じく四組の生徒だから、下足で上靴に履き替えたら必ず一組から三組の教室の前を通ってやってくる。じっと目を凝らし、一組の向こうの角からお目当ての人が現れるのを待つ。北川くんは目がいい(両目とも、2.0以上ある)。やがて、たくさんの生徒たちがつくる波の中に、彼女の小さな頭がひょこりと覗くのが見えた。北川くんは背筋を正した。すぐにでも彼女のもとへ走っていって昨日のお詫びがしたかったが、実際のところは、なんと言って謝ればいいのやらまるで検討がつかず、その場で佇み、彼女がやって来るのを待つ他ないのだった。

 まずは、「昨日はごめん」。

 でも次の言葉が思いつかないし、そもそも「何にごめんなの」と訊き返されたらもう答えられる気がしなかった。

 しかし、とにかく朝日が傷ついたことくらいは鈍感で頭の悪い北川くんにもわかっていたし、何がなんでも、この人事は成功させたかった、そう、彼女をバンドに入れることだけは。他のメンバーふたりはそれほど熱心に彼女を欲しいとは思っていないようだったが、暴走機関車よろしく突っ走った彼を止めることなど不可能と知っていたから、北川くんの意向に任せるという意見で一致している。


 三組の前のドア付近を通過したところで、顔をあげた朝日は北川くんを見つけた。足が止まる。その後ろを歩いていた生徒が迷惑そうに彼女を避けた。彼女と北川くんの距離は、まだ10メートルほど。


「あ」と北川くんが声を出したのと、彼女がぐるんと踵きびすを返したのは同時だった。


「あっ、朝日ちゃんっ」


 慌ててギターを担いでその後ろを追う。生徒らのあいだをすり抜けてゆくのに骨が折れる。体格の違いか、小柄な朝日はすいすいと人と人の隙間を縫って来た道を戻っていった。どんどんふたりの距離が開いてゆく。焦る。北川くんは何度も何度も彼女の名を叫んだ。声はどんどん懸命さを帯び、大きくなっていった。廊下を歩く生徒らが北川くんの必死の形相を見、不思議そうに彼女が去ってゆくのを振り返る。教室の窓からなんの騒ぎかと顔を出す者たちも、少なからずいた。

 なんとか一組の前までたどり着いたとき、後ろのドアからぬっと大きな人影が現れた。避けようとするがそいつは、わざと北川くんの行く手を阻むみたいにして立ちはだかるのだった。北川くんの顔が強張る。カッと頭に血がのぼるのがわかった。


「ちょっ、なんだよ、どけよ」

「なんだよはこっちだっつの。人のオンナ追いかけて何してんだ」


 スラックスの両ポケットに手を突っ込んだ姿勢で、廊下に仁王立ちになった深夜は険しい目をして北川くんを睨んだ。中学時代はずいぶん身長差があったものだったが、三年の春が来る頃にはほとんどその差はなくなり、今やほぼ目線は同じだった。

 しかし縮まったのは身長差だけで、相変わらずの、犬猿の仲。


「おめーには関係ねー。オレは今朝日ちゃんに用があんの」

「誰があいつのこと名前呼びしていいっつったんだよ。図々しーんだよ」


 なんだなんだと、周囲の目線が集まる。


「は? おんなじバンドのメンバーなんだから名前ぐれー呼ぶだろが。ちっせー男だな」

「あ? バンド? ふざけんな。なんでお前のバンドにアサが入らなきゃいけねんだよ。んなもん許せるか」

「わっけわかんねー」北川くんはその自慢の赤髪をガシガシ掻いて、大袈裟に息を吐いた。「彼氏だかなんだか知らねーけどさー、なんでそんなことまで松田くんの許しがいるわけ? 決めんのは朝日ちゃんだろ」

「だからお前が朝日呼びすんな!」


 ホームルーム開始のチャイムが鳴ったが、ヒートアップしたふたりの耳には聞こえない。


「とりまどいてくんね? オレは朝日ちゃんに話があんの」

「話なら俺が聞く。今話せ」

「だから! 松田くんは関係ねーだろっつってんの!」


 ざわざわ、ざわざわ。周りのさざめきが大きくなるが、今にも取っ組み合いが始まりそうなほど頭に血がのぼったふたりには、関係のないことだった。

 そして、限界までピンと張り詰められていた糸が、出し抜けにぶつ切りされる。

 バシン、バシン。

 ふたりはほとんど同時にうめき声を漏らし、頭を押さえて体を折った。


「はーい、ホームルームですよー。さっさと教室に戻れ、バカどもが」


 一組の担任だった。まだ20代の若い先生で、手には凶器――出席簿が握られている。


「北川もはよ自分のクラスに戻れ。もう先生教室に行ってるはずだぞ。また遅刻だな」


 北川くんは恨めしそうに一組の担任を見、真夜を睨み、とぼとぼと自分の教室へと戻っていった。




 真夜は苛々が収まらない。「んだよ土井ちゃん。悪いのはあのバカ赤頭なのになんで俺まで殴られなきゃ」

「土井先生だろ。ケンカ両成敗だ」肩をすくめ、先に教室へ入っていった担任の後ろに続き、しぶしぶ教室へ入った。

 苛々と椅子を引き、どっかり腰を降ろすと、左隣に座る女が自分を睨んでいる。「あ? 何。なんか用」

 めぐちゃんは舌打ちをすると、「いつまで彼氏ヅラするつもり?」と低い声で言った。


「あんたはもう、あの子の彼氏じゃないじゃん」


 真夜は冷めた目で彼女を睨み、荒く息を吐いた。煩いと怒鳴ってこの場でこのくそ生意気な女をタコ殴りできたらどれほどすっとするだろうかという考えに、目の裏が赤く濁る。でも、そんなこと、できるはずがない。


「だからって、俺の方からわざわざ別れたってこと、言う必要ないだろ」


 おそらく朝日は、自分から周囲に恋人との破局を公言などしないだろう。だとしたら、まだ誰も二人が別れたことなど知らないはずだ。この口煩い、彼女の親友以外は。

 しかし、聞かれたら、言うかもしれない。

 真夜は頭を振った。机に肩肘をつき、頬杖をつく。でもしばらくはまだ、大半の人間の認識の中では彼らは恋人どうしでいられる。そう、考え直す。


「お前、余計なこと言うなよ。これは俺とあいつの問題。もう首突っ込んでくんな」


 めぐちゃんの全身から怒気が吹き出すのが真夜には感じられた。怒りのあまりに目が充血している。しかしめぐちゃんは何も言わず、悔しそうに舌打ちをひとつすると黒板の方に向き直る。苛立たしげにコツコツと机を爪で叩きながら。

 聡いめぐちゃんは、噂というものの恐ろしさをよく知っている。彼らが別れたことになって、一番被害を被こうむるのは、傷つくのは誰かということをよく知っている。だからわざわざ彼女が言いふらして回ることもないと、真夜には確信があった。

 別に、真夜はヨリを戻したいわけじゃなかった。みっともなく追いすがろうとも思わない。

 ただ、あの男の中でさえ、彼女が自分のものだということになっていれば、それでよかった。

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