6-3


「どういう意味の歌?」

「うーん……歌詞に意味はあんまりない気がします。俺汚い言葉たくさん知ってるぜ! みたいな」

「はは、なんだそれ」

「ティーンスピリットって制汗剤のことらしいんですけど」

「 8×4《エイトフォー》的な?」

「そうそう。ボーカルのカート・コバーンが当時付き合ってた彼女の友達から、『あんたあの子が使ってる制汗剤の匂いがするよ』ってからかわれたとこからきてるらしいんですけど」諸説あるようですけど。

「え、何それ。おもしろー」


 この曲は90年代に一大センセーショナルを巻き起こした曲だった。同曲が収録されたアルバム『ネヴァー・マインド』のヒットでニルヴァーナは瞬くまに時代の寵児ちょうじとなり、グランジ・ロックブームが巻き起こった。しかしそれはカートの意図するところではなかった。「スターになるくらいなら死んだ方がマシ」とこぼしていたという彼は、そのアルバムのヒットから三年後、ショットガンで自身の頭をぶち抜き、自殺したとされている。わたしがまだ小学校に入学したくらいの頃だった。

『グランジ』といのは、汚れた、とか、薄汚い、とかいう意味だそうで、カートの服装をアイコンに、当時はダメージデニムだとかぼろぼろのニットなんかを着た若者が街じゅうに出現したという。わたしにはそれがどうしてかっこいいことになったのか、あんまり理解できない。どうしてわざわざ、穴のあいた服など着るのだろう?


「CDないの?」

「あー……前まであったんですけど……」


 アキちゃんのCDは全部、置いてきた。今はヨルの部屋にあるかもしれない。わたしはずいぶん申し訳なさそうな顔をしていたらしい。谷さんは笑ってわたしの頭をやさしく撫でると、じゃあと言って、大変すてきな提案をしてくれたのだった。


「今度、駅前のツタヤ付き合ってよ。聴いてみたい」

「いいですよ」


 やった! それってデートみたい。わたしは浮かれた。


「いつにします?」

「朝ちゃんに合わせるよ。おれだいたいヒマだかんね」

「わたしもだいたいヒマですよ」

「いつでもいいよ」

「わたしも、いつでも」

「じゃあ、明日は?」

「あ、バイトだ……」


 いつでもよくないじゃん! 谷さんは豪快に笑って、「バイト終わりとかでもいいよ」と言ってくれた。

 嬉しくて、わたしはぶんぶん頭を縦に振った。「ぜんぜん大丈夫です!」その嬉しさが、ギターの弦を震わせる原動力となる。ちからづよく、体じゅうでリズムを取り、今の気持ちを表現する。

 今の気持ち。バイトを始めてよかった。あのお店を選んでよかった。谷さんに会えて、ほんとうによかった。

 それがわたしの体のなかで言葉として形づくられたとき、わかった。わたしは谷さんのことが好きなんだと、わかった。

 気づいたら、なんだか泣きそうになった。嬉しいときにも、涙はこみあげるものだと知った。

 何年かぶりに、それがわたしの身を包んでいる。やさしく、あたたかで、おおらかな、気持ち。胸が甘やかにしびれるような、気持ち。

 幸せだと思った。谷さんに会ってから、わたしはいろんなことを学んでいる。わたしの特別な人。

 めちゃくちゃ嬉しくて、ピックを握る指に力が入る。叫びだしたくなる。おなかの底からふつふつと何かがこみあげてきて、意味もなく笑いだしたくなる。だんぜん張り切ってしまう。そろそろ日付が変わる時間帯ではあるけれど、幸いなことに、周囲にひとけはない。だからいくらでも声を出せる。弾んだ、浮かれた、底抜けに明るい、おおきな声を。


「すげー! GTじゃん。アニメ観てた?」

「ドラゴンボール、大好きなんです。この曲、いいですよね」

「意外だね。女の子でも観るもんなんだね」

「アニメ好きですよ。あとはセーラームーンとか、るろうに剣心とか、幽遊白書とか、エヴァとか、」乙女のポリシー、そばかす、微笑みの爆弾、魂のルフラン、のサビ部分をかんたんに弾く。「あと、スラムダンクとか」


 WANDSの名曲を弾く。『世界が終わるまでは…』。キーをあげて歌うと、サビの部分で鳥肌が立つくらい、気持ちがいい。


「おれそれ大好きだよ!」興奮したように谷さんは叫んだ。「スラムダンクすっげー好きでさあ、髪も花道マネしてさあ、こんなにしてんの。真っ赤にしたら店に怒られてさー。で、黒染めしたらこんな色になっちった」

「やっぱり!」今度はわたしが叫ぶ番だった。こらえきれずにとうとう笑ってしまう。「似てると思った!」

「え、マジで?」

「まじです、まじ」

「朝ちゃんは誰がいい?」

「やっぱルカワですかねー」サラサラな黒髪は、まるで王子様のよう。

「女子だねー。だんぜん一番はミッチーでしょ」

「桜木花道じゃないんですね?」

「ミッチーって感じの顔にみえる?」


 わたしは首をかしげ、ごまかす。


「あ、笑ったなー?」怒ったふうに、でも笑って谷さんはわたしの鼻をつまんだ。

「ひゃっ、わ、笑ってないですよっ」


 顔が近くて、どきどきしてしまう。「何弾きましょうか。お詫びに」谷さんのほうへ傾いた体をさっと立てなおし、照れ隠しみたいにギターを抱えなおした。

 谷さんは高い声で笑って、やっぱり笑ったんじゃないと言った。


 結局このあと五曲も六曲も歌って、ときどき喋って、そのあいだずっと笑っていて、気がついたら深夜だった。

 わたしがひとつちいさなくしゃみをして、それが合図になったかのように、谷さんがケータイのディスプレイで時間を確認した。「そろそろ帰ろうか」さすがにちょっと寒みーね。そう言ってずぼんのおしりをはたきながら立ちあがる谷さんの背中をながめながら、わたしは朝までいるつもりだったのになと、自分のくしゃみを恨めしく思った。


「朝ちゃんはさ、バンドしたほうがいいよ」


 マンションの下に着き、わたしを抱えて降ろしてくれたあと、谷さんはわたしの頭を撫で、言った。


「なんていうのかな。おれ頭わるいからうまく言えないけどさあ、グッとくるよ。朝ちゃんの声。ギターもすげーうまいし。前カラオケのときも言ったじゃん。プロになれるよ」


 わたしとしては谷さんの、その評価だけでもう大満足なのだけどな。わたしはうなずいた。「やってみようかな」

 谷さんも満足そうに、うなずいた。「ライブとか決まったら教えてね。絶対みにいくよ」


 約束ですよ。小指をさしだす。わたしのそれより骨ばって長い小指が、やさしく絡められる。あたたかい。その瞬間、わたしはなんだか無敵になった気がした。すこし、自分のことが好きになった。

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