6.あんた、あの子の制汗剤の匂いがする

6-1



 谷さんから電話をもらったとき、わたしはベッドの上でマンガを読みながらうとうとしていた。90年代に一世風靡した、伝説的バスケマンガ。谷さんはすこし、このマンガの主人公に似ている。

 わたしはすぐさま姿勢をただし (正座)、夕方頃のお礼とお詫びを言った。あのあと谷さんたちと北川くんは、カラオケ屋に行って意気投合し、その後われわれのバイト先でゴハンを食べたという。どういうことだかよく理解できない。


『で、さっき解散して、今朝ちゃん家の下にいるよ』

「えっ」あれだけ汗をかいてきたあとだったから、お風呂へは帰るなり直行だった。「ま、まじですか」とうぜんすっぴん(や、いつもほぼそうなんだけど)、とうぜん部屋着である。

『マジマジ。さっき埋め合わせするってゆったっしょ』

「早いですね」請求が。

『とりあえず、今から降りてこれる?』

「ぜんぜん大丈夫ですよ」どうせ、あとは寝るだけなのだ。母は今日も遅い。

『よかったー』谷さんの声が嬉しそうで、わたしはそれだけで嬉しくなってしまう。『来たものの追い返されたらどーしよっかって。着いてから思った』

「ちょっと遅いですよね」気づくのが。

『だね、気づかなかった』ガハハと豪快に笑う。『ギター持って降りてきてね』


 ギター持って降りてきてね。


「え」わたしはうろたえる。「な、なんでそのことを」

『聞いたよー? 朝ちゃん上手いんだってね。おれにも聴かせて』

「や、でも」


 あの駅は北川くんも利用しているのだ。会ってしまう可能性がある。

 わたしのしりごみに気づいた谷さんは、『いいところ知ってるよ。連れてってあげる』と言った。


「いいところ?」

『それは着いてからのおたのしみということで。とりま降りといでよ。バイク乗るから、あったかいカッコしてきてね』


 電話を切って、わたしは急いで部屋着を脱いだ。あたたかい恰好? パンツ一丁でたんすをあさるも、まだ九月は始まったばかり。絶賛残暑中のワードローブの中に、“あたたかい”服など一着もなかった。

 しかたなく、デニムのショートパンツに頭から白いTシャツをかぶり、クローゼットを開け、冬物の衣装ケースの一番上に入っていた厚手の黒いブルゾンを苦労しながら引っぱりだしてき、羽織る。これは去年サイズが合わないからと、めぐちゃんがくれたものだった(わたしは上着でもSサイズ、めぐちゃんはLサイズだということ、これはLなんだけど小さめのつくりになっているらしい)。ライダースジャケットのような、丈の短いかたちがしゃれている。自分では決して選ばないだろうデザイン。さすがめぐちゃん、おしゃれ番長。中に綿が入っているのであたたかく、真冬近くまで重宝できそうだった。

 ギターケースを担ごうとすると、はからず鏡の前を横切るかたちになり、そこにうつる自分が存外ミュージシャン的な恰好で、恥ずかしくなる。着替えなおそうとするが、谷さんが下で待ってくれていることを思いだし、しかたなくこのまま出ることにする。靴下を履く。

 バイクに乗る、ということはつまりヘルメットをかぶるということ。髪は耳の下あたりでふたつに分けてくくった。化粧水をつける。言いわけ程度のおしゃれのつもりで、リップも塗る。

 時刻は22時過ぎだった。母が帰ってきたとしても、ヨルのところだと思うだけだろう。メモも残さず、わたしは家をでた。


「お、朝ちゃんロッカーっぽいね」思いっきり指摘されてしまった。

「上着、これしか見つからなくて」赤くなる。


 わたしには“あたたかい”服と言ったくせに、谷さんときたら夕方会ったままの服装でいた。黒いTシャツに、ベージュのハーフパンツ、ごついスニーカー。こちらもまた音楽をやっている人みたい。


「ケン・ヨコヤマみたいですね」

「え? あー、ハイスタの人? 懐かしいね」


 エンジンのきられたバイクにまたがった谷さんは一度降りて、ヘルメットを手渡してくれた。お礼を言って受けとり、かぶる。谷さんは機嫌よさそうに何らかの曲をハミングしていた。ときおり、ラップ? が混じる。


「なんの曲ですか?」

「ケツメイシだよ。知らない? 門限破り。なんか悪いことしてる気分」


 悪いことってなんだろう。

 こちらがヘルメットをかぶるのを見届けた谷さんはわたしをひょいと抱き上げる(!)と、シートのうしろへ座らせた。「ギターのせいか、こないだより重い気がする」と言って、笑ったりする。失礼な。


「ちょっとスピード出すから、しっかり掴まっててよ。どこに捕まるんだった?」と言いながら、腕を引っぱって答えを教えてくれる。おとなしくそれにしたがい、わたしは両腕を、谷さんの腰にまわした。

「正解。いい子。ちゃんと掴まっててくれないと、落ちたんじゃねーかって心配なるから」


 バイクが走りだす。高いエンジン音。つめたい風を颯爽と切り、夜の闇を谷さんの愛車は駆けた。

 マンションの前に横たわる大きな道路をしばらく走ったのち、その上を並走する高速道路の入り口で料金を払った。どこまで行くんだろう。

 高速にはたくさんの車が走っていた。大きなトラックが轟音をともない、わたしたちのとなりをすごいスピードで抜けてゆく。なまあたたかい排気ガスが鼻腔をくすぐる。そんなとき、わたしはいちいちビックリして、谷さんの腰にまわした腕に力をこめた。

 イカ釣り漁船みたいにじゃらじゃらと色とりどりの電球をつけたトラックが脇を抜けたとき、負けてやるもんかと言わんばかりに、とつぜんアクセルが全開にされた。一瞬体が後方へ引っぱられあたまがのけぞった。ぞっとした。悲鳴すらあげられなかった。体を起こしてなんとかがんばっていたわたしだったけれど、その後は体を倒しぴったりと谷さんの背中へくっついていた。


 走っていたのは、それほど長い時間ではなかった。わたしの両耳がすっかり冷えきったころ、バイクは高速を降りた。二車線の広い国道だったけれど、車の数はずいぶん減った。かすかに、潮のかおりがするようだった。海が近いのだろうか。

 カーブを曲がると見覚えのある建物がみえて、あ、と思ったときにはその敷地内へと入っていた。

 水族館だ。

 とうに閉館時間を過ぎた敷地内には車一台停まってはおらず、人の気配すらない。バイクは水族館の建物の横を通り過ぎ、そのまま道なりに南へと走った。目の前に視線を移すと、小高い丘がみえる。スロットルが戻され、おおきな体躯たいくをした黒い金属製のそれはすこしずつ、スピードを失っていった。谷さんがブレーキを踏む。バイクは完全にぴたりと静止した。


「ここ、夜でも入れて人もいないんだよね。静かでいいでしょ」海見た?超きれいじゃない?


 わたしを降ろし、ヘルメットを受け取ると谷さんは言った。


「けっこう広い公園になってんだよね。この先登るとさ、すごく気持ちいいんだ」と言って、わたしの手を引く。


 わたしは赤くなるが、その手を振りはらうことはできない。手をつなぐみたいにしてわたしたちは丘に続く階段をあがっていった。

 階段の両脇には背の高い草がたくさん生えている。潮の匂いに、青っぽい草の匂い。こんな街の中に、野生の匂いが濃く漂っている。階段を登りきると、そこはまるい広場になっていて、広場を囲むように藤棚つきのベンチが点々と置かれている。


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