5-3



 インスト曲――ギターがメインの派手でかっこいい曲――が終わって、息をつくまもなく、今度は聴き馴染みのあるギターイントロが始まった。


「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット……」


 今度はインストではなく、北川くんが歌をうたうみたいだった。さも大事なものに触れるかのように両手のひらでマイクを包み、マイクスタンドに体重を預け、わたしの目を見据え、カートのように甘くかすれた声でメロディーを紡ぐ。思わず赤くなる。

 サビの部分に入る。ドラムの動きが激しくなり、今までの静かさが嘘みたいにハードな演奏になる。北川くんがまた、飛び跳ね、がなるように叫び、弾き、歌う。


 ――歌詞もすっごくカッコいーの!

 ――やだよ、なんか汚くて、わたしは好きじゃない。

 ――まだまだ子供だねえ、アサは。この男クサさがいーんじゃない。


 グラスのなかの氷はぜんぶ溶けて、水滴で両手がぐっしょりと濡れていた。制服のスカートも湿っている。

 ちょっとギターが弾けたからって、それがなんだというのだろう。上手い人はこの地球上に、掃いて捨てるほどいる。それがわかっていたから、できるだけ誰の迷惑もかけないような場所で、誰からの干渉もうけないように、ひっそりたのしんでいた。でも、いま、思わずにはいられなかった。圧倒的にみじめだった。

 わたしは、何がしたかったんだろう。

 曲が終わり、すべての音が消えないうちに、静かなドラムのリズムにギターのリフが乗る。このイントロは、最近ラジオでよく耳にするアメリカのミクスチャーバンドの……と思ったところで、音が爆発した。ベースが低音をビリビリと轟かせ、ギターがひずんだ音を奏でる。原曲ではピアノや電子音のする表情豊かな編曲だったけれど、たった三人でこのアレンジは、すごくうまい。

 北川くんの声もすてきだった。高い声がかすれるさまが色っぽく、すごくかっこいい。音の一つ一つがはっきりと意味をなし、胸にすとんと落ちてゆく。悲しみ、怒り、苦悩、そして希望。音楽とは、表現方法のひとつで、誰かに何かを伝えるための手段なんだということを、わたしは思い知らされる。


 どんどん、北川くんたちの立つ場所が遠くなる。

 わたしは、何がしたかったんだろう。

 バチが当たったんだ。ギターを始めた理由がよこしまだった。まっとうではなかった。だけどわたしは――


 精神を立ち直す暇もなく始まった四曲めは、わたしをさらに打ちのめした。追い打ちをかけるように。打ちのめし、叩き潰し、完膚なきまでに失意に追い込んだ。


 ドラムがゆっくりリズムを取る。

 北川くんが息を吸い込んだ。

 そして彼の口が重い一音めを吐きだし、右手が思い切り振り降ろされる。スロートーンでヘビーなサウンド。唇が震えた。あの夜挑発されて、わたしが弾いた曲だった。表現力のあるギターソロ。どんなにがんばったって、アコースティックギター一本では出せない、表現できない、音の厚み。さらにベースがボリュームを加え、立体感のある、奥行きのあるサウンドをつくりだしている。それを支えるドラムの骨太なリズム。高くかすれる、北川くんの甘い声。

 水滴が指を伝って滴り、制服のスカートを濡らしてゆく。

 わたしは青くなって、ただステージ中央で傍若無人に演奏する北川くんの顔を見ていた。グラスを握る指から冷たさがじわじわ広がって、からだから、ちからが抜けていく。


 音が遠くなっていくような。感覚が、失われていくような。

 心が壊れてしまいそうだ。


「あ、朝日ちゃん?」

『え、待っ……杉村さん!』


 これ以上はここにいられない。

 曲が終わるより早く立ちあがる。パイプ椅子がおおきな音を立ててうしろに倒れたが構っていられるような余地はなかった。

 ステージに背を向け、一目散に走りだす。ステージ上から北川くんのあわてた声がわたしを呼び止めたけれど、振り返らなかった。階段をのぼりきり重い鉄扉に体当たりをし、外へ飛びだす。鍵、鍵鍵鍵かぎかぎ……スカートのポケットをあさるも、こんなときにかぎってなかなか見つからないものなのだった。いらいらする。かばんに入れたんだっけ? 学校指定の学生かばんを地面に落とししゃがみこみ、もつれる指で前ポケットをさぐろう、としたところで、


「朝日ちゃんっ!」


 北川くんが鉄扉から顔を出した。ヒャッと口から奇声が漏れる。かばんを引っつかみ自転車を見捨て、わたしは駅に向かって全速力で駆けた。


「待って! 待って!! 朝日ちゃん!!」


 待つわけがない。時刻は夕方に近づき、商店街の角から差し込む西日は茜色だ。まだ夏みたいに蒸し暑い商店街を、わたしは必死に走った。夕飯の準備のために買い出しに来ている主婦たちのあいだをすり抜け、自転車に乗って正面からふらふらやってくるおじいちゃんをよけ、カートを押して歩くおばあちゃんをそろそろと追い越し、わたしは走りに走った。

 が、商店街を抜けるよりも圧倒的に早く、捕まってしまった。


「ちょ、はあ、っ、早い、よ、走んの」

「……っ、ごめ、な、さ、はあっ」


 足を止めたら、とたんに頭のてっぺんから汗がふきだしてきた。額から、髪の毛のあいだから、首すじから、背中から、汗がどんどん流れてゆく。

 左の腕を掴まれた状態で、北川くんはわたしの腕を掴んだ状態で、お互いからだを折り、しばし息を整えるに準じる。通りのど真ん中で、ぜえはあと苦しげに往生している高校生ふたりを、道行く大人たちはたいそう邪魔くさそうに睨みながら通り過ぎていった。


「なんで、逃げんの」まだ腕を掴んだまま、北川くんは訊く。

「だって、」腕を引っぱってみてもびくともせず、わたしは逃げるのをあきらめる。だって、のあとが、つづかない。

「ダメ、だった? ……オレらの音楽、ダメだった?」


 ダメ? あれが?

 あれがダメなら、どんなものを音楽と呼んでいいの?

 わたしは首をふった。なんとか、わらってみせる。口の端が引き攣る。「ダメなんかじゃないよ」。

 すごいよ。


「勝負にもならないよ。すごいよ、完敗だよ。きっとプロになれるよ」

「えっ、な、ち、違う! 勝負なんかじゃないよ! 勝負なんかじゃなくって、バンドのいいところを知ってもらいたかっただけなんだ!」


 視線を落とす。また、首をふる。思いのほかちからのない動きになってしまう。


「オレらの演奏聴いて、朝日ちゃん、辛かった?」北川くんの声が沈んだように低くなる。

「……。」辛かった。

「辛いだけだった? 羨ましいとか、悔しいとか、何か胸がビリビリするような、指先が疼くような、そんなのは感じなかった?」


 頬にサッと赤みがはしったのがわかった。思わず顔をあげてしまう。北川くんはこちらを睨みつけるようにしてまっすぐ、わたしの目を見ていた。頭のてっぺんからふきだした汗が、まつげを濡らし、あつくなった頬を濡らし、流れ落ちてゆく。


「あの一曲め、オレが作ったんだ! そのうち歌詞をつけて、朝日ちゃんに歌って欲しくて! 朝日ちゃんのプレイがここに乗ることを想像して、オレが作ったんだ!」


 まだ息の乱れが整わないのか、息継ぎの途中途中で喋りづらそうに北川くんは言った。それがみょうに色っぽくて、またあわてて目をそらす。


「ねえ。お願い。一緒にバンド、しよう」


 答えられない。急な運動のために酸素不足となった全身へ血を送り届けようと、心臓が忙しく働いている。ドッドッドッドッ。その音がうるさくて、気が散って何にも考えられなかった。


「なんで」あえぐように、やっと言う。「なんでわたしなの」


 そんなの決まってるじゃんか、と、北川くんはややいらだたしげに言った。「朝日ちゃんが好きだからに決まってんじゃんかっ」


 え?


「え?」

「好きだったんだよっ、ずっと!」


 北川くんの手がいったん離れ、それから手首が掴まれなおし、わたしの手のひらを北川くんのおおきなそれが包んだ。顔が近づく。またあの、甘い、爽やかなシトラスのような香りが鼻先をかすめる。

 しばしポカンとして、それからいったい自分がいま何を言われたのかをようやく飲みこみ理解するにいたり、顔から火が出そうなくらいに赤面した。熱い熱い熱い、頭が、顔が、体が。熱暴走だ。いますぐ冷やさないと、思考回路がショートするやつ。わたしはうろたえた。あわて、とまどい、浮き足立った。


「な、え、ちょ、なに」

「ずっと好きだった。朝日ちゃんのこと、ずっと見てた」


 北川くんの目は真剣そのもので、「またまたあ」とか「冗談はよしこさんっ」とかそんなふうに茶化せるような空気ではなかった。ど、ど、どうすれば。


「高校入って同じ学校だって分かって、オレめちゃくちゃ浮かれたよ。髪の毛真っ赤にしたりさ、陰で朝日ちゃんとか名前呼びしてさ、キモいよな。でも本気なんだ」

「や、でも、待って、あの、わたし……」

「本気で好きなんだ……」掴まれた手にちからが込められる。「好きなんだよ、……朝日ちゃんのギターと歌が!」

「え?」


 本気で好きなんだ。

 朝日ちゃんのギターと歌が。


「あ、ああ、ギターが」

「ギターだけじゃないよっ! 歌も最高だよ!」

「それは、ありがとうございます……?」


 おお。勘違い……と、少しホッとした瞬間、わたしの顔は違う理由から赤くなっていた。

 は、

 はずかしいい……!



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