5-2
小柄で、女の子のような顔をした彼は、いつお店にいってもその対応は無愛想なものだった。長い前髪が目元に影をつくって、それがことさら男の子の雰囲気を暗くみせていた。ギターについて質問したときだけ、水を得た魚! とでも言うみたいに声のトーンが何段階か明るくはなったけれど、わたしたち(+ヨル)の関係は悪い状態のまま平行線をたどっていた。
その夜彼の姿を見つけたとき、真冬なのにドッと頭のてっぺんから汗が吹き出すような心持ちになった。消え入りたいくらいすごくはずかしかったのに、さらに男の子は追い討ちをかけた。
――お前バカだろ。
背中に自分のものらしいソフトのギターケースを担いだ彼の手には、見慣れた黒いハードケースがあった。
――すげーいいギターなんだって言っただろ。盗まれたらどうするつもりだった?
わたしは一言も口が訊けなかった。当然だ。なんてことをしたんだろう。軽蔑されたって、しかたがなかった。圧倒的にはずかしかった。
――男とばっか遊んでて大事になんかできるかよ。ホント、もったいねー。宝の持ち腐れだな。
オレの方が絶対大事にするのに。締めくくりに彼は言って、そのしずかなトーンがまたわたしの羞恥をつのった。
それ以降、ホリオ楽器へは一度も行っていない。弦や楽譜が欲しくなったときには、電車を乗り継ぎ、市内の大きな楽器屋さんまで足を運ぶようになった。
★
学校の最寄り駅の、商店街の中。線路と垂直に伸びたそれの南端寄りにあるのがホリオ楽器、そのとなりがくだんのライブハウスだった。
『スナーク』の外装は、控えめなものだった。見上げると『SNARK』とプレスされた真鍮製の看板がぶらさがっている。重厚な鉄扉に掛かった札は『closed』となっていた。鉄扉の横に小さな格子窓があるだけで、これではライブハウスだとはちょっと気づきにくい。
しかし、closedとは、いかに。どうしようかと30秒くらい悩んだものの、格子窓の下に自転車が三台停まっているのをみつけ、そっとドアを押してみる。中に誰かいるのかもしれない。
鉄扉はその重厚さにふさわしい重々しい音を立て、ゆっくりと開いた。
「悪いね、今準備中なんだ」
中は暗がりで、入口から右手に灯りがみえた。そちらを向くと小さなカウンターがあり、ハンチング帽をかぶったおじさんが顔を覗かせていた。全体的にふっくらとした、まるい人だった。シワがのびて、何歳にも見える顔をしている。まだ二十代前半だと言われればそうかと思っただろうし、逆に四十、五十代と言われても納得できるような。
「あの、わたし知り合いに呼ばれて」
「おお? 女子高生っ!」目が合うと、おじさんは嬉しそうな声をあげた。「もしかして、君がスギムラアサヒちゃんかな? 北川の……知り合い?」
「はい。おととい約束したんですけど」
「へえー、君が……」
おじさんは、ニヤニヤとして、わたしの頭のてっぺんからつま先まで眺め、それから「人は見かけによらないね」と言った。
「はい?」
「聴いたよ、音源。お兄さん君のファンになっちゃった」
「音源?」音源とはなんだ?
「たぶんもう準備中できてると思うよ。どうぞ、ついてきて」
そう言って、カウンターから出てきたおじ……お兄さんは、奥の階段のほうへと歩きだした。ライブ会場はどうも、地下にあるらしい。
「こっちがお客さん用のクロークと、トイレ」階段を降りて左手を指しお兄さんは言い、今度は右手を指し、「こっちがライブ会場ね。キャパは250人くらい」と案内してくれた。ライブ会場のドアを押し、どうぞと先に入るよううながしてくれる。
「うわあ……」
照明が落とされた会場に、わたしの鼓動は高鳴る。やばい、テンションあがる。
「後ろはバーカウンターね。うちは1ドリンク制になってて、チケットと交換でドリンク券渡してるから、それと引き換えに。で、前方がステージ。あとで北川にでもステージ裏案内してもらうといいよ」
入り口から右手が会場の前方になっていて、証明の落とされた暗い会場内、ステージの上だけ、白く照明が
「さ、座って」
「え、なんですか?」
「いいからいいから」と言ってわたしを座らせ、自分はバーカウンターのほうへと歩いていってしまう。いったいなんだというのだろう?
わたしはうながされるまま腰掛け、ステージの上――アンプやマイクスタンド、ドラムセットが配置され、二台のアンプにはそれぞれエレキギター、ベースが立てかけられていた――をぼんやりと眺めた。こうやってライブ会場の空気を吸っていると、バンドってうらやましいような心持ちになってくる。いや別に、ともまた思う。
別にひとりだからライブができないというわけでもなかった。
北川くんの言葉を思い出す。
――ステージに立つミュージシャンが自分だったらって考えたことは? ミュージシャンの立つステージから見える景色を想像したことは?
そんなこと、愚問じゃないか。
楽器をする以上、想像しないわけにはいかないじゃないか。大勢のお客さん、その前に立つ自分。
でも、違う。わたしは、ただ、アキちゃんができなかったことをやりたかっただけなのだ。そんなよこしまな理由でギターを弾くわたしが、彼らと同じようにステージ上の景色など望んでいいはずがなかった。ましてや、10年後なんて。生きているか死んでいるかの想像すら、できません。
「はい、朝日ちゃん」
「え、あ、ありがとうございます」
お兄さんが飲み物を持ってきてくれた。「いいんですか?」と隣に立つお兄さんを見上げて訊くと、お兄さんは腕を組み、ニヤニヤして、「大事なお客様だからね。厚くもてなさないと」と言った。
もう一度お礼を言い、口をつける。オレンジジュースだ。よく冷えていて、果物の味がしっかりとする。渇いた喉に酸味がキリッと心地よかった。
「彼らもね、僕が長年目をかけてきたバンドだからね。朝日ちゃんにはぜひとも気に入って欲しいな」
「彼ら?」
「お、始まるみたいだよ。ゆっくり楽しんでいってね」
お兄さんの言葉に視線をステージに戻すと、脇から人影が上がってくるところだった。バンドマンらしい派手な頭、うちの、制服? ひとり、ふたりとでてきて、三人めが姿を現したとき、わたしは思わず「あっ」と声をあげてしまった。
北川くん?
わたしの声に、こちらを見た北川くんはニヤリとし、すぐにまじめな顔に戻った。そしてステージ中央にくるとアンプに立てかけてあったエレキギターを担ぎ、マイクスタンドの前に立つ。北川くんが歌うのらしい。そういえばあの晩、そのようなことを言っていたような記憶もある(いろいろあって、すでに記憶がうすれかけている)。
ネックに左手を添え、右腕はブランと垂らす。その姿勢で彼がうつむくと、唐突にドラムがリズムを刻み始めた。しばらくその音を聴いている様子だった北川くんの右腕が振り上げられ――勢いよく降ろされた。
大音量に、鼓膜が破れたのだと思った。一瞬すべての音が聴こえなくなり、それが錯覚なのを知る。爆音の洪水で、ひたひたに満たされていた。あんまりおおきな音が近くですると、かえってなにも聴こえなくなるものなのだった。手のなかにあるグラスまで、びりびりとふるえている。
ベースが唸る。ドラムが激しく打ち叩かれる。頭を振り、飛び跳ね、北川くんはギターをかき鳴らす。ネックを指がはげしくのぼりおりする。そのうごきがあまりすばやいので、途中から目では追えなくなってしまった。
わたしはまばたきも忘れ、彼らの演奏を聴いていた。息苦しいと思ったら、あまりに集中しすぎたせいで呼吸を忘れていたのだった。
すごい。
他に、何も考えられない。なんの言葉も表現も思いつかない。語彙はわたしの頭のなかで弾け散り、欲しい言葉は指の先をすり抜け、うまく掴むことができずにいた。
苦しい。まだ呼吸の仕方を思い出せないみたいだった。
すごい。これが、音楽なんだって思った。
わたしがやっていることなんて、音楽ではなかった。
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