2.幼馴染のヨルの話
2-1
ヨルの家と懇意にしているのは、父たちが仲良しのためだった。
ふたりは中学校からの同級生である。高校、大学と同じ道をあゆみ、同じ会社に入社した。何年かののち父たちは、同時期に退職しそれぞれ会社を立ち上げた。ふたつの会社は今ではひとつに統合されているが、前身の各社も互いに近かったというから、どこまで仲が良かったんだとびっくりしてしまう。
先に結婚したのはうちの父だった。結婚をしてすぐ姉が生まれ、それから数年してヨルのお父さんも籍を入れた。ヨルのお母さんが子宝を授かったことがわかったちょうどそのころ、うちの母もふたりめを身ごもったことが判明し、父たちは大変よろこんだ。そして、われわれにきょうだいのような名前をつけた。朝日と真夜。近しいひとたちは愛をこめて、われわれをアサとヨル、と呼んだ。
どちらの父も、自分たちの会社に近いところを基準に選んだために、お互いの家はごく近所だった。夕飯はどちらかの家で二人一緒に食べ、同じ布団で眠ることも多かった。
うんとむかし、ヨルはひどくちいさな子だった。ささいなことですぐに拗ね、ちょっとのことでべそをかいた。わたし以上にわたしの姉にべったりで、いつでも姉のうしろをついてまわった。
――誰のお姉さんかわからないな。
父は嬉しそうに姉の頭を撫でヨルの頭を撫で、よく言ったものだった。
しかしそれも姉が小学校高学年になる頃までの話だ。クラブを始めて忙しくなると、姉のわたしたちと過ごす時間は激減した。中学校に入るとそれはますます顕著になって、ヨルはわたしにくっついてまわるようになった。姉のかわりというわけだろう。わたしたちはずっとクラスも一緒だったから、双子のように扱われた。
先生は、落ち着きのないわたしにヨルを見習うよう注意したし、人前で発言することが苦手でもじもじしているヨルをたしなめ、アサをごらんなさいと言ったこともあった。
やがて地獄の季節がやってきて、わたしと母は、父の家を離れて暮らすことになった。校区が分かれてしまったので、ヨルやめぐちゃんとはここでしばしのお別れ、別の中学校に通うことになった。
それでも、わたしたちはずっと一緒だった。わたしは部活をしなかったから、放課後よくヨルの学校へ迎えに行った。部活が終わったヨルはいつも、制汗剤のいい匂いがした。
ギターをはじめたのは、中学校へ入った頃だった。別れた父が入学祝いにと贈ってくれたのだ。
あたらしいマンションで、わたしは一年間、ひたすらコードを練習した。スケールをやってアルペジオをやって、えんえんと基礎練習に励んだ。隣でヨルはたいくつそうにしていたけれど、自分も弾きたいとは思わなかったようだ。
ヨルは極度の淋しがりやだから、前のように四六時中一緒にいられなくなったのだから、わたし以外の人を頼ってもそれは、しかたのないことだった。
小学校を卒業する少し前くらいから、うしろをついてまわる役目はわたしのほうになっていた。ちいさかったヨルの背はどんどん伸びた。わたしはちいさいままだった。まるでヨルになったみたいだった。彼の性格がそのままうつったように、臆病で陰気で、すぐ泣くような子供になってしまった。
★
インターフォンの音で目が覚める。
夢の続きかと思って、ベッド上のわたしは白い天井をにらみ、しばしそのままの姿勢――いつでも夢に戻れるための姿勢――でいる。と、もう一度鳴る。しっかりとした、現実の音だった。エントランスに誰かが来訪したことをつげる音。わたしはのっそり体を起こす。ベッドのうえで正座をし、一点を見つめ、ぼんやりとする。
母はどうして出ないのだろう。まだ帰っていないのだろうか……耳をすますと、リビングのほうからテレビの音が漏れているのに気づく。帰ってきてテレビを点け、そのままソファで眠ってしまったのかもしれなかった。今日は何日だっけ。なんの日だっけ。何曜日だっけ……この夏一か月ちょっとのことを思いだす。
学校から近い国道沿いの中華屋さんでバイトをはじめた。中華屋さんってヤンキーみたいなひとばっかりで、最初はなじめる気がしなかったが、意外とみんないいひとたちだった。たのしくて週六のペースで通っていた。あれからもう一か月。
はっとした。
そうだ、きょうは、
「……制服をもらえる日……」
八月一日から始めたバイトが、一か月めを迎える日である。それまでは研修中ということで、自前のジーンズに白いTシャツ、そのうえからお店のエプロンをつけただけのかっこうで働くことになっていた。思えばここまで長かった。何しろ、オーダーが全部中国語なのである。中華屋さん独特の、湯気と油の混じった匂いにもなかなか慣れなかった。とはいえ、たのしくて、ほとんど遊びにでかけるような感覚で出向いてはいたのだけれど……。
もう一度、インターフォンが鳴る。何かお忘れではありませんか、と、どこかいらだったふうにもそれは聞こえる。
「あ、違う。今日から九月……」
ついと自然にこぼれた自分の言葉に、寝ぼけた脳みそは瞬時に覚醒した。
今日から九月。
学校じゃないか。
わたしはつんのめりながら自分の部屋を出、リビングへ走った。
「信じられない。昨日連絡したのに」
モニター越しに、
「お、起きてはいたよ。忘れるわけないじゃん……わたしがめぐちゃんとの約束を……」
「そんな寝起きの顔してよく言えるわね」
エントランスの、オートロックのキーを解除し、エレベータで九階までたどり着くまでの三分ほどで、大急ぎで顔を洗いあわてて制服に着替えたのだけれど、そんなとってつけた工作など、このひとの前ではなんの役にもたたず、すぐに見破られてしまった。探偵のかたですか?
彼女はやたらとでかいリュックをがさごそとかき回し、次々にアイテムを取りだしてゆく。ヘア・アイロン、ヘア・ミスト、ムース、ワックス、クリップ各種、ブラシなど。
「くくるだけじゃだめ?」いちおう訊いてみるが、当然というべき黙殺である。
時計を見ると、午前七時ジャストだった。彼女の準備にはいつも二時間近くはかかるということだから、この時間にわが家に居るということは、五時には起きていたという計算になる。凄みがある。
「大変だね、早起き」と気を遣うと、めぐちゃんはフンと鼻を鳴らし、「これから毎日来るからね。見張りをかねて」などと言う。
「そんなことしなくても休まないよ。大丈夫」へらっと笑ってみせる。
「ほら、座って今日はメイクもしたげるから。早く」無視。まったく信用されていないのだ。
「ああ、はい」すみません。情けないようだが、このおそろしい親友さまには、すなおにしたがうほかない。
鏡台の前へ座らせたわたしの髪を、めぐちゃんはあっというまに編みあげてしまう。
「相変わらずの鮮やかなお手並みですなあ」
「うるさい。次、顔貸しなさい」
「言い方が物騒だよ」
めぐちゃんには十歳年上のお兄さんがいて、彼はスタイリストのお仕事をしている。自分も同じ道に進み、いつか一緒にお仕事をするというのが、彼女の夢だ。
わたしは、めぐちゃんをみるといつも姉を思いだす。めぐちゃんがうらやましい。美人で背も高くて、明るくてさばさばしているし、どこへ行ってもすぐ友だちができる。そして、夢がある。自分の進むべき道を知っている。わたしとはすべて、正反対だ。鏡台に向かってメイクをほどこしてもらいながら、ちらりと鏡に映る、ベッドの足もとあたりに目をやる。わたしはそんな自分がきらいで、“それ”を始めたのではなかったか。夏休みに入ってからは一度も触れていない、“それ”。きっとうすく埃が積もっていることだろう。
「はい、終わりー。とっとと行くよ、学校」
エントランスへでたとき、つい携帯のディスプレイで時間を確認する。7時43分。未練がましいみたいに時計を確認するわたしにめぐちゃんだって気づいたはずなのに、彼女は黙って駐輪場へと歩いていってしまった。しかたなくて、わたしもそのあとを追った。
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