1-2

 え? 思わず足を止めてしまった。


「え、な、なんで知って」

「ええーっ、杉村さんってギター弾けるの?」


 校舎を出たところで立ち止まっているわたしと北川くんに気付いた女の子たちが戻ってきた。や、まあ、ちょっとだけ。もごもご言って歩みを再開する。渡り廊下の終わり、校舎の先はコンクリートの階段が続いている。サッカー場などないわれわれの学校なので、見学となればその砂まみれの段々に座るしかない。わたしたちは手で軽く砂を払い、いちばん上の段に腰をおろした。居心地がわるかった。どうしてだか北川くんが隣に座っているのだ。香水だろうか、爽やかな柑橘系の香りがする。


「オレ最寄りが××駅だからさー。杉村さんが駅でよくアコギ弾いてるの知ってるよ。超うめーんだから」わたしの心中などまったく気にしない北川くんはニコニコとしている。

「ああ」そっか。このひともヨルやめぐちゃんや彼女らとおなじ中学校出身なのだった。

「えー! そうなんだあ。知らなかったあ」

「……遅い時間だから、いつも」苦笑い。

「でも意外ー。音楽が好きなの?」


 それほどでもないとは言えず、あいまいに笑ってごまかした。わたしがギターを始めた動機なんか不純すぎて、誰にも言えないことだった。

 黙ってグランドを見つめる。サッカー部は奥のほうで練習しているので、ここからは遠すぎてどれがヨルだか、はっきりと判別することはむずかしい。でも彼はどこにいても目立つひとだから、ぼんやり「あれだな」という目星はつく。ごまつぶ、とまではいかなくとも、米つぶ程度にしかみえない活発なスポーツマンたちがグランド中を右往左往するさまを、漫然と眺めていた。暑いのに大変ですね。すごいですね。心の中で、ねぎらう。その隣で北川くんや女の子たちが話をしているけれど、半分もきいていなかった。ときどき相槌をうってみたり、みんなとおなじタイミングで笑ってみたりする。


「あれ、松田くんじゃない?」


 われわれが腰をおろしてから十分が経とうかというとき、サッカー部の群衆から米つぶがひとつはじかれたように、こちらに向かって駆けてくるのがみえた。あ、ほんとうにヨルだ。わたしがつぶやくと、女の子たちははしゃいだ声をあげて立ちあがり、猛スピードで駆けてくるわたしの(現時点ではまだ)彼氏にむかってぶんぶん手を振った。

 あっというまに石段の下にたどり着いたヨルの顔は、逆光になってよく見えないが、大股でのぼってくるそのたたずまいで、ずいぶんご立腹のようであることに気がついた。


「アサっ」


 そしてその表情がはっきりと確認できる距離にまでやってきたとき、やっぱり怒っているなと思うのと、こわい顔をしたヨルが低い声でわたしの名前を怒鳴るのとは同時だった。


「何してんだよ。なんでこんなとこにいんだ」

「みんなで松田くんの練習みにきたんじゃんか」


 返事をしたのは北川くんだった。ヨルは彼にギロリと一瞥をくれると舌打ちをし、わたしの腕を怒り任せといった感じで乱暴に引っぱって立ちあがらせた。思わず痛いと声が漏れてしまう。


「は、何イラついてんだよ。かわいそうだろ」北川くんが驚きと怒りの混じった声をだす。ヨルは無視する。わたしの腕を引いてずんずん歩いてゆくそのうしろを、わたしはおとなしく小走りで続くしかなかった。







「いっ、痛いよ、ヨル」


 いかれるヨルの持久力はすごい。いくらヨルだって練習中に、と踏んでいたが、ぐいぐい引っぱられるまま小走りでついてゆけばもう、王の漢字のかたちになった校舎のまんなか、図書室のある中央校舎の下まで来てしまった。

 中央校舎だけ一階部分がない。等間隔に並んだ角柱に支えられたその下は広い中庭となっていて、まんなかあたりに購買部と学生食堂があった。しかしこのままでは渡り廊下から左右に突き出た校舎部分がアンバランスになるため、両端につくられたコンクリートの階段がそれをがっしりと支えている。グランド側を向いて渡り廊下の右側は、一面芝生が敷きつめられていた。文化祭シーズンには特設ステージが設置かれたり、たくさんの出店で賑わうらしい。天気のいいよく晴れた日には、シートを持参した生徒らがここでめいめい昼食をとる。芝生側の階段下に到達すると、ヨルは植えこみの陰にわたしを引きずりこんだ。ここまで五分弱、ヨルは一言もしゃべらない。

 ぐっと肩を押され、うしろに転倒しかけてしりもちをついてしまった。したたかに腰を打つ。悲鳴が漏れる。ヨルは黙ったままだ。乱暴にあごをつかまれ、キスをされた。口内に、舌が差しこまれる。肌の表面を、ぞわっとしたものがはしる。顔を背けようとするにもがっちりとあごを固定されているせいで、逃げられない。苦しい。わたしはどんどんヨルの胸をたたいた。でも、押そうが引こうがびくともしない。声が漏れる。苦しい。体力のないわたしのこと、五分ほど小走りをすれば立派に息も乱れる。そのうえ、口を塞がれてしまったのだ。苦しくないわけがなかった。

 ようやく解放され、体が酸素をもとめておおきくあえぐ。ちからが入らない。へたりこんでしまう。


「は、……ヨル……、なに」

「なんで俺の言うことが守れねーの」しゃがんだ姿勢のまま、お仕置き、と言ってヨルは冷たい目でこちらをにらみつける。「今度破ったらもっとエロいお仕置きするからな」

「なに、それ」まだ息が整わない。言葉がみつからなかった。


 動機がはげしくなる。うるさい。息が落ち着いてゆくと今度は、怒りがじわじわと湧いてきた。


「いいの、練習中にこんな」

「それをお前が言うの? お前が抜けさせたんだろ」


 舌打ちをし、立ちあがったヨルは腕をユニホームの裾からつっこみ、鍛えられた腹筋とほっそりとした腰が覗くのもおかまいなしに、その胴部分の生地を伸ばして髪の先から額から滴る汗をぬぐった。伸びた前髪をかきあげる。ため息をつく。


「次はないからな。わかった?」


 もうしない。わたしは言った。想像したよりも低い声になった。


「わかったんならいーけど」

「二度としない。帰る」


 一度こちらに背を向けたヨルがこわい顔をして振り返った。「は?」


「もうヨルとはやっていけない。別れる。もう付き合えない。帰る」

「は? 何それ、逆ギレ? おとなしく待っとけつってんの」

「もう無理。もうやだ。なんでヨルにあれこれ言われなきゃいけないの」


 目元を指でぬぐい、声を荒げる。違う。ほんとうに言いたいのはこんなことじゃない。ほんとうに無理だと思ったのは、もっと違う理由だ。

 だけど、それは一生誰にも言えない。


「だいたい、不相応なんだよ。身の丈に合わない。こんなの」

「は? どういう意味だよ。なんなの? こないだのことまだ怒ってんの?」

「じゃあ」もう目元をぬぐうこともしなかった。「わたしのどこが好きなの」


 ヨルは言葉に詰まった。


「……もういい。二度と会いたくない」


 ようやく立ち上がることができた。スカートのうしろをはたく。膝やふくらはぎにも、砂がたくさんついている。すりむいたのか、肌が熱を持ち、ひりひりとする。


「待てって!」


 また乱暴に腕を掴まれた。離してと言い腕を振り払った、ところで、遠くから怒号が聞こえた。地響きを思わせるような、おそろしい声だった。

 わたしもヨルも、同時に体をこわばらせる。


「ゴルァァァァ松田っ!! 練習中に何やってんだ!!」


 サッカー部の顧問の先生だ。

 ヨルは「げっ」と浮足立った声をあげたが、逃げるにはおそすぎた。すぐに首根っこをつかまれ、そのままずるずると引きずられてゆく。


「ちょ! ちょっと待ってください! 大事なとこなんすよ今!」

「アホか! サッカー部員が練習以上に大事なことがあるかっ」


 アサっ、アサっ、とヨルは往生際わるく怒鳴っていたけれど、それも次第に遠くなり、聞こえなくなった。ばかみたい。わたしは息を吐いて校舎に入るべく、階段に向かった。一段めに足をかけたとき、一度はおさまった涙腺がまたゆるんできて、あわてて上を向く。数秒そのままの姿勢でいる。顔を正面に戻す。二段めにのぼる。またもぶわっと涙が浮かんで、あわてて上を向く。下まぶたのきわを、指で拭う。しっかりしろ。頬を叩く。叱咤する。

 しっかりしろ。ヨルなしでももう、生きていくんだろう。わたしはもう、家族なんかいなくたって、ひとりで生きていくんだ。



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