1.終わりの始まり、すべての始まりの話
1-1
蝉の声がうるさい。
クマ蝉、ミンミン蝉、アブラ蝉。蝉。蝉の声……それをいったん意識してしまえば最後、目は文章を追ってはいても、内容はまったく頭に入ってこないはめに陥ってしまう。それに気づき(あーあ)、いくらか
夏真っ盛りの図書室。南向きの窓から入ってくる陽で、真っ白になった部屋。当然というべき、エアコンのよくきいた快適な室内、窓は一ミリの異例もなくきっちりと締め切られているし、クリーム色のカーテンもすべて引かれている。それに。椅子に深く座り直し、天井を見あげてしばしぼんやりとする。わたしが座っているテーブルは、窓からかなり離れたところにある。カーテンの引かれた窓ガラスを突き抜け、書架の列をかいくぐり、ここまで届く蝉の大合唱とは。うらやましいと思う。これだけおおきな声がでれば、たくさんの人に彼らの思いは届くだろう(今回のような、届きすぎてうるさいというケースもあるが。物事には限度というものがある)。
すっかり集中力がきれてしまって立ちあがり、学校指定のかばんから財布を取りだした。購買に行こう。アイスでも買おう。ケータイのサブディスプレイを確認する。まだ午後二時をいくらか過ぎたような時間だった。終業式のあと、本日は四時限で一学期最後の授業が終了した。そこからヨルと昼食を食べ、サッカー部の練習が始まったのが午後一時だから、まだ一時間しか経っていないということになる。なんということだ。
「あ、杉村さんだー」
夏の空気をはらんだぬるい風が、紺色のやぼったいプリーツスカートを膨らませる。図書室を出、蝉の声を全身に浴びながら、中央校舎下の購買部に向かって歩いていくと、ちょうど購買部から出てきたらしいクラスメートの女の子たちに会った。
「購買に来たの?」
「うん。アイスでも食べたいなって」
派手なメイクをした女の子たち。短く裾上げされたスカートからのぞく、健康的に日焼けした脚がまぶしい。わたしとは正反対の人種である。彼女らはめぐちゃん――わたしの唯一の友人で親友様だ――とおなじ中学校出身のご友人で、そのつながりでこんな地味なわたしにも話しかけてくれたり、仲良くしてくれたりする。あまりにフレンドリーな彼女らに、たじたじだった入学当時のわたしが、一学期も最終日を迎えた現在では、かんたんな会話ならなんなくこなせるようにまで成長した。段差が存在するかもあやしいような低い低いハードルではあるが、中学時代のわたしなら考えられないことだった。誰か、褒めてはくれないだろうか。
「杉村さんってさー、毎日松田くんの部活が終わるまで待ってるの?」
「そうだよ。だいたいは」だいたいは、図書室で宿題をしたり、本を読んだり。
「仲いいねー。うらやましい!」
「そうかな」そうでもないよ、の意味をこめて言う。
「そうだよー」そして伝わらない。「毎朝一緒に登校してー、わざわざ杉村さんを四組まで送ってー、で下校も一緒でー」「しかもいつ見ても手を繋いでる!」
わたしは笑ってもう一度そうかな、と繰り返す。見るひとによっては、それが「仲がいい」ことになるのだな。でもそれも今日で終わりかもしれない。今日が終業式でよかった。明日からは夏休みだ。
「グランドのほうには行かないのー?」
「んー。行かない」邪魔になるからっていやがるし。
そこでいちばん派手なメイクの女の子が、さもいいことを思いついたみたいに、目を輝かせて「そうだっ」と言った。「ねえ、
「え」
「きゃあ、いいね!」
「超いきたあい」
「や、でも」
「杉村さんも行きたいでしょ?」
その言葉や表情からは、「まさか断られるはずがない」という思いがはっきりとこちらに伝わってくる。断りづらい。
いや、でも、断るという選択肢もある。わたしがヨルの言いつけを破ってそこいらをうろうろなどすれば、間違いなく彼は不機嫌になるし、不機嫌になったヨルの扱いは、長年の付き合いといえど、相当に手を焼くのだった。だいたい高校に入ってからというもの、ヨルはずいぶん心の狭い男になってしまった。ほんとうは今こうして図書室を抜けて購買部に向かっていることさえ、お咎めの対象なのに。
「……じゃあ、先にジュース買ってもいい?」
結局断りきれず、わたしは笑った。アイスを諦め、目的を水分補給にシフトする。この意志薄弱ものめ。
ポカリを買って、とりとめないおしゃべりをしながら、サッカー部が練習をするグランドへみんなで向かった。
漢字の「王」のかたちになった校舎を抜けると、広いグランドに出る。みっつめの校舎の手前までやってきたとき、向かいから派手な赤髪をした長身の男の子が歩いてくるのがみえた。背中にはギターの黒いソフトケースを担いでいる。彼は同じクラスの、
「北川くんだっ」
わたしが彼の姿を認めると同時、もちろん前を歩く女の子たちも彼を見つけ、走り寄っていった。北川くんはそんな彼女らに片手をあげ、爽やかに笑ってみせる。
軽音部の男の子だ。短い髪を燃えるような真っ赤に染め、ワックスで立てている。男女分け隔てなく愛想がいい人気者、きわめつけが女の子も顔負けの甘いマスク。モテないわけがない。もっとも近しいところでいえば、めぐちゃんもまた北川フリークの一人である。
「どこ行くの?」
「杉村さんがねー、彼氏の練習するとこ見たいっていうから」え?「みんなで付き添いなのー」ええ?
北川くん(近くでみたらやっぱりきれいな顔だとわたしは思った)はその言葉でようやく所在なさげに佇むわたしの存在に気が付いたようで、くしゃっと顔をくずし、「めずらしーね」と笑った。きれいな顔。わたしは赤くなってうつむいた。
「北川くん、どっかに行くのー?」
「や、今日はメンバー誰も来ねーからもう帰ろっかと思って」軽音部、この上なんだ。渡り廊下の天井を指し、北川くんは言った。
「そうなんだー」
「ひどいんだよね、みんな彼女優先してさー」頬を膨らませたり、腕を組んでみせたり。いちいちのしぐさが派手で、華やかだ。
「北川くんは彼女つくらないの?」
「ん。今は音楽に集中してたいっていうか。彼女と遊ぶよりギター弾いてるほうがたのしーし」
「えー? つくろーよ彼女ー」
女子たちはきゃいきゃいと声を弾ませ、北川くんをとり囲む。今帰ると言ったはずのその北川くんは、なぜか体の方向を180度ぐるりと変え、わたしたちと同じくグランド方面へと歩みを進めている。どうみても、女好きのちゃらちゃらしたひとにしか見えない。
渡り廊下の終わり、最後の校舎を抜けると、とたんに目に強い日差しが飛びこんできた。目を細め、右手を額にあててひさしをつくる。グランドにはサッカー部の他にも野球部やラグビー部、陸上部といった人たちが汗をながし、それぞれの思いを目標を夢をその胸に抱き、練習に励んでいた。前向きな活気に満ちたおおきなおおきなエネルギー。なんだか胸やけするような心持になって、もうすでに帰りたいわたしだった。
「杉村さんって」
顔をあげると、すぐ隣に北川くんが立っていた。たちまち緊張が全身を支配する。
「え、な、何」
「はは、なんかビビってる? オレクラスメートなのに」北川くんは苦笑してみせ、こちらにぐっと顔を近づけた。
「や、あの、初めて喋りかけられたから」ち、近い。顔をそらし、なんとかそれだけ答える。
「ホントはもっといろいろ絡みたいんだけどねー。誰かさんが許してくんねーし」
「絡……? え?」
「おなじギター弾き同士、仲良くしてーなと思って」
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