九得 二
「まず。さよ、だ。俺の我儘勝手に巻き込んじまったから、さすがにもう好きにさせてやりてえ。さよも、ゆっくり眠りてえだろう。ただな。一人で行くのは寂しいもんだ。一人で残されちまったンだから、せめて行く時には見送りがあった方がいい。そう思ってな」
「さよがどこに行くのかは、俺も知らねえンだ。それはさよに聞いてくれ。見送りを、頼む。それと」
ぐにゃっ。文三さんが座っているあたりの気配が……変わった。そこにだけ強い寒気が流れ込んでくるような……。
「俺はこのまま野垂れ死ぬ。それは猫として当り前のことだ。供養も、手向けも、墓も、一切要らん。絶対になにもしねえでくれ。余計なことぉしやがったら、末代まで祟ってやるからな!」
そう言い放った文三さんの眼がきりきりとせり出して、金色に光った。生臭い臭いがあたり一面に漂う。口元が耳まで裂けて、赤い口の中に鋭い牙が覗いた。しゃああとしゃがれた唸り声が響く。非現実が現実と繋がって、逃げ場がどこにもなくなった。わたしの背筋に冷たい汗が幾筋も流れた。
でも卓ちゃんは、文三さんの
「文三さん、さよさんは、三百年間ずっと同じ体で生きてきたの?」
「もちろんそう出来んことはねえが、死なねえ人間がずっと同じところにいたら、俺たちはすぐに怪しまれるだろう? 不便でしょうがねえ。だから、時々体を入れ替える。さよの今の体は四十二の女の体だ。いつの世にも、自分を粗末にするやつぁいっぱいいるからな。さよの心をそいつに移してやればいい」
たんと膝を叩いた迫田さんが、納得顔で頷いた。
「ああ、なるほど。それでか」
さわちゃんも同じように頷く。
「そうよね」
わたしもぴんときた。
「美月さんの年がなんで読めないのかなあって。ずっと不思議に思ってたの」
ぐっちぃがまとめる。
「そうだよな。心は十七。体は四十二。そして時が三百年隔たってる。どれも真実。どれも美月さんを造ってるのか」
突然何かを思い出したように、文三さんがふっと顔を上げた。
「そういや、さよに頼まれていたな。おまえらを見立ててくれと。まあ、俺のつまンねえ置き土産だ。聞き流してくれ」
それから、わたしたち一人一人を順繰り見渡した。
「あさみ。お前は論外だ。何も障っちゃいねえ。ただな、だからこそさよがえらく心配してる。全てのことに因果があるわけじゃねえンだ。ことさらに思い詰めて、自分に
「卓。お前に憑いてんのが一番厄介だが、お前自身が苦にしてねえからな。まあ、これからもテキトーにやってくれ。電話なんてくだらねえもんを考えたやつが悪いンだ。必要なら、そいつの藁人形に五寸釘を打つ方法を教えてやる」
「沢木、谷口。おまえらのは障りじゃない。傷、だ。車輪についた傷。止まっている時は分かンねえが、転がるとどこかで引っかかって違和感が出る。だがな。それは所詮、小さな傷だ。動かすことに何も不都合はねえ。それを忘れンなよ」
「迫田。お前はつまらん。まともすぎる。今度、娘が嫁にいくンだろ? まあ、せいぜい寂しがるンだな。時照寺の坊主と屏風に上手に坊主の絵を描いてくれや」
文三さんは迫田さんを横目で見て、けけっと
「ちぇっ。さよの頼みたあいえ、なんで俺がこんな占い師紛いのことぉしなきゃならねえンだよ。ったく」
それにしても、化け猫っていうにはあまりに人間臭いなあ。美月さんの影響が大きいんだろうか。
緩んだ空気を嫌気したように、切羽詰まった表情の卓ちゃんが文三さんを再び問い詰める。
「文三さんがいなくなるってことは、美月さんはこのまま年を取るってこと?」
「いや」
文三さんは、拳で頭をとんとんと叩きながら呟いた。
「この体はさよのもんじゃねえ。俺が心を移せるといっても、それは俺の
慌てた卓ちゃんが、懇願するようにして文三さんに食い下がった。
「そんなのって。残酷だよ!」
「そうだな」
文三さんは。美月さんがよくしている、遠くを見るような目つきになった。
「卓。お前、死んだらどうなるか知ってるか?」
卓ちゃんがふっと俯く。
「知らねえだろう? 俺も知らねえ。たぶん誰にも分かンねえだろう。そして、そいつは誰にでも平等だ。人間にも、猫にも、あやかしにもな。だからどこに行くかを追うな。何を持たせるかを考えろ」
文三さんが、噛んで含めるようにして卓ちゃんを諭した。
「いいか。さよは三百年前にすでに死んでいる。今、卓が見ているのは、その心だ。体のねえ、でも
「卓。そのために、お前なら何を持たせる? 何を話して聞かす? お前もいつかは逝く。お前なら。その時に何を望む?」
文三さんはそう言い終わると、しばらくの間じっと美月さんの顔を覗き込んでいた。それからずいっと顔を上げて目を閉じ、深く息を吸い込んだ。周囲の空間が文三さんの頭上に引き寄せられ、そこで全部固まったみたいに。ずっしり空気が重くなった。
文三さんは、かっと目を見開く。金色の。魔性の
低い、くぐもった声が響いた。
「俺の名は
ふっと空気が軽くなり。文三さんの姿はすでにかき消えていた。
外で、にぎゃーっと潰れ声が遠ざかってゆくのが聞こえた。文三さん、いや九得は……どこまでも猫だったのだろう。
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