九得 一

 あれから。美月さんはずっと眠ってる。医者を呼ぶなって、あれだけ強く言われちゃったから、わたしたちは美月さんの意識が戻るのを待つしかない。


 卓ちゃんは、すぐに店を閉めた。店舗の灯りは消えてる。居間の薄暗い蛍光灯に寄りすがるようにして、わたしたちは息を凝らしてる。すごく心配だけど、原因が分からない限りどうしようもない。

 時計の針はもう十時を回っていた。でも、誰も立ち上がらない。動かない。誰もが、静かに彫像のような美月さんの顔を見下ろしてる。見続けてる。


 そこへ、ふらっと。いつの間にか、文三さんが上がってきた。ここしばらく誰も文三さんを見かけてなかったから、わたしもみんなも驚いた。以前と同じように仏頂面で、無言。集まっているわたしたちを気にする様子もなく、ゆっくりと美月さんの枕元近くに座った。そしていきなり美月さんに話しかけた。


「すまんな。俺は長生きしすぎて、飽きた。あっちに行くことにした。だから、これでお前とはお別れだ」


 座がどよめいた。これまで、文三さんがしゃべるのを誰も聞いたことがなかったから。文三さんはわたしたちを見渡すと、低く通る声で言った。


「みんな揃ってるのか。丁度いい。まあ。最後だから少し無駄話するかな。さよのこともあるしな」


 え? 誰? さよ、って?


 文三さんはあぐらをかきなおすと、しれっと言い放った。


「俺は猫だ。長生きしすぎた、な」


 迫田さんがなぜか頷いているけど。わたしも他のみんなも、全然わけが分かんない。な……に?


 文三さんが、美月さんの顔を見下ろしながら独り言のように語り始めた。


「さよは、下総の田舎で生まれた。さよが数えで十二の時だった。飢饉の年で、多くの娘が口減らしで売られた。さよもそうやって、親から捨てられた。でも、さよは運が良かった」


「さよを請けた置屋のおかみさんは苦労人で、新造に優しかった。自分も上州の田舎から出てしんどい思いをした。だから……ってな。年季が明けるまで。いい人に想われて請け出されるまでは自棄やけにならないように、と。とにかく優しく、家族のようにさよに接した」


「他の姐さんも、みんな優しかった。でも、誰より、さよが。さよ自身が、他の誰よりも優しかった。自分はどうでもいいから、姐さんたちがいいようにと心を砕いた」


「遊女は体を売るのが商売だ。望む、望まざるを問わず、な。だから、すさむ。普通はな。だが、さよの置屋、美野屋の女は違った。人気の太夫たゆうが次々に出る。顔でも、体でも、芸でもない。心に、情に、男が群がったンだ」


「けどな。それはいいことばかりじゃない。美野屋は、吉原ン中の店じゃない。吉原のやり手の置屋から見れば外道だ。だから妬みを買った」


 文三さんが、美月さんをじっと見下ろす。


「その日は特別だった。数えで十七になって、さよの水揚げが組まれていた。見知らぬ男に抱かれる。それは遊女には避けて通れない宿命だ。さよを一番かわいがっていた松風という姐さんが、さよを心配して揚屋あげやに詰めた。おかみさんも他の姐さんを連れて、その揚屋に来ていた」


「そして、事が起こった」


「田舎武士の馬鹿息子が、酔った勢いで通りを歩いていた遊女を手篭てごめにしようとした。その女が逃げ出したのに逆上して、そいつを追って、抜き身ぃぶら下げたままさよの居た揚屋になだれ込んだンだ」

 

「それが偶然だったのか、誰かの仕向けか、今となっちゃあ分からねえ。だが、逃げ込んだ女を庇おうとしたおかみさんが、真っ先に斬られた。あとはなで斬りよ。店にいた男も女も手当たり次第に」


「座敷の中にまで入り込んで、呆然としていたさよを袈裟に切り下げようとした。そン中に飛び込んだのは松風姐さんだ。そのまま、さよを抱えるようにして絶命した。松風姐さんの体で隠れたさよは、気違い侍の目を逃れて生き残った」


「さよは全てを無くしたンだ。その時にな」


 文三さんは、そこまでとつとつと語り続けた。


 わたしは……思い切り面食らっていた。いや、わたしだけでなく。文三さんが何のことを話しているのか、誰も分かってなかったと思う。


「俺はな、その美野屋で飼われていた猫だ。松風姐さんが俺を気に入って、随分かわいがってくれた。さよは松風姐さんが好きだったから、俺にもとてもよくしてくれた」


「俺は、さよや松風姐さんの膝の上で寝るのが好きだった。夜は知らん男の頭が乗っていても、昼の膝の上は俺だけのもんだ。そうして、うつらうつら眠っているのが好きだった。俺は大概トシだったからな。ずっと……ずっとそうしていたかったンだが」


 文三さんが、大きな目玉をぎょろりと巡らした。


「気違い侍におかみさんと人気太夫を切り果たされて、美野屋は潰れた。生き残ったさよの頼れるところはどこにもなくなった」


「俺はさよを探しに行った。さよは、誰もいなくなった店の塀の角で、俯いたままぼんやり立ち尽くしていた。泣いているのかと思ったが、泣いちゃあいなかった。もう……涙も残ってなかったンだろう」


「そん時だ。暦をちょうど三回り生き延びた老いぼれの俺は……猫又になっちまったンだよ。さよの目の前でな」


 なっ!!


「誰かの恨みを受けて化身したわけじゃねえ。俺自身が何かを呪ったわけでもねえ。呪師まじないしの道具に使われたわけでもねえ。自然に、なンとなく、あやかしになっちまった」


「だから。俺の望みは猫として自由に過ごすことだけだった。猫の時のまま。好き勝手に。ただ、猫の時にはなかった力が俺には備わった。まあ、あんまり使うこたあねえンだが」


 文三さんがぎごちなく指を折る。


「人に化ける。魂魄を移す。さわる」


 それから、横目でじろっとわたしを見据えた。


「あさみ。お前の髪の奉書と赤い水引き。あれは魔除けよ。瘴気しょうきは女に憑きやすい。俺がいるとどうしても集まってくるからな」


 すぐに顔を伏せて、文三さんが美月さんの顔を見下ろす。


「俺はさよの膝の上が好きだったから、さよに言った。俺はどうもしばらくくたばりそうにねえ。長生きするといろいろ不便だろうから、お前もちぃと手伝ってくれねえかってな。さよはびっくりしただろうな。でも、俺が一緒にいるってことで安心して。うん、と答えた」


「俺はさよの体を消して心だけにした。仮初かりそめの器にそれを入れて、夫婦のふりをした。そうして今まで、ずっと一緒に暮らしてきたのさ。さよを俺の隠れ蓑としてな」


 そ……んな。


「俺は思ったよ。さよは、いつか俺といることを辛く思うだろう。もう堪忍してくれ、と言うだろうと。だからその時は別れようと。成仏させてやろうと。けどな、さよは優しすぎた。俺のこんな仕打ちをずっと受け入れてきたンだ。だから、俺もそれに甘えてきた」


 ぐりっ。太い首を回して、文三さんがわたしたちを見回した。


「俺は人間じゃねえ。だからさよが何を考えているのか、何を望んでいるのか分からねえ。さよが別れ話を切り出さねえ限り、俺からこれで終わりにするたあ言えなかったのさ」


 やっと話が見えてきたけど……信じろって言う方が無理な話。でも文三さんは、わたしたちのとまどいや狼狽を思い遣ってはくれなかった。そのままつらっと話し続ける。


「だがな。さすがに俺も飽きてきた。もともと猫は飽きっぽいんだ。さよを誘った手前があるたあいえ、俺もよくここまで続けてきたと思う。猫としての暮らしも、三百年も続けりゃもう充分だ。けどよ、今度はどうやってくたばりゃいいのかが分かんねえンだ」


「そしたらよ、上の時照寺の生臭坊主が知ったような口を利いた。本来なら、あやかしは人の精気をすすって命を繋ぐ。だが、おれは猫又になってもただの猫のまま生きてきた。だから、人にあだすることはなかった。生きるためのかては普通の猫と変わらねえ。それなら、食わなきゃ死ねるだろってな」


「それもそうだと思って、しばらくメシを食わなかったんだが、いい塩梅になってきた。そろそろおさらばできるらしい。ただな。坊主が言うには、現世うつしよに心を残すなってことだ。またこっちに戻ってきちまうんだとよ。だから、こうしてみんながいる時に、ちぃと頼みごとをしとこうと思ってな」


 卓ちゃんが、こそっと聞いた。


「時照寺の坊主って、もしかして御堂さんのことですか?」


 文三さんは、御堂さんのことを容赦なく嘲った。


「はっはっはー。あの坊主、格好つけてるが本当に生臭でな。なんとか美月を口説こうと必死だったのよ。まあ、あんな禅問答みたいなやり取りで女を落とせるなら、誰も苦労せんわ」


 身も蓋もない。わたしたちもつられて苦笑しちゃった。でも、すぐに笑みを消し去った文三さんは、ぎいっと表情を引き締めた。


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