告別 一
九得が
「さて、準備するかな。さすがに、九得がいる前では出せなかったからな」
何をするんだろうと
「迫田さん、そういう趣味があったんですか?」
にやっと笑った迫田さんが、事も無げに答えた。
「俺の婆さんが、若い頃芸妓だったんだよ。その芸を、もう三十年くらいずっと習ってるんだ。婆さんは九十八だが、まだまだ元気だ。教えてもらえるうちは続けるつもりさ」
卓ちゃんがしきりに首を傾げてる。
「でも、九得の前でそれぇ出せなかったってのはどして……」
常識だと思うんだけど。わたしがフォロー。
「卓ちゃん、三味線に張る皮は猫、なの」
「ひょえー。そりゃあ……」
「まあ、今は犬の皮の方が多いよ。俺のは、婆さんの使ってたいいやつだから猫皮だけどな」
おお、こわ。迫田さんもよくやるなあ。
弦をぴんと張り、駒を回して調子を取りながら、迫田さんがぽつぽつと話をする。
「うちは代々禰宜の家系でね。八坂神社の末社のな。田舎の小さな神社にゃ宮司はいない。ちょっとした神事はうちが肩代わりする。だから、お祓いや化け物退治も仕事のうち、さ。文三さんの正体も、ずいぶん前から知ってる」
げげっ。ここにも訳の分かんない人が一人。
「ただね。九得には邪気を全く感じなかったんだ。美月さんに寄り添うようにして、本当にひっそり暮らしてきたんだろう。俺は、それを邪魔するつもりはなかったからな」
「それに、御堂さんも早くから九得の正体を知っていた。御堂さんは九得よりも一人で残されてしまう美月さんの方が心配だったんだ。だから、いろいろ相談に乗ったんだろ」
下を向いた迫田さんは、ほっと息をついて切なそうに呟いた。
「でも、俺らに出来ることは何もないんだよ。九得だけじゃなく、俺にも美月さんの心は見えないからな」
……うん。そうなんだよね。人の心を怖いくらい読み取る美月さん。でもわたしたちが美月さんから読み取れる心は、ほとんどなかったんだ。
「九得の話を聞くまで全く事情を知らなかったから、さて何か贈ろうと思っても何もない。ちょうど稽古の帰りで棹を持ってるから、唄を贈ることにしよう」
ぽん。ぽん。
「さよさんの時代にこの唄があったかどうかは分からないけど、美月さんの深い情けに感謝を込めて。
正座して背筋をぴんと伸ばした迫田さんが、三味線を構えて目を瞑った。ざわついていたわたしたちの感情の
びん。びびぃーん。
撥が弦を弾いた途端、そこはさよさんの水揚げの床に変わった。さよさんは髪を下ろし、緋色の襦袢を着て、火鉢の横に俯いて座っている。そうして、見知らぬ誰かが来るのをじっと待っている。燈台の薄暗い光が、心細げな横顔を照らし出す。緊張を解そうとするように、松風姐さんが襖の向こう側で三味を弾いている。美しい声が、淡い光にゆるゆると絡んで溶ける。
「主を思うてたもるもの、わしが心を推量しや、何の因果にこのように、いとしいものかさりとては」
「傾城に誠なしとは、わけ知らぬ、野暮の口からいきすぎの」
「たとえこの身は淡雪と、共に消ゆるもいとわぬが、この世の名残に今一度、逢いたい見たいとしゃくり上げ」
「狂気の如く心も乱れ、涙の雨に雪とけて、前後正体なかりけり」
迫田さんがことりと三味線を傍らに置くまで、誰も目を開けなかった。
さっき迫田さんが唄い出すまでは、九得の話を聞いても全然現実感がなかったんだ。美月さんがいなくなる? 死んでしまう? そんなのウソでしょ。信じられないよ。迫田さん以外は、みんな半信半疑だったと思う。だから軽口叩いたり、ちょっとだけ笑顔が出たり。まだ誰にも切迫感がなかったんだ。
でも今の迫田さんの唄は……情景が目の前に浮き立つほど切なかった。唄の内容は分からないけれど……それは間違いなく、旅立つ美月さんへの
ああ……美月さんは本当に行ってしまうんだ……。迫田さんの唄でそれを思い知らされたわたしたちは、悲しさのどん底に突き落とされた。さわちゃんが鼻をすすっている。ぐっちぃも、卓ちゃんも目から涙が溢れてる。わたしも涙で視界がぼやける。
臥せていた美月さんが、唄に呼び戻されたかのようにゆっくり眼を開いた。わずかに開いた口から、小さな声が漏れた。
「素晴らしい明烏ね。久しぶりに聞いたわ。迫田さん。本当にありがとう」
そうして、少し頭を横に傾けると迫田さんに尋ねた。
「九得は、
「うん。さっき、みんなに挨拶して去ったよ」
「私の時もそれほど残っていないわ。それまで……」
そう言うと、無理やり体を起こした。卓ちゃんが慌てて止めようとする。
「卓ちゃん、わたしの背中に布団をあてがって、そこに寄りかからせて。少しでも長く、みんなの顔を見ていたいの」
卓ちゃんが辛そうに顔を歪ませた。でも言われた通りに布団を丸めて二折りにし、美月さんの背もたれ代わりに調整した。
「ねえ」
美月さんが、
「ぐっちぃ。ねえ。もう一度月を見せてくれない?」
ぐっちぃは、涙の筋が残ったままの顔を美月さんに向けて、ぎごちなく笑顔を作った。
「美月さん。俺は同じネタは二回使わないんです。同じ夢を二回見ると、想いが褪せるでしょう?」
そうして、美月さんの両手を取った。
「俺が初めて半月に行った時。舞台でトチって、情けなくて泣いていた俺の涙を見て、美月さんは、月の雫、と言いました」
「俺のはそんな綺麗なもんじゃない。でも、すさんだ心を洗った泥水にも、月は映る。俺には、それがものすごく嬉しかった。美月さんの見せてくれた月を零すわけにはいきません。だから代わりに」
そう言ってぐっちぃが放した美月さんの手には、金杯が置かれていた。
「月を満たした雫です。ご賞味あれ」
最初に見た時には空だった杯に、いつの間にか酒が入っていた。
「なんで、でしょうね……。俺はこの日が別れになるなんて思ってなかったのに。こんなものを持ってきていました」
ぐっちぃが手にとって見せたのは、四合瓶の日本酒だった。
「福井の、常山酒造という酒蔵のお酒です。月の雫。香月華」
美月さんはゆっくり杯を口許に運ぶと、お酒をそっと飲み干した。
「おいしいわ。夢のようよ」
美月さんが、ぽろりと涙を零した。それはぐっちぃが見せた二度目の奇跡。
美月さんから杯を受け取ったぐっちぃは、それを胸のところに掲げて告げた。
「美月さん。俺はさよならは言いません。美月さんがしばらく眠られて、また月が恋しくなったら、きっとどこかでお会いできるでしょう。それまでは。こいつにメッセンジャーを頼むことにします」
ぐっちぃは、杯をくるりと指の間で裏返した。次の瞬間、金杯は金の折鶴に変わっていた。
「美月さん。もう一度手を出してください」
美月さんが両手を差し出すと、ぐっちぃはその上に折鶴を落とした。でも、美月さんの手の上にはそれは届かなかった。折鶴は……いつの間にか消えていた。
「約束ですから、ね?」
美月さんは、ふっと笑った。
「ずるいわね」
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