第六章
昇月 一
美月さんが……旅立った。
わたしだけでなく。誰もが言葉を失ったままへたり込んでいた。
目を赤くしてじっと俯いていた迫田さんが、ずずっと鼻を鳴らしてやおら立ち上がった。
「美月さんの喪を……仕切る。あとは俺に任せてくれ」
迫田さんは、座ったままだった美月さんの
最期に美月さんが呟いた言葉。それがまだ耳の奥で響いているのに、時はわたしたちを待ってはくれない。ほんの一時すら。
ぐっちぃとさわちゃんは、押し黙ったまま支え合うようにしてタクシーで帰った。迫田さんも、気を落とさないようにね、明日また来るからと言い残してタクシーに乗った。
残されたわたしは……何も出来なかった。失ったものを振り返ることも、自分の行き先を考えることも出来なかった。突然砕け散ってしまった半月。あまりにも急な別れに、わたしはただ呆然としていた。
まだ残っていた卓ちゃんは、さっきから口を真一文字に結んで、恐い顔をしている。
「卓ちゃんも帰ったら?」
「そんなことは出来ねーよ」
「なんで?」
「もう美月さんがいねーことは分かってる。でも、オレにはもう一つ無くしちまうもんがあるから。それを見ておきたいんだ。今夜くらいは」
虚無感に囚われてぼんやりしていたわたしは、その言葉ではっと我に返った。
「それは、なに?」
「半月の
卓ちゃんは、立ち上がって店舗に降りた。店の灯りを点けると、いつものようにエプロンをつけて流しの前に立ち、両手を腰に当ててじっと俯いた。わたしも誘われるように、サンダルを履いて店に出る。そして、卓ちゃんの横に立った。
薄暗い店の中に、卓ちゃんの押し殺した声が響いた。
「ここで。オレの時が動き出した」
流しの蛇口をひねってざあっと水を流した卓ちゃんは、その水流に両手を突っ込んでざぶざぶと洗った。これから料理に取りかかるみたいに。
きゅっきゅっ。蛇口が鳴きながら閉ざされ、水音が絶えて店内に静寂が戻る。
乾いたハンドタオルで手を丁寧に拭いた卓ちゃんは、使い込まれたまな板と包丁をシンクの横に丁寧に並べて……じっと見下ろした。
「親父の背中に憧れて、でもずっと諦めていた、近くて遠かった板場。それは、自分の見えなかった半分に隠れてた。でも半月で、それは見える側に来たンだ」
「料理を作る。食べてもらう。それを旨いと言ってもらう。笑顔になってもらう。すごくタンジュンな喜び。それを想って、オレの全てを注ぐ場所」
ぎゅうっと拳を握り締める卓ちゃん。
「ここの板場は……オレが本心に気付くチャンスをくれた。美月さんには何万回ありがとうを言っても足んねーよ。けどな。美月さんがくれたのはチャンスだけじゃねーんだ。美月さんは……最初から全力でオレをど突いてたンだ」
「え?」
美月さん、卓ちゃんにそんなきついこと……言ったっけ?
「いっちゃん最初に言われたンだよ。月の住人には、月の美しさが分からないって」
あ……そう言えば。
「うん。わたしも覚えてる」
「あん時オレは、美月さんに褒められたと思ってたンだ。本当に腕のいい人は、自分の価値に気付かない……そういう意味だと思ってさ」
ぎりっ。強く歯を噛み鳴らした卓ちゃんが、さっと顔を上げ、声を荒げて自分自身を思い切りどやしつけた。
「違うだろがあっ!!」
「……」
「違う。誰もがおいしいって喜ぶ料理をめざすんなら、自分が月に居ちゃあダメだ。月の住人になっちゃって慣れや惰性で料理と向き合っちゃあダメだ。オレを……がっつり叱ったんだ。オレの思い上がりをどやした、すっごく強い警告だったンだ!」
俯いた卓ちゃんは、洗い場の両端を固く握り締めて大声で怒鳴った。
「だから。オレはこの板場を絶対に忘れねー! これから先、どんなことがあっても!」
目をかっと見開いたまま、じっと俯き続ける卓ちゃん。その背中が見せているのは悲しみではなく、強い決意だった。美月さんがくれたチャンスと厳しい警告を一片たりとも無駄にするものか、何があっても自分の未来に活かすんだっていう、痛いくらいの決意だった。
わたしは思い出す。卓ちゃんと筆談した時に、卓ちゃんが言ったコトバ。
『オレたちは、本当の意味で前を向いてねー』
そうだ。卓ちゃんはたった今、本当に前を向いたんだ。自分は料理で生きる。料理で自分を生かす。料理を通して怖れずに人と向き合い、ココロを通い合わせる。そう決心したんだ。
卓ちゃんはもう、美月さんを失ったことに自分を縛り付けてない。その悲しさすら、前へ進むチカラにしようとしてる。
わたしは絶句しちゃった。うわあ……卓ちゃん。すごい。すごいなあ。
わたしは、美月さんの遺してくれた縁に深く深く感謝した。わたしは卓ちゃんにぐんぐん惹かれてく。からからに渇いてひび割れていた心を潤す水のように、卓ちゃんがわたしを満たしていく。それはとても心地いい。どきどきする。わたしの今までの人生にはなかった、ものすごい喜び。
卓ちゃんは大きい。悲しみや苦悩を、前向きにどんどん乗り越えていく。まるで魔法のように。そして、もっともっと大きくなっていく。
そうよね。わたしも負けたくない。悲しみになんか……負けたくない。せっかく外すことができた鍵を、また自分にかけたくない。二度と。もう二度と! かけたくない。
卓ちゃんは、今ここにいる。わたしの想いの出口はすぐ目の前にある。だから。わたしはがんばろう。素直に心を開いて、卓ちゃんにせいいっぱい想いを伝えよう。好きです、と。わたしが、いつも卓ちゃんを支えられるように。そして、わたしもいつも卓ちゃんに支えてもらえるように。ずっとずっと側にいたいって。
美月さん。それが……わたしにとって、本当の意味での前を向くってことだと思います。
ありがとう、美月さん。今はまだ、あなたを失ったことがどうしようもなく悲しいけど……。でもわたしもね、卓ちゃんに負けずに必ずこの悲しみを乗り越えます。それが、わたしにできる最初の恩返しだから。
繰り返し押し寄せる悲しさは、もう出ないはずの涙を絞って床に落とした。でも卓ちゃんは、そんなわたしに目を向けることはなかった。
自分への怒り、強い決意、美月さんと半月を失った悲しさ。卓ちゃんは、ごた混ぜになった激しい感情をこれから料理するんだと言わんばかりに、身じろぎもせずまな板の上を睨みつけていた。わたしは、そんな卓ちゃんをじっと見つめ続けた。
卓ちゃんと、そしてわたしの心の下ごしらえ。それが終わるまで……ずっと。
◇ ◇ ◇
長い長い夜。美月さんの亡骸の横で、卓ちゃんは板場を、わたしは卓ちゃんの方を向いたまま、ずっとうとうとしていた。明け方、お店の扉の隙間に新聞がねじ込まれるきしっという音が聞こえて、目が覚めた。
「ん……」
単なる抜け殻だと分かっていても、まるで眠っているかのような美月さんの顔を見たくなくて、そっと居間を抜け出す。半月の扉の鍵を開けて表に出たら、扉のすぐ横にぼろ雑巾のように干からびた猫の死骸が落ちていた。
「く……のえ……」
ああ……九得は。さよさんを突き放してなお、その行く末を最後まで案じていたんだろう。側に寄り添っていたかったんだろう。そのどこまでも一途な想いに……わたしは胸が詰まった。でも、約束は約束だ。九得を弔うことは出来ない。
わたしは。ちり取りに掃き入れた死骸を、誰からも見えないよう植え込みの株元にそっと隠した。
ねえ、九得。約束だもん。わたしは祈らないよ。もう何も考えないで、ゆっくり眠ってね。
「あーふ……」
眩しそうに目を擦りながら、卓ちゃんも店から出てきた。
「おはよ、卓ちゃん」
「ん……」
今。
わたしは卓ちゃんと二人並んで、色褪せた朝の月を見上げている。
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