第3夜 彼女とセーター --3
フェンスの穴についてもそうだが、空雄はどうやってここに忍び込むかを事前に考え下調べをしていたようだ。彼は迷うことなく校舎の周りをぐるりと歩き、正面に回ると左から三番目の教室の窓を開ける。あまりにあっさり開いてしまったので、見ていた千恵はまさか施錠されていないのだろうかと訝しんだ。だが夕暮れの中でもよく目を凝らせば他の窓にしっかり鍵がかけられているのが分かる。フェンスや校門で囲まれているとはいえ、不審者の侵入を防ぐためには当然だ。ではなぜこのように目につくところに鍵のかけ忘れがあるのか。
千恵がそう思って窓を見上げていると、空雄はしゃがんで足下に転がっていたバケツをひっくり返した。中にたまっていた雨水がこぼれコンクリートの地面の色を変えていく。彼はそれを窓のすぐ下に逆さにして置き、壁に手をついて体を支えながら両足を乗せた。そうして開いた窓の桟に手をかけ、「よいしょっ」と声をかけよじ登る。右足をかけ、左足も桟の上にかけ、身軽に教室の中へと飛び降りる。千恵はそれを見て困惑した。彼女にはとてもあんな芸当はできない。空雄でもバケツによって身長を水増ししなければならなかったのだ。
「ちょっと手、貸してくれるかな」
空雄はすぐに振り向いて、窓からひょいと身を乗り出した。千恵がよく分からないままに頷くと彼はまた教室の中に戻り、次に姿を現したときには机を一つ持ち上げていた。それを下ろすというのだろう。小学生の机としては大きい方だが、それほど重いものではない。千恵は手を伸ばしてゆっくりと降りてくる机の脚を掴む。机が千恵の胸ぐらいの高さまで下りると空雄の手が離れた。
「それ、下に置いて、踏み台にして」
ひとまず机を脇に置くと、バケツをどけてその場所に机を置く。コンクリートの地面がわずかに傾いているため少し不安定な感じがするが、どうにか千恵にも登れそうである。壁に右手をついて、左手はしっかりと机の端を掴むようにして、彼女は机の上に乗った。乗ってしまってから、土足であることを思い出して若干の罪悪感を感じたが、どうせもう使われることのない机なのだから気にしないことにした。
そこから空雄の手を借りて教室の中に入る。空雄は窓を閉め、鍵もかけてしまった。出るときは入るときとは違って、内側から開けられる鍵ならばどこからでも出られるのだ。彼は独り言のようにそんなことを言って、でも机はさすがに後で戻しておかなくちゃね、と笑った。
教室の中は彼女が想像していたよりもずっときれいな状態だった。床はほこりっぽくなっているけれども、机や椅子はきちんと整頓されているし、大きなゴミも目につかない。廊下に出ても同じだ。たとえば鉛筆や黒板消しなどの細かいものは落ちておらず、動かせる棚などは隅にまとめられている。大掃除をするために邪魔なものを全てどけた後のような状態だ。
二人は四階を目指して校舎の中を歩きだした。もう窓から差し込む光は暗くなりかけていたが、学校の造りなどどこでも同じようなもので、階段はすぐに見つけることができた。踊り場のところの窓はステンドグラス風のカラフルなガラスでできていて、夕日に照らされどこか寂しそうに輝いている。千恵は階段を上りながら、ちらちらと後ろを振り返ってその窓を見た。何かの模様が作られているように見えるのだが、ちらりと見ただけでは何なのか分からないのだ。階段を上りきって四階に到着すると、空雄は千恵を振り返ってステンドグラスを指さした。
「きれいだろ、これ。ここを建てるときに、なんとかさんっていう結構有名な芸術家に作ってもらったんだってさ。何度か聞かされたけど、名前は忘れちゃったなあ。小学生だったから仕方ないんだけどさ」
夕日の中で見ているため色は正確でないかもしれないが、全体的に赤と黄色を多く使用している。模様は丸を描いていたり、波線がいくつもあったりといまいち何を表しているのかよく分からない。千恵の心中を読みとった彼は苦笑して続けた。
「外からじゃないと全体が見えないんだ。こっちからだと分かりにくいんだけど・・・・・・いや、外から見ても分かんなかったな、確か。俺にはどうも芸術が分からなくてさ。その芸術家さんは、このステンドグラスに子供たちの心の平和と健やかな成長を表現したらしいよ。遠くから全体を見ると、確かに子供が描かれているように見えなくもないんだ」
「……そう」
千恵は小さく頷いて、しばらくステンドグラスを眺めていた。空雄はそれ以上何も言わず一人で先にぶらぶらと廊下を歩いていってしまう。彼はここの卒業生だと言っていたので、いろいろな思い出を懐かしんでいるのかもしれない。しばらくして彼女は彼の後を追うようにきびすを返した。
廊下に立った千恵はぴたりと足を止めた。窓から西日が差し込んで辺りを赤く染めている。夕方の、学校の、四階の、廊下。今日見た夢と同じだ。彼女は一番手前のドアを思いきりがらりと引き開けた。何の変哲もない普通の教室が目の前に広がる。もちろん薄暗い教室の中には誰もいない。窓は全て閉まっていてカーテンは取り外されている。遠くで聞こえる空雄の足音以外には何も聞こえない。彼女はゆっくりとグラウンドに面した窓の方へ歩いていった。ここは小学校なので、夢に出てきた学校や彼女が今通っている高校よりも窓の位置が少し低い。落下防止に一本だけついている手すりに手をやり、彼女は鍵をはずして窓を開けた。時の止まったような教室の中に風がふわりと舞い込む。うっすらと積もっていたほこりがそれに巻き上げられ、彼女は思わず足を引いて服に付いたほこりをはたき落とした。
手すりの上から身を乗り出すようにして下を覗きこむ。夕日に照らされた学校の大きな影がグラウンドに多いかぶさっていて、千恵の視線の下はかなり暗い。だが静まり返った校舎の壁と、冷たいアスファルトの地面が見えた。校舎に沿って花壇の跡らしきものが残っている。わざわざ花を掘り返しはしなかったようだが、雑草が伸び放題で荒れ果てている。視線を少し横に動かせば、先程ここに忍び込むために使ったバケツと机も見えた。かすかな風の音以外に何の音もしない、動くものは何もない、ここは静かな世界だった。千恵の目頭が熱くなる。彼女はぴくりとも動かずにアスファルトを見つめていたが、内心では驚きうろたえていた。視界がにじみ喉が震える。そんなことは久々だった。彼女は嗚咽を漏らすまいと唇を噛み手すりを強く握る。だが涙だけは止めることができなかった。頬をつたった涙が手すりの上にぽたぽたと落ちる。
「ここはオッケーなんだね」
いつの間に入ってきたのか、背後から空雄の声が聞こえた。千恵は振り返ることも頷くこともせずに全神経を背後に集中させる。彼がゆっくり彼女の方へ歩いてくるのが分かった。近付くなと言いたいが、今は口を開くことができない。一歩一歩彼が近付いてくる。
「……もう、日が沈む」
空雄は千恵の隣に並ぶと、隣の窓を同じように開け、手すりにもたれかかって空を見上げた。
「空って好きなんだ。だから、自分の名前に空って字が入ってるのは嬉しいんだけど、でも読み方が「あき」っていうのが嫌なんだよね。空き缶とか、空き瓶とかの「あき」だから、なんか自分がからっぽになったみたいで。だからみんなにソラって呼んでもらうんだけど。……ふ、ごめんごめん、どうでもいいよなこんなこと」
彼は一人で喋って一人で笑う。千恵はうつむいて未だに涙を落としていたが、意を決して顔を上げた。
「なんで……」
まっすぐに見た空雄の顔は思いの外真剣な表情でいた。
「なんで、あなたは、何も聞こうとしないのよ」
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