第3夜 彼女とセーター --4
「なんで何も聞こうとしないのよ。あなた変だわ。周りの人はみんな、心配っていう名目で好奇心を満たそうとするのに」
叩きつけるような口調でそう言いながら、千恵は空雄を見ていられなくなり視線を床に落とす。
「みんな、自分が知りたいからって私に、言いたくないことを何度も何度も言わせるのに。どうしてあなたは何も聞かないのよ。あなたは私の名前しか知らないじゃない。何がしたいの。どうして私に近付いてくるの」
「俺は、名前以外にも、千恵ちゃんのことを知ってるよ」
まくし立てる彼女が息を切った瞬間に、空雄の穏やかな声が二人の間にすべりこんだ。彼女の体がびくりと震え言葉が途絶える。
「高校生で、女の子だ。制服を着崩したりはしていないし、カバンもちゃんと学生らしいものを使ってるから、学校ではどちらかというと真面目な方。ショートカットが似合っていて、部活動はテニス部。でも最近はちょっとさぼりがちである。その理由はたった今君が言った通りだ」
千恵が驚いて顔を上げた。空雄は少し笑って彼女のカバンを指さす。
「テニス部っていうのは、そのカバンのポケットに入ってる携帯だよ。ストラップにテニスのラケットとボールがついてるから、そうかなと思っただけ」
彼女の携帯電話のストラップには、フェルトで不器用に手作りしたマスコットがついていたのだ。彼女の緊張がゆるむのを見て、空雄は近くの机の椅子を引く。あまりほこりは積もっていないが、一応手でぱっぱっと払ってから窓に向いて横座りに座る。
「なんにも聞かないのは、多分聞いてもどうしようもないからだよ。俺はきっと君の気持ちがわからないから」
そこまで言うと、空雄は一呼吸置いて千恵から目を逸らし、赤い空を見上げてこぼした。
「俺は捨て子なんだ」
「え……」
思わず出してしまった声をごまかすように、千恵は右手の指で口のまわりを撫でる。
「生まれてからずっと俺には家族がいなかった。だから、なくしたらどんな気持ちかなんて、わからないよ」
「なんで……」
なんで知ってるの、と千恵は口の中で呟いた。声に出してしまえば、空雄の言ったことを認めてしまうことになる。彼女にとって、たとえ自分の声であっても、それは聞きたくないことだった。
「なんで」としか言わなかったせいで、空雄は彼女の言いたかったことを誤解したようだった。少しきょとんとして肩をすくめる。
「なんでって言われても。自分で体験したことがないから、想像はついても本当のところはわからないよ。そもそも人間は、他人の気持ちなんて本当にはわからないだろ? そりゃ俺だって、たとえば自分の親兄弟に不幸があったら悲しいだろうと思うよ。千恵ちゃんだって、生まれてすぐの自分が橋の下に捨てられてたって知ったら傷つくだろうなって思うでしょ。でも現実に自分の身に起こったら、悲しいとか傷つくとかそういうレベルの問題じゃない。それは実際に体験しないと絶対にわからない」
穏やかな声だったが、どこか力がこもっていた。千恵は無意識に後ずさろうとするが、窓の手すりに背中がぴったりついてしまっていてそれ以上後ろに下がることができない。目尻から残っていた涙がまた一滴頬をつたって制服の上に落ちた。空雄は夕焼け空から千恵の方に一瞬だけ目を向け、うつむく。いたずらに指を動かしながら、独り言のようにぼそりと続けた。
「何が君のためになるのかわからないから、何も聞けないし何も言えないんだ。でも、だからって放ってはおけないんだよ。ずっと考えてるんだ」
しばらく、二人は時が止まったように動かなかった。開いた窓から風が吹き込み二人の髪を揺らす。もう太陽はほとんど沈んでしまった。東の空から夜がやってきて、町を静かな闇が包む。千恵は両腕で自分の体を抱きしめて震えた。夜は一段と彼女を凍えさせるのだ。彼女はゆっくりと足を滑らし空雄に背を向けた。開いた窓の手すりによりかかり、体を大きく空中に乗り出す。彼女が動いたのにつられて顔を上げた空雄が反射的に立ち上がるが、彼女が動きを止めたので彼もその場で立ち尽くした。また、風が吹く。その音に混じって千恵の声が聞こえた気がして、彼は数度瞬いて耳を澄ました。
「……わか……ないよ……」
千恵は声を押し殺して泣いていた。堪えきれない嗚咽に混じって途切れ途切れの言葉が聞こえる。
「同じ場所に、立ってるのに……あの子が……あのとき、なんて、思ったのかって……」
空雄が戸惑いがちに口を開き、また閉じる。彼は千恵の震える背中をしばらく見つめて目を伏せた。
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