第3夜 彼女とセーター --2
階段を一階から屋上まで走りきるとすっかり息が上がってしまった。千恵は肩で息をしながら屋上のドアを開け、早足でまっすぐフェンスに向かう。今日は乗り越えることはしなかった。両手を乱暴に叩きつけるとガシャンと大きな音がする。彼女はしばらくうつむいて、絞り出すように呟いた。
「ここじゃ、ダメ……」
「じゃあどこならオッケーなの?」
空雄が音もなく彼女の後ろに立っていた。手負いの獣のような目で振り返った彼女は、後ろに下がろうとしてすぐにフェンスにぶつかる。彼は右手にスーパーのビニール袋を提げ、左手に千恵のカバンを提げていた。きょとんとした顔で千恵を見ている。
千恵が答えずにいると、彼は近付いてきてフェンスの向こうをのぞくようにした。
「ここはダメなんだね。それは、ここが四階じゃないから?」
彼の黒い瞳は静かに目の前の中空を見つめている。彼女はうなずき、何かを言わなければならないような気がしてわずかに口を開いたが、出てきたのは本人の耳にも届かないほど小さな呻き声だった。
「四階も人が住んでるから、入るのは無理だね。だけど」
彼は顔だけを彼女の方に向けた。
「このあたりは少子化が進んでてさ、何年か前に二つの小学校が合併したんだ。人数の少なかった方が廃校になった。それで、その廃校になった小学校が四階建てなんだ。どうかな」
「どう、って」
「行ってみない? ってこと」
千恵は改めて体ごと彼に向き直った。彼が優しく笑い、彼女は表情を固くして視線を落とす。彼の右手はまだスーパーの袋を提げていた。袋の中からはカレールーのパッケージと肉のトレイが見える。トレイには黄色と赤で「特売」と書かれたシールが貼り付けられていた。
カレーか、と思った瞬間、千恵の脳内を電流が灼いた。脳裏に誰かの笑顔が浮かぶ。明るいダイニングで家族四人がテーブルについている。今日あったことを子供たちが嬉しそうに話す。父親はにこにこと笑ってそれを聞いているが、母親は早く食べないと冷めちゃうわよと苦笑する。
千恵は悲鳴を上げないように歯を喰いしばってしゃがみ込んだ。自分を抱きしめるように両腕を掴んだ指が肌に食い込む。空雄が慌てているのが気配で分かった。
「千恵ちゃ」
「行く!」
彼に最後まで喋らせないように、彼女は精一杯の声を出した。
「でも」
「行くから! だから……つれてって……」
尻すぼみになった言葉に返事はない。寒くてたまらない。凍えそうだ。先生も級友もみんな、今が五月であるような風を装っているけれども、彼女にとっては今は一月なのだ。冬の制服にセーターだけでは寒い。屋内ではまだ我慢できても、この屋上の風に吹かれているのは辛すぎる。本当ならばコートを着たいところだが、そうするとなぜか道行く人々にやたらと注目されるため、耐えるしかないのだった。
「……分かったよ。案内するけど、立てる?」
しばらく間を置いて返ってきた返事にこくこくとうなずいて、体中の筋肉が強張っているのを感じながら顔を上げる。空雄は少し屈んで彼女に手を差し出していた。彼女は迷ったが、恐る恐る手を伸ばして彼の手をそっと握る。自分の冷たさが申し訳なくなるほどに彼の手は温かい。いや、むしろ熱いというべきか。冷えきった彼女とはかなりの温度差だった。
小学校にたどり着くまでには、ぐねぐねと曲がりくねった複雑な道を歩かなければならなかった。昔からある道なのだろう、アスファルトにはつぎはぎをしたように凹凸ができている。道は細く、古びた民家がごちゃごちゃとひしめき合って建っている。たまに明らかに無人と分かるような荒れ果てた家もあったが、大部分の家には人の気配がした。台所からのいい匂いがただよってきたり、道ばたで小学生の子供たちが集まって遊んでいたりする。千恵は空雄と手をつないで、できるだけ何も考えないようにしながらじっと下を見て歩いていた。耳に入ってくる子供の声が明るければ明るいほど、自分が暗く沈んでいくような気がするのだ。
空雄は「案内する」と言ったきり一言も喋らない。屋上から下に降りる途中で自分たちの部屋によってカレーの材料が入ったビニール袋を台所に置く。それから家を出て鍵をかけ、当然のように千恵の手を握り、以前に駅へと連れていってもらったときとは違う方向へ歩き出す。終始無言だった。彼は陽気でおしゃべりな人間であるはずだが、沈黙しているからといって怒っているとか機嫌を損ねたとかいう感じはまったくしない。ただ、何を考えているのかは分からなかった。千恵はつないだ右手に神経を集中させながら歩く。千恵の冷たい手とずっと触れ合っているので、空雄の手はとっくに冷えていておかしくないのだが、いつまでたっても温かいままである。むしろ、千恵の手の方が少し温まってきていた。
角を曲がると左側の視界が開けた。千恵はほんの少しだけ視線を上げる。千恵の身長の二倍ぐらいの高さのフェンスの向こうには、ごちゃごちゃした古い町並みの中に窮屈そうに押し込まれた小学校が見えた。グラウンドはそれほど広くはなく、校舎もあまりスペースがとれなかったのか、学校にしてはやけに縦長に見える。それで四階建てになっているのかと彼女は納得した。空雄は何も言わないまま、フェンスに沿って校舎の方へずんずん歩いていく。彼女はぼんやり校舎を眺めながら、まさかこのフェンスをよじ登って侵入しろと言われるのだろうか、などと考えていた。フェンスそのものは頑張れば千恵にも登れそうではあるのだが、一番上に真新しい有刺鉄線が張られている。廃校となれば、千恵たちのように忍び込んでみたいと考える人間が出てくるだろう。それを防ぐために取りつけられたのだろうか。
学校の周りをぐるりと回って校舎の後ろにきた。先程までの道路から、舗装されていない雑草だらけの細い道に入る。そこは小さな林のようになっていて、手入れをされていない木が何本も空に枝を伸ばしていた。もちろん街灯などなく、夕暮れ時の今はかなり薄暗くどこか不気味な雰囲気をかもしだしている。反対側のフェンスの向こうの校舎も同様で、今見えているのは職員室か何かだろうか、普通の学校ならこの時間には窓から明かりが漏れていて教師が仕事をしている様子がかいま見れるものだ。無人の校舎は真っ暗で、いかにも「出そう」な感じである。
「さて」
給食室の近くの搬入口が見える辺りで空雄は足を止めた。ここのフェンスは他のところに比べて劣化がひどく、錆びてたわんでいる。よく見ると、穴が空いているようだ。だが人間が通れるような大きさではない。
「結構、怖そうな感じだね。どうしよっか」
「……どこから入るの」
「ん? ああ、この穴からだよ。これね、パッと見ただけだと通れなそうなんだけど、実はボロボロになっちゃってるから簡単に広げられるんだ」
空雄はそう言いながらフェンスのたわんだ部分に足をかけ、両手で穴の空いた部分を押し広げるようにした。するとフェンスは大きくぐにゃりと歪み、なんとか人間一人が通れるぐらいの大きさになった。
「夜の学校って不気味だよね。まあ、だからといってさすがに昼間に忍び込むわけにはいかないんだけど。どうする? 千恵ちゃん。怖いなら無理しなくていいんだよ。行きたいならちゃんと四階まで連れていってあげるし。俺、ここの卒業生だからさ、校舎の案内もちゃんとできるよ」
フェンスを押さえつけた格好のままこちらを向く空雄に、千恵は黙って頷いて見せた。
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