第3夜 彼女とセーター

 まだ五月だというのに日差しはまるで夏のように強い。昼休みの校庭では、一足早く冬服のブレザーを脱いだ生徒たちがのびのびと走り回っている。ゴールデンウィークがあけたばかりなので、登下校の際にはブレザーがまだ必要なのだが、休み時間や授業中にわざわざそれを注意するような教師はいない。学校には一気に白があふれていた。

 暑いのは生徒ばかりでなく教師も同じである。職員室の窓は書類が飛ばない程度に開け放たれており、教師たちはスーツの上着を脱いでシャツの袖をまくり汗を流していた。中でも暑そうにしているのが三十代半ばの男性教師である。彼は千恵のクラスの担任で、最近少しおなかまわりについた肉が気になる以外に特に悩みらしいものはない、明るく呑気な性格をしている。妻とも仲がよく子供は可愛い盛り、生徒たちにも慕われている彼が唯一頭を悩ませているのが、職員室の片隅で青白い顔をして椅子に腰掛けている女子生徒のことだった。

「なあ須崎、もうゴールデンウィークも終わったんだぞ。今日なんか最高気温が二十五度もあるんだ。お前だって暑いだろう?」

 女子生徒、千恵はうつむいて床の一点を見つめたまま微動だにしない。彼女は今朝もいつも通りブレザーの下にセーターを着込んで登校したのだが、さすがに担任に見咎められてしまい脱がされてしまったのだった。向かい合った担任教師は困惑の色を深くして腕組みをする。

「まだな、四月にセーターを着たいっていうなら、まあ分かるんだよ。駄目だけどな。でもこんなに暑くなってまでセーターがいるっていうのは、先生ちょっと分からんなあ」

 担任は言葉を切って、沈黙を守る千恵をじっと見る。彼が彼女の担任になったのは今年の四月からだが、一ヶ月が経った今も彼女の声を一度も聞いたことがない。それどころかなにかの表情を浮かべたことすらない。最初は自閉症かなにかだろうかと思ったのだが、一年生のときのクラスメイトの話では、去年の一月頃まではとても元気で普通の子だったらしい。それならば理由はわかっている。おそらく家庭の事情だ。だが彼はあまり彼女の家庭の状況がどのようなものかを把握していなかった。自宅の電話にどれだけ電話をかけてもつながることはない。仕方なく緊急連絡先に記載されていた父親の携帯電話にかけたところ、二回目にしてようやくつながったが、相手は非常に迷惑そうでまともに話を聞いてもくれなかったのだ。

「本当にそこまで寒いって言うなら、いっぺん病院に行ってこい。顔色も悪いし、どこか悪いところがあるかもしらんからな」

「勝木先生、お電話ですよー」

「あ、はーい。須崎、もう戻っていいぞ」

 隣の席の女性教師に呼ばれて彼は立ち上がる。千恵は黙って会釈し、担任が背を向けて自分の机の方へ歩いていくのを見送ってから立ち上がった。

「どうも、お電話代わりました、勝木です」

 彼は電話を取って明るい口調で話し始める。どこか解放感を感じていることは否定できない。もちろん彼にも自分のクラスの生徒を心配する気持ちはあるが、彼はあくまでただの教師であって心理カウンセラーではないのだ。悩みを打ち明けて相談してくるならともかく、何も話そうとしてくれないこの生徒を正直もてあまし気味でいたのだった。

 だから、背後で女性教師の悲鳴のような声が上がったとき、彼は内心で頭を抱えたい気分になった。


「須崎さん!」

 一瞬、千恵には何がどうなったのか分からなかった。視界が真っ白になって、次にワックスのかかった床が映り、かじかんでほとんど感覚のなくなりかけた両手をそこについている。寒さのあまり吐き気がした。自分が職員室の床の上で四つん這いになった状態だと分かったのは、周りに集まってきた教師たちに助け起こされるときだった。

「すごく冷えてるじゃないの、大丈夫!?」

「須崎、立てるか? とりあえず保健室に行くぞ」

 一番近くにいた女性教師の肩をかりて、千恵は震える足をなんとか動かして保健室へ歩く。それからはされるがままだった。朝一番に脱がされたセーターを着ることを許され、温かいお茶を与えられ、冬用の毛布を出してきたベッドに押し込まれた。半日ですっかり体力を消耗してしまった千恵の瞼はすぐに重くなる。ついてきた担任と保健医がなにやら深刻そうに話し合うのが遠くに聞こえたが、何と言っているのかは聞き取れず、そのうち彼女は眠りに落ちた。



 彼女は薄暗い病院の廊下に立っていた。廊下の両側にドアがあり、窓がないので外を見ることはできない。廊下の突き当たりに小さな窓が一つあるが、果たして外に通じているのかどうか、墨で塗ったように真っ黒である。彼女は廊下をゆっくりと進んでいく。誰もいない。物音もしない。ここは四階だと彼女は思った。果てしなく長い廊下をただ歩く。彼女は何かを探していた。走り出す。早く見つけなければいけない。早く。早く。

 廊下をいくら走ってもどこにもたどり着かない。彼女はドアを開けることにした。足を止める。目の前のドアを見つめる。ドアノブに手を伸ばすが、伸ばした先にあったのはドアではなく引き戸だった。そこは病院ではなく学校の廊下だ。背後から夕日が赤い光を投げかけ、彼女の影が引き戸の上に黒く映る。いつの間にか世界は色を持った。ざわめきが遠くに聞こえる。廊下にはやはり誰もいなかったが、引き戸の向こうには人の気配があった。探しものはここだ。彼女は教室の中に入ってはいけないと思った。探しものはここにあるのだ。だから見つけてはいけない。逃げなくてはいけない。だが彼女は引き戸を開けた。

 教室の中には黒い学生服を着た四人ほどの少年がいた。教室の前の方で三人は窓の方を向いて笑っている。残る一人の少年は窓際に追いつめられていた。表情は見えない。彼女はその場で動かずにただ彼らを見守った。彼らの間にただよう雰囲気は穏やかとは言い難いものだ。激しい声を張り上げてなにかを言っているが聞き取れない。彼らの顔に浮かぶのは怒りか、それとも侮蔑か。彼女は動けなくなる。やめてと叫びたいのに声が出ない。

 三人の少年が手を伸ばし、窓際の一人の肩を小突き始めた。彼は弱々しく抵抗する。たとえ助けを呼ぶ声をあげたところで、それを聞きつけて助けにきてくれる人が近くにいないと彼は知っていた。また、肩を押される。そのとき、彼女は自分がその窓際の少年になっていることに気付いた。腰のところに窓枠がぶつかる。向かい合っているはずなのに顔が見えない三人が近付いてくる。嫌な予感がした。だがそれを感じたのが少年なのか彼女なのかわからない。あるいは双方なのか。

「やめろよ!」

 少年はやっと声を上げ、掴まれた腕を振りほどいた。その直後、体が心もとない浮遊間に包まれる。少年たちが彼の足を持ち上げたのだ。彼は必死に窓枠にしがみつき、足をばたつかせて少年たちから逃れようとするが、バランスを崩しそうになり動きを止める。

「やめ……」

 声が震えた。少年たちから目をそらし、恐る恐る下に広がる景色を見やる。真下にあるのは固いアスファルトだ。窓枠を掴む手ががくがくと震えるにしたがって彼の体が不安定に揺れる。これは冗談ではすまないと彼が思ったとき、少年の一人が彼の肩を優しくとん、と押した。



 千恵はベッドの中で一度びくりと大きく震え、目を覚ました。少し荒い呼吸を何度か繰り返し、落ち着いてからゆっくり辺りを見渡す。保健室には誰もいないようだ。ベッド回りのカーテンを引いて時計を見る。午後の四時半、もう授業は終わり部活動の時間だ。昼休みからずっと眠り続けていたらしい。髪を手櫛で整えながらベッドから起き上がると、ベッドの横には彼女の内履きがきちんと揃えて置かれていた。カバンもある。

 彼女は寒さに身を縮めながら、五月の日差しの中保健室から逃げ出した。

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