第2夜 屋上の失望 --2
屋上に出ると、ちょうど空が綺麗に赤く染まったところだった。他の背の高い建物に遮られているため夕陽を見ることはできない。千恵はカバンを床に下ろし、今度はまっすぐ横の短いフェンスの方へ向かった。うっかり足を踏み外さないよう十分に注意して外壁の上に立ち、フェンスにすがりつきながらアパートの前面の方へ向かう。角を曲がるときにちらりと眩しい光が目を灼いた。足を止めて右手で目をかばいながら顔を上げると、ちょうど建物のあいだから、真っ赤な太陽がほんの少しだけ顔をのぞかせていたのだった。
千恵は太陽から顔をそむけて、玄関の真上ぐらいになるように足を進めた。上から見ても植木の影になってしまって見えないだろうと思いながらも、下を覗き込んで伊織の姿を探してみる。案の定分からない。玄関のところでぱっと見ただけではそれほどたくさんあるとは思わなかった植木も、上から見ていると意外に広い面積に植わっていた。伊織は奥の方まで潜りこんでいたようだから、今どの辺りにいるのかということはとても分かりそうにない。千恵は一度上体を引っ込めた。強い風にあおられて髪やスカートがはためく。フェンスにしがみつきながらしゃがみこんでそれをやり過ごし、風がおさまってからゆっくりと床に腰を下ろした。直接お尻をつけてしまうと高さもそれほど怖いものではなくなる。彼女は恐る恐る、両足を外壁から宙に出した。誰かがその光景を目撃していたら悲鳴を上げただろう。確かにそこまで高い建物ではないが、四階建ての屋上から落下したら無事では済まない。千恵にもそんなことは分かっていた。だが言ってしまえば、どうでもよかったのだ。
「千恵ちゃん」
背後で空雄の声がした。千恵はそのことにあまり驚いていなかった。金曜日にここに来たときも、千恵の存在を空雄に教えたのは伊織だったのだ。あの人がまた来たよ、と彼のもとへ言いに行っても何も不思議じゃない。彼女は神経を研ぎ澄まして、次に彼がこぼす言葉を聞き逃すまいとした。彼が期待通りのことを言ってくれれば、彼女はまた何事もなかったかのように仮面をかぶることができるのだ。
「綺麗な夕焼けだね。ここはちょっと特等席とは言い難いけど、屋上って普通はあんまりのぼれる場所じゃないから、まあ良しとするべきなのかな」
軽い足音と共に穏やかな声が近付いてくる。千恵はぎゅっと両手を握りしめた。
「そこ、寒いでしょ。大丈夫? セーター着るほど寒いんだったら、こんなに風の強い場所は毒だよ」
彼女は答えない。
「下りる気はない? っていうかさ、どうせのぼるんだったらもっと高いビルがいいんじゃない?」
「……ここ、四階だから」
「ふうん」
空雄は千恵に背を向けて、彼女と同じように床に直接腰を下ろした。背中をフェンスによりかからせてだんだん暗くなってきた空を見上げる。千恵はちらりと彼を振り返り、微かに眉をひそめてすぐに前を向いた。
「じゃあ、ちょっと俺の話を聞いてくれるかな。嬉しいことがあったんだ。今、俺が千恵ちゃんを追いかけてきたのは、伊織ちゃんが教えてくれたからなんだ」
千恵は頷きかけて、彼には見えないと気付いた。仕方なく、小さな声で相槌を打つ。
「……うん」
「伊織ちゃんはこの近くにある養護施設の子でね。俺と徹もそこの出身なんだけど、伊織ちゃんはあの通りの子だから施設の他の子供たちにどうしてもなじめないんだ。施設の先生ですら、そう。どういうわけか俺にはなついてくれたんだけど、最初の頃は徹に対してもまったく無関心だったな。それで、まあ、いろいろあってそのうち徹にもべったりなついちゃってさ。俺たちが二人で独立した後も、施設では居場所がなくてここに入り浸ってるってわけ。だから……あれ、何が言いたかったんだっけ」
空雄は首をかしげ、真面目な顔をして考え込んだ。千恵は黙って話の続きを待つ。
「ああ、そうだ思い出した。だからね、俺は、伊織ちゃんが俺たち以外の人に関心を持ったことが嬉しいんだよ」
彼が勢いよく千恵の方を振り返ったのがわかり、彼女も少しだけ顔を動かして彼の手元に視線を落とす。彼の声はやけに明るかった。
「今までどんな人に会ったって、伊織ちゃんは目もくれなかったんだ。それなのに君は初対面からあの子の目に映った。これは結構すごいことなんだよ」
千恵は笑っている空雄の顔を上目づかいで見上げる。彼がこうして近付いてくる理由がやっと分かった。これは決して偽善ではない、伊織のためなのだ。それならばそこまで恐れることはない。
「うーん、そろそろ本当に寒くなってきたなあ。日もだいぶ沈んじゃったみたいだね。もう下りようよ千恵ちゃん」
しばらくして、空雄は両手で体をさすりながらそう言って苦笑した。千恵は素直に頷く。真冬の服装をしていても寒さに震える彼女は、とっくに体の芯から冷え切っていたのだ。どっこいしょ、と言って空雄が立ちあがるのを見て、彼女も凍えて固まった体を起こす。宙に投げ出していた足を外壁の上に戻して踏ん張った瞬間、ずるりと足が滑った。
「あっ」
ローファーが脱げて、はるか下の地面に落下していく。地面にぶつかった音は聞こえなかった。咄嗟にフェンスを掴んだためそれ以上体勢を崩すことはなかったが、腰が抜けてしまったのか体に力が入らない。空雄を見上げると、彼の顔は薄暗くなった中でもはっきりと分かるほど強張っていた。笑顔以外の顔は初めて見るんじゃないだろうか、と千恵はぼんやり思う。
「動かないで! 絶対!」
空雄はそう叫んで身を翻し、背の低い方のフェンスをひらりと飛び越えた。そしてほとんど走るような速さで彼女の元へ駆けつける。片手でフェンスを掴みながら彼女の上にかがみこみ、もう片方の腕を躊躇なく彼女の体に回した。突然の暴挙に彼女は身をすくませ息を詰めるが、空雄はかまわず彼女の背を優しくさする。
「あー、あーほんとびっくりした。あのね、俺これでもずっとドキドキしてたんだからね? ……あ、ごめん、いきなりこんなことして。とりあえず、フェンスのあっち側に戻るまでは許してね」
そういう彼の腕は少し震えていた。千恵は返事をしようと口を開いて、だが何も思いつかずに、ただ首を横に振る。彼は深く深くため息をついて、暗くなった空を見上げた。
「そういえばさ、さっき四階だからここにいるって言ってたけど。今この高さを見てちょっと思った。ここって高さ的には五階だよね」
彼のこの発言は、おそらく恐怖感を紛らわせるためのちょっとした冗談だったのだろう。だが千恵にとっては重大なことだった。彼の言葉を反芻して、彼女は手に汗を握った。あろうことかのぼるべき場所を間違えていたのだ。しかもそこから危うく落ちるところだった。間違って死ぬなんて、とんだ死に損だ。
彼女の顔色が変わったのに気付き、空雄は瞬いて不思議そうな目つきをする。だがそれも一瞬だけで、すぐににっこりと笑顔を浮かべて彼女が立ちあがれるよう手を貸した。
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