第2夜 屋上の失望
千恵が家に帰る頃には夜の十時近くになっていた。半分ぐらいの店が潰れてしまった駅前の商店街に並ぶ、まだ新しい一軒家が彼女の家だ。クリーム色の外壁に黄緑色の屋根が乗っている可愛らしい感じの家で、その屋根には「すざき医院」という看板が取りつけられている。彼女ら一家の名字である「須崎」を平仮名で表記するように提案、もとい命令したのは彼女の母親であった。漢字で「須崎医院」としては画数が多すぎてごちゃごちゃしているし、何より可愛くない、というのが母親の主張である。父親は母親の言いなりで彼女のすることに全く異論を挟まなかった。父親を知る人は誰でもあの人は厳格な人だというし、おそらく本人も自分を厳格だと思っているのだろうが、千恵だけは絶対に違うと思っていた。本当に厳格な人ならば筋を通さなくてはならない。そうでないならただの自分勝手だ。
通りに面したガラス戸にはやはり「すざき医院」の文字が書かれている。こちらは患者のための出入り口であり、千恵が使うのは裏にある家族用の玄関だ。家をぐるりと回り裏の玄関に来て、赤いリボンのついた鍵をさしこみドアを開ける。家の中は真っ暗で人の気配はない。彼女は慣れた様子で電気を点け、まっすぐに二階の自分の部屋へと逃げ込む。一月七日で止まった卓上日めくりカレンダーの上に制服を投げ捨てて、寒さに身を震わせベッドにもぐりこんだ。
週末はいつものように何事もなく過ぎた。土曜日に目が覚めると時計の針は午後一時を指していて、階下の様子をうかがうとまだ看護師や受付のおばさんたちが残って談笑しているらしい雰囲気がしていた。千恵は放り出していたままのカバンを広げて宿題を始め、結局その日は一歩も部屋から外には出なかった。日曜日は空腹で朝の八時に目が覚めた。病院は休みなので、階下は静まりかえっており家には誰もいなかった。もちろん、しばらく誰も足を踏み入れていない両親の寝室にも。千恵は家族用の玄関へ下りて、ドアにしっかり鍵がかかっていることを確認してから、少し安心してキッチンへ行き久しぶりの食事をとった。砂をかむようだという比喩がよく使われるが、砂の味すら感じられなかった。食事を終えて部屋に戻るとき、壁にかかったコルクボードになにやら重たそうな封筒が吊り下げられているのを発見した。封筒の表面には「千恵へ」の文字があり、中身は現金二十万円が入っていた。
月曜日が来た。千恵は玄関を出る前にしっかりと仮面をかぶって外に出た。
そして、いつも通りに学校へ行き、授業を受けて、帰りの電車に乗り、気がつけばまたあの駅のホームに降り立っていた。
この前に空雄に案内してもらった近道は思い出せる自信がなかったが、自分で通った道は思い出せそうだった。今日はまだそれほど遅い時間ではない。腕時計を確認するとまだ五時半だった。駅前の大通りもにぎやかに見える。通行人にまぎれている千恵に注目する人はいない。彼女は深いため息を一つついて、覚えているルートをゆっくり歩き始める。視線は足元に落とし、歩道に規則正しく敷き詰められたレンガをただ眺める。
行ってどうしようというのだろう、と千恵は自問した。分からなかった。そもそもどうしてまたこの駅までやってきてしまったのか分からないのだ。ぼうっとしていたから降り損ねたというのなら、改札から出ずにまた反対方向へ向かう電車に乗り込めばよかったのだ。そうすれば帰ることができる。でも、帰ってどうしようというのだろう。
改めて考えてみれば、すべきことなど何もないのだった。
「メゾン・ド・シエル」の前までやってきて、千恵は立ちどまった。さすがに用事もなしに他人の家を訪ねるわけにはいかない。彼女は金曜日と同じようにふっとアパートを見上げ窓を数えた。一、二、三……四階建てだ。そして彼女は思い出した。彼女は立派な用事を持っている。用事があるのは彼らの部屋ではなく、屋上だけれども。アパートの汚れた壁がうごめいて、おいで、と言っているような気がした。
ふらふらと玄関のガラス戸に近付き、それを引き開けようと手をかける。そのとき背後から視線を感じ、亡霊のような目で彼女は斜め後ろに植わっている植え込みの下を覗き込んだ。季節ではないのか何の花も咲いていないその植木の下には、伊織がしゃがみこんでいた。ランドセルを背負ったままで、どこで見つけてきたのか丈夫そうな木の枝を一本握って硬そうな地面にがりがりと線を描いている。幼く弱い伊織のイメージとはかけはなれた荒々しいそれに千恵はしばし、圧倒された。思わず腰を落とし、伊織と同じように地面にしゃがみこんで彼女の作品を眺める。視線を低くしてみれば、おそらく植木の下を奥の方まで潜って描いたのだろう、それほど広いとは言えない地面一面に彼女の線は走っていた。それは特になにかを描いたというものではない。アパートの部屋の壁に貼ってあったような、子供がよく描く人間や花、太陽に雲というあのような平和な絵とはほど遠い、例えるなら拡声器を力いっぱいに握りしめて言葉にならない叫びを発したような線だ。
千恵はセーターの袖口からのぞく冷えた指を絡み合わせて、どうにか温めようとしながら伊織を見つめた。彼女はまだ木の枝で線の続きを描いていたが、それにはもう植木の奥の方に見えるような激しさはない。決して千恵の方を見ようとはしないが、彼女がそこでしっかりと絵を見ていることに気付いているのだろう。千恵は邪魔をしないことにして、立ち上がりアパートの中へ入って行った。
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