第7話
そうしていると、『そう言えば——』と彼女たちの一人が、中空に目をやって呟いた。
『あの子なら、なにか知ってるかも——』
『ああ、あのコワい子』『今もどっかに行っちゃってるけど——』
「?」
——それって……?
私がまた彼女たちに向き直って訊ねようとした時だった。
背後の気配が濃さを増した。
小さな悲鳴がさざめきあって、女の子たちの集合れいが、風に吹かれたように掠れて流れる。
「——和丸さん」
振り返る。
まるでずっとそこに立っていたように、
暗がりから一人の女の人が浮き上がった。
ひっそりとしていながら、喜びを隠しきれない、そんな囁き。
黒い肩までの真っ直ぐな髪に、白地の女性らしいワンピースとカーディガン。白い手には雨も降っていないのに、花の絵柄が入った青い傘を差していた。
彼女はバッグに入ったままのくままるさんに、淡く微笑みかける。
「この青い傘、覚えていますよね。
和丸さんが私にプレゼントしてくれた——。
今もこうして、大切に持っているんですよ」
「——スミ子……」
くままるさんが震えるか細い声で名前を呼ぶ。衝撃を受けながら、どこか納得したような声に、私はくままるさんの険しい顔に小声で呼び掛けた。
「知り合いですか」
ゆうれいから目が離せなくなっていたくままるさんは、はっと気付いて私に視線を合わせる。
「浪人する前の——する前まで付き合ってた彼女。
勉強と彼女を両立させる自信がなくて、別れたんだ……」
「和丸さん。また、別の女の子と一緒なんですね」
ワンピースの女性が、一歩こちらに歩み寄った。くままるさんが怯えて身を震わせ、私も思わず片足を引く。優し気な微笑を浮かべているのに、その全身から発される気配は、他者を圧する。
「いつも、いつも、違う女の子と一緒にいる。
——でも、いいの。
その子たちはみんな、ただのお友達だって分ってる。
だって和丸さんが本当に想ってくれているのは、私だけですもんね。
それに……あの時、約束してくれましたよね。
いつか、また——。そうですよね」
また一歩、近付く。
恵理さんの家で話した時、彼女はいないと言っていたはずだけど——。
私の疑問を感じ取ったのか、くままるさんはバッグの中に隠れることも出来ずに言う。
「し、正直に言うと、——わ、忘れてたんだ。
大学生活が楽しかったのもある。でも……、それ以上に、怖かったんだ。お、俺には重かったんだよ」
「……」
——彼女の雰囲気から、女性を大事にするくままるさんが濁した言葉を、私は察する。
忘れていた、のではなく、忘れたかった——。この白いワンピースのゆうれいは、いわゆるストーカーだったのだろう。くままるさんに嫌がらせのような事はしなかったけれど、負担を感じるくらいには想いを言動に表していた。もしかしたら、この人の事があって、くままるさんは女の人と深い付き合いをしなくなったのかもしれない。
くままるさんが襲われた時、名前を呼んだのは彼女だ。
——思い当たる節、あったんだな……。
「和丸さん——」
ワンピースのゆうれいが前へ進み出ながら、ゆっくりと傘を閉じる。そうして右手を差し出して、にっこりと笑顔を浮かべる。
「もう、遠くで見ているだけではなくて、いいですよね。
やっと、私を迎えに来てくれたんですよね。
ねえ、和丸さん。今度こそ、一緒になってください」
彼女を最も魅力的に見せるはずの微笑みは、
バッグにしがみつくくままるさんを、よりいっそう怯えさせただけだった。
「——い、いやだ……」くままるさんが丸い頭をぶんぶん振って叫ぶ。
「イヤだッ! 来るな!」
微笑が、凍りついた。
可愛らしい小振りな目を見張り、差し出した右手が小刻みに震え出す。
張り付いて動かない微笑みは、無表情と変わらずなんの感情も語らない。
「ひどい……、ひどい……」
青ざめる唇が微かに動いて、言葉を漏らす。
「私は……、こんなに想っているのに……。
それなら、いっそ。その子も、一緒に——」
それ以上は、もう言葉にならなかった。
突然、落ちた看板や壊れたイスが、宙に浮き上がる。
駅に満ちた気配の緊張感が一気に高まる。
私は左手で取っ手を握り直し、悲鳴を上げるくままるさんをバッグごと脇に挟み込んだ。
「ひなた!」
どがっ!
と、背後で大きな音がする。
視界の端に見えていた。私と——くままるさんとワンピースのゆうれいの間に割って入ろうとした夕月くんを、彼女の出現に合わせてけむりのように霞んでいた女の子たちの集合れいが、再び女神像の形に結合して攻撃したのだ。
何人分ものゆうれいの、巨大な体のかぎ爪のように尖った手に薙ぎ払われて、夕月くんがまともに吹き飛ばされる。別のホームの壁にぶつかって、もろくなっていた建物が崩れて降り注ぐ。さらに浮き上がった大量の瓦礫や自販機が、その上から叩き付けられた。
「和丸さん——」
のっそりとこちらを向いて体を起こした女神像が、空間に広がるようにかき消えた。その霞が周囲に渦を巻き始め、側にいたワンピースのゆうれいも同じかすみとなって混ざり合う。声だけが、四方から響いた。
やはりこのゆうれいも、集合れいの一部だったようだ。そしておそらく一番強い権限を持っているのだろう。というより、彼女の強い想いの下に、他の女の子たちは集まったのかもしれない。それに加えて——。
「どうするんだよ!」
泡を食って、バッグからほんの少し目を覗かせるくままるさんが、悲鳴を上げる。
「あの兄ちゃん、やられちゃったぞ! なんとかなるのか!? 大丈夫か?!
なあ、どうするんだ、助けてくれよ!」
「くままる、だまって」
私は周囲を取り巻く気配を見回して、短銃を構えた。
夕月くんがあれくらいでやられるはずない。お荷物はいつだって私なんだから。それに、あの子が戻る間くらい、一人で乗り切れなければ、私はこんな
——集中する。
夕月くんがいつも無造作にやっていること。
空間に満ちるゆうれいの気配、その僅かな変化を逃さない——。
くままるが大人しくなって、バッグの中に身を隠した。
「————」
よこ!
自分が身をかわすので、精一杯だった。
右手側から現れたワンピースのゆうれいが突き出した傘が、体からほんの少し離れて流れたトートバッグを引っ掛けて、引き千切る。破れた袋から白と黒のぬいぐるみが転がり落ちて、地面でぴゅうと場違いな音を立てる。その勢いのまま、ホームの上を転がっていった。
「くッ」
私は一歩で強引に踏ん張って踏み止まる。
女神像の女の人たちの力を取り込んだワンピースの影が、ぬいぐるみに迫る。
私は迷わず引き金を引いた。
だん! だんだんだんだんだん! と、立て続けに連射する。ゆうれいは傘を広げて最初の一発を防ぎ、数発目で突進を
「わわわわわわ!」
体が露になって守る物が無くなり、恐怖で混乱したくままるがじたばたと手足をもつれさせながら起き上がって、四つ足でホームを駆け出すのが目に入った。前後の区別がつかないのか、それともただこの場から離れて逃げ出したいのか、そのまま線路の方へ落ちてしまう。
「あ! バカっ」
ゆうれいも、その姿を目で追っていた。白いワンピースの体勢が変わる。私の銃くらい、なんとでもなると言いたげだ。少しの猶予もなかった。
右手の短銃は引き金を引いたまま、バッグが無くなって空いた左手を背中に回し“大筒”を引っ張り出す。こちらの体勢が乱れるのも構わない。私は短銃をすばやくしまって、砲弾を撃ち込んだ。
特製の小型エネルギー砲だ。さすがに容易に防ぎきれる威力ではない。傘を広げて迎え撃った白いワンピースのゆうれいの姿が、砲撃に吹き飛ばされて掻き消える。
「っ……!」
無理な姿勢で撃ったので、私の方も反動で尻餅を突いてしまった。しかし痛むお尻を庇っている場合ではない。私は立ち上がる暇も惜しんで、ホームから線路へ飛び降りた。
「くままる!」
着地の反動を殺しながらしゃがみこんで、ホーム下の逃げ場をのぞき込む。真っ暗でほとんどなにも見えないけれど、ぬいぐるみの白い背中が震えているのは分った。私はそれをやや乱暴に掴んで——直ぐに反省して、しかしそのまま腰の荷物へ放り出す。
「離れないで!
その辺の武器か服にでもしがみついててください!」
「ご、ごめん。ホント、ごめん」
なんだか、私に対しても恐がっている気がする。
くままるさんの柔らかい両腕が装備のベルトにしっかりとしがみついたのを確認して、私はすばやく立ち上がった。
背後の気配がまた濃くなる。
それはもう予測済み。
私は砂利の地面を蹴って距離を取りながら振り返り、腰で大筒を構える。
——引き金を引くまでもなかった。
私に向かって大きく青い傘を振り上げる白いワンピースのゆうれいを、烈風を伴った影が吹き飛ばす。いつの間に瓦礫の山から抜け出したのか。あれだけ埋もれていたのに、一つの傷も負ったように見えない、夕月くんだ。
その一撃は直前で気が付いたゆうれいに避けられてしまったものの、続く二撃、三撃を畳み掛けて、夕月くんは反撃の隙を与えない。あっという間に、私とくままるさんから引き離してしまった。
「すげぇ……! けど、やっぱりあの絵はどうなんだ?」
見た目は線の細い女の人と装備を付けた大人の男の人だから、それだけならくままるさんの感想はもっともだ。けれどあれはあくまでもゆうれいで、あんな風に華奢な姿をしていても、何人分ものたましいを集めた腕力などは常人の数倍になっている。
そしてそんな力を持ってしても、武術の心得のないあのゆうれいでは、夕月くんの速さにも技にも、まるでついていけていなかった。完全に押されていて、青い傘で防ぐのが精一杯のようだ。
夕月くんはすごい。本当にすごいけれどそれだけでは足りない。あのゆうれいを退治するには、もう一手必要だ。
私は夕月くんのようにちょっと飛び跳ねただけでこの段差を上れないないので、ホームの隅に両手を付いてなんとかよじ上りながら声を上げた。
「夕月くん、傘!」
「——」
うなずきだけの返事がある。
あれは一人でいるのが寂しい若い女性たちが、あのワンピースの女の人の強い想いに引き寄せられて出来た集合れいだ。そしてそれだけではなく、あの女の人にとって強い想い入れのある——くままるさんとの大切な思い出のある青い傘を〈よりしろ〉とすることで、あのゆうれいはあれだけ安定して力を顕示している。
ゆうれいが、青い傘で激しく鋭い突きを繰り出してきた。
夕月くんはそれを紙一重でかわす。普通なら避けるだけでも大変なはずなのに、その上速やかな動作で傘を押さえ込み、気付いたゆうれいが引き戻そうとするのも構わず器用に奪い取る。
無表情だったゆうれいの顔色が激変した。
「やめて! 返して!」
そんな懇願も、取り返そうと伸ばした手も虚しく、
夕月くんは躊躇なく傘をへし折って、
無造作に脇へ放り捨てた。
「————ッ!」
耳を貫く絶叫が、空っぽの駅をびりびりと震わせる。
傘を失ったそれだけで、生きた人のようにはっきりとしていた白いワンピースの姿が薄れ、一部の輪郭がぼやけてけむりのように崩れる。激しい怒り、喪失感——そんな激情に我を忘れて、ゆうれいが形振り構わず夕月くんに向かって行く。
夕月くんはその場を動かず待ち受けていた。
ただ片足を引いて、腰の
間合いに入ったその瞬間、一息に引き抜く。
居合い抜き、一刀両断。
剣を納める夕月くんの脇を、上下真っ二つにされたゆうれいが力無く行き過ぎた。もはや形を保てず、ぼろりと全体が崩れる。私はそれを、横手に回り込んで待ち構えていた。〈そうじ機〉の太い筒先を、散り散りになっていくゆうれいに向ける。
ゆうれいは形を無くすほど弱っても、今は還る場所が存在しないから、後はたださまようだけで、いつかまたどこかで力を取り戻して人に害を及ぼすかもしれない。だからこうして、たましい専用のゆうれい吸引装置で分解・無力化し、全て残らず回収する。ゆうれい退治に無くてはならないこの機械は、吸引力や範囲などの調整に細かな操作が必要で、意外にもちょっとしたコツが要るので、こればっかりは機械音痴の夕月くんには任せられない。
「さよなら」
私は威力を「強」にしてスイッチを押した。
ひゅうぅぅぅうぅん、と腰に負った本体が、これも家電に似た唸りを上げる。
ほとんどがけむりとなってばらけ、僅かに残った人の形も崩れてあやふやになり始めていたゆうれいが、抗う素振りも無く引き寄せられて、とけるように筒先に吸い込まれていった。
空間に拡散していた、色とりどりに淡く光るたましいも残らずそうじ機の中に消えると、そこにはもうなんの余韻も無い。
薄暗い駅のホームには静けさが戻り、
ただそれまで通り、普通に人気の無い、廃駅の寂しさが冷たく満ちていた。
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