第3話
問答無用で事情も聞かずに吸い込むのは、いくらなんでもかわいそうだと恵理さんが言うので、私たちはリビングに場所を移して、パンダさんの中身のゆうれいに話を聞くことにした。
すっきりと片付いている、というよりは、小物があちこちに溢れた生活感のあるリビング。今はその——恵理さんが「ちょっと待って!」と慌てて片付けた四角い食卓の真ん中に、パンダのぬいぐるみがきっちりと正座して座っている。表情はあまり動かないのに、どことなく神妙な顔付に見えるのが、いつ見ても不思議だなと思う。——ちなみに、このパンダさんはちょっと凄んでみせたらこうなった。
私と恵理さんは部屋の奥にある窓側で椅子に座って、夕月くんは入り口脇の壁に寄り掛かって腕を組む。窓と玄関二つの退路を断つ布陣で真ん中にパンダさんを据え、恵理さんは「それで」と単刀直入に言った。
「あんたはどこのだれさん? なんで私のぬいぐるみの中に入ってるのよ?」
パンダさんはびくっと一度体を震わせて、少しおどおどした声で言った。
「お、俺は、久間田和丸。大学二年の
そ、そんなの俺だって知りたいよっ。どうしてこんなことになったのか。
いつの間に死んだのかだってわかんないのに——」
『話す』とはいっても、パンダさんの口が動いて声が出ているのではなく、そこと分るどこかから若い男の人の声が聞こえてくるだけだった。それも少し反響しているような、普通とは違った音に聞こえる。
背中を丸めて項垂れるパンダさん——和丸さんの証言に、私と恵理さんは顔を見合わせた。
大災害の時に亡くなったゆうれいは、自分が死んでいるという事実に気付いていない場合が多い。むしろ普段見掛ける通行ゆうれいのほとんどがそうだ。だから和丸さんは自分がゆうれいだと自覚してくれているだけいいのかもしれない。
自我も意識もはっきりしているみたいだし、悪意の類も感じられないので、吸い込むのは簡単だけれど私ももう少し話に付き合ってあげることにした。
恵理さんがため息をついて、さらに聞く。
「それならさっきはどうして逃げたのよ、くままる」
「それは——」きょろきょろと視線を彷徨わせて、くまま——和丸さんは言う。「なんだか分んないけど、物騒なこと言ってたから。酷い目に遭わされるんじゃないかって、怖くなったんだ。とにかくここから離れよう、逃げようって思って」
物騒な事というのは、たぶん「警察に」とか「お祓いを」とか、そんな恵理さんとお母さまの会話を聞いていたのだろう。白いふかふかの体を丸めてうつむく和丸さんは、随分と怯えて混乱しているように見えた。ここにやって来るまでに、なにかあったのだろうか。
ぬいぐるみに入り込んでしまった経緯を思い出してくれれば、上手く出る手掛かりも見付かるかもしれない。私はとにかく落ち着くように促して、恵理さんから質問を引き継いで聞いてみる。
「あのね、わたしたちはあなたに酷い事なんてしないから、大丈夫だよ。
だからちょっと落ち着いて考えてみて。ここに来る前の事は、なにも覚えてないですか?」
「えっと……」
くままるさんは白いほっぺたに黒い腕の先を当てて、考える素振りをする。きっと彼にはそんなつもりはないのだろうけれど、小首を傾げる仕草はなんだかとても可愛らしい。
「気が付いたら、どこかの町を彷徨ってたんだ。
それで、どこかの駅に近付いた時だったと思う。いきなり——ホントにいきなり化物みたいなのに襲われて、とにかく恐くてわけが分からなくなって、追い掛けてくるし無我夢中で逃げてたら、なんだろう、なにかに躓いたみたいな、穴に転げ落ちたみたいな、変な感覚があって。それで気付いてみると、このパンダの中だったんだ。
わけ分んないし、怖いし、身動きも上手くできないし——。俺だって、このままじゃまずいと思って、なんとか出ようとしてみたけど、どうにもならなかったんだ」
ゆうれいに距離はあまり関係無いから、それはたぶん、この直ぐ近くで起きた出来事ではないと思う。とにかく逃げなくてはと必死になっているうちに、くままるさんは何かの拍子で特に脈絡の無い物の中にすっぽりとはまってしまったのだろう。強い思い入れのある物や関連の深い物ではないから、〈よりしろ〉にするわけでもなくただ入っているようだった。
私は先に、気になった単語を聞いてしまう。
「化物?」
「だからよく分らないんだって。
とにかくおっかなくて、食われるかと思った」
その時の事を思い出したのか、くままるさんはふわふわの体を両腕で抱えて身震いする。
「そっか——」私は少し考えてから、今度は恵理さんに向き直った。
「パンダさんの異変に気付いたのは、一週間くらい前だっけ?」
「そうだよー。一週間以内だと思うけど。床に落ちてたのが三日前くらいかな」
なるほど、と私は考え込む。
外からの情報を受け取りそれを刻み込む
「ホント、なんでこんなことになっちゃったんだ……」くままるさんが深刻な面持ちでうつむいて、ぶちぶち言い始めた。状況に付いて行けないまま話し相手もいなくて、いろいろ溜め込んでいたのかもしれない。「なんで、こんな、幽霊なんて……。このパンダに入ってからずっと考えてるんだけど、いくら考えてみても、どうして死んじゃったのか思い出せないし。それに、幽霊になってこの世に留まらなくちゃいけない未練なんて、なんにも思い当たらない。俺、そんなにこだわって生きてなかったんだからさ——」
「ん?」
「……」
恵理さんが少し首を傾げる。くままるさんは顔を上げて、今度は私に向かって勢い込んで言った。
「やっぱり、若かったから? でもこんな状態でふらふらしてるくらいなら、さっさとあの世でもどこでも行っちゃいたいんだよ。
キミたち霊能力者かなんかなんだろ。このままずっとパンダなんて嫌だからさ、俺のこと手早く成仏させてくれよ!」
「……」
「成仏って——そんなの無理でしょ。ねえ」
恵理さんが戸惑って私の方に視線を寄越すので、私は仕方なく小さく頷いて返した。するとくままるさんは、心底落胆したように両手をテーブルに付く。
「俺なんて地獄行きってこと!? そんな悪い事した?!」
「いやいや違くってー……」
恵理さんがまた私の方を窺っているけれど、私がなんの説明もしようとしないのを見て取って、疑問そうにしながら途中で口を閉ざした。私はそんな恵理さんにだけ、首を左右に振ってみせる。
ゆうれいと普段関わることのない一般の人は忘れがちだけれど、ゆうれいにそういう事柄をいちいち説明しても、あまり意味がない。
ゆうれいには
例えば大災害の時に亡くなったゆうれいの知り合いは、私が面と向かってそれ以後の常識と単語を絡めて話しても、まるで気付かず聞き流してしまう。取り憑いた公園が少し壊れている事にも、指摘しなければ思い出してくれない。たぶんくままるさんも、世の中がゆうれいだらけだという事実に、気付いていないと思う。
だから、現在の世界には成仏して行くべき天国や地獄にあたる場が無く、死者は全てこの世を彷徨っている、という事実をくままるさんに説明してみても、今この時は納得してくれたとしてもまた直ぐに忘れてしまう。もしかしたら理解が及ばなくて堂々巡りの問答になってしまうかもしれない。
そんなわけなので、ゆうれいの言っている事は話半分くらいに聞いて、深く取り合わないでおくのがちょうどいい、というのがゆうれい駆除業界での常識になっていた。無理に話を進めても、ある程度聞き流しても、気付かないのがゆうれいだから。
「……」
恵理さんには後でその辺りの説明をするとして、私は寒気のした腕をこっそりさすって考えを切り替える。「霊能力者」なんて古い単語、久しぶりに聞いた。くままるさんの愚痴はともかくとして、これからどうするのか決めないといけない。
成仏する行き場のないゆうれいの辿る末路は二つ。回収されて
どうするにしても、お父さまとの思い出がある大事なぬいぐるみだから、持ち主の恵理さんの意向に添いたいけれど——。
それを恵理さんに訊ねる前に、先程から気掛かりな事があって、私は改めてくままるさんに向き直った。くままるさんは相変わらずびくびくした様子で、警戒しながら返事をする。
「ねぇ、くままるさん。
もっとよく思い出してほしいんだ。くままるさんが遭った〈ばけもの〉のこと。
どんな姿だったとか、どこに——具体的になんていう駅で遭ったのかとか。印象だけでもいいんだ」
「えー……、そんなこと言われてもなあ……」
思い浮かべただけでもその時の恐ろしさがぶりかえすのか、くままるさんは少し身を引くようにして、あまり乗り気ではないようだった。それでも考えてくれるようお願いすると、恵理さんが怪訝そうに私を振り返った。
「どうかした、ひなちゃん。なにかまずい?」
「うん。あの……」私は少し言葉に詰まる。不安を煽るだけかもしれないけれど、でも一応の可能性として伝えないのも駄目な気がする。「——ちょっと気になっただけなんだけど。くままるさんを襲ったっていうそのばけものが、もしくままるさん個人を狙ったのだとしたら、探し出してまた襲ってくるかもしれない、と思って。そうだとすると、くままるさんだけじゃなくて、周りの人にも危害が及ぶ可能性がある。
それなら、くままるさんをこのまま吸い取って回収するにしろ、他の人に頼んでお祓いしてもらうにしろ、そのばけものを先になんとかしないと危ないんじゃないかな、と思って」
「そっ……、それは確かに、その通りだね」
この場合、「周りの人」というのは言うまでもなく恵理さんとお母さまのことだ。
恵理さんが目に見えて狼狽えたので、私はなんだか申し訳ない心持ちになった。
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