第2話

 私たちは放課後に昇降口で待ち合わせて、早速彼女の自宅へ向かった。平内さん——と呼んだら「恵理でいいよぉ、かたっ苦しい」と言われてしまったので恵理さんのお宅は、高校から路面電車バスで何駅か行った所にあるらしい。そちらの停留所で、予め連絡を取っておいた私の相方と合流する予定になっていた。

 昼の十二時を過ぎた日差しは既に弱々しく、車窓から見える町並みを淡い紫色に染め始めていた。それに誘われるようにして、通りを行き交う『人波』が賑わってくる。私は恵理さんと並んで吊り革を握って、おしゃべりをしながらもう見慣れたその光景を眺めていた。

 まだほとんど霞みのように透き通っていて、はっきりと姿の見えない『人』たちが、商店の並ぶ道を急がしそうに歩いている。その中を、生きた人が何事もなく家路につく姿が、ちらほらと見て取れた。彼らの歩調も、蜃気楼のような〈ゆうれい〉の歩調も一定で、『人』を避けて歩く様子は普通の雑踏と変わらない。そんな中、よっぽど急いでいるのか、背広の男の人が煙りを蹴散らすように走り抜けて、なんだかちぐはぐな気がした。

「ねえ」恵理さんもその人物を見ていたのか、ふと、言った。「自転車の人って、たいてい気にせず走るじゃない? 通り過ぎる時、ほとんどのゆうれいが全然気にしないでそのまま歩いてるんだけど、時々びっくりして跳んで逃げるゆうれいもいるの。知ってる? 私あれ見ると、おかしくって笑っちゃうんだよね」

 そう話す彼女の横顔は少しも笑顔がなくて真剣で、私も前に向き直りながらその様子を想像して、複雑な表情になってしまった。

 それは——確かに可笑しいかもしれない。

 でも笑って良いものかどうか迷って変な顔になってしまうと、それを見付けた恵理さんが、こちらを振り返って苦笑した。

「でしょ。笑えるけど微妙なの、これ」

 あはは、と明るく笑ってまたゆうれいの雑踏を眺める恵理さん。そこには、車通りの少ない横断歩道で律儀に信号待ちするゆうれいたちの姿があって、私も結局笑ってしまった。

 路面電車が道に沿って緩やかにカーブする。ビルの合間から、紫やピンクに色付く雲が見えていた。段々とゆうれいの影も濃くなってきたようだ。これからが、長い長い、狭間の時間——。

 そんな話をしていると、間もなく降りる停留所が前方に見えて来て、その近くのベンチに見慣れた青年が一人で座っているのが目に入った。私は少し目を見開いて、路面電車バスが停車すると扉が開くのも待ちきれずに、その子のところへ駆け寄った。

夕月ゆづきくん、なんで一人なの?」

「ひなた」

 見た目は二十代中頃。背は普通より少し高い程度でも、姿勢が良いので数字より高く見える。彼は私を見付けると、目に見えてほっとした表情を浮かべて立ち上がった。私はまた少し驚かされて歩を緩める。この子のそんな様子には呆れてしまうけれど、今度はちょっと腹が立ってきた。彼にではなくこの子を一人にした保護者に、だ。

「保彦さんは?」

 まさか一人で来たのではないだろうと、辺りを見渡してみてもその人物の姿はない。夕月くんが座っていたベンチの傍らには、頼んでおいた簡単な装備が持ち運び用の大きな鞄に収められて置いてあるだけだ。

 夕月くんは何故か少し誇らしい様子で頷いてみせる。

「ひこ兄なら、買いものしたいからってさきにかえった。『ここまで送れば、後は直ぐにひなたちゃんが来るから大丈夫だろう』てさ。ひとりでもちゃんとまてただろ」

「うん。えらいね」

 にっこりする夕月くんに、私も微笑を返す。ただ内心では無責任な保彦さんに呆れてしまって、やや苦いものの混じった笑顔になってしまった。あの人は——時々こういういい加減なことをするんだからなぁ。帰ったら一言言っておかないと……。

 ため息を堪えていると、後ろで様子を見ていた恵理さんが肩を叩いた。

「ひなちゃん、この人がさっき言ってた相方の人?

 なんかイメージしてたのと違うなー」

「あ、ごめん恵理さん。そうなの。この人が一緒に仕事をしている白路夕月しろじゆづき

 恵理さんは夕月くんの姿を上から下までじっくりと——少し失礼なくらい眺めていた。さっき路面電車バスの中で夕月くんのことを、「どちらかと言えば武闘派なうちのチームを支える、かなり強い男の人」という風に説明したから、きっと恵理さんは、屈強な——大きくてむきむきで恐そうな人を想像していたのかもしれない。というより、「楽しみ〜」と声を弾ませていた様子からすると、もっとしゅっとした映画俳優のような人物を思い浮かべたのかもしれなかった。

「……」

 夕月くんは——少し、そのどちらとも違う。見目はそんなに悪くないと思う。だけど、正式な仕事ではないからか、普段着にしている量販店のTシャツにパーカーを着て、黒い髪をあまり整えていないような姿は……、その、失礼とは思うけれど……、野暮ったく見える。冴えない。私は本当にかっこいい夕月くんを知っているだけに、それはなんだか勿体無いような切ない気分にさせられる。

「あんまり強そうに見えないね」

 そんな感想をもらす恵理さんに、きょとんとしていた夕月くんがさすがに少し不満そうな顔をする。二人の間に立って弁明するのもなんだかおかしい気がしたので、私は複雑な心境を追いやって話を進めてしまうことにした。

「そんなことないよ。

 薄暗くなるから、とにかく恵理さんのお宅に行こう」

 それもそっか、と恵理さんは頷いて、こっちだよとそれぞれに色の違う淡い光のようなゆうれいの人波の先を指差した。私は夕月くんが持って来てくれた機材を確かめると、彼の背中を押して恵理さんの後に続く。

 夕月くんが事情を知らない恵理さんに、今のような言われ方をしてしまうのは、仕方ないのかもしれなかった。五年前の〈大災害〉の時に〈たましい〉をぜんぶ吹き飛ばされて、それまでの知識も経験も空っぽになった夕月くんは、その外見に反して頭の中はほとんど五歳児だから——。



 恵理さんの案内で辿り着いたのは、商店街から横道に入って直ぐにある白いマンションだった。私はその建物を夕月くんと揃って見上げて、思わずため息を漏らしてしまった。大災害の後に建てられたそのマンションは、どこも新しく立派に見えた。共同の入り口には電子ロックが付いているし、ちゃんとエレベーターがある。壁に汚れも無くてぴかぴかだ。旧市街に近い郊外にあって、昔の建物を修繕しただけのうちのマンションとは大違いな気がした。それに、うっかり壁をぶち抜く人や、試作途中の武器を持ち込む人なんて、きっといないんだろうな。

 「新しいけどその分部屋は狭いのよ」と恵理さんは謙遜してさっさと中に入って行く。もの珍しさにきょろきょろしながら後に続いて、エレベーターで五階まで上がると、廊下にきれいな扉が幾つも並んでいた。さすがにここまで上ると、夕月くんでも跳び降りるのを躊躇する高さ。——あ、でも下に駐輪所の屋根があるから、なんとかなってしまうかもしれない。側には植え込みや立木もあった。

「ひなちゃん、なにやってるのー。こっちだよー」

「あ、ごめん。現場の状況を確認するのが癖になってて」

「……ふーん。大変なオシゴトねー……」

 手摺から離れて、家の鍵を開ける恵理さんに小走りに追い付く。その間に、さっと装備を確かめてしまう。夕月くんは警棒一つ。私の方は腰の後ろに担いだ〈そうじ機〉——昔あった幽霊駆除の有名映画に準えてそう呼ばれる機材と、他にエネルギー銃を一挺。私も今は学校帰りの普段着だから、物々しい装備はなんだか落ち着かない。

 恵理さんは特にこだわり無く玄関を開いた。

「ただいまー。適当に入っちゃって。お母さん仕事でいないから、遠慮しなくていいからね」

「お邪魔します……」

 そう言われても、学校の人のお家に来るなんて本当にほんとうに久しぶりで、私はなんだか遠慮がちに扉を潜った。後ろから付いてくる夕月くんはその辺の機微には無頓着だけれど、そもそも他の人の家に入った経験があまりないので、私の真似をして声を掛けながら、そろそろと入って来た。

 玄関から真っ直ぐ木の廊下がのびて、奥がリビングと台所になっている。右手にお風呂などの水場。左の扉が恵理さんの部屋らしい。ごく普通の一般家庭の空気に、私は少し微笑ましくなる。

 とりあえず靴を脱いで、後ろの様子もお構い無しにずんずんと廊下を進む恵理さんに、むず痒い心持ちでついて行く。彼女はそのまま自室の扉に手を掛けると、そこでちょっと思い留まって、こちらを振り返った。

「あ……、えっとー。今、すぐ、そのパンダ、取ってくるから。待ってて。ね」

「?」

 部屋を指差してぎこちなく言葉を区切って言うと、両手の平を広げて私を押し戻すようにまでする。私は一瞬首を傾げてしまってから気付いて、大人しく一歩下がった。相談を持ちかけるつもりではいたけれど、家に来るかどうかまでは分らず、そこまで親しくない人間を部屋に入れるには、急な話で片付けが済んでいない、とそんなところだろう。おまけに、一応成人男性に見える夕月くんがいる。

 私は振り返って夕月くんにももっと下がるよう目配せする。私たちが離れたのを見て取って、恵理さんは空笑顔を浮かべてから、小さく部屋の扉を開けてすばやく中へ入った。

「……あれ?」

 そんな微かな呟きが聞こえて、うっすらと開いた扉が閉まりきる寸前、

 するりと、

 その隙間を通り抜ける小さな影があった。

「? あ! ゆうくん、捕まえて!」

 それがなにか、確かめるより先に足下を擦り抜けられていた。

「!」

 瞬時に、夕月くんが大きく跳び退く。玄関まで下がってそこにあった傘を手に取り、考える間もなくボタンを押す。

 ばっ! と狭い廊下いっぱいに開く青い縞模様の傘。四つ足で突進していたなにかは、行く手を塞がれて咄嗟に反応できなかった。

「んぶっ!」

 と頭から衝突して声にならない声を上げ、ぽすり、と床に倒れる。その隙を逃さず夕月くんが上から手の平で押さえつけると、ぷぅ、と情けない音がした。首根っこを鷲掴みに持ち上げる。

「あ、乱暴にしないで」

 『とっても大事な物』と恵理さんが言っていたのを思い出して付け加えた。夕月くんは頷きながら、手の中でじたばたと暴れる物体を興味深そうに見た。

「これがぱんだ、——のぬいぐるみ。白黒のくまだ」

「あれ? 夕月くん見たことなかった?」

 首を傾げて視線を彷徨わせている。あるようなないような。はっきりと覚えていないらしいので、テレビでちらっと見た程度なのかもしれない。

「放せ! このヤロウ! はぁーなぁーせぇーえ!」

「うわっ。なんかホントにしゃべって動いてる!」

 部屋から慌てて出て来て隣りに並んだ恵理さんの呟きに、私は小さく頷き返した。

 大きさは聞いていた通り、三十センチくらい。丸く白い頭に、長い胴体。黒い手足は少し長めだろうか。同じ黒い耳がちょこんとついて、黒い縁取りの目や口元はやや独特で愛敬がある。そんな愛くるしいはずのパンダさんのぬいぐるみが、今はふわふわの手足をじたじたと動かして、なんとなく目尻を吊り上げ喚いている。

 間違いない。ぬいぐるみの中にゆうれいが入り込んでしまっているようだ。

「私、こんなの始めて見たよ。どうしよう、これ」

「……」

 意見を求められて、私は暴れるパンダを眺めたまま首を傾げる。それからそうじ機の筒状の吸い込み口を軽く構えて、考え込む恵理さんと顔を見合わせた。

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