第18話 お茶会
ニュージャージーの海岸線に沿って車で一時間と少し走ったところ、小高い丘の見える場所に、その屋敷はあった。
古めかしい石瓦の屋根、レンガと漆喰の壁、四季の花々の咲き誇る光景を緻密に再現したステンドグラスの窓が、少し離れた場所からでも印象的に映る。
駐車スペースは滑らかだが水はけのいい砂岩敷きで、タイヤを傷めない。男は地味だが手入れの行き届いたダークブルーのスバル・レガシィから下りると、駐車場を横切って庭へと続く扉へと向かった。
その青銅の扉は、閉じるとハート形に見える模様がそのまま残してある。それを目にしたとき、男はかすかに懐かしさと寂しさの混じりあった笑みを浮かべた。
扉を開くと、広い庭を見渡しながら玄関アプローチへと続く敷石の道がある。左右には、チェス盤のように正方形の芝生と大理石が交互に敷き詰められ、奥手には白い砂の撒かれた池が切られている。そのほとりには、大理石細工の立派なグリフォンの像が置かれ、周囲を赤と白の薔薇の木々が覆っていた。
男の顔のあたりに、ひらひらとチェリーブロッサムのはなびらが飛んできた。
季節は春だった。あちらこちらに、小さなスミレが咲いている。敷地の奥には桜が植樹されていて、その根元に置かれたベンチからは、きららかな池を見下ろせる。
何もかも、手入れが行き届いていた。庭も、磨き上げられたステンドグラスの窓も、目の前にある館の壁の、玄関に続く階段の手すりすらも。
赤い樫の木の扉には、ライオンの形のドアノッカーがついている。
しかし、ドアノッカーに手をかけるよりも早く、扉が内側から静かに開いた。この家の執事が、いささか老け込んだ顔に穏やかな笑みを浮かべて男を迎えた。
「お帰りなさいませ、大旦那様」
「やあ、ポール」
白髪の目立つ執事は、来客に遠慮する隙すら与えないほど自然で滑らかな動作で外套を脱がせ、皺を伸ばしてコートハンガーにかけてから、いかにも清潔そうな白い手袋をした手で男を居間へと案内した。
「奥様、お父上様がお見えです」
「パパ!」
彼女は嬉しそうな声を上げて男に駆け寄り、子供のように抱きついた。
「やあ、ケイティ」
彼女は長いまっすぐな黒髪を顔の両側に垂らして、グレーのワンピースを着ている。
すっかり大人になった娘の姿を、養父はしみじみと眺めた。
髪の色はともかく、そのシルエットは……なぜか、血のつながっていない彼女の母に似ているような気がして、チャールズ・ヘイワースは軽く頭を振った。
感傷を振り払うように、彼は室内を見渡して、感嘆した素振りで言う。
「とうとう改築も完了か、見違えたよ。本当に素晴らしい館になったな。君の趣味がバッチリ出ている」
「でしょ? 六年がかりのリフォームだもの、自分でも満足してる」
そう。
あの悲しい事件から六年が経ち、彼女はプリンストンを無事に卒業して、チャールズは警部に昇進した。まさか娘がプリンストンに入れるとは思っていなかったが、ケイト・ヘイワースはなんとか名門大学に滑り込み、次の夏にはハルキ・ムラカミの講義を受けるまでになった。進学と同時に、彼女だけがこちらに移り住んだ。
確かにプリンストン大学に通うにはこの屋敷の方が近かったが、そうは言っても、大学とブルックリンのマンションは片道一時間だ、二十分と一時間の間にどんな差があるというのだろう? チャールズは義理の娘の独立に強固に反対したが、最後にはついに折れた。ケイトがどうしてもおばあちゃまのお家に住みたいと言って聞かなかったのだ。
それから、大学生活の合間に、彼女はこの館を少しずつ改装していった。大学を卒業してからは、ロックウェル屋敷を完璧にすることに心血を注いだ。
「でも、元々の雰囲気は残したの。納屋いっぱいのアンティークを処分するなんて、そんなことできないわ。きっと全部、おばあちゃまの宝物だったのよ」
ケイトの言葉どおり、居間には古色蒼然とした英国調の品々が、家具から小物まできっちりと揃えられていた。赤い花崗岩の暖炉では、こんな春先でも薪が燃やされ続けている。マントルピースの上にはティファニーのランプが飾られ、床には赤と黒のチェッカー模様に仕立てられたムートンの絨毯が敷かれていた。がっしりとした脚と天板が見事なマホガニーのテーブルの回りには、揃いのダイニングチェアが六脚、整然と並んでいる。オールドローズの木彫が美しい骨組みに、同じく花模様のゴブラン張りの椅子だ。天井にはシャンデリアすらあった……まるで、ヴィクトリア時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚える。ゆらゆら揺れる炎がLEDランプ式だと知っていても。
「こんなに素敵なお家に住めるなんて、全部おばあちゃまのおかげよ。わたし、おばあちゃまがすごい資産家だなんて知らなかったから、びっくりしちゃった」
「私もだよ」
義理の娘の言葉に、チャールズは正直に答えた。
「キャロラインも知らなかった、というより、アンジェラおばあさま自身が知らなかったようだ。おばあさまが相続してそのままになっていた株が、上場したばかりのロックフェラーのものだなんてね」
ミセス・アンジェラ・ロックウェル、チャールズの義母がとてつもない資産を所有していることが分かったのは、アンジェラとキャロラインが亡くなってから数日後、遺品処分のために業者と公認会計士がこの館に入ったときのことだった。
彼らが古びた屋敷の奥にある書斎から見つけたのは、これまた今すぐビンテージ品として高値が付けられそうな金庫だ。
そして、そこから出てきた株券や証書の数々に、公認会計士は我が目を疑ったことだろう。
ほこりをかぶって小さな手提げ金庫に眠っていたのは、ほとんどが、かの有名な石油王ジョン・ロックフェラーのスタンダード・オイルのものだった。
それも、遺産税が発生しないギリギリの、四百八十六万ドルと少し。
ロックウェル夫人やキャロラインの質素な生活からは想像もつかないほどの大金だ。
それについては、ケイトが悲しげな作り笑いを浮かべて、義父の手をそっと握った。
「すごく大昔の話だもの、ロックウェルのおじいちゃまも忘れてたんじゃないかしら。株を買ってたのだって、たまたま苗字が似ていたから、とか、ロックフェラーさんがいい人そうだったとか、そんな理由で……投資って言うより、応援みたいな感じだったんじゃないかな。おじいちゃまって、つまりキャリーのパパってことでしょ? そういう優しそうな人だった気がするわ」
アンチ・トラスト法によって巨大石油企業が解体され、ロックフェラーが分割されて子会社のジャージー・スタンダードとなり、さらにスタンダードを冠する各社に分散してからも、また社名がハンブル石油、エクソン化学となっても、アンジェラはそれらの株を手放さなかった。ブラックマンデーの時でさえ。
その全てを、ケイトは相続した。
キャロラインは義理の娘に自分の財産の全てを与えるという遺言状を、夫には内緒で作っていたのだ。もちろん彼女は、自分自身がそんな資産を持っていることなど知らず、ただ万が一の時に生活の足しになるように、あるいは彼女名義の車を売るのに不自由しないようにという程度の気持ちだったのだろうが。
「それがこんな形で帰ってきて、君には良かった。実のご両親の遺産を全て寄付してしまった時には、私は正直、少し心配になったんだよ」
心から安堵した様子で語る養父に、彼女は以前と変わらぬ屈託のない笑顔を向ける。
「そりゃあそうよね。とんでもない額だったし、あたし一文無しになっちゃったし」
と、少し目を伏せて……以前よりも大人びた表情に変わった。
「でも、あのお金でちょっとでも助かった人がいるなら、あたしはそれでいいの」
あの日以来、彼女がずっと苦しんできたのは、チャールズが誰よりよく分かっている。
「本当に辛い経験だった。君が立ち直ってくれて嬉しいよ」
実の親であるアンディ・ブラックブッシュが稼ぎ出した違法な金より、血のつながりのない、顔も知らない義理の祖父が遺してくれたものを、いま彼女は大切に使っている。それだけで、チャールズは満足だった。
「まあ、いいからそこに座ってよ、パパ。立ち話も何だし」
「どうぞこちらに」
と、さりげなく椅子が引かれ、チャールズはゆったりと腰掛けることができた。ちょうどマホガニーのテーブルに肘をつける位置だ。本当に、この家の執事は心遣いが行き届いている。
「ポール。いつも娘の世話をありがとう」
「滅相もございません、わたくしは、奥様の……いえ、アンジェラ様の代からお仕えさせて頂いております。こうしてケイト奥様にも変わらずご奉公できるだけで光栄の極みでございますよ、大旦那様」
ミセス・ロックウェルの時代から、この家の全てを取り仕切っている執事は、慎ましく頭を垂れた。
だが、チャールズは苦笑いを浮かべて、軽く片手を振る。
「気持ちは嬉しいんだがね、ポール。その、大旦那様っていうのはまだ慣れないよ。急に自分が年老いたように感じる」
「そりゃそうでしょうけど、パパよりポールが困るのよ」
くすくす笑いとともに、この館の現在の女主人が言うと、執事は申し訳なさそうに、痩せた体をいっそう小さくした。
「申し訳ございません、大旦那様」
と、彼が深々と頭を下げるのを見て、ケイトは使用人の意見を代弁するように頷いた。
「いいじゃない。グランドマスターなんて、めっちゃチェスがうまそう」
「分かっているつもりなんだが、どうも馴染まなくてね」
「いい加減慣れて。おじいちゃんなんですもの」
ケイトの青い瞳が悪戯っぽく輝く。
ほぼ同時に、広間の奥の扉から、真っ白な毛布に包まれた宝物を抱いた青年が顔を見せた。
「ああ、もうお着きだったんですか、お義父さん」
彼の氷のように青い瞳をまっすぐに見つめながら、チャールズは口元だけに笑みを浮かべる。
「やあ、ルーク」
いささかよそよそしい挨拶だと自分でも思ったが、内心では、青年の落ちついた振る舞いも、逞しいが引き締まった体型も、実に好ましく思っていた。
何より、彼が抱いている存在は、何もかも忘れさせてくれる。
「来てくださって光栄です。さあ、ベイビー。可愛いヴィクトリア。おじいちゃまにご挨拶しようね」
雪のように白い毛布の中の赤子が、名前の通り天使のようなあどけない目で、血のつながっていない祖父へと手を差し伸べた。
「やあ、可愛いヴィッキー。おじいちゃんが遊びにきたよ」
チャールズは自分の顔がだらしなく緩むのを恥ずかしく思いながらも、それを止めるつもりは毛頭なかった。
「喜んでます」
婿が言うまでもなく、この小さな赤ん坊は、いや、彼らのお姫様は、チャールズの来訪に喜んでいた。曇りのない瞳でじっとチャールズの顔を見つめ、乳児独特の無邪気で甲高い笑い声を絶えず漏らしながら、その小さな手を彼へと差し伸べて。
「本当に可愛い孫だ」
チャールズは感に耐えかねたように呟きながら、ヴィクトリアの小さな手を握り返した。
そう。今ではまるで、遠い昔のことのように思える。
初めてルークに紹介されたあの日。それはちょうど、今ここと同じ、ロックウェル屋敷の居間だった。
「ルーク・フロストと言います。初めまして、ミスター・ヘイワース」
「よろしく、ルーク。チャーリーと呼んでくれ」
チャールズの言葉に、青年はきっぱりと言ったものだ。
「いえ……お義父さんとお呼びしたいんです。お許しが頂けるなら」
「そうか。なるほど」
と、少し考えてから、チャールズは刑事特有のまなざしで、可愛い義理の娘のお相手を、油断なく観察したものだった。
だが、ケイティは青い目にそれ以上に輝く涙を溜めて、遠慮がちにこちらを見たのだ。
「あたし、パパのことが本当に大好き。パパと一緒にいられる時間だけ、あたしは安心できた。パパはいつだって、あたしのために何でもしてくれる。必ずあたしを守ってくれる。初めて会ったときからずっとね」
今にも泣き出しそうな声で、途切れ途切れに言った。
何もかもを鮮明に思い出すことができる。いや、忘れることなどできない。
かつて同じ部屋に暮らしていた時、彼女はいつも脅えていた。そのドアの向こうには殺し屋がいるのではないかと、自分はもうすぐ殺されるのだと、そんな恐怖に取り憑かれ、そればかり考えていたのかもしれない。
「でも……パパの傍にいたら、あたしは自分が本当にケイト・ヘイワースなんだって信じられた。敵なんていない、ただの女の子だって」
本当に大切な秘密のように、彼女は打ち明けたものだ。
「ルークといるとね、パパといるときと同じくらい安心なの。ルークは、あたしのこと普通の女の子として扱ってくれる。あたしのためなら何でもしてくれる。あたし、パパ以外にこんな人がこの世にいるなんて思ってなかった」
ケイトが自分の人生どころか、十代の少女には当たり前の暮らし、将来への夢やちょっとした希望、それに、恋愛……初恋すら諦めていることくらい、高校時代からチャールズには分かっていた。
いや、ケイトが抱えていたのは諦めだけではない。家族を失ったことを、ずっと自分のせいだと責めていたのだ。
目の前で、愛する家族が無惨に命を奪われるなど、あってはならないことなのに。
それが再び起きたことで、彼女は当たり前の幸せなど享受してはいけないのだと、永遠に自らを罰し続ける覚悟を決めてしまったのかもしれない。
だからこそ、ケイトはチャールズのもとを離れて、ニュージャージーの大学に進むことを選んだのだろう。
親の愛情ですら、彼女は自らに許さなかった。それほどまでに自分を責め、後悔に打ち拉がれていた。
しかし。
「突然、あたしの人生に彼が現れたのよ。あたし、白馬の王子様や守護天使の来訪を待つほどロマンチストじゃないのに。あたしになんか、こんな恐ろしい生い立ちの女になんか、恋をする資格なんかないって思ってたのに」
と、声を詰まらせた娘に、そっとハンカチを差し出す青年を見た時、チャールズは確信した。
「恋に落ちるときは、理屈などいらないものだよ」
大切な我が子が、ようやく人並みの幸福を味わえるくらいに立ち直れたのだと。
仕事柄、犯罪被害者はたくさん見てきた。特に、家族が殺される現場に立ち会ってしまった被害者は、生き残ってしまった自分を責める。被害者だというのにいわれのない罪悪感に苦しめられ、自殺する者も少なくない。
「あたし、彼を愛してる」
だが、ケイトはついに、自分の人生、彼女だけの幸福を得るために一歩を踏み出したのだ。
「だから、パパに許してほしいの。彼と……ルークとのことを」
「もちろん許すとも」
そうとしか言えなかった。
反対する理由などない。
「娘をよろしく頼むよ、ルーク」
青年の手を握った時、チャールズは自分の目頭が熱くなっていることを自覚していたが、それを悟られまいと伏し目がちになった。
きっと彼は、ケイトの人生にようやく差し込んだ一筋の光なのだ。
だが、さほど時間を置かずに冷静さを取り戻してからは、うっかり職業病が出た。
「ところで、ルーク」
と、目の前の青年に対して、不躾にも矢継ぎ早に質問を繰り返してしまったのだ。
経歴、家族構成、職業、趣味……あまりに根掘り葉掘り訊ねるものだから、ついにはケイトが呆れ顔で釘を刺したものだ。
「パパ。尋問は取調室でやって」
「すまない。ついね」
気恥ずかしげに笑ったチャールズにも、ルーク・フロスト青年は屈託のない笑顔を浮かべた。
「ケイト、当たり前だよ。お義父さんは君のことが心配なんだ」
それから、真顔になってこちらを向き。
「どんなご質問にもお答えします。何でも仰ってください、ヘイワース刑事……いえ、お義父さんとお呼びします」
何の恥じるところもない目で、チャールズの目をまっすぐに見た。
その視線には、青年の誠実な人柄が滲み出ていた。
結局、チャールズ・ヘイワースが聞き出せたのは、娘の恋人が生まれも育ちもニュージャージーだということ、州兵としてアフガニスタンに行ったこと。かつてはしがない港湾警備員だったが、今は小さな警備保障会社を経営していること、両親は他界していて家族は姉一人だということ。趣味はバスケットボールで、尊敬するのはニュージャージー・ネッツの象徴たる往年の名プレイヤー、ジェイソン・キッド。そのくらいだった。
何の瑕疵もない人生に、チャールズは内心満足していた。
「おい、ルーク。わたしの娘を泣かせたら許さんぞ」
「分かっています」
そんなやり取りの末に、金髪の青年はケイトの足下に跪き、義理とはいえ父親の見ている前で指輪と永遠の愛を捧げたのだ。
「結婚してください、ミス・ヘイワース」
ケイトはためらい、恥ずかしがりながらも、彼の差し出した指輪を受け取った。
「はい、ルーク・フロスト」
結婚式が行われたのは、それからすぐのことだ。
お互いの家族やごく親しい友人だけを招いたささやかなものだったが、真っ白なウェディングドレス姿のケイトを見られただけで、チャールズは満足だった。ウェディングケーキは、ミスター・コロンバスが丁寧に作ってくれたものだった。
妊娠を知ったときのケイトの喜びようといったら。
彼女は本当に喜んでいた。あたしの赤ちゃん、あたしたちの大事な赤ちゃんと、何度も繰り返し、涙さえ浮かべた。
まだ平らだったおなかを大切そうに撫でる義理の娘の姿に、チャールズは思わず溜め息をついた。
彼の知っているケイトは……いや、アリス・ブラックブッシュは、血のつながった家族をすべて失っている。幼い彼女の目の前で無慈悲に殺された。実の両親も、姉妹も。
だから、自分の家族を持つことが、とても特別なことに思えたのだとしても、何の不思議もなかった。
まだほとんど目立たないおなかを、てのひらを重ねて撫でている若い二人の姿は、本当に幸福そうだった。
やがて、ヴィクトリアが産まれた。
初めて孫を抱いた時、チャールズは鳥肌が立つほどの感動を味わったものだ。定年前に孫ができるなど、想像もしていなかったが……本当に、目の中に入れても痛くないとはこのことだった。
「天使のような女の子だ」
そう呟いて、赤ん坊の柔らかな頬をつついた午後のことを、彼ははっきりと思い出せる。
回想の海から今このときへと戻って、チャールズは笑った。
「ああ、そうだ。ケイティ、お土産だよ。コロンバス・ダイナーのドーナツとチーズケーキだ」
「わあ、パパ、ありがとう!」
「ルークのニュージャージーへの愛情はよく知っているが、これだけのチーズケーキを出す店はニューヨークにしかない、そうだろう? だが、ヴィッキーにはまだちょっと早いかな」
そう冗談めかして言ったチャールズ・ヘイワースは、まだ知らない。いや、これから先も知らないだろうし、もし知ったとしてもただの偶然だと思うだろう。
ヴィクトリア……ルークとケイトの娘の誕生日は、グリフィンとサラ・ライオット夫妻の一人娘・メラニーと同じ、五月二十日だった。
「そうね。これ食べられるようになったら、彼女もきっと夢中になるわ。あたしみたいに、ニューヨークが大好きになるわ。きっとね」
ケイトはいつもの、悪戯っぽく青い瞳を輝かせる魅力的な微笑を浮かべた。
「ニューヨークってやっぱりサイコーだもの」
彼女の言葉は本心からだったろう。
ニューヨークほど、ケイト……いや、チェシャの目的を果たすのに都合のいい都市はなかった。
さよう。ニューヨークならば。
何度も映画やドラマの中で幾度も繰り返されている台詞の通り、金さえあれば何でもできる。
それがどんなに恐ろしい、倫理に背くことであっても。
彼女は、不道徳だが信頼できる医者を、金の力によって計画の一部へと引き入れた。
今やNHLの強豪、ニューヨーク・レンジャースのスタープレイヤーであるグリフィン・ライオットとその妻の産婦人科医は、実に協力的だった。まだ結婚してから二年しか経っていない夫妻に、不妊の疑いがあると診断し、排卵促進剤で受精卵をいくつも生み出して、そのうちのひとつを、そっと隠した。
グリフィンの……いや、サラの受精卵を手に入れることも、たった百万ドルだった。
それがニューヨークだ。
そうして妊ったのがヴィクトリアなのだとは、チャールズは永遠に知ることはないだろう。
「あたし、ヴィクトリアを授かって、本当に幸せよ」
チェシャは満足げに笑い、愛しい我が子と愛する夫の頬にキスした。
「この子は、あたしたちの宝物なの」
心から、チェシャは言った。
彼女の輝くばかりの笑顔に、真意の奥に隠れた本当の目的を知っている者は、苦笑を浮かべるか、この下らない三文芝居に付き合うかを選ばなくてならなかったかもしれない。
なぜなら。
ヴィクトリアは、ケイトの……ケイト・ヘイワースとルーク・フロストの娘ではなかったからだ。
本当のアリスの赤ちゃん。
盗み出された、サラ・ライオットの受精卵。
この計画を始めたときは、ただ同じ背格好で、見た目も似ている替え玉を……自分と同じ役割を果たすだけの存在を生み出すのだと思っていたけれど。
実際には、受胎した赤子には想像もつかないほどの価値があるのだと知った。
たとえば。
病気や事故で、グリフとサラの間に生まれた子供に、臓器移植が必要な状況が訪れたとしたら。
彼女と全く同じ遺伝子を持っているのがヴィクトリアなのだ。皮膚でも腎臓でも角膜でも、
たとえそれが心臓だとしても、わたしの娘は喜んで我が身を捧げるだろう。
だが、そんなことは、パパとは何の関係もないことだ。
「パパ、ありがとう。コロンバスさんのお店のドーナツ、あたしずっと食べたかった」
義父の手土産の紙箱を開け、そこに整然と並んでいる、小ぶりで手の込んだドーナツをうっとりと眺めながら、ケイトは夢でも見ているような口調で言った。
「ニューヨークから離れるなんて……いいえ、パパと離れてニュージャージーに住むなんて、そんなの間違ってるって、パパを悲しませるって、ずっと自分を責めてたの」
と、チャールズにとっての……いや、チャールズが望んでいる『真実』を、彼女は囁くような声で告げる。
「でも、ルークと出会って、恋をして、こうして、ヴィクトリアを授かって。あたし分かったのよ。全部、神様は分かってらっしゃるって」
まさに、それらの文言は天啓のように、あるいは神託のように、チャールズの耳に響いた。
「何もかも、あたしの身の上に起きたことは、神様がなさったこと。誰も恨まないし、憎まない。あたしにはルークと、ヴィクトリアがいる。そう決めたら、肩の荷が下りたわ。だって、そうでしょ? あたしはずっと、パパやママに守ってもらう側だったけど、この子のことは、あたしが守るんだから」
と、覚悟を滲ませてそう言いきったケイトへと、すみやかに伸びる一本の腕があるのを、チャールズは見逃さなかった。その長い腕は、長い黒髪の頭を優しく抱き寄せる。
「君だけじゃない。俺たちが守るんだ。みんなで」
「そうね。あたしたちで」
ルークの逞しい胸に抱き寄せられて、満足げに微笑み返すケイトの目は、むしろ危険を待ち構えるかのようにギラギラと輝いていたものだが。
チャールズは、それには気付かなかった。
ただ、当たり前のように頷いていた。
「もちろんだ。私は全力で、私の孫を守る。守ってみせる、今度こそ」
あの日、妻を守れなかったチャールズにとって、それは尊い義務だ。
そして、意図するところは違っていても、この場にいる者全てにとっても。
必ず成し遂げられなくてはならない。
ヴィクトリアは、わたしたちの大切なアリスの娘なのだから。
チャールズは、窓の外を眺めながら、感極まったように呟く。
「君と出会って、今日でちょうど十年だ」
そう。今日は四月十三日。
あの運命の日と同じ日付。
今はもう死んでしまった、自らによって存在をこの世から消し去られた、かわいそうな女の子の誕生日。
いや……
「素敵な十年だったわ。パパ」
何の屈託もなく微笑む彼女の青い目を見たら。
エラ・ドレイクがかわいそうだなんて、誰にも言えなくなるだろう。
「これからも、素晴らしい人生を」
そう。
彼女の人生は素晴らしい。
愛するアリスのために我と我が身を捧げ続ける、こんな特別な幸福を、仲間たちとともに味わっているのだから。
今までも、これからも、全ては素晴らしい。
何の悩みも不安もないまなざしで、ケイトはにっこりと笑った。
「ねえパパ、ドーナツ食べない?」
「いいね」
チャールズが頷くと、執事のポールがけたたましく呼び鈴を振り回しながら叫んだ。
「おい誰か、今すぐお茶の支度を!」
「はーい、いまお持ちしまーす」
「ぐすぐすしなさんなよ!」
いかにも慌ただしく、しかも全てが用意周到に、きちんと温められたウェッジウッドのティーセットと、カバーを被った揃いのティーポット、皿やシュガーポットやミルクサーバーなど、ワイルドストロベリーシリーズのテーブルウェアが、シルバーのトレイに乗せられて運ばれてくる。最後にメイドの一人が恭しく持ってきたのは、チャールズが買ってきたコロンバス・ダイナーのドーナツの箱だった。
その紙製のボックスに貼られた封用のシールに、ケイトは思わず目を細める。
そこには、青い文字でこう書いてあった。
わたしを食べて。
執事によって紙箱が開かれようとしたその時。
ポールは不意にその手をとめ、玄関へと顔を向ける。
「ああ、またご来客ですね。奥様、ちょっと失礼致します」
呼び鈴の音などしなかったはずなのに、彼は扉を開ける。
「いらっしゃいませ、お客様」
執事のポール……いや、『イカレ帽子屋』が、待ち構えていたかのような笑顔で迎えてくれる。
「お茶会へようこそ」
扉の前にいるのは、そう、あなたです。
(この先は、あなただけのお話)
欺瞞の国のアリス 猫屋梵天堂本舗 @betty05
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