第17話 恋の終わり

 葬儀を知らせる鐘が厳かに鳴る中、二つの棺が深い墓穴に納められ、少しずつ土で覆われていく。

 金の十字架を嵌め込んだ棺が見えなくなるまで、チャールズ・ヘイワースはその傍らに立ち尽くしていた。

 スコップで親族や友人が土をかけるのは最初だけで、後は葬儀社が小型重機で土を被せ、しっかりと押し固めて、上に墓標を置く。

 チャールズが妻と義母のために選んだのは、飾り気はないが美しい、白い大理石の十字架の墓標だった。

 アンジェラ・ロックウェル、誇り高き淑女、ここに眠る。

 キャロライン・ヘイワース、心優しきひと、よき母、永遠の愛とともにここに眠る。

 墓碑銘は、葬儀屋が差し出したサンプルの中から、チャールズが選んだものだ。もっと気が利いた文言や、オリジナルの愛の言葉を彫刻する家族も近頃は多いそうだが、彼の選択はごく短い、端的かつ普遍的な言葉だった。

 棺の中で、二人の女は今、ただ静かに永遠の眠りを過ごしている。

 雨が降ってきた。

 まるで、泣くことを自らに許さないチャールズの代わりに、雲が涙を流しているかのようだった。

「パパ。大丈夫?」

 喪服に黒いヴェールで顔を半ば覆った少女が、後ろからこうもり傘をさしかけた。

「ありがとう」

 傘を受け取り、義理の娘の細い肩をもう片方の腕で抱きしめながら、チャールズは悲しげに言う。

「ケイティ、君こそ辛いだろう」

「それでも、パパが一番辛いのは分かってるつもり」

 血のつながっていない父と娘は、一つの傘の下で寄り添いながら、真新しい墓標が建てられるまでをずっと見ていた。

「言ったっけ。ママは最後に、パパに愛してるって伝えてって」

 娘の言葉に、チャールズは悲しげに微笑んで呟いた。

「そうか」

 妻の真新しい墓標の上に、赤いバラの花を一輪捧げながら、彼はかつてと同じように言う。

「私も愛しているよ、キャリー」

 雨脚が強くなってきた。

 チャールズは義理の娘の体を自分のコートの下に抱えるようにして、車まで歩いていった。

 二人とも、振り返らなかった。


 自宅に戻ると、あれほど手狭に感じていたはずのマンションの一室が、急に広くなったような……いや、がらんと空虚な印象を与える空間に変わっていた。

 そのテーブルの上に、無造作に銀色のトランクが置いてある。

 チャールズはそれを開くと、中身を義娘に見せた。

「これが君の相続する資産だ。純金のインゴット、千六百万ドル相当の」

 まさしく黄金そのものの色に輝く、四角い塊がいくつか、トランクの中に詰め込まれていた。相当に重いはずだ。物質的な重量もさることながら、その価値も大きい。

 しかし、少女はほとんど迷いなく言った。

「そう。これは、やっぱり教会に寄付するよ。あたし、神様にお許しを請いたい」

 そのとき、大きな青い目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出して、金塊の上にまで落ちた。

「こんなことで許してもらえるなんて思ってないけど、でも」

 少女は呻くように、喉から何とか絞り出したような声で、切れ切れに呟く。

「ごめんなさい、パパ。ママはあたしを守って死んだの。あたしが……」

「ケイティ。君は悪くない」

 チャールズは思わず義娘を抱きしめた。

 そのときになってようやく彼は、自分の娘が……彼女の顔が、覚えているよりもずっとやつれていることに気付いた。目の下には深い隈ができ、唇は割れ、頬に血の気がほとんどなかった。

「おばあちゃまは、少ししか話せなかったけど、素敵な人だった」

 少女はしゃくりをあげて泣き続けながら、ひたすらに自分を責め続けているようだった。

「全部あたしが悪いんだよ。あたしは祖母の家で誕生日を過ごすって、学校に届けを出して金曜から休んだ。クラスメートにも言ったし、司書先生にも、図書室に出入りしてる人もみんな知ってる。コロンバスさんとこでドーナツいっぱい予約したし、おばあちゃまにプレゼントを選んでた間に立ち寄ったのはバーグドルフ・グッドマンだよ。ママがお誕生日プレゼントにって言ってくれたから、ドルチェ・アンド・ガッバーナで新しい靴も買った。デパートの店員さんならみんな知ってておかしくない」

 言いながら、彼女はがたがた震え出した。その時のことを思い出したのか、それとも一層強い罪悪感に身を焼かれたのか。

「おばあちゃまに初めて会えるって嬉しくて、目立つことしちゃった。そのせいで、ママが……」

「違う、君は何も悪いことはしていない、ケイティ」

 キャロライン・ヘイワースの運転する車を襲ったのは、ドラッグで廃人同然にされた青年だった。地元警察に、路上で銃を乱射しながら喚き散らしている男がいると何件も通報があり、その場で逮捕された。

 彼に大量のコカインとメタンフェタミンを売っていた売人の元締めが、IRAの関係者だというところまでは突き止めた。だが、そこから先は、まだ分からないそうだ。

 どうしてあの日、ケイト・ヘイワースの……いや、ブラックブッシュ家の資産相続人の居場所がIRAに知られたのか、それはまだ分からない。だが、あれほど強固で過激だった組織だ。どこに内通者や密告者がいてもおかしくはなかった。

 現場がニューヨークならば、自分が何としてでも黒幕を突き止めただろうに。

 管轄外の事件、しかも犠牲になったのが自分の家族となれば、チャールズは完全にこの事件からは切り離される。捜査状況を知りたくても、上から「公式見解の書かれた書類を読め」か「ニュースを見ろ」の一言で済まされるだろう。

 そう思ってから、チャールズは自分の立場を改めて思い返し、途方に暮れるしかなかった。

「ケイティ、君は悪くない。何も悪いことなんかしていないよ、少しもだ」

「でも、本当にごめんね。ごめんなさい」

「謝らないでくれ。君は悪くない。本当に」

 それでも、少女は涙を流し続けた。涙でこの部屋が海になるまで、自分が溺れるまで、泣き続けるようにさえ見えた。

「ひとつだけ、忘れないでほしい、ケイティ」

 そんな義理の娘の手を取って、チャールズはただ、心から言った。

「君は私とキャリーの、大事な娘だ。君のためならどんなことでもする。キャロラインは、彼女のなすべきことをしただけだ」

 義父の言葉に、少女は泣き顔に無理矢理笑みを浮かべた。

「ありがとう、パパ。愛してるわ」

「私もだ、ケイティ。君がこうして生きていてくれて、私もキャロラインも、本当に嬉しいよ」

 涙に濡れた純金のインゴット、英国造幣局の刻印が押された四角い金の塊が、金属製のトランクの中で静かに光っている。

 ただし、彼女は、その四角い金色の物体が、三ミリも削れば鉛と銅の合金で重さの調整を計っただけの、実にお粗末な偽物であることを知っていたけれど。


 数日後、まだ午前中の光の差し込む無人の教会で、チャールズは末席に座り、静かに頭を垂れていた。

 神様を心から信じたことは、今まであっただろうか。彼は自問自答する。事件、証拠、殺人、死体、そんなものに慣れすぎたせいで、自分は信仰心を失いかけていたのかもしれないと。

「改めてお悔やみを申し上げます、ヘイワース刑事、いえ、チャールズさん」

「ラドクリフ神父。妻と義母の葬儀の時にはありがとう。感謝します」

「いえ。私で何かお力になれることがあれば、何でも仰ってください」

 若い神父が神妙な面持ちで告げるのを、チャールズは救いを得たような気持ちで聞いた。

「私より娘の……ケイティの力になってもらいたい。娘は、キャロラインの死は自分のせいだと思っている。自分を責めているのです」

「無理もありません。お嬢さんは、繊細で優しい心をお持ちです。とても傷ついていらっしゃるでしょう」

 と、神父は言葉を切り、眼鏡の奥から、穏やかなまなざしでこちらを見つめた。

「ですが、それはあなたも同じですよ、チャールズ」

 自分よりもずっと若い人物にファーストネームで呼ばれることに、何の違和感も覚えなかったことを、チャールズ・ヘイワースは後になって思い出すだろう。

 ラドクリフ神父は静かな、しかし心に訴えるような力強さのある声で続けた。

「差し出がましくて恐縮ですが……私は、あなたのことも心配です。奥様をこんな形で亡くされるお気持ちはいかほどか、私などには計り知れません。あなたもとても傷ついている。愛するものを失うのは悲しいことです。私にはあなたが、嵐に必死に耐えている木のように見えます。大地に張った根が次々と引きちぎられ、枝が折れていくのを、ただじっと耐えているように」

「実際、今にも折れそうです。後悔ばかりで、胸が締め付けられるようだ。私には、妻を殺した犯人を逮捕することすら出来なかった」

「無理に忘れようなどとはなさらない方がいい。あなたのお心が奥様を思っておられるかぎり、奥様はあなたの中で生きていらっしゃる。あなたは何も、決して悪くない。誰もあなたを責めはしません」

 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかったのかもしれないと、チャールズ・ヘイワースは思った。

 事実、逃げ出したいとすら思ったほどひどい重荷を、もう一度背負い直すことが出来た。

「ありがとう」

 それは、心からの感謝の言葉だった。

 チャールズはようやく、自分の足が現実の大地を踏みしめているのだと実感できた。

 同時に、目の前にいるこの男になら、義理の娘の希望を託せると信じた。

「ケイティ……私の娘は、実の親から相続した資産を、教会に寄付したいと言っています。千六百万ドルほど」

「そのお話はお嬢さんからも伺いました。恵まれない方々のために使いましょう。ですが、額が大きすぎます。教皇庁か、米国カトリック教会に私を通じて寄付なさることになると思いますが、それでも構いませんか? 私は一応、バチカンの人間ですので」

「娘の気の済むようにさせてやりたいのです。それで少しでも……二度も親を失った悲しみが軽くなるなら」

「分かりました」

 神父は軽く頷いてから、改めて真摯な口調で話題を変えた。

「お嬢さんには、進学を勧めておきました。今のご自宅から通える大学がいくつかありますし。奥様の思い出を考えたら、転居もお考えになっているかもしれませんが」

「いえ、まだ、しばらくは……私は、あの部屋に住むつもりですが。娘の進学の件、感謝します」

 チャールズは躊躇いがちに言った。実際、自分でもどうしたいのか、まだ決めかねている。たった三ヶ月弱一緒に住んだだけの部屋だというのに、あの場所にはキャロラインの思い出が詰まっていた。逃げ出したい気持ちになることもあれば、永遠に留まりたいと思うこともある。

「高校の方は、しばらく休んでも大丈夫でしょう。お嬢さんの成績なら、試験の当日に間に合わなくても、追試を受ける権利があると思いますし」

「ご配慮ありがとう」

 自分以外に、こんなにも真剣に娘のことを考えてくれる人間がこの世にまだ残っていてくれたことに、チャールズは感謝した。この若い神父にではなく、彼を遣わした神様に。

 ラドクリフ神父は、肩越しに教会の窓を振り返り、広い校庭を眺めやった。

「それに、今は……校内は、プロム・パーティーの準備で、とてもにぎわっているのです。華やかな雰囲気で気が紛れるほど、ケイトさんの心の傷が浅いとは思えませんので」

「シニア・プロムは一生の思い出になるのに。こんな形で出られないのは、心が痛む」

 高校卒業のプロム・パーティーは、多くのアメリカ人にとっては人生で最高の瞬間であり、ごく少数派は最悪の瞬間として、どちらにしろ深く思い出に刻まれるものだ。どんなドラマでも映画でも描く。

 華やかな楽しいパーティー、きらきらした希望に満ちた子供時代との別れを告げるための、最後のお祭り。

 だが、そんなものは、今の親子にとっては、確かにあまり意味がないものかもしれなかった。

「少し休まれるべきです。お嬢さんと一緒に。でないと、二人とも折れてしまう」

「ありがとう。本当にありがとう、神父さん」

 そのときようやく、チャールズ・ヘイワースは気付いた。

 真剣に自分のことを考えてくれる人間がいたことを、いま心から嬉しいと感じている。

 娘のことでも妻のことでもなく、本当は自分のことだけで頭が一杯だということにも、同時に気付かされた。

「なぜ、彼女たちを行かせたのだろう。私が一緒なら守れたかもしれない。私なら彼女を守れたはずだ。どうしても、そう考えてしまう」

 彼は我知らず、両手で顔を覆っていた。

 鍛え上げられた逞しい肩が、今は小さな子供のように震えている。

「実は、私は……キャロラインの母、アンジェラに、二回しか会ったことはないのです。それも、もう高齢の彼女の方がわざわざニューヨークへ来てくれて、名の知れたレストランで食事をした程度の付き合いでした。私は仕事を理由にして、妻の実家に寄り付くことを避けていた。過去のキャロラインを知りたくなかったのかもしれないとすら思います」

 キャリーを幸せにしてやってね、チャーリー。

 最後に会ったとき、アンジェラが別れ際に言った台詞だ。自分は、そんなささやかな、当たり前の頼みにさえ応えられなかった。

「私は愚かで無力な男だ。大馬鹿野郎だ。生きている価値もない」

 涙と一緒に胸の内を吐露するのは、懺悔というべきものなのだろうか。心から自分を罵りながら泣くというのは、正しい告解なのだろうか。いま自分がしているのが教会にふさわしい行為なのか、刑事であるチャールズには分からない。

「あなたは、ケイトにとって、ただひとりのお父様ですよ。チャールズ。生きなくては」

 神父の声は穏やかで、綺麗だった。

 いや、神父というものが神の代理人ならば、今の言葉はきっと、彼と神を通じて聞こえてきた、天国からの声だろう。

 そう思えたら、自然と涙は止まり、自分がただ悲しみに溺れて酔っているだけの惨めな男に過ぎないと笑えるような気持ちになった。

「そうですね。きっと、妻もそう言うでしょう。お見苦しいところをお目にかけて、申し訳ない」

「いいえ。私に心を開いてくださってありがとう、チャールズ」

「こちらこそ、ありがとう。ラドクリフ神父」

 ヘイワース刑事は、自分から握手を求め、神父も手を握り返した。

 それがジャック・ラドクリフ神父との最後の別れになることを、彼はまだ知らない。

 若き天才、ジャック・ラドクリフは、教皇庁から帰還命令が出ている。この春が終わると、彼はニューヨークを去る。いや、ジャック・ラドクリフという人間そのものが、消えてなくなる。ありとあらゆる記録から、その名前も経歴も抹消される。

 まるで、ゆらゆら揺れる幻のように。

 六月の卒業式の祝辞は、新しい……本物の神父がやってきて、述べることになるだろう。


 四月も終わりに差しかかった、プロム・パーティーの夕刻。

 ニューヨークのブルックリン橋の周囲にも、チェリー・ブロッサムが満開だ。

 夕暮れの桜は美しい。月が昇りかけている今が、最高の瞬間だ。

「今頃はプロムで、サリーがプロム・クイーンに選ばれてる頃ね」

 少女は目を細め、まるで目の前に女王の冠を付けた彼女が立っているかのように微笑んだ。

「だね」

 隣に腰掛けた少年も、小さく頷く。

「きっと空色のドレスよ。輝くブルー。あの子にしか似合わないわ」

 誰もを虜にするあの瞳、あの最高の笑顔。それは、サリー……いや、アリス・ブラックブッシュが、父イーサンから受け継いだ最高の遺産だ。

 ケイト、かつてのエラは、イーサン様が大好きだった。初恋の人というものがもしいるのだとしたら、彼だと答えるかもしれない。いや、それはまだ子供だったエラの純真な憧れで、恋ですらなかった。

 だから彼女は、イーサンと同じ目を持っているアリスのことが好きだった。大好きで、羨ましくて、彼女のために全てを捧げると誓った。

「王様はグリフしかいない。お似合いのカップルだよ」

 モーリス・タートルズだけは、彼女の真意を知っている。

 サラ・ゴールドのためになら、ケイト・ヘイワースは……いや、エラ・ドレイクは喜んで死ぬということを。

「モーリー、あんたはプロムの方へ行けば良かったのに」

「誘う相手がいないよ」

「隣のクラスのクリスタ・リンドバーグは? チェスであんたの相手できる子なんて、珍しいじゃないの」

「クリスタ? あの子はアレックとプロムに出てる」

「あら、アレックって、あのアレクサンダー・フラワーズのこと? あいつもやるわね、ピアノしか取り柄がないと思ってたわ、あのポニーテール野郎」

「でしょ? 僕なんてお呼びじゃないよ、だいたい身長が足りない」

 ごく当たり前の高校生のように答えながら、『偽海亀』は密やかに笑った。

 今となってはもはや、そう簡単には死ねない存在に、ケイトはなってしまった。

 そしてサラとグリフィンは、もうすぐケイトにもモーリスにも手の届かないところに行ってしまう。

 サラ・ゴールドとグリフィン・ライオットが歩むのは輝かしい世界だ。そして、自分たちは影の世界を行くしかない。

 それを望んだのだ。だから、プロムには行かなかった。

「そういえば、ケイティ。君が休んでる間に、ブラッドベリ先生が亡くなったよ」

「あら、そうなの。それはお気の毒に。司書先生も、さぞ悲しんでるでしょうね」

「パラッド先生は、悲劇の恋に身をやつした純潔な乙女の役柄を、思いっきり楽しんでるように見えるよ。年増なのに」

 少年の言葉に、ケイトはぷっと噴き出した。

「やだモーリー、あんたってやっぱりサイコー。あたし、あんたとプロムに出れば良かったわ」

「遠慮しとく。そんなことしたら、僕は明日の朝には死体になって転がってそうだから」

 皮肉屋なところまで、誰かに似てきたものだ。

 少女は素晴らしい友人を横目で眺めながら、ひどく甘いカフェオレを飲んだ。

「そうね」

 何もかもが遠くにいってしまった。

 虹の七色に輝くミラーボールの光、舞い散る紙吹雪、ムードたっぷりに流れる音楽、人生で最高のときを過ごすために、思いつくかぎりのオシャレを楽しんでいる少年少女たち。

 彼ら彼女らが見守る中で、ひときわ光り輝いているのはサリーとグリフだ。

 スクール・カーストどころか、高校なんて狭い世界を出てもなお、これ以上ない完璧なカップル。

 スピーカーから流れてくるのはきっと、リアーナとクリス・ブラウンの『誰にも関係ない』だろう。

 その歌詞そっくりに。

 ふたりは互いの瞳に純粋な愛情を輝かせて、見つめあっていたことだろう。

「もう、あたしたちとは関係ないのよ。二人とも」

「そうだね」

 チェシャと偽海亀もまた、互いの目を見て笑った。

 少しだけ寂しげに、しかし、実に満足そうに。


 パン、パン、パン。

 鳴り響く拍手の音に二人が振り返ると、そこには。

「まあ、こっちはこっちで、パーティーと洒落込もうぜ」

 ただの場末のダイナーのはずの席に、不思議の国の仲間たちが当たり前に座っている。

 めいめいに、思い思いの姿勢で、くつろぎながら。

 拍手の手を軽く挙げた帽子屋は、奥のソファーに深々と腰掛け、テーブルに組んだ両足を乗せている。ヤマネはその膝の上に頭を乗せて、半ばうつぶせに体をひねり、すやすやと気持ち良さそうに眠っている。三月ウサギはカウンターの隅で、ノートパソコンのキーボードをとてつもない速度でいじりながら両切りの煙草をくわえて、もうもうと煙を噴いている。イモムシはいつものように自分の店のキッチンで、オーブンの中のニューヨークチーズケーキの焼き具合を見ながら、何かの錠剤を乳鉢ですり潰している。

「イモムシ、帽子屋。ありがとう。三月ウサギとヤマネも、本当によくやってくれたわ」

 少女……チェシャの言葉に、大きなあくびをしながら『ヤマネ』が寝言のように答えた。

「あああ、いいえ……いいのです……お気になさらないで……あああ」

「そうとも。こちとら、ただのビジネスだからな。パーッと金ばらまいて、パーッと儲けと利権を得た。こんなに美味い紅茶は、なかなか珍しいぜ」

 そう笑う『イカレ帽子屋』のティーカップには、古き良きアイリッシュ・ウイスキーの銘酒「ブラック・ブッシュ」の九十七年もの、彼女たちが生まれた年にブッシュミルズの森で作られた、彼女たちと同じ時間を育った一杯が満たされていた。

 カウンターの『三月ウサギ』はタバコをもみ消すと、不意に立ち上がり、ジーンズのコインポケットから数枚の硬貨をジュークボックスに入れて、何曲か選んだ。

 そして自分よりはるかに背の低い少年に向かって、軽く右手を差し出す。

「パーティーでしょ。踊ってよ、偽海亀」

「えっ、僕?」

「あんた、あたしの弟子になるんでしょ」

 半ば強引にバースツールから下ろされた少年は、ショートヘアの美しい、中性的な女性と、ぎこちない様子で手を組みながら言った。

「僕、ハーバードへ行くんだ。弁護士になるよ。親がそうしろって」

「なら、なおさらいいわ。あたしの後輩じゃない」

「そうなの?」

「ええ。あたしは法学部じゃないけどね」

 三月ウサギは当たり前のように答えてから、軽くウインクして付け加える。

「ファミリーには専属の弁護士が必要だものね。いい選択だと思うわよ、愛弟子」

「ありがとう、師匠」

 コンピューターの天才『三月ウサギ』は、事実ハーバード大学を出ていた。この情報は、彼女がクラッキングによって書き換えたものではない……と、思われる。

 帽子屋はティーカップの中身を飲み干すと、傍らの女を立たせようとした。

「なら俺は、ヤマネと踊るか」

「あああ……わたしは眠いのですよお」

「またラリってやがんのか」

 長い髪の頭がぐらりと揺れて、ソファーの反対側へと倒れ込み、また安らかな寝息が聞こえはじめた。どうやら『ヤマネ』はお疲れのようらしい。それはそうだ、彼女は彼女なりに忙しかったのだから。

 帽子屋は口元だけで笑うと、ティーカップの中にウイスキーを注ぎ足し、葉巻に火を点けた。

 マッチの音と同時に扉が開き、炎が揺らぐ。

「あら、いらっしゃい。素敵な紳士たちだこと」

 店に入ってきたのは、黒い革のライダースジャケットにジーンズ、短く刈り込んだ金髪にサングラスの青年と、白いスーツに中折れ帽のすらりとした黒人だった。二人とも垢抜けしていて、恐らく教会に足しげく通っていた生徒でさえ、それが神父様とマッケンジーさんだとは気付かないだろう。

 行儀よく帽子を帽子掛けに乗せると、『白ウサギ』はありふれた、ただの通りすがりの客のように注文した。

「ウイスキーを一杯頼むよ」

「喜んで」

 イモムシは彼の前にショットグラスを置き、いくつかのボトルからジェムソンのスタンダードを選んで注いだ。やはりアイリッシュ・ウイスキーの名門だが、これは『白ウサギ』の懐かしい故郷で、最も親しまれた味だ。

 黒服の男は黙って、空席になっていた少女の隣に浅く腰掛ける。

 革のライダースジャケットのポケットからは、髑髏の模様の鮮やかな『デス』の半ば潰れた一箱が取り出され、彼はその一本に古いジッポーで火を点けた。

 ジッポーにはトランプの柄がエナメルで描かれている。

「それ、気に入ってくれたんだ?」

「ああ」

 それは彼女からの、気の利いた……ついでに少し皮肉めいた贈り物だ。

 ヴィンテージのジッポー。いかにもアメリカらしいどぎつい色合いだが、古ぼけたせいで味があるように見える。

 そして、そのトランプのハートのクイーンには、明らかに真新しいのが分かる白い傷がついていた。大きなバツ印のように見えなくもない。

「よかった」

 彼の答えに満足したように彼女は微笑み、金髪の男も笑い返した。


 ふたりの会話が終わるのを待っていたのだろうか。

「ああ、バケモン、お前の新しい人生一式、そこに置いといたからな」

 男の背後から、帽子屋がいまいましそうに声をかけた。

 言葉と同時に、イモムシが灰皿と書類の入ったフォルダーをカウンターに乗せる。

 金髪の男は煙草の灰を落としてから、紙製のフォルダーを取り上げて、素早く目を通した。

「ルーク・フロスト。警備会社の社員か」

 出生証明書、各種車両の免許証、社員証、住民登録票、生活保障番号、住所とマンションの鍵、経歴証明書、病院の診察券、車とバイクの保険証書、銃砲所持許可証、新しいスマートフォン、ニュージャージー州立図書館の貸し出しカードまであった。

 そこには確かに、完璧に一人の男の人生が作ってあった。ルーク・フロストはニュージャージー生まれの港湾労働者の息子で、高校を卒業した後、十七で州兵、次いで陸軍に志願し、軍で大卒の資格を取り、最近までアフガニスタンに行っていた。この経歴なら、体中の奇妙な傷の説明もつく。金髪碧眼という外見も、アイルランド系移民が多いニュージャージーでは目立たない。

「警備員ってのは、ニュージャージーあたりの港湾地帯じゃあ一番目立たない、自由が利く商売だ。まあまあいい名前考えてやったろ」

「今度はチェスだものね。ルークはクイーンを守る切り札。アーアー、リビンオナプレイヤー」

 少女がニュージャージーが生んだ英雄の名曲のサビを口ずさむと、帽子屋は軽く吹き出した。

「全く、古い歌ばっかりよく知ってやがる」

 と、ソファーに横たわってすやすや眠っていたはずのヤマネが突然起き上がり、いかにも頭脳明晰な女性らしく話し始める。

「わたしは、あなたの姉ということになっているのですよ。ナイティ・フロスト。アラマセラピスト。なのでルーク、あなたはわたしをおねえさまと呼ばなくてはならないのです、今後ともよろしく」

 その口調は、実に丁寧だったが、妙に文法や発音がおかしいところがある。

「本当は精神科医が一番楽しいのですけれどね。わたしは医師の資格を剥奪されてしまったし、業界に顔が知られているから、開業医はできないのですよ。自分で自分を整形でもすればもう一度お医者さんごっこができるのでしょうか、あら、めんどくさ」

「それは自業自得だろう、家族に頼まれたからって今時眼底ロボトミーなんかやるからだ、このバカが」

「だってとても面白そうだったのですわ……あああ」

 帽子屋にどやされると、彼女はまたばたりとソファーに倒れた。

 本物の薬物中毒者なのか、演技なのか、それとも別の何かなのかはよく分からない。ただ、このヤマネがいなければ、このゲームすら始まらなかった。

「ありがと、ヤマネ。大好きよ」

「わたしもあなたのことが大好きですわよ、猫ちゃん……」

 ヤマネの横で踊りながら、三月ウサギも楽しげに笑った。

「あたしは警備会社のシステム担当主任、いまんとこルークの上司よ。メアリー・スチュアート・ケネディって呼んでね」

「一流の警備会社が一流のクラッカーを雇うのは当然だが、その名前はどうにかならんかったのか」

「クラッカーじゃないわ。あたしはウィザード」

「へいへいへい」

 恐らく警備会社を買収したか、最初からそっくりこしらえたのだろう。どちらにしろ、よく出来たダミー会社のはずだ。港湾業務の警備というのがいい。物資の流通に港湾は重要だ、特に、イモムシやハンプティ・ダンプティが扱うような特別な品物の場合は。

「この店はどうするの?」

「あんたが卒業する六月まではあたしがやるわ。それからは部下に任せて、あたしは今度はニュージャージーにお店を出すの。急にこのお店がなくなったら怪しまれちゃうでしょ? それに、あなたのパパがコーヒーを飲む場所がなくなっちゃうし」

 イモムシはいつもと変わらぬ愛想の良い笑顔で、灰皿を代えたり、酒を注ぎ足したりしている。こうしていると、少女でさえ、ここが本当に普通のカフェバーのような錯覚を覚える。しかし……

「任せるのはあたしの姪ってことにしてある子よ。今度紹介するわ、卵のおじさんとこの、かなり使える子だし、信用できる」

「その子も料理人?」

「ええ。自分のベランダの鉢でダチュラ・イノクシアを育てて、アトロピンを抽出できる程度には優秀」

「何それ、おっかない」

 イモムシの言葉に、少女は自分の感覚が、やはりただの錯覚に過ぎなかったと思い知って、わざとらしく震え上がって見せた。

 フランク・シナトラが終わり、ニール・セダカが終わり、次のレコードがジュークボックスの中をゆっくりと移動する。

 もう神父ではなくなった彼が立ち上がり、彼女に長い手を差し伸べた。もう手袋はしていない。

「一曲踊ってくれないか、俺のアリス」

「いいわ。あたしと一晩中踊って。あたしの『塔』、あたしの大好きな『怪物』さん」

 大昔のジュークボックスから、そのとき、最高の音楽が流れてきた。

 プレスリーの『好きにならずにはいられない』だ。

 エルビスは歌う。

「もしそれがどんなに罪ぶかいことであろうと、誰も僕が彼女を愛するのは止められない」

 ただの古くさいラブソングだ。今となっては過去の遺物の、使い古された言葉の連続だ。

「どうか、僕の手を取って。その時、僕は君にこの命を捧げる」

 だが、あのとき。あの燃え盛る炎の中で出会った二人には、いや、アリスに出会ってしまった全てのものには、その詞が正しいのだと分かっている。

「君を愛さずにはいられない」

 魔法の曲が流れる間、二人は踊るというより、ただ抱き合っていた。

 ここにはもういない、いなくなってしまった、かわいそうなエラと、かわいそうなクリストファーのために。

 ここにはもういない、でもずっとここにいてくれる、愛しい彼女のために。


 これから様々なことが、彼らと彼女を待ち受けていることだろう。

 失われたアイリッシュ・マフィアの領土を簒奪し、IRAの残党と戦い、次々と飽きていくジャンキーどもに新しい薬を供給し、他のギャングを制圧し、偽札を大量に作ってばらまき、そして毎日が戦争になる。

 明日死ぬかもしれない。いや、明日の朝目覚められるかも分からない。そんな日々が、永遠の眠りにつくその日まで続く。

 それでも。全ては。

 アリスのために。

 彼女が彼女であることを、思い出さないために。

 不思議の国からも、鏡の国からも、この現実の世界からも、我々は必ずアリスを守る。

「そうなるように作られた。あたしは魔法の猫。みんな嘘吐きの狂った世界で、一番の嘘吐きのチェシャだから」

 チェシャ猫とその一族の役目は続く。真実のアリスが永久の安息を得る、そのときまで。

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