第16話 女王の裁判

「白ウサギの穴の向こうは、本当に不思議の国だったわ。アリスが大好きだった、あのルイス・キャロルのおはなしそっくりだった」

 そう呟いたとき、チェシャの目は少しだけ細められた。

「アリスはね、自分と同じ名前の女の子のおはなしが大好きだったの。毎日、アンディおじさまがアリスを膝に乗せて、アリスのために『不思議の国のアリス』を読んであげてた。それも、ディズニーの絵本なんかじゃなくて、ルイス・キャロルの初版本をね。繰り返し、繰り返し、一日に何度も。アンディおじさまが忙しい時にはイーサンおじさまが、そのお二人とも手が離せない時にはあたしの父か母がそのお役目を命じられることもあったけれど」

 遠い思い出を呼び起こすように、彼女は右手の指先でトントンと自分の額をつついてから、にっこりと笑った。

「でもやっぱり、あたしはイーサンおじさまのおはなしの時間が一番好きだったわ」

 それは実際、魔法のように美しい微笑だった。

 もう数秒続いていたら、居並ぶ敵ですら魅了されていたかもしれないほどに。

 しかし、少女の夢見るようなほほえみは、すぐにチェシャのにやにや笑いに戻る。

 猫はその指先をひるがえして、敵へと向けながら言った。

「イーサンおじさまは、本当に朗読が上手だったわ。若い頃には俳優になりたかったんですって。あなたも知っているでしょう、女王様。彼、本当に美男だったから、ブラックブッシュ家に生まれなければ、本当にハリウッドで大スターになっていたかもしれない。レッドフォードになんて、いいえ、アラン・ドロンにだって負けてなかったわよね? その彼が、『不思議の国』に次々と現れるキャラクターを演じるの。あたしは遠くから見ているだけだったけれど、本当に素敵だった。アリスも彼女の姉妹も、そしてあたしも、その物語の中に埋没してしまって、自分がいるのがこの世界なのか、それとも不思議の国の中なのか、わからなくなってしまうこともよくあった。イーサンおじさまの綺麗な声だけが、あたしたちの上を音楽みたいに流れてた」

 ハートの女王も、かすかに、ほんの一瞬だけ過去を懐かしむような笑みを浮かべる。

「ああ。イーサンは本当に、素晴らしい役者だった。ようやくわかったよ。だからお前たちは、あの二つの物語にこだわったんだね」

「いいえ、違うわ。あたしはこだわってなんかいない。ただ、流れに乗っただけよ」

 そうして糸は紡がれ、何もかもがつながった。アリスを守るためにグリフォンが選ばれ、グリフォンを助けるために偽海亀が登場した。イモムシは煙草を吹かしながら、彼らのための資金を調達すれば良かった。

 彼、白ウサギのおかげで。

「ウサギの耳は長くてよく聞こえるの。白ウサギはあんたたちが何を企んでるのか、全部教えてくれたわ」

「そうかい、そりゃあそうだろうね」

 ハートの女王はほとんど表情を変えずに頷いた。

 疑問や不審を抱く余地もない、これは戦争の基本だったからだ。

 ほんの些細な情報でも見落とすな、敵の情報を得るためになら、自分の命すら差し出せ。

 彼女はそう教わっていたし、それを実践してきた。もちろん、その通りのことを自らの兵士に教育してきたのだ。

 情報はどんな殺戮兵器よりも強力な武器だ。敵がどんな手を打ってくるのかリサーチされていれば、当然それに対処するための戦略を何通りも用意できる。

「そうなの。それであたし、チェシャは自由自在に飛び回れるようになった。現れたり消えたり、ついでに意味深な台詞を吐いて周囲を煙に巻くのはお手の物。この、あたしの素敵なジャバウォックと手を取り合って、ね」

 と、少女はテーブルの上を素早く駆け戻って、司祭服の男の腕に手を回した。

 彼は巨大な銃を構えたまま、それでも微動だにしない。

 彫像のような姿を、チェシャは満足げに見つめた。

「本当に、あなたって最高よ」


「なるほどねえ。子猫ちゃんたちもなかなかやるようだね」

 目を吊り上げたハートの女王は、それでも勝利を確信したまなざしのまま笑う。

「お前、この男に見覚えがあるかい、キャロライン」

「ええ……ケイティの学校にある教会の神父様と、そこの下男です。名前は確か、ジャック・ラドクリフとマッケンジーさん」

 明らかに狼狽した様子で、キャロライン・ヘイワース……いや、その名前と、その身分を手に入れていた女は答えたが。

「こんばんは、ミセス・ヘイワース。こんなところでお目にかかるとは、奇遇ですね」

 司祭服の男、すなわち少女の言う『怪物』が完璧な笑顔を浮かべると、たちまちのうちに血の気を失った。真っ青になって震え出し、恐怖のあまり目を見開いて、座っていた椅子に釘付けになった。

 だが、「彼」のことをよく知っている昔なじみのハートの女王の反応は違った。

「ジャック。ジャックとはね。なるほど、いい名前だよ。お前がハートのジャックのつもりかい、ピーターセン」

 その皮肉めいた、いや、馬鹿にしたような苦笑いに、チェシャは冷たい嘲笑を返す。

「いいえ。ハートのジャックは彼じゃないわ。あたしたち、切り札を簡単に見せたりしないの」

 それから軽やかにヒールの踵を返して、また晩餐用のテーブルの上を優雅に歩きはじめた。

 そして、様々なものがないまぜになった無惨な残骸の中から、一枚のバラのはなびらをつまみ上げた。

 つい先ほどまでは、美しくガラスの器に飾られてディナーに彩りを添えていたはずの花の破片。まだ生命の名残を残しているひとひらは、血のように赤く、少女の指の上でまっすぐに立てられると、宵闇の中でも燃え上がるようなハート型に見えた。

「ねえ、知ってる? トランプって、あの占いの、タロットカードから生まれたんですって。ハートは聖杯、クラブは棍棒、ダイヤは金貨、スペードは剣を簡単に置き換えたものだそうよ」

 チェシャはふうっと息をかけて、その薔薇のはなびら、真っ赤なハートを吹き飛ばした。

 女王の方へと。

「だったら、あんたはハートの女王じゃなくて、スペードの兵士よ。戦うことしか考えてないもの」

 そう言い放ってから、にっこりと笑った。

「あんたなんて、あたしの敵じゃないわ」

「アリス……いいや、チェシャ。お前は素晴らしいわ。本当に素晴らしい。ますます殺すのが惜しくなってきた」

 チェシャの氷のような微笑を賛嘆の眼差しで眺めながら、それでも。

 やはり彼女は女王だった。

「そういう相手を殺すのが最高だとは、子猫ちゃんはまだ知らないだろうね」

 いや、女王であると同時に兵士。

 闘士そのもの。

 ハートの女王の役を引き受けた女は、堂々と腕組みしながら、軽く首を振ってみせたものだ。

「ジャバウォックに白ウサギとは、馬鹿にされたものね。でも、あなたの言う通りなら、そいつらは二人とも裏切り者よ? 裏切り者は二度裏切るんじゃなかったかしら?」

「先に裏切ったのはあんたたちだろう」

 女王の台詞を受けたのは白ウサギだった。

 ちょうど『不思議の国のアリス』のクライマックス、ハートの女王の裁判で、アリスを白ウサギが弁護する場面を演じてでもいるかのように。

「あそこに……ヒースロー空港に、アイルランド合併支持派の人たちなんていなかった。あんたはただ、IRAの冷酷さ、残忍さ、支配力を宣伝したかっただけだ。お前さんたちの威光で、英国のみならず全世界を震え上がらせたかったのさ」

 もとより白ウサギ、いや、小心な北アイルランド人にすぎなかった彼は、守るべき家族もなく、心を許せる友人も、彼自身というものですら持たず、ただ自らの心のよりどころだった生まれ故郷のことだけを考えて生きてきた。

 あの日までは。

 奥歯をカチカチ鳴らしながら、爆薬の取り付けられたベルトに手を伸ばしたとき。

 震える手をそっと握ってくれたのは、穏やかな笑顔の男だった。

「そうさ。イーサン様が止めてくれた。俺に一番楽な場所で道具になるなと言ってくれたんだ。考えるのを止めて道具になるのは楽だ。道具になるなら、使ってくれる相手を選べ、それくらい自分で考えろってな」

 警察に自首して全てを話したが、当時の白ウサギことバークはあまりにも下っ端で、IRAの関係者は数名しか逮捕できず、裁判どころか起訴にも持ち込めなかった。証人保護プログラムで新しい名前を得ても、ひどい不眠症に悩まされてアルコールに逃げるしかなかった。

 その姿を見かねたイーサン・ブラックブッシュが、彼が新しくスカウトした男……「完璧な何でも屋」とイーサンが呼んでいた『帽子屋』を、憔悴しきったバークに引き合わせた。

 帽子屋が彼を死んだことにしてくれた。身元不明の黒人の死体なんぞ、ちょっとした都市でなら簡単に手に入れられる代物だった。

「自分が死んだことになってから、俺は調べた。考えた。イーサン様の仰った通りにな。調べに調べて、考えに考え抜いて、それで選んだパーティー会場がここだよ」

 そう白ウサギは不敵に笑った。

 ようやくハートの女王も気付いたのかもしれない。目の前にいるのが、かつての洗脳された少年兵や、自爆テロの実行を躊躇い続けた小心な男ではなくなっていることを……

 ここにこうして、ずっと強大な敵となって帰ってきたということを。

「さて、あたしが白ウサギなら、手袋はどこに隠すかしら」

 少女の小馬鹿にしたような引用に、ついにハートの女王が怒りの表情、いや、恐ろしい本性をあらわにした。

「なんて舐めた真似をしてくれるんだろうね、こいつらは」

 しかし少女……チェシャ猫は、既に勝利を確信した者の余裕で笑う。

「あんたが選択肢を二つにしたのよ。あたしがどうやって死ぬかの三択から、あんたが死ぬか、あたしが死ぬかの二択にね。だったら答なんて決まってるでしょ、馬鹿ね」

「蜂の巣にしておしまい!」

 少女が言い終わるか終わらぬかのうちに、怒りに燃える目でこちらを睨み、ハートの女王は叫んだ。

 同時に、IRAの部下たちが一斉に引き金を引く。

 轟く銃声、輝く銃火。

 身の前の敵を討ち滅ぼさんと、彼ら彼女らは引き金にかけた指に、ありえないほどの力をこめていた。

 しかし。

「蜂の巣だって? できっこないやね」

 銃声の合間に、余裕に満ちた笑い声が広間に響いた。

「フフ……アッハハ……」

「何だと!?」

 女王の驚愕の声。

 そして、自動小銃の吐き出す白煙が、ゆっくりと押し流されていく。

 割れた窓から入り込む、小雨混じりの風に。

 硝煙のにおいが消えたとき、冷たい空気の向こうに、彼らはまだ立っていた。

 いや、立ちふさがっていたと言った方がいいかもしれない。

『白ウサギ』は、自らの構えた透明な盾を自慢げに眺め下ろしながら言った。

「お前さんがたが大っ嫌いなNATO御用達の鎮圧シールドだよ。対テロリストによく使われるそうだから、まったく皮肉なもんだね。しかし、この高圧縮アクリルってえのは実によくできてる。片手で維持できるくらい軽いのに、こんなに衝撃を遮断してくれるとは優れものだ。こいつなら、軽機関銃やガトリングくらいじゃあびくともしないね」

 その言葉どおり、彼の手には、周囲を……三百六十度とまではいかないが、ほぼ全方位を守れる円筒型の、高さは二メートル以上ある透明な盾が構えられており、さらにその背後には、既に怪物と少女の体があった。

 白ウサギは赤いサングラスを中指で押し上げながらにやりと笑い、シールドから右手の先だけを突き出してコルト・パイソンを構えた。

「さあ、死ぬ準備をしろ、IRAのみじめな残党ども。貴様ら死に損ないに、ちょいと死に花を咲かせてやるぜ」

 いつでも眉間を撃ち抜けるという仕草に、それでもハートの女王は堂々と、いや、当たり前のように、軽く右手を振っただけだった。

 それから、その薔薇色のマニキュアのされた指先を白ウサギへと向けて。

「全く、偉くなったもんだねえ、白ウサギとはさ。しかも、あたしたちをみじめな死に損ないだって?」

 最初はくっくっと、喉の奥をならすようだった笑いが、次第に高らかな侮蔑へと変わっていく。

「死に損なったのはお前らの方だろ、バーク、ピーターセン。いいや、お前らにはそもそも死ぬ価値すらなかったんだよ、このみじめな売国奴め!」

 吐き捨てるように言った時、女王の唇は、一見美しい笑いの形につり上がっていたが、見開いた両目には憎悪と怒りの炎が燃え上がっていた。

「お前たちにはお礼を言わなきゃならないね。この娘を尾行して、ここまできてくれたんだから」

 と、まるであめ玉でも出すように、彼女がゆったりした天鵞絨のドレスの下から引き抜いたのは、黒光りする巨大な武器だった。

 RPG7。

 ロシア製のクルップ無反動弾、いわゆるロケットランチャーだった。

 戦車すら吹き飛ばす弾頭は、まさにトランプのダイヤそっくりの形だ。この直撃なら、いくらNATO製の高圧シールドといえどもひとたまりもない。軽機関銃の弾とは訳が違う。

「手間が省けたわ。おかげで、今ここで皆殺しにできる」

 七キロもある重厚な武器を、しかし彼女は軽やかに片手で操って、一瞬のうちに照準を定めた。

「こんなところまで殺されに来るなんて、ご苦労なことだよ」

「しかし、尾行されている気配はありませんでした、まったく……」

 と、狼狽しきった口調で、女王の傍らに座っていた女が口走る。

 キャロライン・ヘイワース。

 本当の名前は、誰も知らない女。

「わたしはこの子のことをちゃんと把握していました、本当です」

 彼女の顔がひどく青ざめていたのは、ハートの女王への忠誠がいささかでも疑われることを恐れたためだっただろうか、それとも自らミスを認めたくなかったのか、あるいは。

「いいのよ、キャリー。おばあちゃまにそんな言い訳しなくても」

 チェシャはそれを制して、また薄ら笑いを浮かべた。

「キャリーには何の落ち度もないんだもの、あなたは少しも悪くないわ。ねえ、おばあちゃまも怒らないであげてね、お願いよ」

「あたしたちを虚仮にするのもいい加減におし」

 少女の軽快な口調に、小馬鹿にされたと思ったのだろう。ハートの女王は眉をしかめ、背後に付き従う兵士たちは引き金に駆けた指に力をこめたものだったが。

「そんなつもりないわ。本当に、彼らは尾行なんてしてないのよ。あたしは本当のことしか言わないわ」

「なら、どうやったっていうんだい」

 ついに苛立ちを隠そうとすらしなくなった女王に向かって、チェシャはまた悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「頭のいいおばあちゃまなら、全部お見通しでしょ。そもそも、あんたたちのセキュリティはソ連の技術を提供されてたんだったわよね、だから完璧でしょう?」

 冷戦が激しかった九十年代、西側諸国を混乱させるため、またNATOに揺さぶりをかけるために、ソ連が北アイルランドの独立を援助した。偉大なるソヴィエトこそが、IRAのスポンサーだった。だから、やり口も同じだった。

「あたしのスマフォからあたしの仲間が追跡できないように、GPSの信号を妨害してたんだよね。電波妨害もしてた。あたしが案内された、あんな素敵な景色……見晴らしのいい、障害物のない部屋でも圏外なんて、今時あり得ないもん」

 チェシャはさっきまで自らのいた、素朴で優しくて心遣いの行き届いた、だが完璧すぎる部屋の美しい有様を思い出して、またクスクスと笑った。

「それでも、この白ウサギたちには、あたしがどこにいるのか筒抜けだったのよ」


「ねえキャリー。ねえ、ママ」

 少女は撃たれる危険もおそれずに、怪物に絡めた腕をほどき、盾の向こうからすうっと身を乗り出して、義理の母の顔を見つめた。

「あたしが、そう、ニュージャージーに入ったあとだったかしら。ラジオの番組を変えたの、覚えてる?」

「え、ええ……」

「あのとき、あたしが聞きたがってたダム・アンド・ディーってアーティストね。ごめんねキャリー。あたし、ママに嘘ついちゃったわ」

 キャロラインのエメラルドグリーンの瞳には、ただ困惑だけが渦巻いている。

「ダム・アンド・ディーは、『鏡の国のアリス』に出てくる双子の名前よ。彼らのライブは、特別な周波数でね、要するに、あたしにしか受信できないようにしてあったの。いろんな周波数をランダムに拾って聞いてる野次馬とは区別できるように、あたしは取り決めどおりの時間ぴったりにラジオのチャンネルを合わせたのよ。それだけで、あたしがどこにいるのか白ウサギには分かる。ねえキャリー、あなたにもうちょっとだけ観察眼があれば、あたしがいつもよりずっと、ラジオのチューニングに真剣だったって分かったんじゃないのかな」

 そう、教えられた時間に、チェシャはあの曲を聞かねばならなかった。数秒単位までしか、猶予はなかった。

「もちろん、保険はかけておいたわ。あれって、よくあるネットラジオだけど、有料チャンネルなのよ、キャリーは知らなかった? パパはいいって言ったわよ、だから、あたしのクレジットカードで契約したの」

 ネットラジオを開くのは、誰にでもできる。ユーチューブで動画配信をしている連中が一瞬で大スターになる時代だ。映像の必要がないネットラジオの世界は、よりハードルは低く、競争相手も多い。

 一極集中で、人気のあるラジオ局にはいくらでも聴取者が増える。一定のアクセスがあれば広告収入も入るようになる。

 だが、そういう特別なムーブメントに乗れるのはほんの一部だ。それ以外は、有料化したところで赤字続き、ジリ貧になって手を引かざるを得ない。

 そんな、どうにも立ち行かなくなったラジオ局のひとつを買い取るのは簡単だった。聴取者は少なく、カード決済だけの、今にも潰れそうなミュージック・チャンネルを。

「堂々とあたし本人の名義で、本人のクレジットカードでアカウントを開いた。あたしはフェアだから」

 言葉どおりの堂々とした笑みだった。いや、敵を完全に小馬鹿にしているにやにや笑い。

「それで、偶然同じ時刻に移動している受信先があったとしても、アカウントの記録から、白ウサギ……の協力者、ようするにあたしの仲間は、あたしの居場所を正確に同定できたのよ」

 データは嘘を吐かない。そう言い切ったのは、ウサギはウサギでも『三月ウサギ』の方だったけれど、そこまで教えてやる必要はないだろう。ヒントは十分すぎるほど与えてきた。

 少女は伸ばしていた指先を、足下の床に向かってまっすぐに降ろした。

「それがここ、ロックウェル屋敷……いいえ、お屋敷なんて呼んだら、本物のお屋敷に失礼よね、こんなチャチな代物。今時、低予算ドラマのセットだってもうちょっと頑張るわよ。あんたたち、クリミナル・マインド見たことないの? 北アイルランドじゃ放送してないのかしら」

 それから、薄ら笑いに耐えかねたように、チェシャはついにゲラゲラ声をあげて笑い出した。

「ここまで説明してあげないといけないなんて、そもそもあたしのカードの記録すら把握してないなんて、あんたたちは馬鹿な上に無能ぞろいね。ああ、ごめんごめん、IRAって現代社会に乗り遅れた化石だから仕方ないか」

 居並ぶ兵士たちの額にびっしりと血管が浮かんでいる。イライラと貧乏揺すりをする者も、首まで怒りに真っ赤になっている者もいた。

 それでも無闇に発砲しなかったのは立派なものだ。彼ら彼女らは、全身全霊で自らの人差し指に力を込めたい衝動を押さえ込みながら、司令官の再度の命令を待っている。

 敵対勢力よりも、味方をじらすことには慣れているのだろう。ハートの女王は、殺意に燃え上がる部下たちの視線を感じていながら、あたかもまだ孫との会話を楽しむ老婆のように、品のいい笑みを口元に刻んだ。

「そんなに馬鹿にしてくれても、その程度の挑発じゃあねえ。あたしの兵隊をちょっとばかりイライラさせるくらいの効果しかないわね、あたしの部下は優秀だから、あたしの命令なしに撃ったりしないよ。やっぱり子猫ちゃんは大事にされて育った子だ、啖呵と煽りはヘタクソだね」

「あら、ごめんなさい、おばあちゃま。じゃあ、ちゃんと練習して上手になるわ」

 チェシャも孫娘らしい口調で答えてから、不意に笑みを収めて……氷のような無表情になった。

「でも、白ウサギと『怪物』がここに来てくれたのは事実よ。こうして、最高のタイミングでね。ありがと、白ウサギ」

 内面の動きを、眉の動きからも、目線からすらも判断できないくらいに。少女の美しい顔は、目には見えない薄い仮面をかぶったかのようだった。

 すると、少女の護衛の片方である『白ウサギ』が、コルトマグナムパイソンを右手に、鎮圧シールドの向こうから口を開く。まるで、話題を今日の空模様から、お庭の花の蕾の具合について訊ねるような、穏やかで自然な口調だった。

「ほら、俺とコイツを見な。この、神父と付き添いの格好ってのは実に便利だよ。霊柩車はたいていの車両が追い抜きを譲ってくれるし、これだけの武器も、事故死者のつぎはぎの死体の棺に入れておけばどこでもノーチェックだ。埋葬許可証が偽物だなんて疑う警官なんていやしないよ」

 言いながら、彼は蓋の開いた棺桶の中身……折れ曲がった死体と、その下に隠された自動小銃を顎で示す。

「何しろこれだけのパーティーだ、遅刻しなくてよかったよ。大忙しでてんてこ舞いだ、全く」

「そうね。でも、いいパーティーになるわよ、白ウサギ」

「ああ、最高のパーティーさ」

 チェシャ猫の言葉に、白ウサギは高らかに笑い、それと同時に、最高の破壊力の銃弾を一発、間近にいたメイドの腹にぶち込んだ。

「こいつらを皆殺しにするダンスだ」

 今度のメイドは、肩から胸のあたりまでを心臓や片肺ごと破砕され、声をあげる代わりにぶくぶくと口から血の泡を吹いて壁に叩き付けられる。

 死んだ女には目もくれず、白ウサギは鎮圧シールドをチェシャ猫に渡す。

 少女は透明なアクリル板越しの安全地帯から、ハートの女王に微笑みかけた。

「あ、冥土の土産に教えといてあげるわ、おばあちゃま。今頃、本物のアリス・ブラックブッシュは、自分が本当は何者なのかも知らずに……記憶の一切合切を失ったまま、ブラックブッシュ家の資産の相続と、ついでに素敵な恋人との婚約もしてるわ」

 ハートの女王、IRAの大物の体ががくがくと震えているのが見えた。テーブルクロスを握り、ただ怒りに燃えた目でこちらを睨みながら、その瞳の奥にある恐怖と疑念の影を隠し切れてはいなかった。

「それが誰かは教えてあげない。残念」

 チェシャは優雅に笑う。安全な場所から。

 そう。この女の疑問に答えてやる義理など、これっぽっちもない。

「愛情のために美しく滅び、尊い友情のために死ね。果たすべき約束のために生き、自ら捧げた忠誠のために命を捨てよ。あたしの父の言葉よ。ルーカス・ドレイクのね」

 チェシャにはもう、彼女の敗因はとっくに分かっていた。

「だからあんたは、ここで滅ぶ」

「本当に舐められたものね。たった三人ぽっちで、このお嬢ちゃんはあたしたちを殺し切るつもりらしいよ」

 だが、偉大な北アイルランド解放戦線の闘士として三十年もの時を戦い続けてきた女が、そう簡単に諦めるはずもなかった。いやハートの女王は、勝利を確信していた。

 彼女はメイドや召使いを装った部下たちに命ずる。

「一斉射撃!」

 いかにも軍人らしい言い草に、少女は思わず笑い出さずにはいられなかった。

「パーティーっていいわね。とても華やか」

 そして、猫の目のまま冷酷に言った。

「怪物さん。あいつも、あいつも、あいつも殺せ。一人も生かして帰すな」

「分かってる」

 答えたのは、彼女が見いだした『怪物』だった。

 怪物の左手に握られたデザートイーグルから、鉛弾が三発。

 発射音とほとんど同じタイミングで、チェシャに銃口を向けていた女の頭が吹き飛んだ。

「このお……小娘が!」

 怒りが闘志に変わる瞬間を、ハートの女王は見せた。自ら自動小銃を取り、続けざまに撃ちながら喚き散らす。

 しかし、床に飛び散る薬莢の金属音が、少女の耳には心地よい音楽のように聞こえた。

 そう。これがあの夜わたしが聴いた音楽。

 わたしが、わたしのたった一度の誕生日に聴いた音。

 このにおい、この空気、何もかもがあの時と同じ。

「殺せ殺せ! 遠慮するな!」

「何してる、相手は三人だぞ!」

 メイドに扮していた女性兵士たちの弾道を正確に読み、時には躱し、時には当たってもたいしたことはない場所で受け流しながら、『怪物』は猛然と女たちの群れへと突っ込む。

「ひ、ひええっ、ば、化け物……」

「言ったでしょ。彼はジャバウォックよ。是非も慈悲もなく、かぎ爪で掴み、両腕で引きちぎる」

 立て続けにデザートイーグルを撃ち続け、女の頭を卵のように粉砕して、彼は次々に壁に赤黒い染みを作った。自身の両手や両肩からも血が流れていることになど、気付いてもいないようだった。

「アドレナリン最高に上がってるからね。撃っても撃っても、今の彼には痛くも痒くもないよ。というわけで、お前も死ね」

 チェシャ猫がケラケラと笑いながら言う。それと同時に、少女がミス・ロザリアと呼んでいた美しいメイドの首を、ジャバウォックは容易くへし折り、胴と頭を正逆の位置にしてから投げ捨てた。

 そのとき、不意に怪物が叫ぶ。

「白ウサギ!」

 しかし、何事もないように笑いながら、緑の目の黒人は真後ろに向かって手にしたナイフを投げた。

「問題ない。ウサギの耳は、後ろも聞こえる」

 次の瞬間、この屋敷の執事ポールを名乗っていた男の胸にグルカナイフが突き刺さり、彼を壁に雀刺しにした。その手から、古くさい西ドイツ軍流れのモーゼル・ボルトアクションライフルが落ち、カラカラと音を立てて床に転がった。

「アイルランド人がモーゼルとは。世も末だ」

 スーツを軽く整えると、『白ウサギ』は椅子の背に片手をつき、片手で弾倉が空になったマシンピストルをぶら下げている女へとゆったりとした足取りで近づき、やおらその頭部を掴むと、見事なテーブルセンターの上に横ざまに叩き付けた。

「こいつが最後の一人だ、アリス」

 黒人の白いスーツ、いや、『白ウサギ』の毛皮は、返り血で半ば赤く染まっていた。

 彼は赤いサングラスを外し、ポケットチーフで点々と残る血の飛沫を拭き取って、その布切れを床に捨てた。

「俺にヒースロー空港で自爆しろと言った女だ。君のお父さんが説得してくれなかったら、俺はあの日、何百もの人を殺し、傷つけていた」

「お前があのとき死んでいれば、ファーデン、貴様……この裏切り者」

 ハートの女王だった女が呪詛のように言うのを、少女はにっこり笑って遮った。

「今まで長いことお疲れさま、女王陛下」

 彼女はアクリルの重い盾を床に置き、軽やかな足取りで椅子からテーブルへと駆け上がると、もはや乱戦で跡形もないテーブルセットの破片を踏みしだいて、『女王』へと近づいた。

「あたしはフェアだから、謎解きのヒントはたくさんあげたのに。気がつかなかったのはあんたたちのミス」

 そう。たくさんたくさん、ヒントはあったのだ。

 育ちのいい家の娘が、カフェオレに大量に砂糖を入れるだろうか。そもそもカフェオレを紙コップで飲むだろうか。スワロフスキーのクリスマスリースの値段に驚いたりするだろうか。古くさいハードロックやメタルを喜んで聞くか、アクション映画が好きか、アメリカンコミックのヒーローが好きか。そもそも、たかがメイドに「ミス」なんて呼びかけるだろうか?

「あんたは、立派な北アイルランド人だったわ。でも、本物のアイリッシュ・マフィアってものを分かってなかった」

 チェシャ猫は青い目でにっこりと笑い、ポシェットから小型拳銃、護身用のベレッタを取り出した。

「それがあんたの敗因よ」

「いいえ。あたしの敗因は……あたしたちの敗因は、『不思議の国のアリス』を読み込んでなかったこと。それだけよ、チェシャ」

 彼女がそういい終えると、少女は迷わず彼女の後頭部に銃口を押し当てた。

「アリスはね。あたしのアリスは、本当に『不思議の国のアリス』が大好きだったの」

 少女の青い目は、冷酷で悪戯めいた猫のままだったが、それでもどこか、愛しいものを失った人ならではの悲しみを漂わせていた。

「あんたがあたしから奪ったのは、家族でも主家でもない。幸福よ」

 しかし、その指が引き金を引くより先に、『白ウサギ』が続けざまに二発撃った。

「調子はどう? おばあちゃま」

 コルト・パイソンマグナムの破壊力は、アンジェラ・ロックウェルと名乗っていた貴婦人の頭を、ほぼ半分吹き飛ばしていた。その死に顔に、整然の美しい面影はなく、ただ憎悪と恐怖に脅える老女の死体が一つ、床に転がっただけだった。

 白ウサギはそれから、ハートの女王のすぐ近くに横たわっている女の体を抱き起こして訊ねる。

「どうする、まだ息があるが」

 キャロライン・ヘイワース……ケイトの義母、少女を抹殺するためだけにここに連れてきた女は、まだ生きて、息をしていた。

 彼女は血まみれの、ひどく青ざめた顔で、それでもかすかに笑った。

「ケイティ。一つだけ、お願いよ」

「なあに?」

「パパに……チャーリーに、愛してるって伝えて」

「うん。分かったわ、ママ」

 それが最後の会話だった。

 少女への謝罪は一切なかった。その必要はないと、分かっていたのだろう。

 キャロラインは死んだ。彼女が本当は何と言う名前で、どうやって育ち、どんな風に生きてきたのか、今となっては知る術もない。いや、帽子屋なら調べ上げられるのかもしれないが、そんなことをするつもりは少女にはなかった。

「かわいそうなママ」

 ただ組織に利用され、資産を相続するために近づいたはずの男を、彼女はきっと、本当に愛してしまったのだ。

 いや。そうでなくとも。

 愛していると伝えてくれと最後に言い残す程度の思いやりは、少なくとも彼女にはあった。彼女を心から愛した男のために、たとえそれが嘘であったとしても、その嘘を吐き通してくれた。

 チェシャ猫は泣かない。だが、同情するくらいの心の余裕は持ち合わせていた。

「かわいそうなキャリー」

 そう繰り返してから、少女はこの現実に戻ることを選んだ。

 静かに目を見開き、この惨状を観察しはじめたのだ。

「ひどいザマね」

「これで終わりだ」

「いいえ、始まりよ」

 白ウサギの言葉を、彼女は即座に否定した。

「このあたし。エラ・ドレイクが宣言する」

 そして、勝利の余韻を噛み締めるように言い放った。

「ドレイク家を始めるわ。チェシャの一族。あたしたち、怪物の一族をね」

 その意図するところは、すぐさま白ウサギに伝わった。

「帽子屋とイモムシに連絡する」

「ありがとう、白ウサギ。頼んだわ」

 そう。後は彼に任せておけばいい。

 白ウサギはわたしを導いてくれる。アリスが一番幸せになれるように、チェシャもイモムシも帽子屋も使い切る。そう言う意味では、これほど信用できる男は他にいない。

 白ウサギがスマートフォンや端末を取り出し、必要な場所に連絡を取るのを横目で見て。

 それから彼女は、あの夜と同じ目をして、彼の前に立った。

「ありがとう。あたしの怪物さん」

「ああ」

 無敵の怪物、立ちふさがる者全てをなぎ倒す、暗闇の亡者。ゆらゆら揺れるジャバウォック。

 そして、少女は。

「もうお前は、俺だけのアリスだ」

 彼は、血にまみれた顔のまま、血だらけの体で、少女の痩せた体を抱きしめた。

 彼女も抱き返し、そっと口づけを返す。

 あのとき、あの夜、命も忠誠も、互いに交換した。だからもう、我々は孤独ではない。魂が解け合って、互いの一番大切な部分が、相手の中に残っている。そういう確信があった。

 かわいそうなクリストファー。かわいそうなエラ。

 ふたりとも、そのどちらの中にもいて、どこにもいない。

 その美しい感傷を打ち破ったのは、耳に馴染んだ軽快な声だった。

「はは、アリスの名前も落ちぶれたもんだな、お前だけのもんだなんて。笑わせるんじゃねえ、このバケモンが」

「帽子屋」

「どうしてここに」

 二人の疑問に、『帽子屋』は当たり前のように答える。

「どうしてってお前、このパーティーの後始末のためだよ。もちろん三月ウサギからデータが送られてくるのは分かったがね、俺様は現場主義なんだ。ついでに、お嬢ちゃんがここに来る途中にコーヒーとカフェオレ売ってやっただろ」

 あのコーヒースタンドの老いぼれた親爺が彼だったとは、さすがの少女も気付かなかった。

「あんなに気前よくシュガーくれてやるスタンドが、ハイウェイの路肩にあるかっつうのよ。頭を使え、アリス」

 言われてみれば、それはそうだ。

 自分の観察もまだまだだ、と言わんばかりに、少女は軽く肩をすくめて見せた。

 そちらに笑いかけてから、帽子屋は茶色い瞳だけをぐるりと回して、広間の様子を眺め回した。

「それにしたって、派手にやらかしやがったなあ、このバケモンめ。限度ってものを知らねえ奴はこれだから困る」

「俺も胸がすいた。ジャバウォックだけのせいじゃない」

「あたしも楽しかったわよ」

 白ウサギと少女は口々に言い、顔を見合わせてゲラゲラ笑った。すぐにその笑いに帽子屋が加わり、ジャバウォックですらかすかな笑みを浮かべた。

 血と臓物と吐瀉物、糞尿の混じり合った臭いが、次第に硝煙の香りより強くなってきても、彼らと彼女は顔色ひとつ変えなかった。

 恐ろしい、いや、おぞましい様だ。

 踏み荒らされた豪華な料理と粉々になった装飾品の上に折り重なって、あるいはばらばらに転がっているのは、首をねじ切られた死体、腕が吹き飛ばされた死体、頭が半分ない死体、胴体や胸に大穴の開いた死体。死体、死体、死体の山だ。

 しかし少女は、そんな光景など気にした様子もなく、帽子屋の方へ身を傾けてスマートフォンを見せる。

「この指紋どうしようか? 全部拭いちゃっていい?」

 その画面には、幸福そうに笑っている三人の女性、実に仲の良さそうな家族の写真が映し出されている。

 それを眺めた帽子屋は、皮肉っぽく笑いながら答えた。

「もちろん。こちらの家族写真を撮影したのは、このわたくしめ、ロックウェル家の執事ポール・ヘンドリクスでございます。執事は手袋を外さないものでございますよ、アリスお嬢様」

 しかし、彼の言葉に、白ウサギは静かに首を振った。

「いいや。この子はもうアリスじゃない。アリスなんて、もうやらなくていい」

「ありがとう、白ウサギ。そうね、あなたの言う通り。今のあたしは血だらけのエラよ。灰だらけのエラちゃんはシンデレラ、じゃああたしは?」

 彼女は問う。己は何者か。いかにもチェシャ猫らしい言い分だ。

「サングィセラだろうか? ラテン語で、血を示す名詞はサングィスだ」

 白ウサギの言葉に、今度は即座に帽子屋が反論した。

「いや、サングレラの方がいい。サングレはスペイン語で血だ」

「サングレラ・ドレイク。悪くない」

 これには、白ウサギも頷くよりなかった。

「ああ。ブラッディ・エラよりずっといい」

 彼は口の中でそう繰り返してから、愛用の銃……帽子屋が彼のために直した「時計」、骨董品級のコルト・パイソンをホルスターに収めた。

 本当に影が揺らめくように、幽鬼そのままの動きで、ジャバウォックは少女へと一歩近づく。

「サングレラ。新しい名前か」

「あなたはそのままでいいわ、ジャバウォック。あたしの怪物さん」

 彼女もまた彼に近づき、男の血だらけの顔を両手で挟んで微笑んだ。

「ああ。ずっと、俺はお前の怪物だ」

「だったら、いい子で手当てしてもらって。けっこうケガしてるもの。すぐにヤマネが来てくれるわ」

 やはり、この怪物を手懐けられるのは彼女しかいないということなのだろう。彼が大人しく従うのを横目で眺めて、白ウサギはニヤリと笑った。

「アリスがもういないなら、ジャバウォックを殺せる者もどこにもいなくなったってことだな。帽子屋、さっさと逃げた方がいいぞ」

 その皮肉に、帽子屋は軽く肩をすくめて苦笑いを返したが、その時には既に、その瞳には職人らしい輝きが宿っていた。

「そうしたいのは山々なんだが、見ての通り、仕事がたんまり残ってやがる。ここが事件現場だって警察に分からないように、綺麗に掃除しなきゃいけねえ。まあ、あのアイルランドの婆さんは、このセットもだいぶケチったようだから、こんな見かけだけの内装なんぞは全部そっくり作り替えちまえばいいさ。ああ、だが婆さんの指紋とキャロラインの指紋の付いてる部屋は、そのままにしておかなきゃな」

「そのあたりのことは、あんたなら朝飯前でしょ、帽子屋」

 少女の意地悪な褒め言葉も、もはや帽子屋の耳には届いているのかどうか。

 そのシルクハットの中の頭は、既にこの屋敷をどうするかでいっぱいのようだ。

「まったくケチくせえババアだぜ、外見はまともだが、中はボロボロもいいとこだ。よくこれでお前さんを騙せるつもりでいたよ、このガレのコピーの劣悪なランプを見ろ、そこらで五十ドルで売ってるようなチンケな代物だぜ。ステンドグラスなんぞアクリル板のバッタもん、絨毯に至っては化繊、ポリエステルだ。俺はこういう素人仕事を見ると虫唾が走る」

 そう吐き捨てる姿は、本気で腹に据えかねているようにさえ見えた。

 それから彼は片足立ちでくるりと一回転しながら、天井回りと壁とを次々に指し示しながら楽しげに語りはじめた。

「あそことあそこと、あそこにステンドクラスを入れよう。あーん、そうだな、ティファニーのフラワーモチーフのコピーを作ろう。シャンデリアも鉛ガラスのいい奴に変えようぜ、こんな安物の出来合いの照明なんて、ざまあない」

「二階の、このババアの部屋に、薪ストーブがあったんだけど。あれも本物の暖炉に代えてくれない?」

「いいともさ。おやすい御用。屋敷そのものを丸ごと、古き良きアイルランド風にしよう。この居間にもピンクの花崗岩の暖炉を付けて、そこから配管を通せば、二階に暖炉を作れる。マントルピースはそうだな、まあ、ゆっくり考えるか。時間はたっぷりある、お嬢ちゃんはご希望があったらどんどん言ってくれ。そのへんの改装は、警察の実況見分がすっかり終わって、黄色いテープがなくなってからじゃねえと手がつけられんからな」

「あら楽しみ」

 少女は実に満足げに頷き返した。この場の惨状など、見えていないかのように。

「この死体の山はどうするね?」

 白ウサギだけは、しかし血の海がちゃんと見えているようだ。顎に手を当てて考え込んでいる。

 だが、その答も帽子屋は既に用意していた。

「そこの事故死者のご遺体と一緒に墓の中、と思ったが、ママとおばあちゃんの分はとっとかないとな」

 帽子屋は不気味で陽気な笑みとともに、的確な指示を出す。

「白ウサギ、ジャバウォック、二人の死体をビニールでくるんでキャロラインの車に運べ。地べたに血の一滴もこぼすんじゃねえぞ。そのビニールからババアどもの血を集めて、窓からの弾道に合わせて俺様がきっちり配置する。滴下血痕の再現は大好きだ。ババアは後部座席、キャロラインは運転席にな」

 命じられるままに、二人の男は一つずつ死体を担ぐと、堂々と玄関を通って駐車スペースへと運び出していく。

 帽子屋はさらに、少女に静かに言い聞かせた。

「お前ら三人は、自動車でドライブ中に、地元のラリったヤク中に撃たれた。いいね?」

「それじゃパパは納得しないと思うけど」

「そのヤク中は、自分はIRAの手先の売人からヤクを買ったと思い込んでるよ。ある一家を殺したら一生ヤクには不自由させないと約束してくれたって、ペラペラよく喋る男を準備済みだ」

 貧しい港湾労働者を薬漬けにすることくらい、彼にかかれば簡単な仕事だろう。犯人役に仕立て上げられた若者は不幸だが、ここは死刑制度の廃止されたニュージャージー州だ。一生刑務所暮らしか、運が良ければ薬物依存症治療施設に入所できるかもしれない。

「証拠が揃ってて、自白した犯人もいれば、州警察はまともに調べもしねえよ。ここはニュージャージーだ、ニューヨーク州じゃない。田舎の警察なんぞに、この俺様の仕事が見破れるわけがねえだろう。そして君のパパはNYPDであって、FBIじゃない。ここの捜査権は君のパパにはない。もしあったとしても、親族が事件に巻き込まれた場合、刑事は担当から外される。分かったね、何も心配はない」

「かわいそうなパパ」

 まるで他人事のように、少女は口にした。

 その傍らで、白ウサギが自らのホルスターに手を置き、しみじみと呟く。

「せっかく直して貰った時計だが、また俺の手を離れることになりそうだな」

「いや、その時計はあんたの思い出の品だろ。大事にしてくれ。同じ口径の銃は、もうヤク中に渡してある。バンバン人形相手に撃ってくれたんで、この通り、弾丸も薬莢も回収済み」

 と、帽子屋が右手を振ると、まるで手品のように、その手袋のてのひらから使用済みの潰れた弾丸と空薬莢がばらばらと溢れ出し、彼の左手の上に山積みになった。

「ラッキーなことに、ババアは全弾貫通してる。コルト・パイソンなら当たり前だがな。あとは、しかるべきところ……車の座席やドアの内側に穴を開けて、その弾を嵌めるだけの簡単なお仕事ですわ」

「なら、こうしておかないとな」

 白ウサギは冷酷にも、キャロラインの左脇腹の傷に自らの銃を押し当て、全く同じ部分に一発発射して、腹部を貫通させた。

「実に白ウサギらしい完璧な仕事だね。俺はお前さんのそういうところが大好きだ。ついでに言わせてもらうと、こっちもこっちで完璧主義者なもんでね、ヤク中は本気で、お前ら一家を殺したと思ってる。いや、事実だと信じてるよ」

「イモムシとハンプティ・ダンプティの仕業ね」

「いや、ヤク漬けにしたのは卵のおじさんだが、暗示や催眠はうちのヤマネの専門さ。完璧で強力な暗示だ。サラ・ゴールドにしたようにね」

 ジャバウォックはぼろぼろになった司祭服のまま、少女の体を軽々と抱え上げて囁く。

「お前は、ママの死体の下でじっとしているんだ。警察か救急車が来るまで」

「あのときと同じね」

「そうだな」

 初めて出会った時を懐かしむように、二人は微笑みあった。

 彼女は彼の首に両腕を回し、その頭を強く抱きしめる。

 こんなひどい有様だというのに、この一組の魔物たちの、なんと美しいことか。

「俺たちの新しい拠点はここだ。この屋敷。キャロラインの母上、つまりお祖母様の屋敷を君が相続するんだから、何の不自然もない。書類上の名前は、ケイト・ヘイワースのままになるが」

 帽子屋の言葉に、白ウサギも笑みを作った。

「サングレラ・ファミリーか。この長い耳にも、実にいい響きだ」

「強力な一族よ。IRAも、他のマフィアも、敵対するならば皆殺し」

 少女は可愛らしい顔で、チェシャ猫の……魔物たちの世界の言葉を話す。

「模造の世界もこれで終わりよ」

「もちろん、俺様は、俺様の手下どもを代表して、新たな我らがあるじに命と忠誠を捧げる」

「俺もだ」

「俺はとっくに捧げてる」

 魔物どもの誓いは明快だった。

 最初から決まっているのだ。魔物の血筋は、魔物にしか支配できない。

「じゃあ、取りかかろう。カードの次はチェスだったわね?」

「鏡の国の舞台はそうなるな」

 白ウサギの答えに、少女は……チェシャ猫は、怪物に抱き上げられたままの姿で、にっこりと笑った。

「じゃあ白ウサギ、駒を並べて。新しいゲームを始めるよ」

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