第15話 クイーン・サクリファイス

「ねえ、せっかく死刑を言い渡すなら、もっと勿体つけなくちゃ。そんなんじゃあちっとも怖くないわ、恐怖のあまり命乞いをさせて、誇りと誠意の全てを搾り取ってから殺すのがあなたがたのやり方じゃないの、おばあちゃま」

 少女は悪戯を楽しんでいる子供のようにクスクス笑いながら、料理と生花と食器の残骸が敷き詰められている長いテーブルの上を、ファッションショーのキャットウォークのように歩き回った。ブルーのドレスがシャンデリアの下できらめき、真珠色のパンプスが潰れた花をさらなる破片へと変える。

 しかし、いくら背後に護衛を連れているとはいえ、たったの二人だ。

「虚勢を張るのも時間稼ぎも無駄だよ、アリス」

 ハートの女王が冷酷に告げても、少女はそちらへと、小馬鹿にするように人差し指を立てて揺らしたものだ。

「だーかーらー。言ってるでしょ。あたしはアリスじゃない。チェシャよ、忘れないで」

 それから、安っぽいステンドグラスの窓のほうを見遣って……そのはるか先にあるはずのマンハッタンに思いを馳せるように、かすかに呟く。

「アリスは……あたしの大事なアリスは、こんなところにはいない」

「どういうことだい」

 片眉を吊り上げた女王に向かって、『チェシャ』はにやりと笑った。

「聞きたいなら教えてあげる。こういうの、冥土の土産って言うんだっけ?」

 少女の青い目は、しかし少しも笑ってはいない。

 その冷たい輝きは、見つめる先の命がもうすぐ消えると確信している。

 そう、彼女は……『チェシャ』は、ハートの女王の死刑宣告をそっくりそのまま返しているのだ。

 もうすぐ死ぬ者にでなければ聞かせられない話を。

 もうすぐ口を開くことができなくなるものにでなければ打ち明けられない秘密を。

 ついに彼女は明かそうとしている。

「本物のブラックブッシュ家のお嬢様には、全部忘れてもらったの。アリスは何もかも忘れた。忘れてもらわなくてはならなかった。一切合切、自分の名前も……ご両親や姉妹の顔も名前も。使用人であった家族のことも」

 あたしのことも。

 少女は、その一言は口に出さなかった。涙の一筋さえ流さなかった。

「すべてを消してしまうことで、彼女の心の平穏と身の安全を同時に図れた。大事なのはそれだけよ」

 自分の存在など、忠誠を捧げるもののためになら惜しまない。そんな人間を無数に見てきたし、そういう連中を利用し、食い尽してきたはずのハートの女王が、わずかに表情を変えるほど、それは堂々とした態度だった。

「そんな大それたことを、よくやってのけたものよ。褒めてあげよう、アリス……いいえ、子猫ちゃん」

「ありがとう、おばあちゃま。でも、あたしの手柄じゃないのよ。全部、白ウサギのおかげなの」

 少女はまるで、本当に祖母に褒められたのが嬉しかったかのように、両手で口元を覆った。だが、そんな仕草は余興だ。

 どんなにおどけてみせても、その青い瞳は、尊敬と信頼を白いスーツの男から逸らしてはいない。

「彼って本当にすごいのよ、おばあちゃま。すぐに、ほんの数日のうちに、白ウサギが『偶然』都合のいい夫婦を見つけてくれたわ。大切な一人娘を亡くしたことがいまだに信じられずにいる、資産家のご夫妻よ」

 その夫婦の苗字や死んだ娘の名前はもちろん、その死因や日付、手がかりになりそうなことは全てぼかしているせいで、ハートの女王はもちろん、その部下たちも苛立っているのが伝わってくる。

 焼け付くような視線を楽しむように、少女はひどい有様のテーブルの上から、なんとか無傷のまま残っている葡萄の房をつまみ上げ、その一粒をぱくりと口にしながら言った。

「偶然って重なるものね、亡くなった娘さんとアリスの血液型は同じで、年頃どころか誕生日も同じだったわ。後は親御さんに、お嬢さんは奇跡的に一命を取り留めたと信じ込ませるだけで良かったの」

「偶然とは笑わせるじゃないか、子猫ちゃん」

「笑い事じゃないのよ、おばあちゃま。ああ、この葡萄、とっても美味しい」

 赤黒い果汁で唇を染めながら、少女は義理の祖母に微笑みかける。

「白ウサギが紹介してくれたんだけど、医師免許を失った元精神科医で、退行催眠と暗示の専門家がいるの。あたしたちは『ヤマネ』なんて呼んでるけど、そのヤマネが、くだんのご夫婦と最愛のお嬢さんの、感動の再会を演出してくれたのよ。そりゃあもう、涙なくしちゃ見られないような名場面だったわ」

 ちいさな女の子が味わった、燃え盛る炎と強烈な苦痛。

 夫婦が味わった、何の前触れもなく我が子を失うという絶望。

 ふたつの恐怖、ふたつの思いを、ヤマネは容易く結びつけた。

 お子さんはご無事ですと、言うだけで良かった。

 ご両親が今来るからと、言うだけで良かった。

 実際、病院のベッドで抱き合ったゴールド夫妻と女の子は、心からの安堵にむせび泣いていたものだ。

 どちらも、永遠に失ったと思った家族がそこにいる幸福に打ち震えていた。

 以来、サラ・ゴールドもその両親も、自分たちが実の親子だと思い込んでいる。

 彼女が相続するブラックブッシュ家の資産は、娘のための学資保険の満期だということにしてある。そのくらいの書類の偽造は、帽子屋と三月ウサギにかかれば朝飯前だ。

「そうやって、あたしもアリスも消えたの」

 と、少女は口からぷっと葡萄の種を吐き出し、食卓の残骸と見分けがつかないようにした……葡萄の存在を消した。

「これはね、あたしの偽海亀が教えてくれた話なんだけど、おばあちゃま、キャリー、知ってるかしら? 世界一チェスの上手な、ボビーって人がね、一番大切なものを差し出して勝利を掴んだんだって……あたしの選んだ戦略は正しいって」

 ボビー・フィッシャー、チェスによってのみ完璧に世界を理解していた男、その世界に裏切られてからは世界を捨てた男のことを、少女は古い友人のように目を細めて語ったものだ。

「クイーン・サクリファイスよ」

 チェシャが口にしたのは、チェスの知識のあるものなら誰でも、いや、少しでもゲームを楽しんだことのあるものなら知っている、伝説の一手だった。

 フィッシャーの人生や彼の棋譜については、偽海亀のほうがずっと詳しいだろう。正しく理解しているだろう。

 しかし、チェシャは彼の抱いていた悲しみに共感できた。ボビーのことが好きだった。

「あたしはね、あたしのアリスのためなら、あたしのことなんてどうでもいい。忘れられたっていい、死んだことになったっていい、最初から存在しなかったっていい」

 フィッシャーは、チェスの駒の中で最も強力な駒であるクイーンを手放すことによって、ソビエトの誇る世界王者に対して勝機を掴んだ。いまだに語り継がれる、世紀の一局で。

 だからチェシャはその一手を選んだのだ。

「冷戦の中を生きながらえたIRA、あんたたちに勝つには、これしかなかった。分かるでしょ」

 証人保護プログラムに特定の人物を……すなわちアリス・ブラックブッシュを守らせるのは不安があった。

 なぜなら、白ウサギことティモシー・バークは、CIAに情報提供することで証人プログラムの対象者として認定され、新しい名前と人生をもらったが、それでもかつての仲間、IRAの殺し屋が怖しかった。裏切り者として追いつめられる恐怖に耐えかねて、同郷のブラックブッシュ家に助けを求めてきたのだ。

 アンディ・ブラックブッシュ、アリスの父が彼を守る気にならなかったら、白ウサギはとっくにどこぞの道端で人相も指紋も分からない死体になって転がっていたことだろう。

「FBIもCIAもFDAも州警察も、基本的に使っているプログラムは一緒なんですって。ついでに警察は、保護対象者の人物設定に自分の身内を使うことが多いの。口裏合わせが楽だものね。実際よくできているシステムではあると思うわよ、だけど一人の人間がある日突然幻のように消えて、別の場所に別の人間が何の前触れもなく現れるなんて、そういうデータを見慣れている者なら見つけられるわ。時間はかかるかもしれないけれど、根気があればね……実際あんたたちはあたしを見つけて、キャロラインを送り込んできたんだから」

 義理の娘に名前を呼ばれて、キャロラインはびくりと体を硬直させた。もともと色白の顔からは血の気が失せ、瞳孔は開いて、テーブルに置いた手が小刻みに震えている。

 明らかに狼狽えた様子を楽しんでから、少女はにこやかに続けた。

「でもね、消えたり現れたりするのはこのあたし、チェシャの得意技なのよ」

 いや、それはにっこりとした……明るい微笑みではない。

 昏く混沌としたにやにや笑いそのものだ。

「だけど、本当のアリスが今どこでどうしているかは教えてあげない。知りたかったら、今から調べたら? どうせ無駄だと思うけど、ああ、でも地獄からなら、凄腕の工作員を手配できるかもね」

「だから刑事の養女になったんだね。敵に見つかってもいいと覚悟を決めて」

「正解よ、すごいわおばあちゃま」

 無邪気なふりをして邪悪に拍手する『チェシャ』を、ハートの女王は舐めるように、いや、貪り尽くすように眺め回した。

 そして、ようやく頷いた。

「なるほど、お前はチェシャだ。ああ、そうとも。お前はあたしたちの獲物じゃない、あたしたちの、我が祖国の敵よ」

 その言葉に、少女は満足げに頷き返し、ドレスの裾を持ち上げて華麗なお辞儀すらしてのけたものだ。

「分かってくれて光栄よ、ハートの女王陛下」

 素晴らしい、悪意に満ちた微笑のままで。

「クイーン・サクリファイスは最高の一手だもの。いざって時にしか打てないし、計算し尽くしていなければ、その盤面に持っていくことすらできない」

 ぐちゃぐちゃのテーブルの上に立っている少女と、そのテーブルに設けられた主人の席に着いている老女が、ごく自然に対等に会話しているのは、ひどく奇妙な光景だった。その上、ふたりの女性たちの背後では、無数の銃がその照準を互いに定めて鈍く輝いているのだ。

「チェシャ。参考までにひとつ教えておくれ。お前みたいな小娘が、どうしてこんな手練を集めて使いこなせたのかをね」

「あら。女王様は、今後の参考なんて必要ないでしょう? あなたはここで無様に死ぬんだもの」

「そうとは限らないさ、はらわたをぶちまけて死ぬのはお前だよ、子猫ちゃん」

 ひどく凄惨な言葉ばかりが並ぶというのに。

 チェシャと女王の会話は、まるで今日のお天気や、お隣さんの噂話でもしているかのように当たり前に続いた。

「そこまで言うなら、本当に地獄の悪魔との世間話に使えるように教えてあげたいところだけど……本当のところ、あたしは何もしてないのよ。あたしは穴に落ちただけ」

 少女は女王から視線を外さず、ただ細くて長い指先だけを、白いスーツの黒人男へと向けた。

「白ウサギの穴にね」

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