第14話 猫は笑う

「なんだって?」

 女王の視線をまともに受け止めながら、少女はにやにや笑う。

「だから言ってるじゃない。あたしはアリスじゃない。チェシャ猫よ」

 とらえどころのない、いや、感情すら汲み取れない、人形のように完璧な笑顔だった。

「ふざけるのはおやめ、お嬢ちゃん」

 あからさまな苛立ちを前にしても、ケイト・ヘイワースと呼ばれている少女は、いささかも動じた様子はなかった。

「そうね。あんたたちさえ余計なことをしてくれなければ、あたしはずっと可愛いお嬢ちゃんでいられたのよね。何も知らず、明日も明後日も、今日と同じ一日が続くと思ってる子供のままで」

 だが、軽く肩をすくめた彼女は、信じられないほど大人びた表情をしている。

 もはや無邪気な子供の時代などとうの昔に卒業しているように見えた。

 いやそれは、老獪な……邪悪な、魔物の目だ。

「あんたたちがあたしを変えたのよ。あの夜、にやにや笑う、実体のない猫として生まれたの」

 その言葉を引き取るように、司祭服の怪物が笑った。

 少女とそっくり同じ笑顔で。

「そして俺のアリスになった」

 いや。その表情にはどこか、満ち足りた静けさが漂っている。彼の目は、いつでも相手の額を撃ち抜く冷酷さとともに、いま幸福な人生を終えようとしている老人のような、穏やかな優しさがあった。

 そう、それは、欲しいものを全て手にしているひと独特のまなざし。

 だが、彼がそんな愛しげな視線を傾けるのは、ただ腕の中の少女に向けてだけだった。

「あの夜からずっと。お前のためだけに生きてきた」

「ありがとう、あたしの怪物さん」

 全てを理解している様子で、彼女が言う。

「あの恐ろしい夜のこと。忘れようとしても忘れられない、一生に一度の、恐ろしい誕生日の夜のこと。あなたもちゃんと覚えていてくれるんだよね」

 遠い記憶を噛み締めるために、少女は静かに目を閉じた。

 そして彼も。

 銃口は油断なく敵へと向けながら、愛するひとの黒髪に鼻先を埋めて、過去への旅を始める。

「あたしが覚えているのは、火よ」

 そう、それは真っ赤な炎。

「あのとき、あたしはほんの小さな子供だった」

 屋敷を飲むように燃え盛る業火の中で、まどろみから目覚めたばかりの彼女は、煙の中から現れた黒い巨大な影を『怪物』だと思った。

 その影は黒く、ひどいにおいも立ちこめる煙も、灼熱の温度すら気にも止めない様子で、ゆらゆらと揺らめきながらそこにいた。

 怖かった。

 だが、恐怖のあまり凍り付きそうになる足を必死に踏みしめて、少女は怪物の前に立ちふさがった。

 大切なアリスを守るために。

「お願いだから、怪物さん。あたしを殺して、アリスだけは助けて。あたしを八つ裂きにしていいから。灰になるまで燃やしていいから。だから、アリスだけ助けて」

 アリスは煙を吸って気を失い、ベッドに眠るように横たわっている。少女自身はといえば、銃撃で脇腹に傷を負っていた。絶え間なく血と体温が流れ出していくのを感じながら、その燃えるような痛みだけが、彼女をそこに立たせていた。

 自分の脇腹から流れ落ちる血を両手でかき集め、彼女は黒い『怪物』に向かって差し出した。

「あたしはルーカス・ドレイクの娘。ブラックブッシュのお嬢様に忠誠を誓ったの。だからお願い、怪物さん。あたしの忠誠と真心と命をあげる、あなたに全部あげるわ」

 小さな女の子は、氷のように青い目から、澄んだ涙を流している。

「お嬢様を、あたしのアリスを殺さないで」

 煤と煙の中で、彼女の顔は綺麗だった。涙が、血も汚れも全て洗い落としていた。

「お願い、怪物さん」

 彼女の言葉で、クリストファー・ピーターセンは、自分が死んだと感じた。

 そう呼ばれて、何故だろう……救われたのだ。

 もう人間などとっくに止めていたはずなのに、そんなことにも気付かなかった愚かな自分を、彼は『怪物』なのだと自覚した。

 自分の命はくれてやる。そのかわり、自分の愛するものだけは守ってくれ。

 そんなことを言う人間に初めて出会い、そしてクリストファーは、自分が殺し続けてきた人間のすべてに、愛するもの、愛すべきもの、生きてきた人生、これから生きるべき人生があったことを知った。

 短い沈黙の後、『怪物』は銃を下ろし、顔を隠していた仮面を外した。後になって思い返せばそれはただのフルフェイスのヘルメットだったが、少女はそれを仮面、いや、『怪物』の顔そのものだと思った。

「分かった。全部もらおう」

 そして彼がいた。

 短い金髪、青い目の、絵本の中にいる人のように美しい顔をした、まだ少年のような若者が。

 彼は少女を抱え上げると、ブラックブッシュ家の三姉妹のベッドまで運び、既に彼が殺し終えた姉と妹の死体の下に、彼女の体を隠した。

「ここに寝て、消防士が来るのを待つんだ。いいな」

「アリスお嬢様は?」

「君のベッドへ連れて行く。君はアリス・ブラックブッシュだ、彼女はエラ・ドレイクになる」

 彼はアリスの体を軽々と担ぐと、正確に使用人の居室……ドレイク家の人々が暮らしていた方へと歩きはじめながら、静かに言った。

「俺の言っている意味は分かるな」

「ありがとう、怪物さん」

 そして消防士がやってくるまで、彼女はじっと待った。言われたとおりに。

「生きてる! 一人生きてるぞ!」

「こっちにもいる、女の子だ、早く!」

 その声が自分の部屋の方から聞こえたとき、ようやく彼女は眠った。

 安心して。

 このまま死ねるのだと思って。

 だが、少女は病院のベッドで目覚めた。

「わたしの名前はアリス。アリス・ブラックブッシュです」

 彼女は医師にそう告げ、刑事が持ってきた少女の写真を見て、再び心からの安堵を味わった。

「もうひとり、この子が誰だか分かるかい? 何も覚えていないんだ、自分の名前も思い出せない」

「エラです。うちの使用人のエラ・ドレイク。彼女は無事ですか?」

「ああ。大丈夫だよ。ただ、ひどいショックを受けていて、どう言えばいいのかな……」

「記憶がない?」

「そう。きっと、とても怖かったんだろうね。今は何も思い出したくないんだろう。看護師さんがついているから、彼女のことは心配いらないよ」

 刑事の言葉に、彼女はただ頷いた。

「君もよく頑張った。よく頑張ったな、アリス」

 そう励ましてくれた刑事が、未来に自分の義理の父親になる男だとは、その時はまだ知らなかった。

 いつ死ねるのだろう。ただ、それだけを考えていた。

 そして夜になり、暗くなった病院に、再び『怪物』は現れた。

 まだたくさんの警備の人間が配置されていたはずなのに、誰にも気付かれず、彼は窓から入ってきた。

 静かに吹き抜ける隙間風のように、いや、不意の突風のように。

 開いた窓から流れ込む冷たい空気が、全てにおいて管理された病質の中ではあまりにも異質で、同時にひどく心地よかったのを彼女は覚えている。

 そして彼は、点滴と輸血のチューブが繋がれた彼女の手を取り、ベッドの傍らに跪いて、自分の白い喉笛を差し出した。

「お前は俺に命と忠誠を捧げた。お返しに、俺の命と忠誠をお前にやる。これでおあいこだ」

 彼が少女に手渡したのは、銀色に輝く一本のメスだった。

「俺はお前の家族も、お前のあるじの家族も殺した。俺はお前の仇敵だ。俺を殺せ」

 自分の命をもって全ての罪を購うのが当然だと、彼女にはその権利があると、若者は信じていた。

 しかし。

「そんなことしない」

 小さいが鋭い刃物を、少女は彼へと返した。自分も彼も、誰も傷つけずに。

「あのとき決めたでしょ。あなたはあたしの命を持ってる。あなたを殺せば、あたしも死ぬ」

「そうだったな」

 彼女の言葉に、彼はようやく笑みを浮かべた。

 その時は気付かなかったが、後になってみれば分かる。彼が心から笑うのは、これが生まれて初めてだったと。

「なら、お前は俺の命を持ってる。お前が死ぬとき、俺が死ぬ。そういうことだな」

「そうよ。それでおあいこ」

 少女も笑い返した。青い目いっぱいに、信頼と情熱の全てを輝かせて。

「分かった」

 頷きながら、『怪物』は知る。自分はもはや、この運命を受け入れている。俺は彼女に命を捧げた。逃げ道などない。もうとっくに、恋という穴に落ちている。

 自らにまだ、そんなことを思う心があることに戸惑いながら。

 彼はまた、来たのと同じ窓から、夜の闇へと消え去った。

「おやすみ、俺のアリス」

「おやすみなさい、あたしの怪物さん」

 そして盟約は結ばれた。

 あのイカレた帽子屋、当時はシルクハットどころか安物のキャップすら冠ってはいなかったが、それでもプロの偽造人が、それまで頭の中でこねくり回していただけのイカれた方法を現実に移して、彼が死んだことにしてくれた。ブラックブッシュ邸襲撃の際に反撃を食らって、逃走を図ったが途中で力つきたと見せかけるために、同じ背格好、同じ人種の死体をどこぞの死体安置所かホームレスのたまり場から手に入れてきて、蜂の巣にして近くの森の奥に捨てた。警察が見つけた頃には、死体にはいくらかの腐敗した組織の名残と骨格だけが残り、その傍らにはブラックブッシュ家を襲った時に使ったマシンピストル、ステアーTMPが転がっていた。

 やがて帽子屋と呼ばれることになる、場末の偽造人は、皮肉な笑みを浮かべて言ったものだ。

「これでお前さん、逃げ切れるよ。だが、これでもう、どこにも逃げられなくなった」

「逃げる気なんかない」

 こうして『怪物』は、『怪物』として迎え入れられた。蜘蛛の糸のように細く、目を凝らさなければ見えない、だが特別な絆へと、ごく自然に。

 そうなることが、ずっと前から決められていたことのように。


 そして今、彼は『怪物』そのものとなって戻ってきた。右手ではダンスに誘うように少女の手を取り、左手に巨大なオートマチック・マグナムを携えて。

 その姿を満足げに見遣ってから、白髪混じりの黒人男が静かに笑った。

「後は、こちらで全て手配させてもらいましたよ」

 男は、右手に年代物のコルト・パイソンマグナム、左手にグルカナイフを構えながら言い放つ。

「どんな手練手管より上策なのは忠誠心ってやつだが、皆様ご存知の通り、そんな魔法は特別な人間にしか使えないものなんで」

 神父の傍らに控えているだけなら、彼は大人しい教会の下男に見えただろう。

 しかし、今の彼は違う。堂々と『怪物』の横に立ち、不敬にも、黒い棺桶に片足を乗せて笑っていた。

 その自信に満ちた面差しを、はじめハートの女王は知らぬ顔だと思っていたようだが。

 やがて、記憶の底からたぐり寄せた。彼が何者であるのかを。

「バーク……! お前、バークだね?」

 その名を呼ばれたとき、黒人男の頬に皮肉めいた笑みと、引き攣ったような深いしわが浮かんだ。

 マグナムの銃口が向けられていることを意識しているのを巧妙に隠しながら、女王は親しげな口調で語りかける。

「お前のことはよく覚えているよ、確かファーストネームは、そうだ、ティモシーだったね。あたしはてっきり、お前はロンドンで……自爆テロの失敗で死んだんだと思っていたわ。生きていてくれて本当に嬉しいよ」

 だが、それらの選び抜かれた言葉にも、彼は片眉を上げただけだ。

「バークさんってのはどちら様ですかね?」

 当たり前のようにそううそぶく黒人男は、丸縁の赤いサングラスと、上等な白い三つ揃えのスーツを身につけていた。服に合わせた白の中折れ帽には大きな羽飾りがはためき、胸元にはシルクのボウタイと揃いのチーフが輝く。まるで本当にパーティーに参加するような服装で、懐中時計の金鎖が胸元に光っていた。

「俺は『白ウサギ』と申します。お見知りおきを」

 彼が勿体つけて名乗ると、少女の軽快な笑い声が続いた。

「白ウサギは、あたしと本物のアリスの水先案内人よ。あたしたちのために、彼はとっても繊細で、とっても大胆な蜘蛛の糸をアメリカ中に張り巡らせて、糸の先にいるこのおはなしの登場人物たちを、ニューヨークに……あたしのところに呼び集めてくれたの。ありとあらゆる方策を尽くして、ね」

 そう。この男が誰なのか、ハートの女王はよく知っている。

 だからこそ、たかが自爆テロの駒程度の役向きしか与えられなかった彼が、こんなにも堂々とした、一種独特の迫力と洗練された態度を身につけていることに驚きを隠せなかったに違いない。

「そんな真似、できるはずがない。バーク、お前ごときに」

「ええ、仰せの通り俺は下っ端なもので。大したことはしちゃあいませんや」

 女王のことはこちらもよく知っているという口ぶりで、白ウサギは軽く肩をすくめる。

 二人のやり取りに、少女……チェシャは嘲りとも挑発ともつかない笑みを浮かべて割って入った。

「謙遜しないで、白ウサギ。あんたほど用意周到なひといないわ。ねえ、ちょっとくらいなら種明かししてあげてもいいじゃない。女王様は、どうやって本物のアリスがあんたのウサギ穴に落ちて消えてなくなったのか、そこが知りたいみたいだから」

「最初はちょっとした思いつきさ。このバケモノが、女の子を二人殺さなかったことを知ったもんでね」

 鑑識課が事件現場で発見するより先に、エラ・ドレイクの写真を、焼け残ったブラックブッシュ家のアルバムに紛れ込ませたのは、白ウサギだった。

「このバケモノが、エラがアリスお嬢様になりすますって伝えてきた時には、信用なんかしなかった。だが、こいつは俺の前で、あんた、そう、女王様に連絡してみせたのさ。一人だけ、ブラックブッシュ家の娘を仕留め損ねたとね。反撃食らって腹に三発食らった、もう無理だって、あの死にかけの芝居はなかなか見事だったよ。ついでに、なかなかいい脚本だった」

 クリストファー・ピーターセン、いや『怪物』は、彼のアリスとなった少女の病室から消えた後、すぐにティモシー・バークのところへ行った。

 ブラックブッシュ屋敷の下見をしているとき、偶然に目にしていたのだ。エラの父、ルーカス・ドレイクが、住み込みの使用人仲間として、なにかにつけてトムという名の黒人男の面倒を見てやっていることを。

 そしてすぐに気付いた。そのトム・マッケンジーと呼ばれている男は、表情こそずっと明るく生き生きとしていたが、見まがうことのないかつての仲間、空港での自爆テロの失敗で死んだはずのティモシー・バークだと。

 彼もまた、IRAを裏切って身を隠している、いや、ブラックブッシュ家によってかくまわれている人物だ。

 そう悟った『怪物』は、殺されるのを覚悟でバークの前に現れ、自らの成したことの全てを告白したのだ。

 ラスベガスの大通りから外れた安アパート、酒と麻薬のにおいが漂ってくる部屋で。

「俺がお前の主人一家を殺した」

 アンドリュー・ブラックブッシュとその弟を悼むために、酒と煙草を口にしながら、彼はそれを聞いていた。

「アリス・ブラックブッシュとエラ・ドレイクを入れ替えた。あんたたちの大切なお嬢様と、彼女に仕える忠実な娘とを」

 突然押し掛けてきた相手が、ヤクの見せてくれる夢の中でさまよっているジャンキーか、どこぞの異常者が戯言を吐いていると片付けることもできたはずだ。

 だが、バークは目の前の怪物を信じた。

 ラスベガスの大富豪ブラックブッシュ一家が殺害された事件は、まだどこのニュースにも流れていない情報だったからだ。

「俺は忠誠を誓った。新しく生まれたアリスに」

 詳しいことは話さなくても、それだけで十分だった。

 彼が生まれ変わったのと同じように、トム・マッケンジーもまた新たな命、真新しい希望を手に入れたのだ。

 その瞬間、トムの頭の中に、様々なイメージが色鮮やかに輝きながら流れ込んできた。パズルを組み立てるよりも、一度だって成功したことのないルービックキューブより簡単だった。どうすればいいのか、直感で分かった。

「だったら、お前さんには死んでもらうことにするよ」

 トム・マッケンジーは白い歯を見せて笑い。

 それからクリストファーは、彼の言うとおりに死んだ。

 全ては筋書きどおりに進んだのだ。


 クリストファー・ピーターセンは死の間際に、IRAに最後の連絡を取り、一人だけ仕留め損ねたことを伝えた。言わなくてもすぐにIRAは生き残りがいることを突き止められるだろう。二人生きていることを知られるくらいなら、「一人残した」と嘘の情報を流す方が有効だ。

「それで俺は、もしかしたら、本当にアリスお嬢様を永遠に守れるんじゃないかと思ってね。アリスお嬢様の意識が戻るよりも早く、大急ぎでブラックブッシュの旦那様が使ってた連中の中でも、特に信用が置ける人材を集めた。それだけさ」

 アリス・ブラックブッシュ、いや、入れ替えられた少女のカルテには、エラ・ドレイクと記されていた。病院は命を助けるための場所だ、救命救急士から告げられた身元に疑いなど持たない。

 だから、彼女はエラ・ドレイク、火災にあった館に住み込んでいた使用人一家の一人娘なのだ。

 白ウサギの計画は、こうして動き出した。

 エラと名札のかけられている患者の意識が戻らぬうちに、白ウサギは次々に、打てるかぎりの手を打った。

 まず、精神医学のプロを呼び寄せて、目が覚めたばかりの彼女に偽の記憶を与えた。強烈な鎮痛剤で朦朧としている子供に嘘と真実を錯誤させることなど、実に容易かった。

 それと平行して、偽造の専門家、プロのハッカー、麻薬密売人、麻薬製造者、本物の詐欺師、などなど……ブラックブッシュ家に借りや恩義のある人々の中でも、絶対的に信用の出来る者だけを選りすぐって集めた。

「なかなか豪華な面々なのよ、女王様。そりゃあそうよね、アンディとイーサン、あのブラックブッシュ兄弟が信頼していた人たちばかりだもの」

 チェシャはまた声をたてずに笑う。

 実際、白ウサギが集めたのは一流の犯罪者ばかりだった。

「あたしたちがアリスを隠したの。誰にも知られないようにね。だから、アリス自身すらも、何も知らない」

「そんな真似ができるとは思えない。貴様らごときに」

 女王の冷徹な答えにも、猫は軽く肩をすくめただけだ。

「そう思うならご自由に。だけどあたしは、そんなこと簡単にできるって聞いたわよ? ねえ、考えてみて、女王様。あんたたちみたいな田舎のテロリストには縁遠い存在かもしれないけど、プロフェッショナルのハッカー、いいえ、ハッカーという呼び方じゃあ失礼に当たるわよね、ウィザードって呼ぶべきコンピュータープログラム解析の天才だったらどうかしら? その素敵な天才のことを、あたしたちは『三月ウサギ』って呼んでるの」

 全てがデータ化された現代社会では、重要な情報になればなるほど厳しいセキュリティが設けられている。国家機密、政治資料、税務調査記録などは、特に管理が厳しい。しかし、それがただの個人情報だとしたら。

 相手の情報を引き出すだけなら、ハッキングの技術などない一般人でも、身近な人間に成りすますか、あるいは身近な当の本人なら容易いものだ。

「三月ウサギはほんの数分で、政府のあらゆる情報にアクセスして、このあたし、エラ・ドレイクと、ブラックブッシュ家のお嬢様の記録を一切合切入れ替えてくれたわ。あたしをアリスとして証人保護プログラムに潜り込ませ、チャールズ・ヘイワースという刑事の養子として、新しい名前と社会保障番号を手に入れさせた。ついでに、エラ・ドレイクという名前で収容された患者は、火傷からの感染症で死んだことにしてくれたの」

 奇想天外だが確実な計略の披露に、ハートの女王の兵士たち、いや、IRAの突撃部隊の間にかすかなざわめきが広がった。

 その動揺の波紋をとめたのは、目の前の少女と数ヶ月を共にした女、すなわちキャロラインだ。

「ケイティ、あなた、自分を社会的に抹殺したの? それがどんな重要なことか分かっていたの……あなたはまだ子供なのに」

「もちろん」

 偽りの名の愛称で親しげに、そして労しげに呼びかけてくる女のことを、チェシャは一笑に伏した。

「あたしは全部分かってる。でなけりゃ、こんなことしないわ」

 そのとき、彼女の表情は、まるでいつもどおりだった。壊れかけのコーヒーメーカーや、お気に入りの店のシュリンプサラダの話をしているときと同じ。

 それでいて、声とまなざしだけが、凍るように冷たかった。彼女の周囲にだけ、あの美しいニューヨークの冬が戻ってきたかのように。

「本物のアリス、アリス・ブラックブッシュの方は、もっと簡単だった。『ヤマネ』のおかげでね」

 少女の言っていることの意味が一切分からないと言うように、キャロライン・ヘイワースとなった女は真っ青な顔で髪を振り乱し、なんとかしてチェシャに、いや、ケイト・ヘイワースに近づこうと手を伸ばした。

「どういうこと。わからないわ、ケイティ」

 しかし義理の娘は、悪戯っぽい笑顔のまま、義母の指先が届かない位置まで、軽やかな足取りで後ずさる。

「もういいわよ、キャリー。あたしのことを娘扱いなんてしないで。ああ、それから」

 と、ケイト・ヘイワースだったはずの少女は、とても高校生とは思えない余裕で、自らに向けられた銃口を見渡した。

「こんな場面ですもの。おばあちゃまも、あたしのことを孫だなんて思ってないでしょうから、本音で話してくれて大丈夫」

 芝居がかってすら見える。それほど、少女の動きは優雅だった。右手で華麗にドレスの裾を捌き、左手はいとしい『怪物』の体を抱きながら、ハイヒールの踵でコツコツとリズムを取って。

「そんなに驚いてくれて嬉しいわ。でなきゃ、こんなふうに種明かしする意味がないもの。あたし、何もかも教えてあげるわよ。ハートの女王様の前で嘘の弁明をするつもりなんてないわ」

 そう。これは裁判だ。

 ハートの女王の裁判。

 かの有名な『不思議の国のアリス』のクライマックスを彼女が完璧に演じきろうとしているのだと、その場にいるものにはついに伝わった。

「なるほど、そういうことかい。だったら、こっちもお嬢ちゃんのお芝居に付き合うことにしよう。ハートの女王はこう言えばいいんだよね?」

 美しい老女に扮していたテロリストは、堂々と笑った。

 挑まれた勝負には全て受けて立ってきた、そしてその全てに勝ってきた者ならではの、確信に満ちた笑顔だった。

「その者の首を刎ねよ」

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