第13話 晩餐会

「ところで、ハートの女王様。あんたの言う殺し屋っていうのは、彼のことかしら」

 少女が低く笑うと同時に。

 鼓膜を破らんばかりの銃声が轟き、広間の一番大きな窓が外側から割れた。

 キャンドルの明かりに、ガラスの破片がきらきらと輝く。

 音と光とともに突っ込んできたのが、棺桶を乗せた台車だと気付くまで、女王と兵士たちには数秒はかかっただろう。

 棺桶の上には、荒々しい息を吐きながら野獣がうずくまっていた。

 だが、それも一瞬のこと。

 それは動物としか思えない動きで、室内に躍り出るやいなや、少女のもとへと駆け寄る。

「大丈夫か、アリス」

 彼は、答えを聞くよりも早く、少女を守る盾となるべく立ちふさがった。

 血走った目を、ハートの女王にだけ向けて。

 割れた窓から吹き込む寒風に、けだもののたてがみ、いや、長い金髪が揺れる。

 その時になってやっと、女王にも、居並ぶ家臣たちにも理解できたはずだ。

 そこにいるのが人間だと……神父の正式な礼装に身を包んだ、しかし眼鏡も手袋もしていない若い男だと。

「お前は……」

 その姿をわずかの間眺めていた女王は、不意にすべてを思い出していた。彼に関わることは何もかも、女王の脳裏に文字の羅列という形で浮び上がる。

 そう、彼だ。

 金髪に青い目、整った顔立ち。そして、何より特徴的な、左手で銃を構える姿。

 彼でしかあり得ない。

「お前、ピーターセンだね」

 女王は微笑みを浮かべて、司祭服の男へと左手を差し伸べた。

「クリストファー・ピーターセン。ええ、そうよ。あたしの可愛いクリス」

 しかし、そう呼びかけられても、司祭服の獣は顔色一つ変えない。ただ燃えるような憎悪の視線を、女王の上に投じ続けている。

 彼の様子に反して、少女には余裕があった。

 自分に寄り添う男の、巨大な銃を構えた左腕に軽く手をかけて、少女はまるで今が穏やかな午後の散歩の最中でもあるかのように優雅に微笑む。

「ねえ、ハートの女王様。あなたに敬意を表して、あたしたちのとっておきの秘密を教えて差し上げるわ」

 それから、堪えきれないかのように、くすくすと……うまくいった悪戯を白状するような含み笑いを漏らした。

「実はね、本当はね。あの日、あのとき、彼が入れ替えてくれたのよ。あたしと、あたしのアリスを」

 男の左手には、巨大な銃……約二十七センチ、重量二キロ以上の巨大なデザートイーグルが、おもちゃのように軽く握られている。

 ハートの女王は、驚愕と怒りと疑いの混じりあったまなざしで、今は敵となった同胞を見つめた。

「お前が裏切り者だと、ピーターセン……そんなはずはない。お前は最も忠実な同志となるべくして大切に育てられたはずだ。あんなに目をかけてやったっていうのに、このあたしが」

 いや。その目の中にある感情には、かけらばかりの光ではあったが、確かに親しみ、いや、愛情が隠されていた。

「あたしがお前に、名前をつけてやったのよ、クリス」

「クリスか……そう呼ばれるのは久しぶりだ」

 司祭服の男は、かすかな笑みを浮かべて答える。

 美しい微笑だった。それを見たものは全て心を許すような、混じりけのない……純粋な。

 だが、その表情のまま、彼は氷よりも冷たく言い放った。

「クリストファー・ピーターセンという名の子供は死んだ。お前に殺された、とうの昔に」

「そうとも、死んだのさ」

 と、彼の言葉を引き取るかのように、新たな声が響く。

 ハートの女王は、ゆっくりとその主のほうへと首を巡らせた。

 棺桶の詰まれた台車の上には、もうひとり、男が乗っていた。

「こいつも俺も、とっくに死んだ。お前さんがたに、そう命じられてね」

 そう皮肉っぽく笑っているのは、真っ白な三つ揃えのスーツに同色の中折れ帽という洒脱な姿の、中年の黒人男だった。開いた上着の前立てから、懐中時計の金鎖がきらめきを放っている。頬のこけた顔に、赤いレンズのサングラスがやけに印象的だった。

「お前、誰だい」

 黒人男は答えず、名乗りもせずに、上着の内ポケットから煙草の紙箱とマッチを取り出し、優雅な動作で火をつけた。

 彼は燃えさしのマッチを白いエナメル靴で踏みながら、実に美味そうに白い煙を長々と吐き出す。

「フウーッ」

 それから、にやりと口元だけに笑みを刻んで、今日の天気のことでも話題にするかのように語りはじめた。

「ハートの女王様は、覚えていらっしゃいますかね? 忘れたなんて言われたら悲しいなあ、ほんの二千九百二十日前のことですぜ、そうでしょう?」

「お前は誰だ、この黒んぼ!」

 堪忍袋の緒が切れたように叫ぶ女王にも、男はやれやれとばかりに軽く首を振りながら続ける。

「そう、あの頃……お前さんがたIRAは、非正規軍なら当たり前のことをしていたものでしたね。大抵は孤児や家出少年を集め、時には一般の家から子供を差し出させて、何も知らない子供に厳しい訓練を課し、熟練した兵士に育てるんだ。祖国と言えば聞こえはいいが、所詮自分が生まれた場所にすぎない北アイルランドの独立こそが正義だと信じさせられ、理由のない殺人に罪悪感を感じず、命令には絶対に従う、命令のためなら死ぬことすら厭わない、自分の意思を持たない完璧な兵士にね。それが今も昔もスタンダードだ。そうでしょう、ねえ?」

「お前……どこまで知ってるんだ、何を」

 執事のポールが思わず銃口を向ける。

 だが、自らの心臓に照準が当たっているのを、黒人はまるで無視して続けた。

「そんな少年兵の中でも、飛び抜けて才能のある、要するに飛び抜けて不幸せな子供たちは、特別な任務……暗殺者となるための調練を強制されたものだったよ。お前さんがた流の言い回しをするのなら、大切に、目をかけられて、命じられた相手が誰であろうと確実に殺す機械として育て上げられる」

 白装束の黒人男は、その時になってようやく、赤いレンズの奥の目に人間らしい表情を浮かべた。

 皮肉だ。

「思い出してくれたかね。そうやってこいつは出来上がったんだ。クリストファー・ピーターセン、教会の前に捨てられていた哀れな赤ん坊は、十五歳でIRAの殺戮機械として完成した」

「ええ、そうよ。この子は、あたしがこの手で育てた」

 ハートの女王もまた、優雅に頷き返し、それから大きな目を細めて、司祭服の男を見つめた。

「ピーターセン……いいや、クリス。あたしのことを覚えておいておくれかい?」

 女王が愛称で呼びかけるのが、どれほど特別なことなのか。それを知り尽くしている家来たちは、それぞれに溜め息を押し殺したり、二人から目を背けたりしたものだが。

 彼女は懐かしい恋人に出会ったかのように、輝くばかりのほほえみを浮かべた。

「クリス、お前のことを忘れた日なんてないわ。そう、あれはベルファストだった。聖ジョージ教会の前に捨てられていたお前を初めて見たとき、お前は特別なんだって分かった。へその緒がついたままで、新聞紙にくるまれていたお前のことを、みんな厄介者だと思っていたけれど、あたしにはお前の価値がはっきりと分かったのよ」

 女王は、その朝のことを思い出していたのかもしれない。

 小雪の舞う灰色の空と、教会の鐘の音。

 そして、ゴミのように打ち捨てられながら、生きたいと必死に渇望する赤ん坊の泣き声を。

「お前は、あたしの最高傑作よ。お前は完璧だわ、クリス」

 ハートの女王は親しげに呼びかける。そこにいる彼を抱きしめるために、両手を差し伸べて。

 しかし、司祭服の男は冷たい殺意とともに答えるだけだ。

「傑作か。確かにそうだろう。俺は完璧な化け物だ、お前らが俺をこんな怪物にした」

 彼の表情は変わらない。自らを化け物と呼ぶことですら、何とも思っていないようだった。

「だが、俺はお前らに感謝している。お前らがいなければ、俺が……俺のアリスに出会うことはなかった」

 と、自らが抱きしめた少女へと視線を落とすとき、神父の青い目からは氷のような怒りが消え失せ、代わりに深い愛情の炎が灯る。

 だが、それもほんの一瞬のことだった。

 彼は油断なく銃口と視線を、自らの敵へと巡らす。

「俺は、人殺しになってたった二年間で、十八もの家族、八十人以上もの命を、ただ命じられるままに殺し尽くした。だが、その中で、命乞いをしなかったのは彼女だけだった」

 あの夜のことを語るつもりはなかったし、その必要もなかった。ハートの女王と自らを言い習わすほどの彼女なら、すべてを理解できると思ったのだ。

「おかげで俺はジャバウォック、彼女の怪物になれた」

 だから、それきり、彼は何も言わなかった。

 ただ、自分の腕の中にいる少女のことを、もう一度だけ見遣った。

 あの運命の時のことを思い出すとき、彼がいつもこんな、痛々しいくらい切ないまなざしになることは、彼女だけが知っていればいい。

 純粋な愛情だけの視線を受けて、黒髪の少女はすっかりくつろいだように……穏やかな表情で言ったものだ。

「アイリッシュ・マフィアを舐めないでちょうだいな、女王様。確かにあたしたちは、イタリアンマフィアみたいに、血の絆は強くはないわ。でも、あたしたちには魔法があるのよ」

「魔法だって? ふざけるのはお止め」

「ふざけてなんかいないわ」

 ハートの女王の激高にも、少女は優しく微笑む。

「ねえ、いい加減に気付いたら? あたしはアリス・ブラックブッシュじゃない」

 アイスブルーの瞳が、キャンドルの小さな炎にきらめいた。

 光の奥のぞっとするような輝きに、ようやく女王もその意味が理解できたようだ。

 彼女は怒りに拳を握りしめながら、吐き捨てるように言う。

「だったら、お前……お前は何者?」

「答えは知ってるはずよ」

 少女は不意に唇の端を吊り上げて、邪悪な笑みを浮かべた。

「あたしはチェシャ」

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