第12話 ハートの女王

 それから、ちょうど一時間と十五分きっかりに、ロザリアが来客用の部屋のドアをノックした。一秒の狂いもなく。

「ケイトお嬢様、お食餌の仕度が整いました。広間においで下さい」

「ええ。今行くわ」

 と、気を持たせるような数秒の間の後に、少女は扉を開けて出てきた。

 その姿に、メイドは思わず見ほれたことだろう。

 真っ先に目に飛び込んでくるのは、まるで本物の空のようなブルーの、つやつやしたブロケードのフレアーワンピースだ。その上に、白いレースのエプロンドレスを重ね、ひらひらしたウエストリボンは後ろで大きな蝶々結びにしてある。

「お嬢様おひとりでお支度なさったんですか、お召替えのお手伝いならわたくしが致しましたのに」

「いいのよ、ミス・ロザリア。リボン、おかしくないかしら?」

「とてもよくお似合いです」

 ケイトの長い黒髪には、ドレスと同じ空色のリボンをカチューシャ風に巻いて、頭のてっぺんで結び目を作り、余り布をふんわりと耳の後ろに流してあった。白い靴下は膝上丈で、真珠のように真っ白なエナメルのハイヒールを履いているのが、まるで絵本から抜け出してきたかのようだった。

 左肩から右へと斜めにかけたビーズ細工のポシェットは、この日のために新調したのだろうか、銀色の鎖もきららかに、青い薔薇の形だ。

 まっすぐな黒髪に青い目の彼女には、この装いは実に良く似合う。

「ではお嬢様、こちらへ」

「ええ」

 実際、ロックウェル屋敷の広間に現れた少女に、キャロラインは思わず溜息を漏らしたものだ。

「まあ……あなたったら、とっても綺麗よ、ケイト。チャーリーに……あなたのパパに見せてあげたいわ」

「ありがと、ママ」

 少女が恥ずかしげに俯きながら微笑むと、義理の祖母に当たるこの屋敷の女主人は、賛嘆の声と拍手で孫を迎えた。

「本当に、なんて可愛いお嬢ちゃん、いや、お姫様だろうね! キャリー、ひどいじゃないの、こんなに可愛い孫を今まで隠してただなんて。さあ、こっちにいらっしゃいな、ケイト。一番いい席にお座り。あなたの誕生日のお祝いなんだから、あなたが主賓の席に着かなきゃいけないわ」

「ありがとうございます、おばあちゃま」

 言われるがままに、少女は執事とメイドに両側を支えられて、晩餐用の長いテーブルの片側、つまりこの屋敷の女主人と向き合う席に座ることになった。

 二人の間には、三メートル近いオーク材の長テーブルがあり、その、レース編みのたっぷりとしたテーブルクロスで覆われた卓上には、中央に金糸の刺繍がある真っ赤なテーブルランナーが敷かれ、そこに連なるように、五個の燭台とガラスの足付きボウルに入れられたフルーツと愛らしい砂糖菓子、小さな花束の生けられた花瓶がいくつも飾られていた。

 テーブルには正面を向いた二脚のほかに、左右に六脚ずつ椅子が置かれていたが、いま席に着いているのはケイトとその祖母であるアンジェラ、そして老いた実母の傍らに寄り添うように腰掛けたキャロラインだけだった。

「では、神様にお祈りを」

 老女と呼ぶにはまだ若々しすぎる女主人が、厳かな面持ちでロザリオを取り出し、両手を組む。

「天にまします我らの父よ、願わくは御名の尊ばれんことを。我らの日にちの糧を、今日我らに与え給へ。感謝致します。アーメン」

「アーメン」

「アーメン」

 それに倣って、連座したキャロラインと少女も、祈りの姿勢で頭を垂れた。

 数秒後、少女が顔を上げると、満面の笑みの二人の女がこちらを見て、厳粛だった雰囲気が嘘のように、口々に言った。

「お誕生日おめでとう、ケイティ」

「ケイト、十八歳の誕生日おめでとう。ハッピーバースデー」

「本当に、こんなに美人の孫を持って鼻が高いわ。あなたはあたしの誇りよ、ケイティ」

「あら、母さん。ケイトはあたしにとっても自慢の娘なんですからね。こんなに可愛い子、他にはいないわ」

「ありがとうございます、ママ、おばあちゃま」

「どういたしまして」

 義理の娘に向けるまなざしは穏やかで、口元にはごく自然な笑みが浮かべられている。

 心から安堵した様子だった。

「ジョークじゃないのよ。わたしにとっても、チャーリーにとっても、あなたは誇りなんですからね、ケイト」

 使用人と母親の前で、名前や愛称ではなく、あくまで「ママ」と呼ばれ続けたことに、キャロラインはずっと背負っていた心の重荷が取れたのかもしれない。

 彼女はかすかな溜め息をついた後、明るい声で、次々とテーブルに運ばれてくる料理を見渡しながら笑った。

「さあ、ケイト、ディナーの時間よ。食べましょう、おなかいっぱいになるまでね。わたしの母さん……おばあちゃまのお料理は、わたしの何倍も美味しいのよ」

「えーっ、ママよりお料理上手な人なんているの?」

「ここにいるわ。論より証拠って言うでしょう。とにかく、一口食べてみて」

「そうよ、召し上がれ」

 館の女主人が笑うと、それを合図にしたように、六人の使用人が列を作って、前菜の盛られた大皿やスープポットやサラダボウルを捧げ持ってくる。

 訓練の行き届いた動作で、使用人頭のポールが目の前で最後の調理をするあたりがまた心憎い演出だった。

 彼は、ご当地ニュージャージー名物の、クラムならぬ牡蠣とコーンの具沢山のチャウダーをスープカップに注いでから、仕上げにゲストたちの目の前で、穴だらけのチーズをおろし金ですり下ろして、新鮮な香りと風味を皿の上にもたらす。

 また別の使用人は、アボカドのムースでスモークサーモンと卵をを包んだケーキのように美しい前菜を、輝くナイフで小さなプレートに取り分けたものだし、少し遅れて現れた鹿爪顔をしたコック帽をかぶった料理長らしき男は、実に厳かかつ芝居がかった動作で、真っ白な湯気の立つ温野菜のサラダにエクストラバージンオリーブオイルを振りかける。

 野菜にまぶされていたパプリカとオニオンのパウダーが真新しい油に一気に溶けて、死にかけた人間でも飛び起きそうなほど、食欲をそそる素晴らしい香りが立ち上った。

「わあ、おいしそう! いただきます!」

 と、フォークとナイフを一度握ってから、少女は無作法を百も承知した様子で、たいそう遠慮がちに……怖ず怖ずと申し出た。

「あ、あの、もしおばあちゃまさえよかったら、食べる前に……すごく失礼なの分かってますけど、一枚写メ撮っていいですか? お許しが頂けるなら、こんな素敵なディナー、パパとお友達に自慢したいの」

 その、いかにも今時の若者らしい言葉には、キャロラインが口添えした。

「もちろんいいわよね、母さん。あ、そうだわケイト、スマホ貸して。あなたの写真も撮りましょうよ。そのかわいいドレス姿、チャーリーに見せてあげなきゃ」

「ちょっとお待ちよ、その電話で写真を撮って、どうやって自慢になるって言うんだい」

 世間擦れしていないというより、現代社会から取り残されている様子で、アンジェラ・ロックウェルが訊ねる。

「母さん、今はインターネットの時代なの」

 それには、彼女の娘であるキャロラインが再び説明を試みる。

「ケイトはね、この素敵なディナーをSNSに写真付きでアップして、お友達に見てもらいたいのよ」

「今時だねえ。あたしにはよく分からないよ、キャリー」

 アンジェラは諦めたように軽く肩をすくめてから、孫の顔を覗き込んで訊ねた。

「こんな田舎料理をお友達に自慢してくれるっていうのかい、ケイティ?」

「もちろんです、おばあちゃま」

 一点の曇りもない答えに、老婦人は満足したようだ。白粉だらけの顔に満面の笑みを浮かべて頷く。

「あたしの可愛いお姫様はなんていい子なんだろうね、嬉しいことを言ってくれるわ。ケイティや、写真でも何でも好きになさいな」

「よかったわね、ケイト」

「ありがとうございます、おばあちゃま、ママ」

 義理の母親が大袈裟にウインクして見せるのを笑顔で受け流し、少女はいかにも楽しげに、立った今思いついたばかりの事柄を口にする調子で、軽く両手を打ち鳴らした。

「あ、そうだ! おばあちゃまとママとあたしで、一緒に写真撮ろうよ。この素敵なテーブルをバックに。ミス・ロザリア、お願いしていいかしら?」

 少女は手早くテーブルの上に並んだ料理やキャンドルや花の数々を撮影してから、自分の世話をしてくれたメイドにスマートフォンを渡そうと、細い手を伸ばした。

「え、ええ、もちろんです、お嬢様」

 突然名指しされたメイドは、戸惑いながらも一歩前に出て、薄っぺらなスマートフォンを受け取った。

「それじゃ、皆様、笑ってください」

「あらあら。あなたには敵わないわね、ケイティ。ちょっとロザリア、美人に撮って頂戴よ」

 実に上機嫌といった様子で、館の女主人が高らかに笑う。

「はい、チーズ」

 カシャリと大袈裟な音が響き、撮影が終わったのが分かった。

 少女はメイドからスマートフォンを受け取ると、保存された画面を見て嬉しそうな笑みを浮かべ、義理の祖母と義母の間に割って入って、その写真を見せた。

「おばあちゃまもママも綺麗に撮れたよ、やっぱり美人は違うね。ほら、見て。すごく素敵じゃない?」

 確かに、少女の言う通り、小さな液晶画面に映っている三人の女性たちは、それぞれ実に美しく、魅力的だった。

 愛らしい空色のワンピースに白いエプロンドレスのケイト、落ちついたグレーのベルベットのドレスのキャロライン、そして薔薇色のハンドクロシェット・レースのショールと暗い赤のブラウス、サテンのバルーンスカートの、威厳に満ちたアンジェラ・ロックウェル夫人。

 キャンドルの炎のきらめきに引き立てられて、三人が三人とも、まるでハリウッド女優のブロマイドのように完璧な笑顔を浮かべている。白い歯を見せているような品のない振る舞いをしている者はいない。誰もがつやつやした唇の端を左右対称に上げ、両の瞳でカメラをまっすぐに見つめて、一分の隙もない。

「ミス・ロザリアは、メイドさんよりカメラマンさんになった方がいいね」

「光栄です、お嬢様」

 ケイトの賛辞にも、メイドは大人しく一礼して、召使いの列に戻っただけだ。

 アンジェラ・ロックウェルは、白髪混じりのブリュネットを美しく結い上げた髪型で、穏やかに告げた。

「これでいいかい、ケイティ。それなら、改めて。ディナーを頂きましょうね」

「はい、おばあちゃま。本当に美味しそう。いただきます」

「改めて、ってのは言葉だけにしてよね、母さん。お祈りから再開しなくていいから。わたし、さっきからお腹ぺこぺこで、おなかの虫が聞こえてるんじゃないかしらて心配なのよ。大丈夫かしら? ねえ、ケイト」

「平気だよ、キャリー」

「それならいいんだけど」

 それぞれにカトラリーを手にして微笑みあう母子の姿は、二人の間に血のつながりがないとは信じられないほど自然だった。

 我が子が義子と予想以上にうまくやっていると思ったのか、アンジェラは満足げに頷く。

「じゃあ、お祈りはあたしの心の内だけにしておくよ。ふたりとも、お上がりなさい」

 テーブルには、既にニュージャージーらしい前菜が並べられていた。いかにも港町らしい、名物の牡蠣のチャウダーは当たり前。木製のプレートに盛りつけられているのは、サーモンとアボカドの色鮮やかなムース。それからサーモンの赤を引き立てるように、副菜のカボチャのサラダはホワイトクリーム仕立てで、ラディッシュときゅうりのピクルスが添えられている。

「すごく美味しい!」

 オイスターチャウダーを大きなスプーンで口一杯に頬張った少女は、ぱっと目を輝かせて声を出した。

「スープだけで驚いてもらっちゃ困るね、こっちのサーモンのムースも食べてごらん、取り分けてあげようね」

「ありがとうございます、おばあちゃま……わあ、美味しい、あたし、こんな御馳走食べたことないです!」

 孫が無邪気に料理を口に運ぶのを、アンジェラはにこやかに眺め下ろしてから、軽く両手を打ち鳴らした。

「そうかいそうかい。だけどね、これからが本番だよ、ケイティ。お待ちかねのメインのお出まし。味には自信があるからね」

 女主人の声が高らかに響くと同時に、執事のポールが恭しく、ひときわ巨大な足付き皿を押し頂いて登場する。

「こちらが本日のメイン、腸詰めと野菜のオーブンロースト、オールドアイリッシュスタイルでございます」

 五十センチはあろうかという銀色の大皿には、山のように腸詰めが盛られ、そのつやつやした表面は、湯気の立つグレイビーソースで輝いていた。執事の言葉どおり、オーブンで念を入れて焼き上げられたのだろう、蜂蜜の焦げたかぐわしい香りが一面に漂う。

 その皿の傍らには、さまざまなハーブや野菜が飾られている。薄くスライスされた芯抜きのニンニクはカリカリに仕上がっており、またすぐ横で、黒く焦げたローズマリーの茎と葉の残骸が今もなお香りを振りまいている。

 肉とともにオーブンに入れられたつやつやのにんじん、カリカリのじゃがいも、とろとろのトマト、崩れかけた芽キャベツ、しんなりしたセロリ。紅茶色になったペコロスが原形を保っているのが不思議なくらいだ。

 その中央に、脂をダイヤモンドのように輝かせたソーセージがうずたかくとぐろを巻いている。

「あたしがサーブするわ」

 と、白い湯気の立つ皿を前にしたアンジェラは、左右の手に木製の大きなナイフとフォークを握って、楽しげに笑った。

 いかにもオーブンから出されたばかりとでも言いたげな、真っ白な湯気の立つ皿に、彼女は容赦なくナイフをつき立てる。

 羊よりはるかに太い、豚の腸に詰められたソーセージから、肉汁がブシュと音をたてて勢い良く噴き出した。

 スパイスと焼けた脂の混じりあった香ばしいにおいが部屋いっぱいに立ちこめ、いっそう食欲をそそる。

「たくさん召し上がれ」

 子供の手首ほどもありそうな本物の腸詰めは、びっしりと中身が詰まっていて、スーパーで売っている出来合いのソーセージとは全くの別物だった。ぱんぱんに張りつめた豚の腸の中に、挽き肉だけでなく、スパイスや野菜で適切な味付けをされた血や内臓も詰め込むのが本場のソーセージだ。

 特にこの、豚の血をたっぷりと使った腸詰めはやけに黒々としていて、食べなれない者は、見ただけでぞっとするような代物だろう。アボカドやサーモンで作られた模様が見えるように、アンジェラは美しく切り分けてくれたものだったが、それでも見るからにかなり癖のありそうな、好みの分かれる料理の上に、かなりの食べ応えがありそうな……体重とスタイルを何より気にするティーンエイジャーが敬遠しそうな一皿だった。

 しかしキャロラインは、プレートに取り分けられた輪切りのソーセージを、しがないニューヨーク市警の刑事でしかないヘイワースの家のキッチンで安っぽい厚切りハムのステーキを食べるのと全く同じ仕草で、フォークとナイフを器用に扱って口に運ぶ。

「ああ、美味しい」

 この赤黒い料理も、彼女にとっては慣れ親しんだ味なのだろうか。わざとらしいほどうっとりと目を細めて、母親に向かって笑った。

「やっぱり母さんの腸詰めは最高だわ。このパンも焼いたの? いくらでも食べられそうよ」

 その、かすかな媚びには気付かない様子で、老婦人は自慢げに言う。

「もちろん。そこらで売ってる小麦ばっかりのロールパンなんて、あんなのパンじゃないね。ソーセージとパンだけはあたしの手作りよ。あと、こっちのグレイビーソースも、もちろんね。ソーセージを茹でて出た脂で、タマネギを形がなくなるまで炒めてから、ソーセージの茹で汁とハーブとスパイスを加えて、ソースを作るの。バーボンを入れるタイミングが大事なのさ、こればっかりは他人に任せるなんて出来ないよ。他は料理番の仕事だけど、お前も知っての通り、うちの味はよくよく分かってるから大丈夫」

 確かに、ソーセージ作りはもちろん、これだけのジャガイモをマッシュするのも、この老婦人には無理な仕事だろう。だが、アンジェラは蘊蓄を語り尽くして満足したのか、自信たっぷりに並べられた料理を眺める。

「これがうちの伝統の味よ、ケイティ。気に入ってくれるといいんだけどね」

 彼女は随分この晩餐に力を入れたようだ。久しぶりの愛娘の帰宅がよほど楽しみだったのだろうか。

「ケイティ、このグレイビーソースとローストポテトをね、こうやって、カリッとトーストした薄切りのパンに乗せて食べるのが通なんだよ。ニュージャージー流ってやつさ。それからソーセージは、こっちのピクルスと一緒にね。試してごらん」

 少女はにこにこしながら、差し出されるままに、メイドに小さく切り分けてもらったソーセージや、祖母が手ずから様々なトッピングをした一口大のライ麦パンを食べた。レーズンの入ったライ麦パンは、素朴でさっぱりしているが、独特の甘みと深い味わいがある。

「このパン、ほんとに美味しいです、おばあちゃま」

「そうでしょう? うちの母さんのパンは、レーズンがアクセントなのよ」

 キャロラインが援護でもするように頷く。

 確かに、味は悪くなかった。ミッドタウンの塩とスパイスだらけのジャンクフードに慣れた慣れた舌にはいささか素朴すぎるかもしれないが、ケイト・ヘイワースはそういう種類の悪餓鬼ではないことは、義母から義祖母にもちゃんと伝わっているようだった。

「ソーセージはもういいのかい? 張り切ってたくさん作りすぎちゃったかしらね」

 腸詰めの盛られた足付きの銀皿には、まだ半分ほどソーセージが残っている。だが、女性三人だけのディナーなら、この程度の量が残るのは仕方があるまい。残り物は使用人が食べるだろう、かなりの御馳走だ。

「おなかいっぱい」

「それじゃ、このあたりでおしまいにしようね、ケイティ」

 と、晩餐の皿が下げられると、この屋敷の女主人、アンジェラは心から楽しそうに手を打ち鳴らした。

「じゃあ、そろそろデザートの時間だよ。ポール、お茶の支度をしておくれ!」

 その命令に、使用人頭、いや、執事のポールは、気弱そうな身を一瞬震わせてから、すぐにせかせかと厨房へ歩き去った。

 茶を振る舞うのは、古今東西、どの文化でも家のあるじのなすべきことだ。ポールは沸騰した湯の満ちた銀のやかんと、ガラス細工のティーポット、それにウェッジウッドのワイルドストロベリー・シリーズのティーセットを大きな銀の盆に乗せて、アンジェラ・ロックウェルの前に順序よく並べた。

「あたしはね、コーヒーって飲まないんだよ。ケイティもダージリンでいいかしらね?」

「ええ、母さん。この子、紅茶も好きなの。そうよね、ケイト?」

「もちろんです、ママ、おばあちゃま」

 義理の祖母と母の言葉に、ケイトがにこやかに応じると、アンジェラは満足げに頷いてから作法に則って紅茶をいれた。ガラスのティーポットに茶葉を入れ、熱湯を注いで手作りらしいキルティングのカバーを被せて、砂時計を逆さにする。それから銀のやかんに残った湯でティーカップを温めはじめてから、にっこりと笑った。

「三分待っておくれね、ケイティ。その間に、ケーキをサーブするから」

 今度は、命じられるよりも早く、メイドの一人が白いケーキの箱を両手で押し頂くようにして運んできた。

「ケイトがケーキが好きだって聞いたもんだからね、ニューヨークの有名なお店から取り寄せたんだよ」

 そこには、ニューヨーカーなら誰でも知っている、赤い二匹のニワトリのイラストが描かれている。

 少女は椅子から立ち上がり、大袈裟に手を叩いてはしゃいだ。

「トゥー・リトル・ヘンズだ! すごーい!」

「ごめんなさいねえ、あたしはよくわからなくて、とにかく有名なお店ってだけで選んだもんだから。気に入って貰えたらいいんだけど」

「ここのケーキ、一時間並ばなきゃ買えないのよ、おばあちゃま。とっても嬉しいです、ありがとう!」

 キャロラインとアンジェラのもとには、トゥー・リトル・ヘンズが名物の、表面にはしっかりと焼き目がつきつつ、中は半生の、ニューヨーク・スタイルのチーズケーキが、カットされたピースで運ばれていた。

 だが、少女の目の前に運ばれてきた皿には、真っ赤なベリー……イチゴ、ラズベリー、クランベリーが敷き詰められた、美しいタルトが一切れ乗っていた。

 その、ゼラチンと蜂蜜で光沢を出された、きらきらと光り輝くケーキの真ん中に、チョコレートの小さな薄板が乗っている。

 よくあるケーキの飾りだ。チーズケーキの方にも、同じものが刺さっている。そこには本来、店の名前とメンドリのロゴが書かれているはずだった。

 しかし。

 真っ赤なパイの上に乗った三角形のチョコレート、そこには金の文字で、たった一言。

「私を食べるな」

 その文字を読み取った瞬間。

 少女は笑い出しそうになるのを、必死に堪えねばならなかった。

「私を飲んで」

「私を食べて」

『不思議の国のアリス』においてもっとも有名な一節を、こんなに皮肉な形で逆説的に使うだなんて。

 そんなことを思いつき、実際にやってみせるのは『帽子屋』しかいない。

 これは、確かに有名店の箱に入ってはいるが、有名店の商品ではない。ヘンズにフルーツタルトはあるが、ベリーだけのタルトは売っていない。

 決して口にしてはならない。

 そのことを彼女は、一瞬で理解した。

 チョコレートの薄い立て札、彼女のためのメッセージを、少女は口に運んで舌の上で溶かした。それだけで、頭の一番奥にある秘密の部分が、速やかに研ぎすまされていくのを感じた。

「おや、どうしたんだい、ケイティ。ケーキは嫌いかねえ?」

 飾りのチョコレートしか口にしなかった義理の孫に、アンジェラ・ロックウェルは不思議そうに訊ねる。

「ごめんなさい、おばあちゃま。あたし、おなかいっぱいで。スープもソーセージも、出てくるお料理があんまり美味しかったから、食べ過ぎちゃったみたい」

「でも、甘いものは別腹でしょ? せっかくのケーキよ、一口くらいどう?」

「本当にもうムリよ、ママ」

 キャロラインの追撃も、笑顔でやり過ごした。

「明日のティータイムにみんなで食べない? ヘンズのケーキは、次の日が一番美味しいってみんな言うんだよ」

「そうなの。そう、残念だね」

 アンジェラは心底からのため息をつき、悲しげに首を振った。

「せっかく穏便に済ませようと思っていたのに。ねえ、キャロライン……」

 水を向けられたキャロラインは、戸惑いと決意の間にいるような、曖昧な笑みで母と義理の娘を交互に見た。

 あれだけたくさんディナーを食べれば、デザートにまで手が回らないというのは、子供にはよくあることだ。だが、少女を見る二人の目は、そんな愛情に満ちたものではなかった。

「仕方がないね。こっちも悠長に構えている暇はない。キャロライン、お前が食べさせておやり」

 アンジェラ・ヘイワースは冷たく言い放つ。

「とっても美味しいわよ、さあ」

 命じられるがまま、キャロラインは少女の席へと近づいた。

 そして、彼女のデザートフォークを真っ赤なベリータルトに突き刺し、土台ごとえぐり取るように手首をひねって、少女の口元へと運んだ。

「そうか……そうだったの」

 何もかも納得がいった様子で、少女は微笑んだ。

「あんたは首切り役人だったのね、ママ……いいえ、キャリー」

 キャロラインの美しい緑色の目に、一抹の不安がよぎる。

「何を言ってるの、ケイト?」

 しかし、この屋敷の女主人は、全てを理解したようだった。

「そう、なるほどね。この子は今のあたしたちの関係を、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に譬えているのよ。自分の名前になぞらえてね。このお嬢ちゃん、見た目よりは教養がありそうだわ」

「通じて良かったわよ。あなた、生きた化石みたいだから。おばあちゃん」

 少女は口元に突き出されたフォークを掴むと、突き刺さったベリーのタルトを握り潰しながら撥ねのけた。

 鋭い金属音とともに、銀のフォークがきらめきながら床に転がる。それを無視して、少女はテーブルの上のフィンガーボウルで堂々と手を洗い、両手を白いナプキンで拭いた。

 怒りと戸惑いと、そして恐れの入り交じった目でこちらを見る義母に、少女は平然と言い放つ。

「せめて公爵夫人くらいの役だと思ってたのに、残念だわ、キャリー。あんたは端役よ」

 実に冷たい眼差しだけを投げかけて。

 それから少女は、長いテーブルの向こう側に座って、悠々と腕を組んでいる貴婦人に向かって笑った。

「それでおばあちゃん、あら失礼、おばあちゃま。あなたは何の役なのかしら?」

「会いたかったわ、ケイト・ヘイワース。あたしの可愛い義理の孫」

 アンジェラ・ロックウェル夫人……いや、それも偽名だろう。この、白髪混じりのブリュネットにグリーンの瞳、年齢を感じさせない女もまた、少女と同じくらい落ち着き払っていた。先ほどまでの田舎の老婦人とは、衣装も姿も同じなのに、まるで別人のようだ。人なつこかったはずの笑顔は、今は優美で冷酷なものへと変わっている。

「いいえ。アリスって呼んでもいいかしら」

 その名を耳にした瞬間、少女の目つきが変わった。氷のような青から、燃える憎悪へと。

 しかし、それに気付いているはずの貴婦人は、ただ高貴な笑顔のまま宣告する。

「あなたの本当のお名前は、アリス・ブラックブッシュ。そうよね」

 数分前まで優しいアンジェラ・ロックウェルだったはずの女は、いま口元だけに微笑を浮かべ、しかしその緑色の目にはわずかな温度すらもない。

「あなたは、わたしたちを裏切って、祖国を見捨てた裏切り者の一族の、最後の生き残り」

 凍るような視線とともに彼女が言うと、テーブルの周囲に控えていたメイドたちと執事のポールが、速やかに銃を抜いた。

 女たちはスカートの中に、男はベストの内側に、それぞれ武器を隠し持っていたのだろう。メイドや執事の衣装なら容易いことだった。

 ずらりと並んだ銃口の真ん中に、いま、少女は立っている。

 逃げ場などなかった。

「さあ、自分で選びなさい、アリス。自分の手で大人しくそのケーキを食べて眠るように死ぬか、義理の母親にケーキを口に突っ込まれて死ぬか、それともこいつらに撃たれて死ぬか。好きになさいな」

 余裕に満ちた死刑の宣告だった。

「あたしはいつでも、こいつらに『その者の首を刎ねよ』って言えるのよ」

 ルイス・キャロルの名作を引き合いに出された時、少女の顔がかすかに怒りに引き攣る。

「あらあら。そんなに怒らないで頂戴な、アリス。可愛いあなたのために教えてあげるけれど、みせしめっていうのはね、最後まで完璧に殺し尽くして、一族を根絶やしに、そう、枝葉の先まで絶滅しないと意味がないの。でないと、他の連中が裏切りたくなったとき、家族は助かるかもしれないなんて甘い夢を見てしまうから」

 美しい貴婦人は、テーブルの向こうで優雅に紅茶を飲みながら、冷酷な言葉ばかりを羅列する。

「だから、これはただの通過点なのよ。あなたに恨みはないわ、アリス。かわいそうな子。ランドルフの姪に、いえ、イーサン・ブラックブッシュの娘に生まれたことを呪いなさい」

 テーブルの蝋燭が揺らめく。

 そのいくつもの炎の向こうにいる女を、少女はじっと見つめて訊ねた。

「ねえ、おばあちゃま。あなたは誰なの? IRAの人?」

「そうよ。あたしは、北アイルランド解放戦線の、北中米での資金調達を全て任されているわ。コードネームもいくつかあるけど、あなたに倣って、ここではハートの女王ってことにしましょうか。悪くはないわね」

 少女の用意した舞台、『不思議の国』にあっさりと上がる辺りは、さすがと言うしかなかった。IRAの北米支部の重鎮ならば、当然そのくらいの機智と教養は持ち合わせているだろうが。

「あなたが『不思議の国のアリス』が大好きなのはイーサン……あなたのパパから聞いていたわ」

「ええ。あたしは、あの話を繰り返し読んだわ。何度も、何度もね。自分の名前と同じ物語が好きだった」

 遠い昔を噛み締めるように呟いてから、さらに少女は訊ねた。

「なら、ハートの王様は誰?」

「そんなに聞きたい? それなら教えてあげましょうか」

 核心に迫るはずの質問に返されたのは、思いがけない答だった。

「ハートの王様は、あなたの実のパパ、イーサン・ブラックブッシュよ。彼はあたしの愛人だった、それも長年のね」

 その名を聞いたとき、少女の瞳の中にかすかな動揺が走った。

 その揺らめきを見逃さなかった『ハートの女王』は、勝ち誇ったように笑う。

「少しは驚いてくれたかしら?」

 彼女の言うとおり。

 イーサン・ブラックブッシュは、アリスの父だ。

「イーサンはね、愛する妻と、あなたたち可愛い三人の娘がいながら、あたしとも寝てた。何年も何年も証拠を集めて、実の兄であるランドルフが、稼ぎ出した金の一部を着服し、一族の隠し財産にしてるって、あたしにわざわざ教えてくれたのも、あなたのパパ、イーサンよ。本来IRAのために使われるべき金が私利私欲のために使われているなんて、あたしには許せなかった。もちろん彼にも許せないと思ったんだけれどね」

 少女は我知らず、血が出るほど唇を噛み締めていた。

 心から尊敬していた男、彼が最初に裏切っていたことも辛かったが、目の前にいる女が、彼とその家族、ブラックブッシュの一族を軽蔑し、名誉を傷つけ、罵るのは許せなかった。

「ああ、アリス。あなたはパパによく似てるわ。その青い目。そっくりよ」

 その、怒りで爛々と輝く瞳を、ハートの女王は高らかに笑い飛ばす。

「ランドルフが着服していたのはたった千六百万ドルぽっち、わたしたちには大した金額ではないけれど、それでも一年間戦い続けるだけの武器と弾薬は買えるわ。何より、あたしたちの同志が、ラスベガスで……資本主義絶対の帝国アメリカで一財産作って、莫大な富と引き換えに祖国を見捨てただなんて、同胞に示しがつかない」

 彼女は冷酷に、美しい笑顔で、かつて自らの上に起きた過去を語った。

「あたしたちの理想……いいえ、大英帝国からの独立、北アイルランドの自由、あたしたちの民族の尊厳の奪還という目的のために、自らの持てる全てを捧げると誓ったはずの人間が、資本主義に魂を売ったなんて許されない。あなたの叔父、ランドルフ・ブラックブッシュは死刑が当然の売国奴よ。あなたの一家は裏切り者の血筋なの」

 ハートの女王は穢らわしいものでも見るような目で、黒髪の少女を一瞥した。

「あなたのパパ・イーサンは、裏切り者よりももっと悪いわ。祖国を裏切った兄を密告した、二重の裏切り者よ。その上、あたしたちがランドルフとその家族だけを殺して、自分はのうのうと兄の後がまに座れると思い込んでいたの。おめでたいわね」

 イーサン・ブラックブッシュは、まだ幼かった頃の少女にとっては、憧れの人だった。

 記憶に残っている彼は、いつも笑顔だった。午前の真新しい光に白い歯を輝かせている、くつろいだ姿をいつでも思い出せる。誰に対しても優しくおおらかで、家族を心から愛し、誠実で人付き合いがよく、ハンサムで……まったく非の打ち所のない、完璧な素晴らしい人間。それがイーサンだった。

 だが、誰にでも裏の顔があるものだ。表側が美しいほど、裏では腐敗が進んでいる。

「IRAの米国支部の重鎮として支援を受けながら、同時にカジノのうまみも吸い上げられる兄の立場に、イーサンは成り代わろうとしたのよ。金と権力のためなら、兄と、何の罪もないその妻と息子を犠牲に捧げるのも厭わなかったわ。彼は二重に裏切ったのよ、信頼を」

 この女の淀みない演説を信じないことも出来た、耳を覆い目を背けて、知らないふりをすることもできた。だが、恐らく真実なのだろう。彼女はその結果を目にしている。

 あの火の海を。

 イーサン・ブラックブッシュが、そしてその家族がいかにして死んだのか。

 それを瞼の裏にまざまざと思い浮かべながら、少女は言った。

「一度裏切ったものどもは、必ず二度裏切る」

「シェイクスピアね。あなた、やっぱり学がある。そういう引用の仕方、イーサンに……あなたのパパにそっくりだわ」

 そう呟いたとき、ハートの女王の瞳の奥に、わずかなかげりの色が動いた。そのとき彼女は、過去の甘い日々を懐かしんでいたのかもしれない。

 もう戻らない遠い日々を。

「さあ、ここで死んで頂戴、かわいいケイト、かわいいあたしの孫。いいえ。かわいい、かわいいアリス。遠い昔、あたしが心から愛した男の娘」

 そうか。イーサンは、アリスたち三姉妹のことも、その母であるフローラのことも、心から、偽りなく愛していたけれど。

 同時に、アンジェラ……いや、本当の名は分からない、このハートの女王からも、心から愛されていたのだ。

 それにふさわしい男だった。

 イーサンは、彼の目を見たものなら誰でも魅了される。その笑顔を見たら、彼を好きにならずにはいられなくなる。

 誰でも恋に落ちる。

 そういう、特別な人間だった。その血は、確実にアリスにも流れている。

 少女はテーブルの向こうを見つめて、にっこりと笑った。

「そう。そういうことだったの、女王様」

 しかし、その言葉の意味を、ハートの女王は理解できなかったようだ。

「ああ、そうそう。アリス、あなたの相続するお金のことは、心配しなくていいわ」

 彼女はテーブルの下からやおら四十六口径の大型の銃を取り出すと、迷いなく引き金を引いた。

「えっ……」

 分厚い敷物の上に、音もなく、女の体が崩れ落ちる。

「キャリー!」

 少女が駆け寄ると、義理の母であるキャロライン・ヘイワース……これもまた、本当の名前の分からない女が、左腹部に鉛弾を打ち込まれ、グレーの美しいドレスを赤く染めて、床に倒れたところだった。

「どうして……」

 口から血の泡を吐きながら、キャロラインはそれだけ、どうにか言葉にした。

 自分の身に何が起きたのか全く理解していない様子で、彼女は椅子から崩れ落ちる。どさりと重々しい音が響き、織物の絨毯に血のしみが広がった。

「全部、わたしが相続できるわ。これで」

 ハートの女王の勝利の宣言が、厳かに、そして邪悪に広間に響く。

「ねえ、アリス。ケイト・ヘイワースである今のあなたが死に、こうして義母のキャロラインが死に、当たり前のように今のあなたのパパ、チャールズ・ヘイワースも殉職なんてことになると、あなたの唯一の血縁ということになっているわたしに相続の権利が発生する。もちろん、わたしたちの間にある問題は、お金では解決できないものだけれどね」

 彼女は嘆きと絶望と怨嗟に満ちた言葉を、思いつくままに口にしているように見えた。

「IRAは、今や瀕死よ。北アイルランド人の多くが、アイルランドも、それどころかイングランドでさえも同胞だと思うようになってしまった。宗教も文化も別であったはずのわたしたち自身が、英国民であることに慣れてしまった。国民投票の結果は接戦だったけれど、結局のところ北アイルランドの国民は、グレート・ブリテンに残ることを選択した」

 それは事実だ。

 北アイルランドが正式に英国連合王国から独立するかどうか、民主主義によって公平な選挙が行われた。北アイルランド解放戦線が長い、長い時間待ち続けた国民投票だった。

 そして、民意が示された。

 北アイルランドは英国領として正式に女王陛下の臣民となることを選んだのだ。

 この瞬間をもって、独立主義者はただの負け犬となった。北アイルランドの独立派は敗北した。

 すなわち、IRA、北アイルランド解放戦線の存在する意義そのものが失われたのだ。

「わたしたちには、もう解放するべき民がいない。守るべき土地がない。わたしたちの時代は、IRAは終わったのよ」

 血反吐を吐いて死にゆくキャロラインを眺めながら、それがまるで祖国の死そのものであるかのように、ハートの女王は淡々と続けた。

「独立支持派の強硬な人々ですら、骨身に沁みて分かったでしょうね。彼らもわたしたちも、もう夢は見ていないわ。見られる夢なんてないのよ。英国はEUからすら離脱した。再び独立独歩の未知を歩むことを決めた、一丸となって。そんな英国から独立すらできない非力なわたしたちを、EUが受け入れてくれる見込みはかけらもない。さすがはグレート・ブリテンよ、何もかも計算済みってことでしょう」

 まるでイギリスの経済ニュースでも読みあげるような口調だった。どこか他人事のように聞こえるのは、きっと、彼女がただの闘士だからだ。前線で戦う兵士は、上層部の選択がどんなに愚かであろうが賢いものであろうが、従うしかない。

「わたしたちには、独自の通貨を生み出して諸外国と渡り合う力どころか、独立を勝ち取る力すら、最初からない。小さなアイルランドの、そのまた小さな北辺だもの。ケルト、ドルイド、そのちょっとした誇りだけをよりどころにしてきた、憐れなわたしたち」

 その言葉は、自嘲というより、冷静な自己分析だった。

 いや。自己ではなく、戦況分析かもしれない。

 なぜなら、彼女は兵士だ。

「何もかもが、大きな流れに飲み込まれてしまった……いいえ。誰も、最初から……わたしたちの求めるものなんて、臨んでいなかったのよね」

 その呟きが悲しげに聞こえたとしたら、それはただ、聞いている側がそう受け止めただけのことだ。彼女はただ、戦局を見極めている。末端の兵士であるが故に何も出来ない歯がゆさすら、もはやそこには存在しない。兵士としての彼女は、もはや自我すら持たない。持つことを許されない。

 だが、処刑人……いや、ハートの女王としては別だった。

「でも、けじめはつけてもらうわ」

 彼女は女王だ。IRAの北米支部の。そして、この不思議の国の。

 最高権力者として君臨した威厳をもって、彼女は処刑の宣告を行う。

「わたしは、ブラックブッシュの一族を許さない。ブラックブッシュ家の最後の一人を始末したら、わたしはアイルランドに帰るわ。あなたはここで、不幸な火事にあって死んだことになる。いえ、殺人事件だと分かるとしても、その頃にはわたしはもう、故郷に戻って別人になって暮らしているわ。別の名前と別の人生を、ただの善良なアイルランド人としてね。千六百万ドルは、ちょっとした手土産ってところかしら」

 それは同時に、いまだ兵士としての矜持を捨てぬという宣言でもあった。

「IRAは、もうアメリカを見限った。これからはEUの中での特別な存在であるトルコ、あるいはロシアやウクライナ、ウズベキスタンあたりとのつながりを重視することに決めたのよ。わたしたちは、戦いを、闘争を絶対に諦めたりはしない」

 彼女の演説をじっと聞いていた少女は、義母の傍らにゆっくりと立ち上がり、スカートの端をつまんで宮廷風の一礼をした。

「そこまで教えてくれてありがとう、ハートの女王様」

「ちょっとしたプレゼントのつもりよ。後は天国でご家族と祝いなさい。お誕生日おめでとう、アリス」

 ハートの女王の言葉と同時に、使用人たちの銃口が一斉に彼女へと向けられる。

 それでも少女は、悠然と笑った。

「それはありがとう。でも、残念でした」

 彼女の青い目。

 宝石のような瞳が輝く。

 すべてを魔法にかけるように。

「今日は誕生日でも何でもない日。あたしもあなたも生まれなかった日」

 それが『不思議の国のアリス』の、イカレ帽子屋の有名な台詞だと知っている者が、この場に何人いただろうか。

「だから、おめでとうはいらないの。だって、あたしは、アリス・ブラックブッシュじゃないもの」

 ハートの女王の目の奥に、不安と疑念の色が溶岩のようにわき上がる。

「今日は彼女の誕生日。そもそも誕生日は一日限り。一年に一度。十八歳の誕生日なら、一生に一度」

「お前、何を言ってるの!」

 ハートの女王の怒りに満ちた叫びに、少女はケラケラと笑って言い返した。

「あんたが愛したイーサン・ブラックブッシュ……彼の娘、アリスは生きているわ。三姉妹の中で、一人だけ生き残った」

 ついに、種明かしの時が来たようだ。

「あはは……あんた、自分が使ってる殺し屋が誰を殺したのかもきちんと把握してないの? 北アイルランドなんて田舎者はこれだから」

 少女は高らかに笑いながら、椅子の上に上がり、テーブルの上に立った。

 片足の白いハイヒールで、毒入りのケーキを踏みつぶしながら。

「あたしはブラックブッシュ家の娘なんかじゃない。あのお屋敷に住み込みで働いていた、いいえ、ブラックブッシュ家に忠誠を誓ってお仕えしていたドレイク家の娘、エラよ」

 彼女は名乗った。本当の名を。

 そして、自分の衣装を……青いワンピースと白いエプロンドレス、ディズニーが描き出した典型的な『不思議の国のアリス』の主人公の服装を見せびらかすように、テーブルの上でくるりと一回転した。

「あの日はあたしの誕生日だった。だから、いつもの三百六十四日はチェシャ猫の役をやってたあたしに、一日だけアリスお嬢様が、特別に彼女のドレスを着せてくれたの。そう、今日のこのドレスとそっくりな、ね」

 そう呟いたとき、少女の顔から笑みは消えていた。

「そのとき、あんたたちが襲ってきた。銃火の光、燃える煙の中、あたしの父も母も、旦那様のご家族とお屋敷を守ろうとして、何も知らないままに死んだわ。でも、あたしはアリスを守った。守り通した」

 その青い目の真ん中に、蝋燭の光が映り……

「あたしには裏切り者の血なんて一滴も流れていない。忠誠の誓いは永遠に守る」

 まっすぐな光の線が、瞳孔に添って浮かび上がった。

「あたしはチェシャ猫」

 そう。そこに輝いているのは、ふたつの猫の目だ。

「それがあたしよ。あたしは何でも知ってる、魔法の猫」

 青く深い、夜空のような。

 恐ろしい捕食者、狡猾な狩人、残忍な野獣。

 誰にも飼いならされない、猫だけが持つ目。

「いいえ……いいや、そんなはずはない。殺し屋は確実に、アリス以外は殺したと言ってた」

 射すくめられたかのように、ハートの女王は椅子から動けなかった。

 銃を構えた使用人、いや、IRAの兵士たちも、凍り付いたように動けなかった。

 時間が止まっている。その世界の中で。

 チェシャ猫だけが、自由に動く。

「ねえ……どこに行くか分からないなら、どの道を言っても同じこと。そう思わない?」

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