第11話 バラの庭園
ニューヨーク、ブルックリンのダウンタウンから、キャロラインの実家があるニュージャージーまでは、車で二時間ほどだった。ニュージャージーの工業地帯を抜けるには、通勤時のラッシュを避けても、どうしてもそれくらいの時間がかかる。
ミッドタウンからハドソン川をくぐり、有料高速の直通トンネルを抜けてから一時間ほど走ると、ようやく工業地帯はなりを潜め、古き良きニュージャージー、ボン・ジョヴィが夢を追って歌に託した港湾と、緑に溢れる地域へと辿り着く。
工業都市、あるいは港町というイメージが強いニュージャージーだが、北部を過ぎた中南西地区は、海岸沿いに平野と防風林が続く、昔ながらの美しい場所だ。特に今は春の最中で、木々の緑と咲き誇る花々の色鮮やかな輝きに満ちている。ニューヨークほど都会ではないが、重役出勤の許される富裕層や、引退してなおビッグアップルから遠くは離れがたい高齢者に人気のある瀟洒な住宅地だった。
心和む風景を眺めながらの、ちょっとしたドライブ。
その途中で、ぽつりぽつりと、雨が降ってきた。
だが、キャロライン・ヘイワースの運転するミニ・クーパーは、小雨など気にせずに……いや、雨粒ですら快い演出だとでも言いたげに、アスファルトの上を滑るように走る。
その車中での、義理の母娘の会話は、実に楽しげなものだった。
「ママ、コロンバスさんの店でたっくさんテイクアウトしてきて正解だったね。このへん、ろくな店ないもん」
「そうね。チョコレートドーナツ、あたしも一ついい?」
「いいよ、ハニークリームもあるけど」
「え、だったらハニークリームがいいわ」
「キャリーはそう言うと思ってた」
したり顔で娘は笑い、ふわふわの生地の中に蜂蜜たっぷりのカスタードクリームの詰められたドーナツを紙ナプキンで挟んで渡した。
「それ食べるとき、気をつけてね。うまくやらないと、クリームが逆噴射して大惨事になる」
「分かったわ。顔じゅうクリームまみれにならないように気をつける」
「穴のあいてるとこから思いっきりガブーだよ、ママ」
「オーケー。最高に大きな口でね」
うきうきした口調で言い合う二人は、実に楽しげで屈託がなかった。何も知らない者が見たら、本当の母娘だと信じて疑わなかっただろう。
「でももうコーヒーがないわね。あそこのスタンドで買ってくるわ」
アメリカ中、大きな道路沿いはどこにでも、コーヒーかポップコーン、アイスクリームの露天商がいる。いくら取り締まろうが、彼らが絶滅することは今後もないだろう。
「あたしカフェオレね。砂糖ザブザブで」
「分かってるわよ」
路肩に車を止め、雨よけの傘を慌てて広げている露天商の方へと向かって歩きながら、キャロラインは携帯電話でどこかと話していた。スタンドの主人とは、注文のやり取りだけなのだろう。彼女が耳元に神経を集中させているのが、後ろ姿からでもはっきりと分かった。
キャロラインは紙コップの入った紙袋を受け取ると、電話を切ってから社内に戻り、カフェオレを義娘に渡す。車のドアを閉める音が、静かな幹線道路に響いた。
「パパに電話?」
「そう。無事にハドソン川の渋滞を抜けたか、チャーリーったらずっと気にしてたの。もう」
「パパってほんと心配性だよねえ。でもキャリーは、パパのそういうところが好きなんでしょ?」
「えっ、どうしたの急に」
「いや、そうなのかなあって思っただけ。まあ、そうじゃなくても、パパってルックスはイケてるオヤジだし、頑固で堅物だけど優しいし、そういうところひっくるめて好きなのかなって」
少女はカフェオレをふーふー吹いて冷ましながら、味見するように一口啜って、キャロラインがコーヒースタンドから多目に持ってきたスティックシュガーを三本放り込んだ。
「うん、ちょうどいい。甘い甘い」
「気前のいいおじいさんで良かったわ。路肩のスタンドでお砂糖多めに下さいって言うの、けっこう勇気いるのよ」
そんな義娘の姿を呆れ半分に横目で眺めつつ、キャロラインは自分の分のブラックコーヒーを車のカップホルダーに置き、再びハンドルを握った。
「そうね。チャーリーのことは全部好きよ。新しいコーヒーメーカーを買ってきてくれないこと以外はね」
「それ結構致命的じゃない?」
「あはは、まあ、それはそうね」
義理の娘がときどきやけに辛辣な言葉を口にするのにはもう慣れた。彼女なりの親しさの表現なのだと、キャロラインは理解することにしている。こういう時には、逆に質問攻めにかかるのがいいと、キャリーは夫から学んでいた。
「じゃあケイト、あなたはパパのどこが好きなの?」
「嘘つかないとこ」
義母の問いに、少女は即答してから、軽く肩をすくめて微笑んだ。
「ほら、あたしの人生っていうか、あたしの生きてる世界は、全部あの……証人保護プログラムとかってやつが作ってくれた嘘だから。でも、パパはいつも本当のことを言ってくれるでしょ」
その表情は、少し寂しげにも見える。
「あたしときどき、ほんとに自分は生まれた時からケイト・ヘイワースで、ずっとニューヨーカー、生まれつきのブルックリンっ子なんじゃないかって思っちゃうの。パパはそう思わせてくれる。すぐ我にかえって、あたしはベガスの生まれなんだって思うけど、でも、一瞬でも自分を騙せるから」
その言葉は、口調こそ明るく軽快だったが、真実を捉えていた。
チャールズ・ヘイワースは、確かに嘘を言う人間ではない。正直で、まっすぐな、刑事らしい刑事だ。
その彼が、唯一つき続けている嘘が、証人保護プログラム。
犯罪被害者や有力な証言者、あるいは事件の当事者を、報復やマスコミや世間の目から守るために、名前も経歴も何もかもを作り替える。全くの別人として生きることを、半ば強制的に選ばせるのだ。それによって作り上げられたのが、少女の人生の根幹だった。
「ごめんなさい。辛い話させるつもりなんかなかったのに。ケイト、あなたって本当に強い、素晴らしい子よ。全部作り物の世界で生きるなんて、わたしなら考えるだけで気が狂いそう……本当に辛いわよね」
「生きてるだけで儲け物だよ。生きてさえいれば未来はあるって、パパがそう言ってくれた。だからキャリー、あたしは大丈夫。パパとキャリーがついててくれるもの」
心から同情するような義母の言葉にも、少女はにこやかな表情を変えず、やたらに甘いカフェオレとコロンバス・ダイナーのドーナツを交互に口に運んでいる。
ちょうど昼食時に、川を越えた先で再び渋滞に引っかかったのが運の尽きだった。動かない車の中で空腹の人間がやることと言えば、目の前にある美味いと分かり切っているものを端から食い散らかすくらいなのだから。
と、ナビの画面を見た少女は、砂糖とチョコとハニークリームで汚れた手をウェットティッシュで拭ってから、カーオーディオへと指を伸ばした。
「あ、ごめんキャリー、音楽変えていい? MTVレディオにしたいんだけど」
「ええ、いいわよ」
「ちょうど四時から、ダム・アンド・ディーのライブなんだよね」
「何それ?」
「今一番クールなバンドだよ。あたし大好きなんだ。ママも聞けば気に入るよ」
ケイトがチャンネルを合わせて数秒後に始まったのは、耳を切り裂かんばかりのヘヴィメタルだった。むしろ時代遅れにすら思えるギターの高音での早弾き、忘れ去られた記憶がどうの、現実から切り離された夢がどうのという意味不明の歌詞。世間知らずの少年少女には、むしろこういうのが目新しく感じられるのだろうか。
「ここいいよね。『だったらどうでもいいさ、進むべき道が分からないなら、どの道を進もうが、そこに辿り着けるさ』って、ここがサイコー」
それでも、ケイトはファンらしく楽しげにその歌詞を口ずさみ、チョコレートのたっぷりかかったドーナツをカフェオレで流し込んでいた。
無邪気なティーンエイジャー。
「コロンバスさんのドーナツ、やっぱり美味しいわね」
「だよね」
ケイトは口元を紙ナプキンで拭いながら笑った。
「おばあちゃまのお土産の分、なくなっちゃいそうだね」
「いいわケイト、みんな食べちゃいましょ。ストロベリーチョコレートの方くれたら、ココナッツマンゴー味はあなたにあげる」
「オーケー、その取引、成立よ!」
義理の母子は声を上げて笑ってから、ドーナツの分配にかかった。
それから、さらに一時間と少し走っただろうか。
途中の道路には、「ようこそハドソン郡へ」と書かれた大きな看板が立っているのも見かけた。だからここは、ハドソン郡のどこか、おそらくはジャージーシティ市の外れか、その近郊だろう。
大都市からは少し離れた、それでも車さえあれば交通には不自由しない程度の、比較的高級な住宅地。道路を進むと、一軒、また一軒と、広大な庭やプールのある屋敷が、点々と建っている。
その一角で車を停め、まだ続いているやかましいライブのラジオを消して、キャロラインは厳かな口調で告げた。
「ここよ。ここがわたしの実家」
彼女は車を止め、ハンドルから両手を放して、ゆっくりとドアを開けた。
大きな屋敷だった。
その古めかしい館は、真っ白な漆喰壁に赤い屋根が葺かれ、庭木の梢から覗く煙突からは灰色の煙が立ち上っている。
歩道に面した生け垣は高く、広い庭を囲んでいる。その一画を切り崩すように、大きな鉄製の鎧戸があり、その柱に青銅造りの「ロックウェル家」という表札がかかっている。
キャロラインは車から降りた少女へと手を差し伸べ、もう片方の手で鎧戸を押し開けながら、中へと招き入れる。
「入って、ケイト」
典型的な、古き良きアメリカの富裕家庭の屋敷だった。玄関まで辿り着くまでにえんえんと続く、石畳の広いアプローチ。その両側から屋敷全体を包むのは、刈り込まれた芝生の庭だ。暖炉で使い古したレンガで作られた花壇には、クロッカスや早咲きのスミレなどの清楚な花々を足下にして、豪華に花開いた真っ赤なバラが、雨に洗われた花びらをイルミネーションのように輝かせている。
夕陽に燃え上がる、数えきれないほどの赤いバラ。太陽の最後の光に、きらきら輝く雨の滴。
その光景に、ケイトは思わず目を細める。
「きれい……」
「これからもっと綺麗になるわよ。夏になったら満開になるの。あなたにも見せてあげたいわ」
そう微笑み返したとき、キャロラインの目には、少しばかり感傷的な光が宿っていたかもしれない。
ふたりが歩を進めた庭の奥には、この程度の雨なら雨宿りも出来そうなほど大きな樫の木が一本立っていた。大人が抱きしめても両手の指先が触れ合うことはないだろう、がっしりとした太い幹が、そこだけは芝生の敷かれていない地面に根を張っている。長く立派な枝は空に向かって伸び、まるで夕焼けの世界を抱きしめようとしているかのようにさえ見える。
その古木に守られるように、ロックウェル屋敷はあった。
分厚い木製の玄関は、ドアにもその上部にもステンドグラスが嵌っている。玄関に続く階段の手すり、ハート形のドアノッカー、ドアノブなどは、全てきららかな金色の真鍮だ。ただ、今時らしく玄関ドアの横には、セキュリティ万全のカメラ付きインターホンが設置されていたが。
キャロラインは、あらかじめ連絡済みだったのか、ドアノッカーは鳴らさず、玄関のドアを開けながらインターホンに話しかけた。
「ただいま、わたしよ」
その声に応じて、二階から続く階段を駆け下りてきたのは、禿げた頭に鼻眼鏡の中年男だった。ジャケットとネクタイはなく、吊りズボンの上にエプロンをかけ、ぴかぴかに磨き上げられた靴という……執事というにはいいさか格式が低い、言うなれば仕様人頭とでも言うような風情だ。
「お帰りなさいませ、お嬢様。大奥様がお待ちです」
男の歓待の言葉に軽く頷いてから、キャロラインは義理の娘の手を引いて、少女を屋敷の中へと迎え入れた。
「さあ、入って、ケイト。ここがあなたのおばあちゃまのお家よ。わたしが生まれ育った家」
二人の背後で、低い音を立てて扉が閉まる。
玄関の先は広い吹き抜けの空間が設けられ、さらに廊下と、いくつかの部屋の扉が見て取れる。
晴れた日ならば、この玄関越しのステンドグラスの眺めはさぞ美しかったことだろうが、少女はにこやかに答えただけだ。
「素敵なお家だね、ママ」
「そうでしょう?」
キャロラインは微笑んで頷き返した。
「でも、久しぶりに来たものだから、いろいろと変わっちゃってるわ。わたしでも迷いそうよ」
「おばあちゃまが暮らしやすいようにリフォームするのはいいことだよ」
言いながら、ケイトは興味深げに屋敷中を見渡した。
「すごい。珍しいものばっかり」
そう呟くのも当たり前だろう、彼女たちが今暮らしているニューヨークのアパートは、親子三人で住むにもいささか手狭で、インテリアを排除することで出来るかぎり場所の節約をしている。観葉植物の一鉢すらない。警察官の収入では、その程度でも十分だった。
それに比べてここは、豪邸とまではいかなくとも、かなり立派に感じられる。十代の少女が目を輝かせても不思議ではない。あちらこちらに目を奪われ、足を止めかける少女に、キャロラインは改めて声をかけた。
「ケイト、こっちよ」
「あ、うん」
広い廊下をまっすぐに進み、その奥にある階段を上がって、二階の張り出しになっている廊下から見下ろすと、どうやら一階にはかなり広い部屋……晩餐室か応接室があるのが分かる。その奥にあるのは厨房だろう。
「見て、ママ。あんな廊下の隅にもステンドグラスのランプがあるよ。めっちゃロマンチックだね、このお家!」
「ガレのコピーだけど、雰囲気はあるでしょ?」
「うん。すごく素敵」
少女は目に映る全てのものが素晴らしいとでも言いたげに、興味深そうに周囲に見とれている。
それを背後にしながら、キャロラインは明るい口調で、二階の一番大きな扉をノックした。
「母さん、キャリーよ。ただいま。義理の娘を連れてきたわ」
言い終わる前に、既に彼女は部屋のドアを開けていた。
薪ストーブのあたたかな光に包まれて、一人の女が腰掛けているシルエットが見えた。
目が慣れると、それがケイトにも、肘掛け椅子でレース編みをしている婦人なのだと分かる。
「まあまあ、キャロライン、可愛いあたしの娘。久しぶりね、よく来てくれたわ。結婚式はまだなの?」
婦人はレース編みのかぎ針と糸を椅子に置くと、ドアの方へとゆっくりと頭を回した。
彼女が、この屋敷のあるじ、キャロラインの母、ロックウェル夫人なのだろう。
グレーのベルベットに飾り襟のドレス、高く結い上げた髪という出で立ちは古風だったが、それでも老婦人と呼ぶには失礼だろう。年齢は六十代後半かもっと上だろうが、白い肌はつやを失ってはいないし、明るい茶色の目は上質なコニャックのように上品で、なおかつ活気に満ちている。物怖じしないところは、確かにキャロラインに受け継がれているのかもしれないが、それ以外はあまり似ていない母子だった。
「ええ、もう少し先よ。その時には、ちゃんとママも呼びますからね」
「それまでに、あんたにこのヴェールを編み上げなくちゃ。急がないとね」
ロックウェル夫人は編み掛けのレースを軽くキャロラインの頭に当て、まだまだとでも言いたげに首を振った。どうやら、花嫁の結婚式のヴェールを編んでいるらしい。
彼女がかぎ針を置くのを待ってから、キャロラインは背後に隠れるようにして立っていた少女に目をやり、その肩に手を回して、親しげな口調で告げた。
「母さん、紹介するわね。会うのは初めてでしょう。わたしの義娘、ケイト・ヘイワースよ」
その言葉に、夫人は小さく頷いた。
娘が刑事と再婚したこと、結婚相手に連れ子がいることくらいまでは聞いていたのだろう。ロックウェル夫人は出来るだけ穏やかな口調で、いささかぎこちない笑顔ながらも、そっとその手を差し出しながら言った。
「よく来てくれたわね、ケイト」
「初めまして、おばあちゃま。お会いできて、とても嬉しいです」
ケイト・ヘイワースは、その手を両手で包むように握り返し、やはりぎこちない笑みを返した。
「本当なら、パパと一緒にご挨拶に来たかったんですけど、機会がなくて」
「そんなこと、気にしないでいいのよ。あなたのお父様が警官なのは知ってるわ、忙しいお仕事だものね」
キャロラインの母は、年長者にありがちな、何でもお見通しというような訳知り顔で頷き、それから白い手を伸ばして、ゆっくりと少女の顔に触れた。
「わざわざあたしの家で、大事な誕生日を過ごしてくれるなんて。あなたは本当に優しい子なのね、ケイト」
「ママが、おばあちゃまならきっと歓迎してくれるって言ってくれたんです」
キャロラインが口を挟む間も与えず、ロックウェル夫人は嬉しそうに、満面の笑みを浮かべて、黒髪の少女の細い体を抱きしめていた。
「もちろん、もちろんよ。ずっとあなたの顔が見たかったの。歓迎するわ、大歓迎よ、ケイト」
と、夫人は不意に我にかえったように身を離し、気恥ずかしげに名乗った。
「ああ、ごめんなさい、すっかり自己紹介が遅くなってしまったわね。あたしはキャロラインのママのアンジェラ。アンジェラ・ロックウェルよ。あなたのおばあちゃん」
ロックウェル夫人はしみじみとケイトの姿を眺めた。上から下まで、また下から上まで。磨かれた黒のローファー、地味なダークグレーのジャケットと、モスグリーンのベルベットのワンピースという少女の格好に、夫人は満足げに頷く。
「なんて綺麗な子かしらね。それに、とても上品。こんなに可愛い孫が急にできるなんてびっくりよ」
「あたしも、こんなに素敵なおばあちゃまがいらして、とても嬉しいです」
少女は内気そうに俯きながら、恥ずかしそうに微笑んだ。
「本当にいい子ね、さすが、あんたが惚れた男の娘だわ、キャリー」
「母さんの誕生日には、チャーリーも来たいって言ってたわ。まだ随分先の話だけど」
娘の言葉に、母親は肉親でしか使えないようなブラックジョークを軽く返した。
「そう、あたしの誕生日は八月よ、半年も先じゃないの。その前にあたしが天に召されてるかもしれないわ。あんたの旦那様に、もっとこっちに顔を見せるように言って頂戴な、キャリー」
「ええ、話してみるわね」
キャロラインも母の悪態には慣れているのか、ほとんどそちらは見ずに、長時間の運転で冷えた手を薪ストーブで温めている。
ロックウェル夫人は編み掛けのレースの入ったバスケットを引き寄せ、鏡台の上に置きながら、手短に使用人頭らしき男に命じた。
「ポール、キャリーとケイトの上着を乾かして。二人の荷物は部屋に運んでね」
「畏まりました、奥様」
「キャリーは、いつものあんたの部屋でいいのよね? あんたが出てったっきり、そのままにしてあるんだし。ケイト、ああ、かわいいあたしのお姫様。あなたには、一番いい客間を用意したのよ。見晴らしのいい部屋。この、向かいの突き当たりでね。窓からはうちの庭が全部と、綺麗な丘が見えるの。そこでいいかしらねえ?」
「はい、ありがとうございます、おばあちゃま」
ケイトは聞き分けよく頷き、使用人のなすがままにジャケットを脱いで渡した。
義理の娘が借りてきた猫のように大人しいのを、キャロラインは初めての場所と初対面の人間に対する緊張だと受け止めたようだ。彼女は義娘の手を取って薪ストーブの方へと引き寄せると、ことさら明るい声で言った。
「ほんと冷えたわよね、ケイト。道が混んでて、この雨だったもんだから」
パチパチ燃える薪の音と、分厚い覗き窓から見える炎が、小雨で濡れた髪をすぐに乾かしてくれる。キャロラインはブリュネットの髪を確認するように掻きあげながら、館の女主人に向かって微笑んだ。
「ディナーに間に合ってよかったわ、母さん」
「ほんとに、ちゃんと来てくれるかはらはらしたよ。ケイトのお誕生日のお祝いだって言うから、御馳走を用意したんだから。キャリー、あんたの大好きなソーセージの茹でたのがあるよ、ちゃんと豚の腸詰めのソーセージ。ラムチョップの焼いたのも、マッシュポテトも、チーズたっぷりのシーザーサラダも、グレイビーソースのかかった鴨の燻製も、そうそう、葡萄と胡桃の入ったライ麦パンもね。キャリーの好物は全部揃えたの。ケイトの口にも合えばいいんだけどねえ」
ここが都市部から少し離れた酪農地帯だということを誇るようなメニューだった。実際、本物の腸詰めなど、ホットドッグの本場であるニューヨークでさえなかなかありつけるものではない。高級店なら別だが、大抵は安物の代用ウインナーだ。
「デザートにはベリーの真っ赤なパイもあるのよ。これだけは、ケイトが好きだって聞いたから、ニューヨークの有名なお店からお取り寄せしたの。なんて名前だったかしら、何かニワトリみたいなへんてこな名前だったわ」
「ありがとうございます、おばあちゃま」
ケイトにはすぐに、それがトゥー・リトル・ヘンズという観光名所にもなっている有名ケーキショップなのは分かった。しかし、あの店でベリーのタルトなんか出しているだろうか? あそこは、ニューヨーク・チーズケーキが一番の売りだ。
だが、もちろんそんなことは、あえて口には出さなかった。
ロックウェル夫人は、上着を受け取って部屋を出ようとしていた使用人と、彼が開いたドアの向こうに並んで控えていた女性たちを指差して、単に道具を紹介するよう調子で告げた。
「あれがうちのメイドたちと、執事のポール。何かあったら何でも言って」
「はい、おばあちゃま」
男は執事と呼ぶにはあまりにも貧相だったが、メイドたちの方はそれなりに見栄えのいい女が揃っていた。
「あとは通いのコックと掃除夫と庭師がいるくらいでね、紹介する人がいないわ。本当に未亡人の老後なんて寂しいものよ」
「でしたら、あたしが遊びにきます。学校の休みの時に。おばあちゃまがお寂しい思いをしないように」
少女が伏し目がちながら微笑むと、またロックウェル夫人の顔に満足げな笑みが浮かぶ。
「ケイト。あなたって、本当に優しい、いい子ね」
「ありがとうございます」
義理の孫の礼儀正しい態度に、ロックウェル夫人は賞賛の微笑を向けてから、おもむろに切り出した。
「二人とも、少しお部屋でお休みなさい。まだディナーの時間には一時間かそこらはかかるだろうし、シャワーでも浴びて着替えたらどうかしら? 湿った服は気分が悪いでしょう。誰か、あたしの孫を部屋に案内してやって」
「では、わたくしがご案内致します。ケイトお嬢様、どうぞこちらに」
モデルのようにスタイルのいいメイドの一人が進み出て、少女を促すようにドアを示す。
「ありがとうございます、おばあちゃま。失礼します」
ケイトはスカートの裾をつまんで一礼すると、大人しくそれに従った。
黒服にエプロン姿のメイドは、ローヒールのパンプスだったが、ケイト・ヘイワースよりもずっと背が高く堂々としていて、無駄な肉の一切ない完璧なスタイルをしている。その後ろに付いて歩くのは、どちらが主人筋か分からないほどだ。
「ケイトお嬢様、こちらのお部屋をお使い下さい」
案内された部屋は、思っていたよりも広く、ダブルベッドとソファー、ライティングデスクと揃いの椅子、大きな作り付けのクローゼットがあった。ベッドサイドの飾り棚には、やはりガレのレプリカのランプが置いてある。トイレと続きのバスルームも個別にしつらえてあり、真新しいタオルがタオルウォーマーにかかっていた。もともと客間として作られたのだろう、高級ホテルとまではいかないが、ちょっとしたコテージのような非日常的な雰囲気があった。
部屋を一望したケイトは、誰にも聞こえない程度に軽く鼻を鳴らす。
テレビとオーディオシステムがないのは不満だったが、まあ悪くはない部屋だった。
実際、義理の祖母の言葉通り、広く取られた窓からの眺めは、いかにも古き良きアメリカとでもいうべき、農地と自然の森と、遠くに海岸も見える素晴らしいものだった。
さすがに客間までは薪ストーブというわけにはいかないのだろう、オイルヒーターが室内を暖めている。ソファーの近くの、フェイクファーの織物の敷かれた床にトランクを置いて、メイドは確認を取った。
「お荷物はこれで全部でしょうか」
「ええ、ありがとう。あなた、お名前は?」
「は?」
その質問に面食らったような顔で、モデル並の美人のメイドは目を見開く。
少女は慌てた様子で、人見知りな人間特有のおどおどした感じをちらつかせながら、早口で言った。
「ああ、ごめんなさい、気を悪くしないで。あたしの案内はあなたがしてくれたから、おばあちゃまがあたしの世話係に、あなたを選んだのかと思って。それなら、名前くらい聞きたかっただけ」
「ロザリアです、お嬢様」
メイドは落ちついた口調で答えた。
「どんな些細なご用件でも伺います。今は一先ず、トランクの中身をクローゼットにしまいましょうか。それより、お召替えを先になさいますか」
「そうね、服が濡れているのは、おばあちゃまの仰るとおり、よくないものね」
祖母に言いつけられた通り、少女は着替えるのを優先した。
「トランクから、水色のワンピースと揃いのレースのドレス、それから白い靴を出してもらえる? それでディナーに出るから。他はしまっちゃっていいわ」
「畏まりました。他に御用はございますか」
「ないわ。ありがとう、ミス・ロザリア」
「ただのロザリアで結構です、お嬢様。お召替えの間に、ホットミルクでもご用意しましょうか?」
「ありがとう、お願いするわ」
ロザリアと名乗ったメイドは、命じられた通りに少女の持ち物の中から、美しいスカイブルーのアンサンブルを取り出し、たたみ皺が伸びるようにワンピースにスチームを当てた。
それから言われたとおりの靴と、命令外の替えのストッキングをソファーの傍らに揃え、残りの衣服をクローゼットに、アクセサリー類が入っているらしきベルベットのケースはベッド脇の棚に、それぞれそつなく配置してから部屋を出た。
メイドがいなくなると、少女はいつも斜め掛けにしているビーズ細工のポシェットからスマートフォンを取り出すと、窓辺に置いた。
電源は入っているが、通信圏外だ。
彼女は退屈そうに頷き、電話をポシェットに戻して、着替えを始めた。
ちょうど下着になったところで、ロザリアが扉を開けて入ってきたが、彼女は客の少女がほぼ裸なのにも顔色一つ変えず、にこやかに言ったものだ。
「ホットミルクでございます。冷めないうちにどうぞ、お嬢様」
「ありがとう、ロザリア」
メイドが笑顔のまま部屋から出て行くのを見やってから、少女は閉じた扉に半裸の背中を預け、廊下に聞き耳を立てた。
召使いたちが行き交うほかは、特に何の音もしない。
それでも少女は、無言で湯気の立つミルクをトイレに流し、それからポシェットに手を突っ込んで、小さな青い錠剤の入った小瓶を取り出した。
その青い薬を二つほど水なしで飲み下してから、少女は下着姿のまま、オイルヒーターの前にうずくまって体を温めた。
「ここじゃ、みんな狂ってる。私も、お前も、誰も彼もが狂ってる」
そう呟きながら、偽物の毛皮の上に横たわって身を丸くした少女は、まるで胎児か、あるいは美しい一匹の猫のように見えた。
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