第10話 海辺にて

 火曜日の午後四時過ぎ。

 こんな早い時間には珍しく、コロンバス・ダイナーに若い客が入ってきた。

「あら、グリフ。珍しいわね、デートの待ち合わせかしら?」

 顔見知りらしき店主の親しげな問いかけにも、まだ十代だろうか、少年と言ってもいいくらいの若者は、短く整えた美しい金髪を夕暮れの太陽に輝かせながら、そっけなく答えた。

「いや。ちょっと時間つぶし。コーヒーちょうだい」

 だが、その出で立ちは、いかにも堂々とした雰囲気を備えている。

 結構な値段がしただろう、ビンテージもののスーベニール・ジャケット、いわゆるスカジャンを羽織っている。その背中には、生きているような躍動感のある美しい翼の図柄が描かれていた。つやつやした淡いブルーの綿ベルベットの生地に、金と白のシルクの糸が手刺繍であしらわれている。一目で本物の日本製だと分かる品だ。

「あんたって、いつもサイコーのファッションよね」

「ファッションだけじゃなくて、全部完璧って言ってもらえれば嬉しいんだけど」

 平然と答える彼の姿たるや、店主の言葉どおり、実に見事なものだった。上着と同様の値打ちものらしき色落ちしたジーンズに、一番新しいモデルの本革製のコンバースのスニーカーがいっそう華を添えている。

 手ぶらなのがスカジャンには一番しっくりくるのを分かっているとでも言いたげに、ジーンズのポケットに突っ込まれた革細工の財布とコインホールを、シルバーのチェーンで繋いでいる。もちろん財布もチェーンもプラダだ。

 彼が身につけているものは、何もかもが洗練されて高級な、若者言葉で言うなら「クール」な品だった。

 夕焼けにも映えるブロンドに、意思の強そうな緑の目、太い眉にしっかりした顎という、いかにも白人、いかにも金持ちの家の御曹司という雰囲気の少年。ついでに、見るからにスポーツマンだった。すらりと背が高く、倒三角形の鍛え上げられた体と長い脚を強調する六十年代ファッションは、彼にはよく似合っている。

 男らしい男がそこにいた。

 世間の人々が求める理想的な若者。教師や保護者陣、そして大学やプロのスポーツ・スカウトの好む優等生だ。

「タバコちょうだい、コロンバスさん」

 彼は当たり前のように微笑み、右手をカウンターへと差し出す。

「あら、駄目よ、グリフちゃん。タバコを売るにはIDが必要なの」

「なら、これでいい?」

 店主の言葉に、若者は悪戯っぽく目を輝かせながら、財布の中の学生証を見せた。

 これには、店主も苦笑いを浮かべる。

「そんなに気安く見せるものじゃないわよ」

「分かってますって。あなたは特別」

 愉快そうな少年の笑い声が響く。

 彼が提示していた身分証明書には、グリフィン・ライオットという名前と、それを手にしている若者の笑顔の写真を見ることができた。

「まったく、あなたったらもうちょっといい子にできないのかしらね、グリフ」

 店主の愚痴めいた台詞にも、彼は晴れやかな笑顔のまま頷いた。

「そりゃそうでしょ、ティーパーティーは楽しまなきゃね」

 スクール・カーストの王様と、ケイト・ヘイワースはかつて彼を評した。グリフィンを知る誰もが同じ意見だろう。

 彼は成績優秀でスポーツ万能、バスケットボールとアイスホッケーと陸上競技で注目されている。白人で金髪、ついでにハンサムだ、これならルックスも申し分ない。今はまだスーパースターの卵の一人に過ぎないが、それでも彼は、現代の貴族のように見えた。

「なら、一本だけよ」

「ありがと」

 グリフはそれだけ微笑むと、勝手知ったる様子でカウンターの置き型ライターを引き寄せ、くわえた煙草に火をつけた。

 うまそうに鼻から煙をはき出してから、彼はゆっくりと歩き出す。なんとも退屈そうに、ジュークボックスやピンボール台の並んでいる辺りへと行き、ポケットから無造作に取り出したコインを年代物のピンボールに突っ込んで、ボールが下りてくるのを待った。

「ピンボールの台ガタガタやったら、いくらあんたでもぶっ飛ばすからね」

「分かってますって、コロンバスさん」

 台を揺らすなどというイカサマをしなくても、彼の動体視力なら、飛び交うボールをフリッパーで次々に跳ね返して、バット・モービルを回転させ、ジョーカーやトゥーフェイスに命中させるのは容易かった。

 この店に置かれているピンボール台は、アメリカン・コミックスの『バットマン』をモチーフにした、ゲンコ社のオリジナル品だ。五十年代初頭の作品で、今時のピンボールのようなフラップアクションや液晶画面に映る華やかなデジタル映像はないが、既に骨董品と言ってもいい。マニアなら数万ドルでも喜んで出すだろう。

 スコア表示の豆電球が二カ所ばかり壊れているのも、また味だ。

「二万七千八百点。あんたにしちゃあ、まあまあの数字ね」

 ピンボール台に一番近いテーブルにファイヤーキングの翡翠色のカップアンドソーサーを置き、サイフォンで入れた濃いコーヒーを注ぎながら、コロンバスは陽気な口調で言う。

「それで、どうなの『グリフォン』、調子は」

「ご覧の通り、まあまあってとこじゃない、『イモムシ』さん」

 店主の方を見ず、もう一度コインをピンボール台に押し込みながら、彼はいつもとは少しだけ違う呼び名を、あっさりと受け入れた。まるで、いつもそう呼ばれているかのように。

 そのテーブルに片肘をついて寄りかかり、店主はいつものにこやかな笑顔のまま訊ねる。

「ねえ。前から訊こうと思っていたんだけど、いいかしら」

「何を?」

「なんであんたわざわざ、こんなことに首突っ込んだの? スクール・カーストの王様が」

 彼が言う「こんなこと」のどこまでを、グリフィン・ライオットが理解しているのかは、本人しか分からないだろう。だが、まともな高校生のしでかす真似ではないことくらいは、十分すぎるほど理解しているはずだった。

 それでもグリフィンは、ピンボールのマシンから少しも目を離さずに答える。

「プロム・パーティーにサリーと出るため」

 このアメリカに生きる全てのハイスクールの生徒にとっての一番の夢の舞台、それがプロムだ。

 特に、高校生活の最後に行われるシニア・プロムは、最高に華やかで最高に重要なイベントだ。基本的に、男子学生が女子をエスコートして参加する。会場こそ高校の体育館だが、きらびやかに飾り付けられたダンスホールに、タキシード姿でイブニング・ドレスのパートナーと出向くというのは、ちょっとした社交界デビューのようなものだ。フォーマルで儀式的な意味を持つ。

 だが、それにしたって。

「ふざけないで。そんなことのために、あんたが命を張る理由がないでしょ。あたしは真面目に訊いてるの」

「真面目そのものだよ、俺は」

 飛び交うボールと明滅する光を眺めるグリフィンの横顔は、言葉通り真剣そのものだった。

「あんたたちなんかよりずっと真面目だ。俺はいいスカウトと契約して、いい大学に行って、NHLのスタープレイヤーになって、サラと結婚する。それが俺の夢だから」

 並の高校生が言うなら、馬鹿げた冗談だ。しかし、グリフィンの口から出ると、それはにわかに真実味を帯びる。

「そうね。坊やには、大スターになってもらわなきゃ困る」

 実際、彼ならば。全米に名の知られたプロスポーツマン、誰もがサインをねだるようなスーパースターになることだって、叶わぬ夢ではないように見えた。いや、彼はその夢に既に片手がかかっていることを自覚しているだろう。毎試合やってくる各大学やプロからのデータマンやスカウトの名刺で、彼の財布はパンパンだった。

 その意味を、グリフィン・ライオット……いや『グリフォン』は、正確に理解していた。

「そうだよ。大スターになれば、群衆の目が守ってくれる。俺とサリーをね」

 誰もが注目する存在になればなるほど、確かに有名税は高くつくが、それ以上の保険をかけられる。大スターを要するプロチームならいくらでも優秀なガードマンを手配してくれる。パパラッチが常に決定的瞬間を狙って張り付いてくる。そうでなくても、いつでもどこでも、誰かがスマートフォンやデジカメでスーパースターの姿を追う時代だ。ちょっとした喧嘩沙汰ですら、数秒後にはネットで全世界に暴露されている。そんなターゲットを狙いにくる度胸のある殺し屋は滅多にいない。

 彼がアメリカの英雄になれば、アメリカが、いや世界中が彼を守ってくれる。

 グリフィンはボールが全て穴に吸い込まれ、再び三万点にわずかに及ばない数字が表示されるのを見届けてから、すっかり冷めたブラックコーヒーに口をつけた。

「ねえ。このさいだから言うけどさ。むしろこっちが訊きたいよ。なんであんたたちみたいな連中が、こんな子供の遊びみたいなことやってるの」

「子供の遊び、ね。まあ、言われてみれば確かに、その程度のことよね」

 店主は巨大な体を軽く揺らして、喉の奥でくっくっと笑ってから、やはり明るい口調で告げた。

「そうね、恩義ってやつかしら」

「恩義?」

「帽子屋はあたしに恩がある。あたしは白ウサギに恩がある。白ウサギは彼女のパパに恩がある。そういうことよ」

「それだけ?」

「受けた恩は返さないとね」

 当たり前のように答えるイモムシに向かって、グリフィン・ライオット……いや、『グリフォン』は白い歯を見せて笑い返した。

「アイルランド人ってのは義理堅いんだね。勉強になったよ」

 グリフィン・ライオットは生粋のアメリカ人だ。父は今は投資家だが、かつては海兵隊員だったし、立派な愛国者だ。合理主義、機能主義が万能の世界に育った彼にとっては、そのヨーロッパの僻地、虐げられた民族が長年にわたって育んできた思考理念が、むしろ斬新で、魅力的に映ったのかもしれない。

 そのとき、また高らかにドアチャイムが鳴って。

 ドアを開けて入ってきたのは、彼とは対照的な、痩せっぽちで小柄な赤毛の少年だ。そばかすだらけの顔に瓶底眼鏡、無難な紺色のジャケットから、太いストライプのシャツと白いニットのベストが覗いている。お世辞にも洒落ているとは言えない出で立ちだった。典型的なガリ勉タイプとして、マンガにでも出てきそうなくらいだ。

 実に頼りなさそうな、大人しく無害な、というより無力に見える少年は、グリフィン・ライオットに親しげに笑いかけた。

「来てたの、グリフ」

「ああ、モーリー。もうバイトは終わりか?」

「今日はね。っていうか、司書先生がもう帰っていいってさ」

「デートかな」

「たぶんね」

 グリフィンはモーリス・タートルズがカウンター席にちょこなんと座ると、ようやくそこに椅子があるのを思い出したように彼の隣に腰掛け、友人の肩を軽くこぶしで押した。

「お勤めお疲れ。コロンバスさん、こいつにカフェオレ頼むよ。あと、俺のコーヒーのお代わりも」

 どう見てもスクール・カーストの最下層の少年が、怯むことなく王様の隣に座っているのは、いかにも不釣り合いに見える。

 しかしモーリスは、王様に媚び諂う奴隷として気に入られているのではないことは、すぐに分かった。

「なあ、俺、三万の壁が越えられないんだけど」

「動体視力と反射神経だけじゃ、いい点は出ないよ。常に軌道を計算しなきゃ。ピンボールは科学だよ、グリフ」

 グリフィンは心からの賛辞を込めて笑う。

「やっぱりお前はすごいぜ、モーリー」

 その表情から、グリフィンがモーリスを信頼する最高の友人だと思っているのが伝わる。スクール・カーストの王様のこんなまなざしを見たら、どんなに底意地の悪いいじめっ子であろうとも、モーリスをからかいの対象にしようするのは諦めるだろう。

「お前はゲームの王様だ」

 モーリスが『ゲームの王様』なのに気付いたのは、最初はこの店の主人、次がグリフィンだった。

 あの日出会った二人は、一瞬にして親友同士となった。ちょうど、あの古いピンボール台の前で。

 ふらりとこの店にコーヒーを買いに立ち寄ったグリフィンは、チカチカと明滅する赤や青の光に目を奪われた。その中心には、痩せた眼鏡のいじめられっ子がいて、軽く前屈みになりながらピンボールをしていた。

 その頃のグリフィンは、ピンボールになど全く興味はなかったが、眼鏡の同級生がボールを打ち返す素晴らしい手さばきに思わず見入ったものだ。

 彼がプレイしているのが、海賊をモチーフにした『パイレーツ』という最高難易度クラスの台だということを知ったのは、しばらく経ってからのことだったが。

「うまいな、ピンボール好きなの?」

 思わず声をかけたグリフィンに、モーリスは振り向きもせずに言った。

「ゲームは好きだよ。思い通りにできるから」

 その落ち着き払った声は、グリフィンが聞いたことがないものだった。まるで、世界を支配している神のような言い草だった。

 その言葉が終わるのと同時に、銀色のボールが宝箱に当たり、赤と青のランプがピカピカ光り始めた。得点表示が一気に跳ね上がる。

「すげえ」

「たいしたことないよ」

 微笑みもせずに答えたモーリス・タートルズの姿を、グリフィンは鮮明に思い出すことができる。

 それまでは常に、生まれてきてから今の今まで、自分が愛情と憧憬のまなざしを向けられる存在だった。

 しかしあのとき、グリフィンは確かに、瓶底眼鏡の少年のことを憧れの目で見つめたのだ。

「いい点の出し方教えてくれよ」

「いいよ」

 思わず口をついて出ていたのは、やはりそれまで誰にもしたことのない……懇願だった。

 グリフィンは厳格な両親から誇り高く育てられた若者だった。大ファンのヤンキースの四番にサインを頼むときでも、そんな風に頼んだことはなかった。

 なのに。

 自分の口から出た声を聞いて、彼は悟った。

 俺は、こいつに憧れている。こいつには絶対に勝てないと分かっている。

 本当なら、屈辱的なはずだった。戦わないうちから負けが決まっていると認めるのは、耐えがたいはずだった。それなのに。

「お前、ほんとにすげえや」

 目の前でいかにも容易いことのように行われている素晴らしい技術に、そしてその執行者に、グリフィンは魅了されたのだ。

「お前はゲームの王様だ」

「そうだよ」

 賛嘆の言葉に、つい先ほどまで取るに足りなかったはずの存在が、当たり前のように答える。

「すげえや」

「そうだよ」

 そうして、ふたりは魂の世界で結ばれた。

 瓶底眼鏡の少年にとっては、目を合わせることも憚るはずのスクール・カーストの王様が敗北を認め、金髪の少年にとっては、自分より優れたものが存在することを理解した瞬間だった。


 実際モーリス・タートルズは、骨董品のピンボールだろうと発売直後のオンラインシューティングだろうと、モーリスは最適解を常に最速で導き出す。そのたびにグリフィンは、親友のことを心から賞賛したものだ。

 そしてあの運命の日、ほんの二年前だが、前世の記憶のように遠いもののようにも、つい先ほどのように鮮やかにも思える時が訪れた。

 グリフィンが見ている前で、モーリスはあの『イカレ帽子屋』とチェスをし、圧倒的に不利と言われる後手でありながら、引き分けに持ち込んだ。プロのイカサマ師を相手にして、十五歳の子供が、一歩も遅れを取らなかった。

 そして、まだ身長百五十センチだった少年は、自信に満ちた笑顔で言ってのけたものだ。

「僕は後手でも、神様と引き分ける」

 かつてチェスの天才ボビー・フィッシャーは、「俺が先手なら、神様とだって引き分けるさ」という名言を残した。

 彼を引き合いに出し、堂々とそう言った瞬間。つまり、引き分けが確定したそのとき。

 立ち会っていた「彼女」は高らかに小さな両手を打ち鳴らした。


 こうしてモーリス・タートルズとグリフィン・ライオットは、この特別なチームの、特別な存在になった。

 これを子供の遊びだというならば、主人公とその仲間たちは子供でなくてはならない。その条件を完璧に満たす存在を、彼女は厳選し、確実に仲間に引き入れた。

 両親の言う通りの将来を目指すレールに乗っていることは、いや、強制的に乗せられていることは、このささやかだが広大なゲームという世界を領有する「王」には苦痛でしかなかっただろう。

 彼女はそれに気付き、彼らに向かって笑ったものだ。

「人生はゲームだ、っていうやつもいるけど、あたしは、ゲームこそ人生だって思うわ」

 黒髪の少女は青い宝石のような瞳を輝かせて、当たり前のように言った。

「この現実を生きてるって不思議なものよ。どんなスポーツも、どんな最新鋭のゲームも敵わない。ルールに厳しく笛を吹く審判なんかいないし、この目で見えるもの全てにこの手で触れて、この足で歩める。あらゆる選択の中から好きなものを選ぶことが出来る……もともと用意されているいくつかの選択肢の中からじゃなくて、監督の指示もなし。完璧に自由なのよ。しかもそのゲームは、罠と嘘と危険で満ちていて、残機は常に一つだけ。復活の呪文もエリクサーもタイムアウトも存在しない。このゲームは、リアルタイムで進み、リセットもセーブも選手交代も出来ない。そのかわり、あらゆるエンディングの可能性がある。一つのミスで、バッドエンドに直行することもある。でも、一つの選択……いいえ、たった一言で、ゲームの展開をひっくり返すことだって出来るわ」

 バスケットに人生をかけていたグリフィン・ライオットと、ビデオゲームをこよなく愛するモーリス・タートルズには、彼女が何を言わんとしているのか、はっきりと分かった。

 人生はゲームなんかじゃない。ゲームこそが人生。人生などは所詮、より大きな時の流れの一部分でしかない。そう、ビデオゲームやバスケの試合に向かう子供たちがその人生の貴重な時間を費やすように、我々は人生をゲームの中で生きている。

「そのゲームのプレイヤーになるのに、何が必要?」

「あんたたちは完璧なプレイヤー、どっちもゲームの王様よ。あんたたちがあんたたちでい続けてくれるかぎり、あんたはこのゲームで遊べるし、スタメンでいられるわ」

 青い目の少女は魅力的に笑った。

「どう? あんたたち、あたしのパーティーに入る?」

「それなら、もちろん参加するよ。ゲームをクリアするには、いいパーティーを組まなきゃムリだからね。ハンドルネームは『偽海亀』でいい?」

「ええ」

「チームプレイは得意だ。俺は……」

「あんたは『グリフォン』よ。決まってるじゃない」

 そう頷いた時の彼女の、満足げな表情を、今でも少年たちは、目を閉じるだけで鮮明に思い出せる。

 彼女、ケイト・ヘイワースは、彼らふたりをこの世で最も素晴らしいゲームに招待してくれたのだ。

 あの日、あの瞬間。

 少年たちにとっては、今生きている世界が劇的に変わった。

 時間も、空間も、目に見えるもの、触れられるもの、すべてがリアルなゲームになった。何もかもが新しく感じられた。大嫌いだった同級生たちのことも、はなから馬鹿にしていた教師たちのことも、顔を見るのも嫌だった両親のことでさえ、そういう登場人物、いわゆるノンプレイキャラクターなのだと納得した途端、常に適切な笑顔で接することが出来るようになった。

 リアルとゲームは逆転した。いや、現実世界がゲームそのものへと進化したのだ。

「モーリー、四万出してくれよ」

 グリフィン・ライオットに声をかけられて、彼はおもむろにカフェオレボウルをテーブルに置いて立ち上がり、バットマンではなく、はるかに難易度が高いピンボール台……バリー社・七十四年製の伝説の名機『ウィザード』の前に立った。

 そしてマジシャンのように滑らかな手つきでコインを入れる。

 数秒後、最初の金属球が送り出される音、いや、耳にも聞こえないほどのかすかな振動を察して、モーリスは眼鏡の奥から微笑んだ。自信たっぷりに。いや、ごく当たり前のように。

 ぴかぴかと光る豆電球、高らかに轟く雷鳴の音。

 続いて、次々に打ち出される銀色に輝く玉をことごとく完璧な角度とタイミングで弾き返し、ドラゴンや魔法使いの形のターゲットに命中させ、戻ってきたボールを待ち構えて、けたたましい音とともに、またゲームの盤面へと送る。その度に、ピンボール台の得点表示が跳ね上がった。

 ほんの五分ほどのうちに、モーリスは十万点を叩き出し、後は台から両手を離してゲームの続行を拒否した。この程度は相手にならないとでも言い切るように。

「すっげえ」

 グリフィンは目を丸くして、点滅するライトの数字を眺め、しみじみと言った。

 実際、バスケットのフリースローすらまともに入れられないモーリスが、こんなに華麗な手さばきで『ウィサード』を制圧するなど、その目で見なければ誰が信じただろう。

「やっぱりお前はすごいぜ」

「こんなのは単純な科学なんだよ。法則さえ分かっていれば、なんてことない」

 と、モーリスは言ってから、ダイナーの主人に向かって真顔で付け足した。

「でも、古いゲームマシンを馬鹿にするつもりはないから。そこは誤解しないで、イモムシさん」

 彼はすっかり冷たくなったカフェオレを一気に飲み干す。

「これは芸術だよ。僕は古いゲームの方が好きだ。インベーダーゲームやグラディウスの方が、今の綺麗なグラフィックのゲームの何倍も、何十倍も想像力をかき立てられる。チェスやカードやピンボールは、もっともっと素晴らしいよ」

 それから、カフェオレボウルを押し返すことで、無言のうちにお代わりをジェームズ・コロンバスに要求しながら言い切った。

「そういう世界に行ってみたいって、僕はずっと思ってた。だから僕は、今ここにいる」

「坊やたちは、いつも楽しそうでいいね。羨ましいわ」

 コロンバス・ダイナーの店主は、マッチョとデブのぎりぎりの境界線にある巨大な体を揺らして、心から楽しげに笑った。


 そのとき、不意にグリフィンのスマートフォンから、メールの着信音が響いた。

「ああ、ちょっとメール」

 たったひとりの女性からの着信音は、電話もメールも他とは違う、特別なものにしてある。

 エリー・ゴールディングの『ラブ・ミー・ライク・ユー・ドゥー』。グリフではなく、彼女が好きな曲だ。

 あなたの好きにわたしを愛して。

 あなたはわたしの光、あなたはわたしの闇。

 ロマンチックなサビが流れる。

 その意味をよく知っているモーリスは、運ばれてきたお代わりの熱いカフェオレを啜りながら訊ねた。

「サリーからでしょ。迎えに行かなくていいの」

「ああ。お前も一緒に来いよ」

「僕はいいよ、邪魔したくないし」

 遠慮がちに辞退しようとする彼の肩を取って、グリフィンは当然のように白い歯を見せて笑った。

「俺とお前は相棒だろ、グリフォンと偽海亀が揃わないと、海辺が様にならない」

「海辺、ね。分かった」

 モーリスも笑い返した。降参した様子で、軽く肩をすくめて。


 二人が勘定をしようと財布を出しかけたとき、また新たな客がコロンバス・ダイナーに入ってきた。

 中折れのフエルト帽を小粋に斜めに冠った、背広姿のホワイトカラー風の紳士は、少年たちを見ると口元だけでにこやかに笑った。

「おや、仲良し二人組がお揃いで」

「こんちは、『帽子屋』さん」

「あれ、帽子屋さん……ブラットベリ先生はデートじゃないの?」

 モーリスは彼がまだ、車椅子の文学者の装いでないことに驚いた様子だった。

 だが『帽子屋』は相変わらずの人を食ったような笑顔で、背広の内ポケットから小さな革袋を取り出した。

「ああ。その前に、お前らにこいつをくれてやろうと思ってな」

 と、彼が小袋から取り出したのは、細いチェーンの付いたペンダントだった。

「こないだの金の余りで作った。サラにもプレゼントしてくれ、ま、せいぜいお前らからの友情の証だとか言ってな」

 それぞれ、ハート、スペード、クローバー、ダイヤと、トランプのマークがペンダントのモチーフになっている。ヘッド部分はごく小さな、六ミリほどのサイズで、その中央あたりには、芥子粒ほどのサイズの石……ハートにはルビー、スペードにはサファイア、ダイヤには当然のごとくダイヤモンドが嵌め込まれている。

 ダイヤモンドのダイヤのペンダントだけは、可愛らしいギフトケースに入れられている。アクリルの、宝石の形のケースを、透明なセロファンでラッピングしてあるせいで、それがどんな品物なのかは取り出さなくてもはっきりと見ることが出来た。

「サリーも喜ぶよ。ありがとう、帽子屋さん」

 礼を言いながら、ルビーのついたハートなどという本来は女の子の好むモチーフを、グリフィン・ライオットは迷わず手に取り、自分の首にかけた。

「僕がスペードでいいの?」

「もちろん。お前さんはうちのチームのエースだ、偽海亀」

「嬉しいな」

 自分の役割を分かっていればこそ、意味のある象徴だった。

「クローバーはケイトの分、か」

「ご明察」

 モーリスの言葉に、帽子屋は満足げに頷いた。

「何しろクローバーは、アイルランドのマークだからな」

「最高だ」

 二人の少年は、顔を見合わせて笑った。

 帽子屋が指先でつまんでみせたのは、クローバーの真ん中に色鮮やかなエメラルドが埋め込まれたペンダントだった。

 グリーン、クローバー、金。全てがアイルランドの象徴、いや、アイルランドの魂を示す指標だ。

 楽器をインゴットに作り替える時に出た余りもの、と彼は言ったが、それは嘘だったのかもしれない。シンプルなデザインだったが、実に繊細で美しい細工だ。嵌め込まれている石も、恐らく最高級のものだろう。

「さすがにいいセンスだね、帽子屋さんは」

「馬鹿にしてんのかこの糞餓鬼ども。あのバケモンけしかけんぞ」

「それだけはやめてよ、俺は命が大事なんだ」

 グリフィンが大袈裟に震え上がってみせると、帽子屋はもう一度、満足げに笑った。

「そう。命は大事にしないとな。何しろこの世に二つとねえ宝物だ」

 それから不意に、帽子屋の笑みは口元だけに留まり、目だけは静かに少年を見据える。

「あの子がそんなもん惜しくもねえって言ってんだからさ。サラを幸せにしてやんな、グリフ」

「分かってる」

 帽子屋の言葉に、グリフィンははっきりと頷いてみせた。

「俺だって分かってるさ、それくらい」

 まだあどけなさを残した、もうすぐ十八になるほどの少年の目は、悲劇的に見えるほど鮮烈な決意を湛えて光っている。

「誰だって、サリーを見たら恋に落ちる。その有象無象の中から、彼女が俺を選んでくれたんだ」

 サラ・ゴールド。

 あの波打つ金色の髪、大きな水色の瞳、薔薇色の頬、少し受け口気味な可愛らしい唇。それらが、一つのほくろも染みもない大理石のような肌の、卵形の顔の上に、完璧な配置で乗せられている。

 いつでも夢を見ているような、あの目で見つめられたら。

 恋に落ちないものなどいない。サラ・ゴールドはそういう女の子だった。

 男も女も、大人も子供も、誰もがサラを好きになる。触れたら壊れてしまいそうな繊細さと、ずっと触れていたいような魅惑を兼ね備えた特別な存在、生きた芸術品だ。

 彼女も自分に恋していると知った時、グリフィン・ライオットは彼女のためになら自分の人生の全てを捧げてもいいと思った。

 そして実際、そうしている。今このときでさえも。

「俺はサリーのために、大スターになる。千六百万ドルなんてはした金だって言えるくらいにね」

 だが、その悲壮な決意ですら、帽子屋は軽く笑い飛ばした。

「実際はした金だ。イモムシがこの半年で稼ぎ出した額と大して変わらん」

「それは純益じゃないわ。元手がかかりすぎなのよ、このやり方は」

 帽子屋の前にアイリッシュ・ウイスキーの満たされたティーカップを置きながら、イモムシは不満げに口を挟む。

「大体、あれだけの古書の偽造にいくらかかったと思ってるのよ。羊皮紙一枚だって三十ドルはするのよ」

「へいへい、すまねえこって。だがしかし、俺様は凝り性で完璧主義者で、事実このとおり完璧なんだから、そのくらいの投資はしてもらわにゃあな」

 ラングレー高校に寄付された古書は、全てが帽子屋手製の贋物だが、一流の鑑定士でも最新の機材を使わなければ心願の判定が出来ないであろうと思われる程度に素晴らしい出来映えだった。当然、そこに使用された材料、羊皮紙、古紙、古い顔料、インク、押された金箔や銀箔……その全てにおいて、帽子屋が納得した素材だっただろうし、それを調達するのには特殊なルートと特別な資金が必要なのも明らかだった。

 贋造作家は一種の芸術家でもあることを、この二年間で少年たちは学んでいた。帽子屋は何を偽造する時も、一切の妥協を許さない。本物以上に本物らしい品物を作りあげる。それはひとつの作品と呼んでもいい。

「お説ごもっとも。さすがは帽子屋さん」

 モーリスは心からの賛辞を口にした。

 あの寄付された古書の全てが偽造だと分かっていても、あのたくさんの本を分類し、あるべき場所に収めるのは、司書の手伝いというアルバイトで得られる安い賃金の何倍も素晴らしい体験だった。無数の本の中に、この世には存在するはずのない架空の古書『ネクロノミコン』が紛れ込んでいるのを見つけた時には、帽子屋の遊び心に敬意を覚えるとともに、秘密のアイテムを手に入れた満足が得られたものだった。

「本当にお前は、司書のバイトを楽しんでるんだな」

「うん、楽しいよ。毎日が宝探しさ」

 仲良さそうに笑い合う少年たちをカウンター越しに眺めて、イモムシは少しだけ悲しむような、あるいは懺悔でもするような口調で言った。

「本当は、あんたたちみたいな子供を巻き込みたくはなかったんだけれど。ごめんなさいね」

「そりゃ仕方がないよ。彼女が子供なんだから」

 イモムシの嘆きにも、偽海亀はにこやかに答える。

「それに、ケイトならこう言うんじゃないかな? あんたシャーロック・ホームズ見たことないの?」

「ベーカー街少年探偵団が活躍する回は、絶対にハッピーエンドなのよ、ってか。まったくだな」

 帽子屋は呆れたように軽く首を振ってから、皮肉めいた笑みを浮かべて付け足した。

「ブルックリン少年探偵団か。地名が変わると途端に物騒に聞こえらあな。ただのボーイズ・ギャングとしか思えねえ、しかも、そいつが優等生揃いのギャング団ときていやがるから性質が悪いや」

 その長広舌を、聞いているのかいないのか。グリフィン・ライオットは、手元のスマートフォンを素早く操作して、ラインだかメッセージだかの文字だけの会話を続けていた。

「サリーは今どこだって?」

「教会にいるってさ。あそこは落ちつくからな」

 グリフィンが友人の問いに答えると、帽子屋は大袈裟に眉を吊り上げて珍妙な表情を作る。

「俺様はあそこがこの世で一番落ちつかねえがなあ。あのバケモンがいるだけで地獄の入り口にしか思えん」

 その台詞には、モーリス、いや、偽海亀が皮肉たっぷりに笑った。

「何を仰るんですか、ブラッドベリ先生。神父様はあんなにいい方なのに」

「ああ、ラドクリフ神父は本当に素晴らしい方だね、モーリス君」

 そう言い返すとき、外見はありふれたウォール街のビジネスマンが、声だけは完璧に変身していた。話し方も、声のトーンも、スティーブン・ブラッドベリ、余命わずかな古書収集家の佇まいを再現している。

 だが、それもごく一瞬だけだ。

 帽子屋はすぐに、いつものクレイジーな口調に戻って、モーリス・タートルズのテーブルに革の箱を置いた。

「教会に寄るなら、白ウサギにこいつを渡してくれ。時計が直ったってな」

 飾り気のない、かっちりとした真四角の革張りの箱は、時計というにはかなり大きい。置き時計か、壁掛け時計でも入っているようなサイズだった。

「いい懐中時計なんだね」

 中身を見ることもせず、それでも当たり前のようにモーリスは微笑み、ちょっとした図鑑くらいの大きさと、ずっしりした重量感のある箱を受け取った。

 少年が何の疑いもない様子でバックパックに入れるのを眺めながら、帽子屋はまた満足げに頷く。

「ああ、骨董品だぜ。手入れにはちょいと手間がかかったが、これであいつも、お茶会に出遅れたりせんだろうさ」

 と、口にしてから、帽子屋は自分のスマートフォンが鳴りはじめたのに気付き、軽く眉をしかめた。

「うん?」

 小さな画面に表示されているのは、少年たちやイモムシが覗き込んでも意味の分からない、アルファベットと数字の乱雑な羅列だ。

 だが、帽子屋にはそれだけで全てが理解できたのだろう。喉の奥で、かすかに呟く。

「ふむ。こいつあちっとばかり厄介だな」

 その様子に、グリフィン・ライオットが不審そうに、もっとスマートフォンの画面を覗き込もうと身を乗り出した。

「どうかした?」

 だが、帽子屋はさっさと携帯をポケットにしまうと、少年たちに言い聞かせるような口調で告げる。

「いや、お前さんがたは、サラ・ゴールドとうまくやってくれ。こいつはこっちの……っていうよりは、白ウサギやバケモンの領分の話だ。聞かない方がいいし、知らない方がいい。俺様の言ってる意味は分かるな」

「ああ」

「なら、行け」

 それ以上問いつめたりはしない程度に、この少年たちは世界を理解していた。

 帽子屋に言われるままに、コーヒーとカフェオレの代金を支払い、恋人にお土産のドーナツを一つ包んでもらって、ごくありふれた高校生のような顔で、コロンバス・ダイナーを出て行く。

「本当によく出来た子たちだわね」

 感心した様子で言ってから、イモムシことジェームズ・コロンバスは、カウンターの中で腕組みした。

「それで、どうしたの、帽子屋」

 訊ねられて、帽子屋は珍しく、諦めたように肩をすくめる。

「どうしたもこうしたもねえな。俺様にもお前にも、出来ることは大してねえよ」

「何が起きてるのよ」

 当然の問いに、帽子屋は再びスマートフォンを取り出すと、一見まるで無意味でしかない、何かのバグのようなメッセージをじっと見つめながら答えた。

「ケイト・ヘイワースは、誕生日を、義理の母親の実家で過ごすそうだ」

 それが何を意味するのか。

 なぜ彼女が、そんな真似を選んだのか。

 さまざまな考えが一瞬のうちにイモムシと帽子屋の脳の中を通り過ぎ、最も有力な……いや、彼女ならそれを選びそうな答かを導き出した。

「杞憂ならいいけど、刑事さんのパパから離れてみるのも、確かに攻め手ではあるわね」

「そうさな。あの子はいつだって自分を餌にして釣りをしてきた。今度もそうするだけだろうよ、当たり前みたいにな」

「どっちにしろ、白ウサギの時計を直しておいてよかったわね」

「ああ。時計の針はぴったりだ。奴は、パーティーには遅れない」

 帽子屋は冷たい笑みを浮かべて、ティーカップに残ったアイリッシュ・ウイスキーを飲み干した。

 そして、しみじみと……名残惜しそうに言った。

「これをあの子に渡したかったよ」

 その手には、エメラルドの一粒が輝くペンダントが、居心地悪そうにぶら下がっていた。


 少年たちは数分後、近くのショッピングモールで彼女と合流した。

 プラダやシャネルの紙袋をぶら下げたサラ・ゴールドは、モールの安っぽいシャンデリアなんかよりもずっと美しく、光り輝いていた。

 空調のわずかな風にすら、サラの見事な金髪にはさざ波が立った。

「本物の天使みたいだよ」

 さりげなく彼女に腕を貸し、並んで歩き出すなんて芸当は、グリフィン・ライオットでなくては出来なかっただろう。その上、彼の言葉には嘘はなかった。

 モーリスは前を歩くカップルの姿を、まるで尊いものでも見るような、真摯なまなざしで見つめたものだ。

 本当に、天使のような一組が顕現していた。こんなにも騒々しいニューヨークの、アッパーイーストサイドに。

 なかなか捕まらないはずのタクシーがすぐに見つかったのも、きっと運転手が、このふたりに魅了されたからに違いない。瓶底眼鏡の少年は、わざと俯いて忍び笑いを隠したものだった。


「お帰りなさいませ、お嬢様」

 まるで中世の城のような、高い金属の柵と門扉のある屋敷の前にタクシーが乗り付けると、ゴールド家のメイドたちが駆け寄ってきて、ある者はサラの手荷物の一切を受け取り、ある者は彼女の上着を脱がせ、ある者は連れの少年たちに愛想を振りまいた。

「居間のほうに、すぐにお茶とお菓子をお持ちしますね」

「そんなに気を遣わないで。俺たちはただ、サリーを送ってきただけだから」

 グリフィン・ライオットは紳士的な、理想の恋人の体裁を崩さずに、使用人たちにも分け隔てなく白い歯を見せて笑った。

「俺もモーリーも、この綺麗な『海辺』を眺めたら、すぐに帰るよ」

 彼が言う『海辺』とは、ゴールド邸の居間にある、素晴らしい景観の海水水槽のことだ。

 高さ五メートル、幅三メートルあろうかという巨大水槽は、天然石や生きたサンゴ、海草類で彩られており、明るい照明の下に、色とりどりの美しい熱帯の魚やウミウシなどが放たれている。

 週に一度、水槽を管理する業者が屋敷にやってきて、完璧な管理をしてくれるのだそうな。浄水槽のフィルター交換も、水質の調整も、枯れかけた水草の間引きも、がたが来た設備の交換も、すべて他人任せにするだけの財力がなくては、とてもこれだけ見事な水槽を維持することは出来ないだろう。

 今も、細かい泡のきらめく水中を、ひらひらと青いチョウチョウウオが泳いでいく。ハートを逆さにしたような、まるでスペードのような素振りで。

 サラは、水槽の中の魚たちそれぞれに名前をつけていた。青いチョウチョウウオはダイアナという名前で、特に彼女のお気に入りだった。

 魚たちを眺めながら、サラ・ゴールドとグリフィン・ライオット、そしてモーリス・タートルズは、しばしば三人で語り合った。大抵は、ごくつまらない悩み事をモーリーがでっち上げ、それをグリフとサリー、スクール・カーストの王と女王が同情しつつ解決策を練るという、時間つぶし程度の下らない茶番だったが。

 それでも、グリフもモーリーも、あの『海辺』は好きだった。

 ゴールド邸の広い応接間の、壁一面にしつらえられた、人工の海。

 水槽を背にして、サラがソファーに腰掛けている。何の苦しみも悩みも知らない、完璧な笑みを浮かべて。

 作り物の海のそこここでは、人間の都合など知らぬ風情で、イソギンチャクに守られながらカクレクマノミが子育てをし、目だけは愛らしいが獰猛なイヌザメやまだらのあるエイが悠々と泳ぎ、美しいが猛毒を持つハナミノカサゴがルビーのように輝くひれを動かし、ゆっくりとウニやヒトデが岩陰から這い出し、無害でお調子者のハコフグが愛想を振りまく。エビやウミウシや貝類が、その緊張感の中で餌を探すのが水槽の掃除になる。その海中に生きているものにとっては、これこそが命そのもので、野生と何の変わりもないのだ。

 だが、これは作り物。現実の世界にありながら、虚構によって作り出された海にすぎない。

 サラが属する現実の世界では、グリフィンは王様だ。だが、「ゲーム」の世界では、王はモーリスだ。

 その狭間にあるのが、この「海辺」。

「ねえ、グリフ。僕らの名前は、本当に偶然だったのかな。グリフィンとタートルズ。こんなのできすぎてる。僕らは、本当はこのために作られたキャラクターなんじゃないのかな」

「だとしたら、最高の水槽の飾りだな、俺たちは」

 その会話を、サラ・ゴールドは聞いていたのだろうか。

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