第9話 ジャバウォックの歌
そして本格的な夜が訪れる。
時計は十二時を指し、さらに一時間進む。
午前一時。しかし、誰もが寝静まっているかと言われれば、そんなことはない。ここはニューヨーク、眠らない街だ。
実際、チャールズ・ヘイワースはまだ起きている時間だった。テレビで無数に流れる世界情勢のニュースを流し見しながら、早めに横になっている妻の寝顔を見て微笑み、再び持ち帰った未解決事件の書類に向かう。それが彼の一日の終わりの儀式だった。
同じ頃。
ケイト・ヘイワースという名を合衆国政府から与えられた少女も、まだ起きていた。ケーブルテレビではいくらでも好きに面白い映画やドラマが見られるし、ネットサーフィンをしていても、あるいはちょっと念入りにネイルの手入れをしていてもそのくらいの時間にはなる。それら全てを禁止しても、今時の高校生はSNSとメールでのやりとりを諦めたりはしないだろう。このご時世、どこのどんな親でも、そう、どんな優等生の親であろうと、おしなべて子供の夜更かしに手を焼くものだ。
そして、時計の針がカチリと二時ちょうどをさしたとき。
彼女の部屋の窓にまだ明かりがついているのを確認したのか、格子戸の間から、ガラスを叩くかすかな音がした。
コンコンコン。コンコンコンコン。
三度、その後に四度。
風が窓を揺らすようなかすかなざわめきだったが、たったそれだけでじゅうぶんだった。
ぼんやりとテレビの画面を見つめていただけの少女の瞳に、一瞬にして氷のような光が宿った。
彼女には、窓の外にいるのが誰だか分かる。
彼の爪音だ。
「待って、いま開ける」
少女は窓へと駆け寄ると、サッシのロックを外し、窓を開け放った。
すると……
冬の冷たい空気とともに、漆黒に塗り固められたような影がひとつ、少女の部屋へとふわりと舞い降りる。
彼女は素早く窓を閉めると、後ろ手に分厚いカーテンを閉め、黒い影……ニットの目出し帽をかぶったライダーススーツ姿の男に駆け寄った。
少女は彼に抱きつくのとほぼ同時に、その目出し帽を顔から引きはがす。長い金髪が、逞しい両肩の上に光の滝のように降り注いだ。
「ジャック」
黒い目出し帽の下から現れたのは、端正な白い顔だった。びっくりするほど美しい、それでいて野獣のように獰猛な。
そこに輝く二つの瞳が、愛おしげなまなざしを少女に向けて注いでいる。
「アリス」
少女は彼の滑らかな頬を、みすぼらしく包帯の巻かれた両手で挟むと、慈しむように微笑み、その額に口づけした。
彼は美しい顔に、天使のような微笑を浮かべて少女を抱きしめ、彼女の黒髪に顔を埋めて深く息をついた。ようやく酸素を得た、溺れかけた人のように。
それから二人は、互いの……色合いこそ違うが、青い目を見交わす。
そう、男のことを見たことがある人物なら……いや、数回話したことがある程度にまで面識があれば、彼が何者であるかは判断できただろう。
ジャック・ラドクリフ。ラングレーアカデミー高校のスクールカウンセラー、高校付属教会の神父、彼だ。
しかし今、この男は、いつもの品のいい眼鏡もかけてはいないし、長い金髪を束ねてもいない。勿論、司祭服でもない。神父というより、出来損ないのロックスターか、せいぜいレザーファッション好きのバイク乗り、時代遅れのシティ・ライダーといった風情だ。
何より、目の輝きが違う。まるで精悍で荒々しい、血に餓えたけだもののようだ。凶暴そのものの瞳が、それでいて切なげに少女を見つめるのが、司祭の姿の時よりもはるかに魅力的だった。
少女は彼の頬に触れたまま、心を許しているというより、すっかり甘えきった声で訊ねる。
「また壁を登ったの?」
「ああ」
「スパイダーマンみたいね。素敵」
彼女が少し笑ったのを見て、彼も優しく笑い返した。
だが、まともに考えれば、男の答が正気の沙汰でないことくらいは刑事でなくとも分かる。
この部屋は四階だ。しかも、比較的新しいマンションだから、外壁はコンクリートで塗り固められて平坦だった。窓の下には非常階段はおろか、足場になりそうなゴミ箱も、消火栓すらない。それをどうやってよじ登ったというのか。
しかし、壁を這い上がる以外に、この部屋の窓に到達する手段などないことも事実だ。
「ちょっと待って、いまテレビの音、大きくするから」
少女はリモコンを片手に、適当な番組を探して、音量を上げた。両親や近所から苦情が出ない程度、それでも二人で声を殺して話せる程度、だとすると、フォックスかMTVが都合がいい。ちょうどMTVで、ティーンエイジャー向けのオーディション番組の再放送をしていた。
「これでいいわ。でも、大きな声は出さないで」
「分かってる」
彼は頷き、指先のない形の手袋を外すと、愛おしそうに少女のつややかな黒髪を撫でた。
けたたましい騒ぎが画面から垂れ流されているが、彼女は既にテレビからは全くの興味を失った様子で、黒ずくめの野獣の体に再び両腕を回す。
男も抱きしめ返し、もう一度長いくちづけが交わされた。
「今朝、俺の話をしていただろう。だから来た」
「心配してくれたのね。嬉しい」
彼女も彼の髪を撫で、指に絡ませ、心を許し切った様子で黒革の胸に体を預ける。
「お前の顔を見たから、もう消える」
「駄目よ。まだ帰らないで」
淡々とした調子の言葉に、彼女はわがままを貫く子供のように抗った。
「お願い。ここにいて」
「いいのか」
「命令よ」
そう言いながら、彼女は傷ついた両手で、力のかぎり彼の体を抱いた。包帯に血がにじむ。
そのまま彼女は、男を自分のベッドに座らせた。
少女の腕など容易く振り払えるはずの男も、抗うことなく、そうするのが当たり前のことのように、誘われるがままに腰を下ろす。
ふたりとも、ふたりきりでいられる時間を、心から惜しんでいるように見えた。
「ああ、この手。痛いだろう。かわいそうに」
つぶやきながら、男は少女の手から包帯や絆創膏を外し、剥き出しになった傷だらけのてのひらを、両手で代わる代わる包み込む。
「痛いだろう。かわいそうに……」
その真新しい赤い傷、紫の内出血、まだじくじくと浸透液の染み出る切り口のひとつひとつに、彼は唇を押し当てて繰り返す。それは彼が神父として執り行うどんな聖なる儀式よりも、神聖で侵しがたい祈りのように見えた。
少女は、男の気が済むまで両手を彼に預けていた。まるで無防備で、信頼しきった態度だ。
数分もそうしてから、彼女はようやく左手を上げ、わずかに残った傷のない場所、すなわち指先で男の目元をなぞる。
「大丈夫よ。もう痛くない。あなたが触ったから」
「お前がそう言ってくれるのは嬉しい」
「本当よ」
「分かってる」
彼は頷きながら、少女の傷から今もにじんでいる真新しい血を舐めた。長い舌を伸ばして。
「美味しい?」
「かわいそうに」
彼は耐えかねたように繰り返してから、脳のどうにかまともに動いているところを探っていたのか、しばらく黙り込んだ後、口にすべき言葉を見つけたようだ。
「イモムシからもらった薬をつけろ。そうすれば、痕は残らない」
「うん。そうする」
男が油断なく見ていたのは、少女の部屋の化粧台の上に置かれたアルミチューブだった。
一見したところ、可愛らしいピンクとゴールドのパッケージで、若年層向けの日焼け止めクリームかなにかのようだが。
「ヒトプラセンタってすごいね。人間の胎盤なんでしょ? 気持ち悪いって思ってたけど、イモムシが言うなら大丈夫よね」
「ああ。綺麗に治る。あの時の傷のように」
「うん。分かってる」
少女はにこやかに頷いた。
そうとも。
あの炎の中を、あの鋼鉄のナイフが閃き、銃弾が飛び交う下をくぐり抜けたというのに。
彼女はほとんど後遺症を持ち越すことなく、現在に至っている。
まるで奇跡だ。
普通の美容外科で処方してもらえるのはヒトプランセンタが二パーセントも入っていれば上等、そこらのドラッグストアで買うのと大差ない代物だが、彼女のドレッサーに置いてあるものは違った。ヒトプラセンタ五十パーセントという、本来生命の危機に関わるような重傷患者にしか使用されない代物だ。
そんなものを、イモムシは堂々と、ファイザー製薬から購入していると笑っていた。
「全く、イモムシといい帽子屋といい、あの連中ときたらイカレてるわね。医療情報や医師免許まで簡単に作っちゃうんだからたいしたもんだわ。あ、見て見て、ジャック」
帽子屋の話を彼が大嫌いなことを知っているせいか、少女は小声だが実に楽しそうに話題を変えた。
「あたし、スペシャルなことしたのよ。ここなら何を隠してても、あの馬鹿女には見つからないよね」
少女はベッドサイドの小さな棚の上に、白いマリア像と聖書、ロザリオとキャンドルホルダーを並べて置いている。雑貨屋で売っているようないかにも安物の、ステンドグラス風のキャンドルホルダーの中には、これまた安っぽいピンクの太い蝋燭が、少し使われた状態で入っていたが。
「ああ、いいな」
彼女が嬉々として見せるちょっとした仕掛けを、まるで最高機密を打ち明けてもらった人のような満足げな笑みを浮かべて、男は小さく頷いた。
彼女は大きな蝋燭を裏から刳り貫いて、中空の筒を作ったらしい。苦労の痕跡は見えるが、底に張られているバーコードのシールでうまく蓋をしてあった。
中には青い小さな錠剤の瓶や、何かの本の切り抜きだろうか、数枚の紙片が収められている。それから、彼女の目の色と同じ、凍り付くような青い色の宝石のついた指輪が一つ。
ゴミ箱の底を二重にするのは昔からよくあるやり方だ。悪餓鬼だったらみんな知っているだろう。本、DVDのケース、絵の額縁の裏なんてものは、見つけてくださいと言っているようなものだ。そんな子供だましでは、部屋を掃除でもされたら簡単にバレる。
だから、彼女はこんな手の込んだ真似をした。入れ知恵したのは、帽子屋か、あるいは彼の側近のヤマネあたりだろう。気に食わないのは間違いないが、少女がそうして自分の大切な物を見せるのを、金髪の男は微笑みながら見守っていた……獰猛だが優秀な番犬の目で。
その、彼の目をじっと見つめながら、少女は指輪を自分の左手に嵌めた。
薬指に。
「これは、あなたが拾ってくれた指輪。あたしがあたしである証拠」
「隠し通せるか?」
「あなたに預けた方が良いのは分かってる。でも、これだけは……」
「ああ。いつでもお前のもとにあるべきだ」
その言葉を合図にしたように、二人は額を互いの押し当てて、目を閉じた。しばらくの間、凍り付いたように動かなかった。まるで、何かに祈ってでもいるかのように。
そう、これは祈りだ。
神にでも聖母にでもなく、自分のためですらない、ここにはもういない誰かのための。
やがて目を開けたとき、少女は不意に真顔になって訊ねた。
「この間、一昨日かな。サリー……サラ・ゴールドが教会に入るのを見たんだけど、大丈夫?」
彼女の目の奥にある不安の色は、今朝がた義母の前で見せたのとは全く違う。より深刻で真剣に、悲痛にすら見える……絶望の未来を目の当たりにしているかのように。
「大丈夫だ。彼女は美術の課題で、ステンドグラスのスケッチをしている。ただそれだけだ」
彼は相手の目を見つめて、言い聞かせるように、何度も繰り返す。
「彼女は何も知らない、何も覚えてはいない。大丈夫だ」
「サリー……あの子が心配だわ」
「大丈夫だ。グリフォンと偽海亀を、イモムシを信じろ。大丈夫だ」
その静かな声に、ようやく少女は小さく頷いた。
「そうね。大丈夫よね」
彼女はまだ心のどこかにサラ・ゴールドへの、友情以上に強い、ある種の特別な感情を抱いているようだが……同時にそれが、己の首を絞めかねない愚かな執着だと知っているのだろう。
少女は雑念を取り払うように軽く頭を振ってから、目の前の男に向かってにっこりと笑った。
「あなたが信じろっていうのなら、あたしは何だって信じる」
そう言いきった鮮やかなブルーの瞳の中には、今はもう、純粋な信頼しかない。
「あたしの救い主。あたしの怪物。あたし、あなたのことが大好きよ」
「俺もだ」
革のライダース・ジャケットの胸に、少女は甘える猫そのままに頭を押し付けて寄り添い、彼も繰り返しその髪を撫でながら、またしばらく無言で、互いの存在を確認し合った。
だが突然、平和な光景とは正反対の台詞が、男の口から当たり前のように飛び出す。
「次は誰を殺せばいい。隣のベッドルームの二人か?」
それが示しているのが自分の養父母なのは明白だというのに、少女はうっとりした様子で頭を撫でられたまま、耳や額を彼に擦りつけて、幸せそうな死刑宣告を口にする。
「ええ、でもまだ早いわ。いつかその時が来たら、ね」
「ああ」
男はかすかに頷く。
最初に抱きしめられた時にはもう、かなり大きなサイズの銃がホルスターで吊られているのが、上質なライダース・ジャケットの薄い革ごしに分かっていたのだろう。少女は男の胸元の、わずかに硬質に突き出した部分……銃底のあたりを指先でなぞりながら、心から楽しげに笑った。
「全ては、ケイト・ヘイワース……いいえ、アリス・ブラックブッシュの誕生日が来てからのお楽しみ。せっかくのゲームだもの、ゆっくり遊びましょう。簡単に終わらせたらつまらないもの」
「ああ」
そう頷き返したとき、彼の口元に浮かんでいたのは、苦笑か、それともこれから与えられる命令を遂行する時の満足感を想像しての薄笑いだったか。
あるいは、ただ愛するものへ向けられた純粋な微笑みだろうか。
「今は、もう一度キスして。命令はそれだけ」
「分かった」
二人は、どちらからともなく唇を重ねた。
永遠のようなくちづけの後に、少女は自分からの贈り物がちゃんと彼に届いていることに満足したように笑った。
「あなたのキスは、血と『死神』の味がする」
懐かしい英国の煙草の香り。そして、懐かしい、甘い、おぞましい恐怖の味。
それは彼女にとっても、特別な意味を持つ……思い出を呼び覚ます、死の接吻だった。
「おやすみなさい、ジャック」
「おやすみ、アリス」
それだけ言うと、彼はベッドから音もなく立ち上がり、最後にもう一度だけ名残惜しそうに振り返ってから、入ってきた窓から飛び降りた。
窓枠を蹴って、四階の窓から。
冷たい風が部屋に吹き込む。カーテンが揺れ、少女の頬をちらつく雪がかすめた。
そして影のように、黒い男は……夜空よりも光の満ちたニューヨークの夜景へと、忽然と消えた。
「ゆらゆら揺れるジャバウォック。両の眼を炯々と燃やし、怒めきつつも迫り来たらん」
窓を閉めながら、少女は歌うように呟いた。
「そよそよと、ニューヨークの摩天楼をうつろい抜けて」
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