第8話 コーカス・レース
日曜の朝七時半。
ヘイワース家のマンションの、決して広いと言えないキッチンに二人並んで、義理の母と新しい義理の娘は朝食の支度をしていた。
マンションの西側の窓から斜めに見えるルーズベルト・アイランドには、ピンク色の輝きが見える。チェリーブロッサムの咲く三月。美しい春はとっくにやってきていたが、まだ朝晩は冷え込む。花からちょうど反対側の、東向きの窓から斜めに差し込む陽射しは、やけに青ざめていて暖かみがなかった。
本当ならば、もっとゆっくりベッドの中で毛布にくるまっていたいところだろうが、二人の愛する家族である男の職業に、カレンダーは関係ない。暦がその役割を果たしたのは、一月以上も前……バレンタインデーの時くらいだ。
ヘイワース夫妻が永遠の愛を誓ったのは、ニューヨーク市の役所に併設されている事務的な教会で、神父が短い祈りの言葉を唱えてから指輪の交換とキスをしただけの、およそロマンチックとはほど遠い有様だったが、ほとんど無理矢理に近いほど強引に話を進めた唯一の参列者、すなわち新郎の娘は満足そうだった。結婚記念日を忘れないようにと、バレンタインデーの日付が変わるぎりぎりに届けを出したのだ。もちろん彼女がちょっとした隙を見逃さずに式を挙げさせたのには理由がある。何しろ、夫となったばかりの男はニューヨーク市警の刑事で、その日も夕方から事件現場に貼り付いていて、バレンタインのディナーですら女二人という侘しいことになってしまったのだ。
もし、その日を逃していたら、どちらかの誕生日かなにかの記念日か、最悪、次の年まで結婚式は遅れていたかもしれない。少女は、新郎新婦のために最高のタイミングをつかまえて、二人がそこから逃げることを許さなかったのだ。
いま、美しい女性の左の薬指には、シンプルな甲丸の結婚指輪が、金色にきらめいている。眩しい朝日の中で、その光はささやかではあったが、唯一の優しさを放っていた。
どのくらい、その美しい光を眺めていただろうか。
少女は目を細めてから、不意に我に返ったように、古びて取っ手にひびの入った、もう十年は使い込まれているであろうコーヒーメーカーにペーパーフィルターを差し込んだ。
「ねえキャリー……あ、ママ」
「なあに?」
窓を背にして振り返るキャロライン・ヘイワースは、差し込む太陽の光に白い肌と波打つブリュネットを輝かせて、四十歳という年齢を感じさせないほど若々しく見えた。
義理の娘が「ママ」と言い直したのが嬉しかったのか、キャロラインの顔には控えめだが幸福そうな笑みが浮かんでいる。
「キャリーってすごく美人だね」
朝日の中の義母の姿に、一度にっこりと満足げに笑ってから、黒髪の痩せた少女は十代らしい気まぐれさで、不意に思い出したことを口にする。
「あ、そうだ。美人って言えばさ、うちの上の階に住んでるきれいな女の人、ディッキンソンさんだっけ? あの人、やっぱアーティストだってさ。こないだ、エレベーターで一緒になった時に、ちょっと喋ったの」
「ああ、ミス・ダイアンね。わたしも挨拶とか、ちょっとした世間話ならしたわ。彼女、ダンスパフォーマーなんですってね」
「さすがキャリー、知ってたんだ。だけど話が難しくってさあ。パントマイムとかそういうのなのかな? モダンアートとかダンスパフォーマンスとかって聞いても、あたし全然ピンとこなかったや」
「大丈夫、わたしもピンとこなかったわ」
キャロラインは笑いながら冷蔵庫を開け、卵に牛乳、残り物のパンや野菜を眺めて、今朝のメニューを考えているようだ。
「レズビアンカップルかと思ったら、一緒に住んでるのは妹さんなんですって」
「あ、そうなんだ。あたしもカップルなのかと思ってたよ。そのもう一人の、えっと、妹さんだかの方は、いるのは知ってるけど、会ったことないや」
「わたしはちらっと見かけたけれど、お姉さんによく似ているきれいな人よ。でも、口をきいたことはないの。なんでもひどい対人恐怖症だとかで、お姉さんが面倒を見てるんですって」
「へえ、そりゃ大変だね」
大して興味もなさそうに少女は言ってから、目の前で殺人でも起きたかのような大声で叫んだ。
「うわ! キャリー大変! またコーヒーメーカーちゃんが悲鳴上げてる!」
「まあ、なんてこと! 早く拭かないと、染みになっちゃう」
キャロラインが咄嗟に手にしたタオルでぶくぶく泡を吹き出すコーヒーメーカーを押さえるのを横目で見ながら、少女はポンコツの家電のコンセントを引き抜いた。
ひとまずそれでコーヒーメーカーの最後の反乱は収まったが、キッチンどころか、リビングにまでコーヒーの焦げた酷い臭いが立ちこめている。キャロラインは慌てて空気清浄機の目盛りを最強までひねったが、後の祭りだ。この臭いは、しばらくはソファーや絨毯から取れないだろう。
「ほんと、もう新しいの買おうよ。三十ドルの安いヤツでいいから」
少女は苦笑と同情のないまぜになった表情で言いながら、義母がステンレスのキッチンとパイン材の床を掃除するのを手伝った。
だが、雑巾を片手にしたキャロラインが手際よくカウンターを綺麗にしていくのに比べて、ケイトはモップを振り回しているだけに見える。
「駄目よ、ケイティ。それじゃコーヒーを床に擦り込んでるだけだわ」
「えっ、マジで? どうやったらいいのさ、これ」
「先にできるだけ吸い取らなきゃ。ほら、キッチンペーパーを使って。床板の継ぎ目から染み込むと色が残っちゃうから、丁寧にね」
「すごいな、キャリーは犯罪現場の証拠を消す名人だぞ。彼女のプロファイルを始めよう」
少女がいかめしい顔を作ってドラマの登場人物そっくりの調子で言うものだから、キャロラインは思わずふき出した。
「すごいわ、ケイティ。ホッチにそっくりよ」
「私はFBIのアーロン・ホッチナーです。少しお話を伺えますか、奥さん」
「うふふ……あははは、すごいわ、ほんとにすごい」
「犯人はコーヒーメーカー、君だ。逮捕する」
「あはは、本当にもうやめて、おなかが痛いわ」
「アハハハハ」
二人は掃除のことなど忘れて、身をよじって笑い転げた。
その、ちょっとした騒ぎのせいだろうか。
「おはよう」
と。キッチンの入り口でレースのカーテンを持ち上げているのは、この家の主人だった。
「あら、ごめんなさいチャーリー、騒々しくして。起こしちゃったわね」
「いや、十分寝たよ」
彼、チャールス・ヘイワースは、笑みを含んだ声で言いながら、キッチンを通ってダイニングに現れた。
「二人とも、随分楽しそうだな」
既にきちんとしたシャツとスラックスに着替えて、ジャケットとネクタイさえあればいつでも出勤できる姿だ。彼がつい今しがたまでベッドで眠っていたとは、にわかに信じがたい。
一分の隙もない様子の男にも、少女は不満げに腕組みして、ありもしない眼鏡を指先で上げ下げするふりをしながら言う。
「このミスター・コーヒーメーカーは、キッチンコーヒーまみれ事件の容疑者だ。だから今朝はコーヒーは飲めない。理解してもらえるな、ヘイワース刑事」
ケイトの大袈裟な物真似に、キャロラインはまたふき出し、チャールズは苦笑いで答える。
「ふむ、ところで我が家の凄腕捜査官に質問だが、インスタントがあったかな?」
「なるほど、ひとまずインスタントでカフェインだけ補充して、本格的なコーヒーはコロンバスさんのカフェで買う買う計画か。周到だが、魂胆は分かってるんだ、自白しろ」
「ははは……その通りだ、ケイティ。さすがはジェダイの騎士だな」
「えー、そこでスターウォーズなの? だったらフォースがともにあらんことを、って返さないとカッコよくないわ、パパ」
ケイトは途端に小芝居をやめ、がっかりしたように眉をしかめて言った。
「フォースがともにあらんことを」
チャールズはもう一度苦笑して軽く片手を振ると、対面式キッチンにつながっているカウンターの椅子に腰を下ろした。
「はい、どうぞ、パパ」
義父の目の前にインスタントの……コーヒーではなく、子供向けのチョコレート飲料のマグカップを置いたのは、彼女のささやかな抗議だっただろうか。
だが、彼は気にした様子はなかった。
「たまにはココアもいいな。チョコレートに含まれる香りの成分は脳に直接作用するから、目覚めにはいいらしい」
「ちょっと。それ、コロンバスさんの受け売りでしょ」
少女はわざとらしく渋面を作って、義父に舌を出した。もちろん、新しくやってきた義母の目には入らないように、ほんの一瞬だけ。
キャロラインはやはり気付かなかったのだろう、掃除の手をとめて、愛する夫に朝食のメニューを訊ねる。
「チャーリー、トーストにスクランブルエッグがいい? それともパンケーキ?」
「トーストにベーコンエッグがいいな。目玉焼きは半熟で頼む。贅沢を言わせてもらうよ」
「分かったわ。白身とベーコンはカリカリに焼くわね。チーズと焼きトマトも乗せるわ」
「ありがとう」
チャールズ・ヘイワースが静かに頷くのを満足の証と見て取ったのか、彼の新妻はさらに笑顔を魅力的に輝かせながら、冷蔵庫を開けた。
「ケイティはどうするの? パパと同じでいい? それともレーズンブレッドがいいのかしら……冷凍のチキンストックがあるから、簡単なスープならすぐに作れるわよ」
栄養価に気を遣った義母の問いにも、ケイトは無邪気な笑い声で答える。
「コロンバスさんのドーナツを食べまーす」
「駄目よ。それで、午後になったら太っちゃったって騒ぐんでしょ? 朝食はきちんとしたものを食べなくっちゃ」
「でもキャリー、考えてみて。お昼になったコロンバスさんのドーナツのこと」
と、少女は神妙な表情をこしらえて目を閉じ、神託を受ける人のように、厳かに言った。
「今日のお昼には、これらのドーナツはシュガーペーストが溶けてドロドロになっちゃうであろう。ドロドロのベタベタで、手で持てないくらいのスプラッターになるであろう。そんなものを汝は臨むのか、キャロライン・ヘイワースよ」
いかにも重々しい言い草だが、少女の愛らしい容貌と声音でその台詞が吐かれると、すべてがひどく戯画的で滑稽に響く。反抗的というより、笑いを誘おうとしているように見えた。
そして、その目論みは当たった。彼女の両親は、互いに目を見合わせて笑いあったのだ。
キャロワインとチャールズが愉快そうに声をあげて笑うのを確認しながら、ケイトは冷蔵庫からコロンバス・ダイナーのスタンプが押されている茶色の紙袋を引っ張り出す。
「だから、いま食べまーす。ぱくっ」
わざわざ自分で擬音を織り交ぜてから、少女はドーナツの一つにかじりついた。
「うわっ、めっちゃおいしい! やっぱコロンバスさんのドーナツサイコーだよ!」
「うまそうだな」
「パパも食べる?」
「こいつはうまい」
「でしょー?」
父と娘が歯形のついたドーナツを仲良く分け合うのを微笑ましく眺めてから、キャロラインは思い出したように渋面を作って人差し指を立てた。
「まあ。朝からドーナツなんて贅沢ね。だけど、チャーリー、ケイト。二人とも覚悟してらっしゃい。これからうちにある一番大きなボウルに山盛りのサラダを作ってあげるわ、全部食べるまでは一歩も動かしませんからね」
「えー、あたしブロッコリー嫌いだよー」
「食べなさい」
「はーい、ママ」
「分かったよ、キャリー」
父と娘は、容易く降参した。キャロライン・ヘイワースは、新しく入ってきた家族でありながら、既にこの家での主導権を掌握しているようだった。
数分後、木製のモダンなデザインのボウルにサラダを山盛りにして、キャロラインはキッチン・カウンターの真ん中に置き、そこから二人が食べきれるちょうどいい量を見計らって取り分けた。チャールズの前にはトーストとベーコンと卵二つの目玉焼きを、ケイトの前には色とりどりのドーナツを乗せた皿を差し出し、短い足のついた洒落たグラスにミネラルウォーターを注ぐ。
実に手際が良かった。
彼女なりに、そつのない主婦、完璧な母であろうと努力しているのだろう。
「さあ、召し上がれ」
そして、その笑顔は完璧だった。何の曇りもなく、美しく輝いていた。観客に向かって笑いかける女優のように。
「美味しかったよ、キャリー」
食事を手早く済ませると、まだドーナツをぱくついている娘に向かって、チャールズ・ヘイワースは、刑事というより父親らしい顔になって訊ねた。
「ところでケイティ。食事中に済まない。少し話があるんだが、時間はあるかな」
「何よパパ、改まって」
「実は昨日、進路指導のオリファン先生から、直接電話を貰ってね。なかなかシリアスな内容だった。君がまだ、進路について具体的なビジョンを全く示していないと言われたよ。どこの大学を受験するのか、そもそも進学する意思があるのかすら言ってくれないと、先生は困っているというより、嘆いているような感触だった」
「うん……」
義父のいかにも警官らしい細部にこだわる表現に、少女は言葉を濁しながら、少し後ろめたそうに視線をそらした。
「オリファン先生には話しづらいことでも?」
「そんなこと、ないけど……でも……ほら、あたし、パパにしか話しちゃいけないことがあるし」
「何もかも話してはならないということじゃない。進路は、言ってみれば、これからなりたい自分を表現するようなものだ。ケイティ、君は何にでもなれるんだよ」
チャールズがそう言うなり、突然。
ケイトは脅えた子供のように身をすくめて、自分で自分の体を抱くように両腕を肩に回しながら、激しく震え始めた。
「あたし、誰にも何も言ってないよ。誰にも何も言わない。ほんとだよ、パパ」
少女の端正な顔は、急激に血の気を失い、恐怖に歪んでいる。その青い目は、どこか遠いところでも見ているかのようにうつろだった。
チャールズ・ヘイワースには、その意味も理由も、いやというほどよく分かっていた。
「すまない、ケイティ。怖がらせたかったわけじゃない」
「うん、分かってる、パパ」
ケイトはなんとかそう答えを絞り出したが、必死に笑顔を作ろうとしたのには失敗していた。
「いいんだ、ケイティ。落ち着け」
「パパ、ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女は義父の差し出した手に我が身をゆだね、彼の鍛え抜かれた胸に顔を埋めて、しばらくしゃくりをあげて泣いた後、低く、短く、苦しげに息をした。
「ケイティ、大丈夫?」
キャロラインが気遣わしげな、それでいて不安を隠しきれない声で訊ねる。
明らかに狼狽えている妻に向かって、チャールズはまなざしだけで頷いた。
それから、義娘の長い黒髪を包み込むように撫でながら、静かに語りかける。
「ケイティ、ケイト。分かるだろう。ここは安全だ。誰も君を傷つけたりしない。ここにいるのは私とキャロラインだけだ、そうだろう?」
「パパ……」
少女の目に、かすかな光がきらめくのを見逃さずに、チャールズは彼女を現実世界に留め置くための努力を始めた。
「ケイティは、学校の教会が好きなんだな」
「うん」
「小さくて、綺麗な教会だものな」
「うん」
義父の言葉に、ケイトは小さく頷いた。
「進路指導のオリファン先生より、神父さんの方が話しやすいのか?」
彼女はすがるような目で義父を見てから、また悲しそうに俯く。
「そういうわけじゃないけど、ほら、神父様は、ただ黙って話を聞いてくれるだけだから。あたしが言いづらいこと……他の人には話しちゃいけないことがあるの、パパも分かってるでしょ?」
「それはそうだが……まさか、あのことを神父さんに言ったのか?」
「言ってないよ。パパに誰にも言っちゃダメって言われたことだもの。あたし、ほんとに誰にも言ってない。嘘じゃないよ、ほんとだってば……」
それだけ喉から絞り出すと、ケイトはまた泣き出した。
その痩せた背中を撫でさすりながら、チャールズは少女をなんとか落ちつかせようと試みる。
「ああ、分かってる。分かってるとも」
そう言い聞かせながらも、腕の中でしゃくりをあげて泣いているか弱い女の子の存在に、彼は明らかに戸惑っていた。
「ええ。わたしも分かってるわよ、ケイティ」
そこに割って入ったのは、チャールズが妻として迎えたばかりの女性だった。
キャロラインは整った顔に気遣わしげな微笑を浮かべて、義父の腕に抱かれているケイトを包むように寄り添う。
「あなたが嘘吐きなんかじゃないってことは、わたしとチャーリーが保証する。神様の前でだってそう言うわ。だから、落ちついて」
「あたし……あたし嘘吐きなの。キャリー、キャリー、ごめんなさい」
少女は義母になったばかりの女から顔を背けると、また声をあげて泣き出した。
「どういうことなの、チャーリー。説明して。どうしてわたしたちの娘は、進路の話題くらいでこんなに脅えてるの?」
妻に問いかけられて、チャールズはいささか眉をしかめ、目の奥に後悔を滲ませていた。
「話して。わたしの娘なのよ」
言葉を濁そうとしても、キャロラインは絶対に納得しないだろう。彼女の目には、強い意思の光が燃え上がっていた……絶対に我が子を守るという力が。
「キャロライン、事情があるんだ。怒らないでくれ」
後ろめたそうな表情で言う夫に、キャロラインはきっぱりと言い切った。
「もう怒ってるわ、ケイティがこんなに怖がってるのよ。その事情って何なの? よっぽど大切なことなんでしょうね?」
「違うの、キャリー。パパのせいじゃないの」
うろたえつつも、なんとか言葉を探してその場を取り繕おうとする少女に対しても、彼女の答えは明快だ。
「よして、ケイトったら。もう、こんなに震えて……かわいそうに」
キャロラインはなだめるような口調で言いながら、義娘の痩せた体を引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
少女も新しい母親の首元にしがみつき、豊かな胸に顔を埋めている。
「ごめんなさい、キャリー、心配かけて」
「いいのよ、大丈夫。わたしはあなたの母親なんだから」
彼女の言葉に安心したのか、それともあたたかで柔らかい大人の女性の肉体に包み込まれている感覚が安堵をもたらしたのかは分からないが、ケイトは深い溜め息をついて、ようやく青ざめた顔に作り笑いを浮かべた。
「うん、ありがとう、ママ」
だが、その笑顔があまりにも悲痛に見えたのだろう。キャロラインの目にはたちまち大粒の涙が浮かび、それを隠すように、義娘を抱く力をいっそう強めた。
実際それは、悲痛というより悲惨な様だった。
涙にまみれた愛らしい少女と、それを必死に抱きしめる女性。ふたりとも青ざめ、恐怖に震えているというのに、それを何とか隠そうと無駄な努力を続けている。
だが、そこにいるは確かに、一組の母娘に違いないと思えた。
確かにふたりの間には、血のつながり以上の絆があると確信できたからこそ、チャールズ・ヘイワースは、ついに覚悟を決めることができた。
「キャロライン、ケイト。ふたりとも、本当にすまなかった」
「パパ、謝らないで」
「いいんだ、ケイト。キャリーに全てを打ち明けよう。家族の間に、隠し事なんてあっちゃいけない」
「分かった。あたしも、ママには分かっててほしいもん」
ケイトは義父の言葉に頷いて、かすかな笑みを浮かべて見せた。
だが、彼女の笑顔は、ひどく悲しい。今にも泣き出しそうなのを、必死に堪えているようだった。
「だけど、あたし……」
いや、その真っ青な瞳の奥にあるのは悲しみではなく怯えだ。
ケイト・ヘイワースの声は、押し殺そうとしても抑えきれない恐怖に震えている。
「パパのことは信じてる。疑ってるなんて思わないで」
「分かってるよ」
「あたしがもう奴らに狙われることなんかない。奴らはあたしがここにいることも、生き延びたことだって知らない。そうだよね?」
「そうだとも、もちろん」
自信を持って、チャールズは言い切った。刑事として、アメリカ合衆国の法を守る職に就いている者として、当然の態度だった。
少女はしばらくの間、彼のその力強いまなざしを見つめ……不意に。
両目から、ぽろぽろと涙を溢れさせた。
「だけど、それでも、あたし怖いの」
「どういうことか分からないわ。わたしにも分かるように説明して」
キャロラインが背中を撫でながら訊ねても、ケイトは震える声で悲痛に呟くだけだ。
「またいつか、あいつらが襲ってくるかもしれない。あたしが十八歳になったら、あたしはパパの……実の父の遺産を相続するんでしょう?」
彼女は両目を見開き、血の気の失せた顔でがたがた震え出した。歯の触れ合う音がキャロラインには、いや、離れて立っているチャールズにさえ聞こえた。
「そうなったら、あいつらはきっとあたしを殺しにくる」
その青い瞳は視点を失っていたが、声には確信と恐怖が満ちていた。
いや、その目に浮かんでいるのは、単なる絶望だ。
「私が守る」
義父の言葉にも、彼女はほとんど反射的に、悲鳴のように叫んだ。
「駄目だよ、絶対に駄目。パパとママが殺されちゃう。みんな殺されたんだもの、あのとき」
チャールズ・ヘイワースには、義娘の心のうちが手に取るように分かった。
あんなに小さな子供が、家族が殺されるのを見ていたのだ。一人残らず。
今でも娘が悪夢にうなされているのを、彼は知っていた。それなのに、あの事件のことをかけらでも思い出させるような真似をした自分を、チャールズは恥じた。
目を伏せた彼の傍らで、しかし少女は、奔流のような感情をそのまま口にしていた。
「あたし怖い。怖いの。ドアがノックされるとき、階段を誰かが上がってくる音がするとき、エレベーターの止まる音が聞こえるとき、何でもない時だって、あたしいつもぞっとするんだ。そんなわけないっていくら頭で考えようとしても、あいつらが来たって体が固まっちゃう」
娘の手を握って落ちつかせようとしたが、彼女はそれを振り払い、まだドーナツの残った皿を床に落としたことにも気付かずに泣きわめく。
「あいつら諦めたりしないよ。あたしはパパとママと一緒にいたらいけないの。危ないのよ」
割れた皿の上に両手をついたせいで、少女の白い手からは血が流れ出している。
だが、彼女はそんな痛みなど気付いてもいないようだった。
「お願いだから、あたしをどこか、遠いところへやって。あの信託財産があたしのものになる前に。パパとママまで失ったら……あたしもう生きていけない」
そして、ケイトは義理の両親の前に跪いて、泣きながら懇願した。
「でなきゃ、いま殺して」
「ケイト、血が出てるわ」
キャロラインが少女の小さな手を取ろうとしても、彼女はまたそれを振り払い、血のしずくを飛ばしながら叫ぶ。
「お願いだから殺してよ!」
涙と血の混じり合った点が、いくつも床に広がった。
いまや、少女は完全に取り乱している。声はうわずり、呼吸は荒く、皮膚から血の気は失せ、青い瞳の焦点すら合っていないように見えた。
「あなたを殺すなんて、わたしにもチャーリーにも、できるわけがないじゃない」
キャロラインは割れた皿を布巾で押しのけ、何とか義理の娘の傍まで近寄ると、ゆっくりとその隣に座って、少女の痩せた肩を抱きしめた。
「ね、落ちついて。大丈夫よ、ケイト。今ここにいるのはチャーリーとわたしだけ。怖い人なんていない。大丈夫だから」
少女の体はほとんど痙攣に近いほど震えていた。何とか落ちつかせようと、キャロラインは彼女の血まみれの手を握り、背中をさする。
チャールズもまた、少女と妻の肩にそれぞれ腕を回し、彼に出来るかぎりの優しい声で言った。
「大丈夫だ、ケイティ、キャリー」
それは彼の思惑とは違い、いつも通りの、ごく静かで落ちついた声だったが、それがむしろ少女の心には響いたらしい。
「ママには話してもいいの?」
脅えた様子を隠そうともせずに訊ねる義娘に、チャールズ・ヘイワースは小さく頷いた。
「勿論だ。いや、私が話しておくべきだった」
その言葉を引き取るように、キャロラインも微笑んでみせる。
「ねえ、ケイティ。わたしには何のことだか分からないけれど、あなたがそんなに悩んでるなら、何でも打ち明けてほしいわ。お願いよ……家族じゃない」
彼女は義娘の耳元に顔を寄せ、穏やかに言い聞かせた。
同時に、ケイトの体を抱く力が強くなる。
「なら、言うけど……」
と、少女は何かを口にしかけ、それと同時に、突然咳き込んだかと思うと、げえげえみっともない音ともに、ついさっきまで食べていたものをあらかた吐いた。未消化の野菜とドーナツの破片が、床の小さな血だまりを制圧していく。
「私が話すよ、ケイティ」
彼女は口元を押さえながら、小さく頷いただけだった。
それ以上の会話が無理なのは、誰の目にも明らかだっただろう。
ケイト・ヘイワースは、細い体を折り畳むようにしてその場にうずくまったまま、自分の血と涙の上に朝食をすべて吐き出し、それでもまだ体が拒否するのか、胃液と水と唾液の混ざり合った何かを嘔吐し続けている。
義母が優しく背中をさすっても、そのくらいでは彼女の震えと吐き気は収まらなかった。無様に咳き込みながら、着ている服と美しい黒髪の一部を自分の吐瀉物に汚して、ケイトは泣きじゃくっていた。
痛々しい姿の娘と、ただ困惑している妻の体を両腕で抱きながら、どのくらいそうしていただろう。
チャールズにとっては一瞬であり永遠に近い時間だったが、テレビの真っ平らな画面に無機質に浮かんでいる時刻表示が目に入って、自分が朝食を済ませてから三十分も経っていないのだと知らされた。
「さあ、お水よ。飲んで、ケイト」
「ありがと」
義母が差し出したグラスに震える手を伸ばし、少女は少しばかりミネラルウォーターを口にすると、かすかに息を吐いた。
それでもまだ嘔吐が続くようなら救急通報も考えたが、彼女はグラスの水面を見つめてじっと座り込んでいる。どうやら、少しだけ落ちついたようだ。
「ケイト、ソファーに座れる?」
「うん。ごめんなさい、キャリー、あたしこんなに汚しちゃって……ごめんなさい、ちゃんと掃除するから」
「いいのよ。そんなこと気にしなくていいの。かわいい子」
キャロラインはもう一度少女を抱きしめて、その美しい黒髪の頭を何度も撫でた。
こんな状況でまで、我が子が義母に気をつかっているのを目の当たりにして、チャールズ・ヘイワースは改めて言った。
「これから、全てを話すよ」
彼はこの段になってようやく、いつもの落ち着きを取り戻した。いや、普段以上に冷静だったかもしれない。
自分でそう思えるくらい、穏やかで静かに、チャールズは切り出した。
「キャロライン。ケイティが私の養子なのは知っているだろう?」
「ええ」
「ケイトの実の両親と姉妹が、殺人事件の被害者なのも言ったね?」
「ええ」
夫の真剣なまなざしに、キャロラインはただ、短く答えるだけだった。
「実際、警察関係者が事件の被害者家族を支援するのは、そう珍しい話じゃない。捜査している間に、被害者遺族と特別な絆が結ばれることはよくある。キャリー、君も、前のご主人を殉職で亡くしているし、ご両親も警官だから、そのくらいのことは理解していると、私も分かっているよ。しかし、これからする話は、それほど単純なものじゃないんだ」
「どういうこと?」
キャロラインは、怪訝そうな顔で夫を見た。
犯罪のために身寄りがなくなった子供たちを支援する団体には、彼女自身できるかぎりの援助をしてきたし、そういう子供たちを里親として引き取る警官が少なくないこともよく知っていた。
キャロラインがチャールズと出会った時には、既に養女としてケイトがヘイワース家に迎えられた後だった。だから、彼女は恋人に義理の娘がいることを承知で、彼との関係を深め、最終的に結婚した。
「もし君が、これを知っていたら、私との結婚は望まなかったかもしれない。それくらい重要で、深刻な話だ。隠していたのは申し訳なかったと思っているし、これから話すことで、君が私との結婚を解消したいと思うのなら、私は受け入れる」
「馬鹿言わないで頂戴。わたし、何を聞いても後悔なんてしないわ。あなたみたいな素晴らしい夫も、ケイトみたいな素晴らしい娘も、他にはいないもの」
「その考えが変わらないことを祈るよ」
キャロラインは当惑した様子だったが、それでも落ちついてはいた。彼女の態度に、ようやくチャールズは、重い口を開いた。
「禁酒法時代からアメリカに根を張ってきたアイルランド系マフィアのブラックブッシュ・ファミリー。名前は聞いたことくらいあるかな。彼女の父・イーサンは、そのファミリーのボス、ランドルフ・ブラックブッシュの弟だ。そしてイーサンは、組織の銀行番でもあった」
つい堅苦しい口調になってしまうのは職業病だと自分を笑いながら、本当は少しも笑えないほど恐ろしい話をしている自分がまだ冷静なことに、チャールズは満足していた。
「ケイティの家族は、IRA……あの、北アイルランド解放戦線を裏切って殺されたんだ」
北アイルランド解放戦線。
ヨーロッパにおいて、かつて最も恐れられた過激かつ先鋭的な団体だ。大英帝国からの民族独立運動といえば聞こえはいいが、実際にやっていたことはテロリストそのものだと西側諸国は判断した。もちろん、現在のグレート・ブリテンへの配慮を込めての決断だが。
テロリストと名指しされたことで、IRAは極端な武装化を選択した。正当な選挙による独立、いや、選挙そのものが不可能ならば、武力によって自らの版図を確保する。中世、いや、古代から続く領土戦争の理論を、現代社会に置いて実行したのだ。二十世紀の末期から二十一世紀初頭においては、IRAは最も恐るべき犯罪集団だった。
その資金源となったのが、北アイルランドからアメリカに渡った、いわゆるアイリッシュマフィアである。
彼らはゴールドラッシュに乗じてアメリカに次々と入国した。はじめのうちはごく小さなコミュニティでしかなかったが、禁酒法時代には、故郷のウイスキー醸造所から酒と煙草を手に入れ、迫害を受けた民族ならではの結束力も相俟って、当時全盛を極めていたイタリアンマフィアと真っ向から抗争するまでになった。
その背景には、ほんの噂、というより与太話の類いに過ぎないが、合衆国政府がアイリッシュマフィアを援助していたという説まである。アル・カポネが代名詞のイタ公より、まだアイルランド人の方が御しやすいと判断したのだとかどうとか。
ともあれ、二つの勢力の戦争が激化したのは確かだ。血で血を洗う殺戮と報復と密告と逮捕の無数の連鎖の結果、アイリッシュマフィアは西海岸では一定の利権を奪い取ることに成功した。
そのうちのひとつが、ブラックブッシュ家だ。
「ブラックブッシュ・ファミリーは、アメリカでのIRAの資金調達役を担っていた。カジノの経営権をラスベガスで手に入れたんだ。ボスのランディが建てたカジノは今でも残っているよ、かの有名な『チェッカーボード・ホテル』だ。六十年代には、一日に五千ドルを稼いだと言われている……信じろと言われても無理な相談だとは思うが」
その名に、キャロラインは我が耳を疑ったように何度もまばたきした。
何しろ、チャールズが名指ししたのは、映画『コン・エアー』で犯罪者を満載した飛行機がその真上を通ったので有名なホテルだ。今でも週末には観光客で黒山の人だかりになる。
「ちょっと待って、チャーリー。そりゃベガスでホテルやカジノは稼げるでしょうけど、一日に五千ドルは大袈裟よ」
「FBIの調査資料だけなら私も不審に思うだろうが、生憎これは、国税局の資料なんだよ、キャリー。アル・カポネを脱税で捕まえたのも彼らなんだ」
と、妻の言葉に思わず微笑んでから、すぐにチャールズは真顔に戻った。
「話を戻そう。ランドルフ・ブラックブッシュはべガスにカジノをいくつか作り、数年のうちに軌道に乗せた。彼はマフィアよりビジネスマンの方が向いていたんだろう。すぐにランディは、その商売は儲かると気がついたらしい。彼は一九七九年を最後に、アイルランドへの送金を止めている。つまり彼は、IRAを見捨てた。北アイルランドを解放する、英国から独立するなどという、荒唐無稽で実現不可能な大義名分より、目の前の実利、すなわち金と贅沢を選んだんだ」
全盛期、ブラックブッシュ家はアイリッシュ・マフィアの所有するホテルやカジノの半数近くを支配していた。そこから吸い上げられる金は、毎日……毎月でも毎年でもなく、毎日が数万ドルだ。そんな生活に慣れ、資金も人員も潤沢なイタリアンマフィアと構想を繰り広げつつ、当時のアメリカの甘い空気を肺いっぱいに吸い込んで、それでもなお北アイルランドの人々の嘆きの声に耳を傾けるほど、ランドルフ・ブラックブッシュは高潔な人格ではなかった。
いや、アメリカでは誰だってそうなる。ここは自由の国だ。
強い奴が勝ち、弱い者が滅びていくのを日常的に眺めていたら。
北アイルランドの解放など机上の空論どころか、おとぎ話のガラスの靴ほどにも脆い夢でしかないことを、ランドルフ・ブラックブッシュは理解したのだろう。
そうして彼は、ラスベガス、あの賭け事と犯罪と夢の街を支配する方を選んだ。だが、それはIRAにとっては、ただの裏切りでしかない。
「それで、IRAはみせしめのために、ブラックブッシュ家を始末した。二〇〇〇年、二十世紀最後の年に、殺し屋たちがランディ・ブラックブッシュの屋敷を襲い、彼と弟のイーサンの家族全員、住み込みの使用人一家のすべてに至るまで皆殺しにして、屋敷に放火し、全てを闇に葬ったんだ。所詮、アイリッシュマフィアは、血の絆で結ばれたイタリアンマフィアとは違う。ちょっとした夢や希望と、目先の金で作り上げられているファミリーを壊滅させることなど容易かっただろうな」
チャールズ・ヘイワースは調書でも読んでいるような自分の口調に気付き、かすかな苦笑を口元に刻んだ。
そう。あの時の調書は、もう全て暗記したほど読んだ。
「その、ブラックブッシュ家唯一の生き残りが彼女だ。ケイトという名前も、私の養女になる前のハビットという姓も、もちろん、FBIが証人保護プログラムで用意した偽名だよ。両親を交通事故で亡くしたというニューハンプシャー生まれの女の子という彼女の経歴は、全て偽物なんだ」
彼はその暗い色の目を、ソファーにうずくまっている少女に静かに落とした。
「彼女はランディの弟、イーサン・ブラックブッシュの次女、アリスだ」
アリス。
その名を呼ばれた瞬間。少女の青い目に、かすかな光が射した。
「あの夜、殺し屋が来たの。あたし、おじさんやおばさんがのどを切られるところ、パパとママが撃たれるところ、全部見てた」
しかし、それは正気の光ではなかった。サファイアのような瞳は、どこか遠くを眺めているようにうつろい、彷徨い、同時に恐怖に凍り付いている。
「お姉ちゃんとあたしと妹は、並んで一つのベッドで寝てた。でも、あの夜は……あたし、トイレに起きて、バスルームに行った……それで、戻ってきて、全部見たの」
チャールズ・ヘイワース刑事にとっては、何度も繰り返し読んだ調書の内容だった。しかし、キャロライン……彼の新妻にとっては、初めて知る、あまりにも衝撃的な悲劇だったに違いない。
「ケイティ、もういい」
義父の声も、少女には届いていないようだった。
「バスルームの扉をちょっとだけ開けたら、そこにすごく大きな銃を持った人がいて、お姉ちゃんと妹を撃った。バン、バン、バン。三発」
少女は全く表情を変えずに、まるで再生機器か何かのように語り続ける。
「妹が、きゃって、笑ってるみたいな悲鳴を上げたの。でも、覗いて見たら、妹は笑ってなかった。引き攣ったみたいな……脅えてるみたいな……わかんない、あんな妹の顔は、見たことない」
ケイトは青い目を見開いていた。息をするのも忘れているように見える。いま、その光景が目の前で繰り広げられているかのようだった。
「そのとき、すごい煙と、何かが爆発するような音がして、真っ赤な火が見えた。足下……家の一階が燃えてるのが分かった」
恐ろしい光景、思い出したくもないような惨劇を、彼女はぞっとするほどはっきりと……それでいて、何の抑揚もない声で、まばたき一つせずに言う。
「気がついた時には、もう銃を持ってる人はいなくて。家族だけだった。家の中にいるのは、あたしたちだけ。煙と火柱の中で、あたしはベッドに戻って……お姉ちゃんと妹の間に、いつもと同じに横になった」
きっと、チャールズには分かっているだろう。
少女は思い出したくもないその記憶を口に出す時ために、心を切り離す方法を覚えてしまった。警察で何度も証言しているうちに……大人に言わされているうちに。
「ああ、この火事であたしも死ぬんだ、お姉ちゃんや妹と一緒にパパとママのところへ行けるんだって思ったら、火が燃えてるのも怖くなかった。どうしてかな、もうパパもママも天国にいるんだって分かってたの」
そのとき彼女は、かつてのアリス・ブラックブッシュだった自分に戻っていたのかもしれない。
「あたし、妹とお姉ちゃんの間で、目をつぶって、自分が死ぬのを待ってたの。ずっとね」
だから、こんなにも簡単に言える。
「そのうちに寝ちゃった」
自分が死ぬ運命だったことを。
「で、何分後か、何時間後か知らないけど、消防士の人があたしを抱き起こしてくれた。彼は叫んだわ、生きてる!って」
チャールズの記憶では、それは火災の通報が合ってから二十五分後のことだった。最速で消防車と救急車が到着したはずだ。だが、それは彼女の幼い心を殺すには、十分すぎるほど長い時間だったに違いない。
「それであたし、生き延びちゃったの。ほっといてくれたら、そのまま死ねたのにね」
チャールズは刑事として、生きていても何の価値もないような人間、生きているだけで他人に罪科を齎すような人間を、これまで何件も刑務所に送り、そのうちの何名かは刑務所で死に、また他の州で処刑台に上がった。
だが、こんなにも無垢なはずなのに、死んだ方がまだましだったと思えるような存在は、彼の人生で一人きりだった。
「そのままずっと病院にいたとき、パパが……今のパパが来てくれて。あたしの話を聞いてくれた。あの夜のことじゃなくて、もっと違うことをね。あたしの好きなものや、好きなこと。他の刑事さんたちが訊かないような話を、何度も何度も聞きにきてくれた」
チャールズ・ヘイワースにとって、それは彼自身が刑事、警察官でいるために必要だったことかもしれないと、今では思い返している。
白鳥の湖とくるみ割り人形が好きだと彼女は言った。それだけ聞くのに、半年もかかった。
ベッドの女の子の話を聞き、彼女の顔に少しずつ表情が戻っていくたびに、チャールズは警官である誇りを取り戻した。彼女の家族を救えなかった懺悔の思い以上に、目の前にいる小さな女の子を救えるかもしれないという願いが、チャールズを突き動かした。
「それで、あたしはパパの養女になったの。なんていうか、パパも物好きよね」
そんな物語の最中だというのに。
新しく、ケイト・ヘイワースと名付けられた彼女は、冗談めかして少し笑ってすら見せたものだ。
「あたしは今の名前、すごく好きだよ」
それが義父を喜ばせようとしたものか、本心かは分からない。
だが、その気遣いがチャールズには辛かっただろう。
「だからね、キャリー……ママ。もしあいつらに見つかったら、あたしは殺される」
少女はもう一度、新しい義母の方へ向き直り、真面目な顔で言った。
「パパと、あと、FBIの人たちが気をつけてくれてるのは、唯一、あたしが十八歳になって、伯父さんの遺言が執行されるとき……つまり、ブラックブッシュ家の資産を相続できる立場になった時のことなの。お金の動きであたしの居場所がバレる可能性はゼロじゃないって、FBIの人が言ってた」
「FBIの連中は余計なことばかり言う。気にしなくていい、ケイティ」
チャールズは出来るかぎり明るい声で告げたつもりだが、彼女は軽く首を振った。
「でも、あいつらの狙いはお金じゃないんだよ、パパ。あたしに……裏切り者の一族に復讐したいの。皆殺しにしなきゃ終わらないのよ。あたしは、あたしはまだ子供だったけど、でもマフィアがどうするものかは知ってる」
その青い目は真剣そのものだった。
「そのとき、少なくともその数週間だけは、パパとママとは離れていなきゃ。パパとママに何かあったら、あたし、もう生きていけない……その前に、あたしが殺されてるかもしれないけど、でも嫌なの」
見開いた大きな青い目から、再び大粒の涙がこぼれた。
「落ち着いて。落ち着いて、ケイト」
キャロラインはその頬を優しく拭ってから、少女をそれ以上見ているのが辛いとでも言うように、不意に目を背けた。
彼女は夫を見上げ、出来るだけ落ちついた様子を装って……それは決して成功してはいなかったが、確認のように訊ねる。
「チャーリー、それは、特別な相続なのよね? 証人保護プログラムで安全が保障されてて、安全にケイトには資産が相続される。それで間違いないのよね?」
「そうだ」
「だったら、何の問題もないじゃない。ね、ほら、大丈夫なのよ、ケイト」
夫が頷くのを待ってから、キャロラインは義理の娘の小さな体を抱きしめた。
だが、少女の声と体はまだ恐怖と絶望に震えている。
「でも、実の両親はマフィアだったんだよ? 悪いことをして得たお金だよ? いくらあるんだか知らないけど、あたし、そんなの怖い。いらない、欲しくないよ、そんなお金」
「それは、いくらくらいになるの?」
「知らないよ」
少女は心底どうでもよさそうに吐き捨てる。
「チャーリー」
「千六百万ドルだ」
「それは……大金ね」
夫の答えに、キャロラインは息を飲んだ。
ニューヨーカーにとって最も分かりやすい表現をするなら、ヤンキースの先発ピッチャーや、ニックスの超一流のガードの年俸クラスの金額だ。あるいは、キャロラインのような宝飾品好きの女性になら、ティファニーの一番奥のショーケースに入っているダイヤモンド・ネックレスの値段と言った方が分かりやすいだろうか?
「怖いよ、ママ。あたし、そんなのいらない」
その正確な価値など理解していないのか、そもそも理解するつもりにすらならないのか、少女は義母の体にすがりついて叫んだ。
「そうだ、そうだよ、教会に寄付しちゃおうよ。神父様ならちゃんといいことに使ってくれるよ、でなきゃ、でなきゃ、ああ、キャリーの寄付してる森林保護の、あそこでもいいよ。何でもいいから」
いや、恐らく少女こそは、誰よりもその金の価値を理解している。
金で命は買えない。
「そうね。でも、落ち着いて」
キャロラインは少女の背中を、幼児をあやすように撫でてやりながら繰り返す。
「落ちついて。殺し屋は、あなたがここにいることを知らないし、あなたがそのお金を手にするってことも知らないんですもの。いつも通りにしていれば絶対に大丈夫よ」
そう語りかけるキャロラインの声も震えていた。
「怖いわよね。本当に怖いでしょう、どうして今まで話してくれなかったの。あなたがそんなに辛い思いをしてるなんて、どうしてわたしに知らせてくれなかったの」
「心配、かけたくなくて」
義理の娘の言葉に、キャロラインは自分も泣いていることに気付いた。
何度も頷き、汗で黒髪の貼り付いた額にキスした。
「大好きなご両親やお姉さん、妹さんを殺されて辛かったわね。私も、前の夫を亡くした時は辛くて、毎日泣いてばかりだった。悲しいし、訳の分からない怒りもこみ上げてくるわよね。消えてしまえたらどんなにいいかって、死ぬことばかり考えるの」
「うん」
「あなた自身も生死の境を彷徨った……そんなに辛い体験をして、お金なんていらないって言う気持ちもよく分かるわ。私もね、前の夫が死んだとき、生命保険が下りたんだけど……それが彼の愛の証だって分かっていても、そんなお金いらないから帰ってきてって泣いたわ。警官って仕事は、たぶん他の職種よりは死に近いわよね。わたしの父も殉職警官だったから知ってるわ。そんなわたしでさえ、本当に辛かった」
義娘がわずかながらでも落ちつくのを待ってから、彼女はゆっくりした口調で続ける。
「でも、あなたが相続するお金はね、普通の人なら一生かかっても滅多にお目にかかれる金額じゃないわ。進学も、留学もできるし、起業したり、投資したり、なんなら、アメリカから出て、よその国で優雅に暮らすことだって出来るの。使い道はちゃんと、しっかりと考えなくちゃ。それが、あなたの亡くなったご家族のためでもあるわ」
「うん……そうかもね」
少女はいちおう納得した素振りだけでも見せようとしたのだろう、伏し目がちに頷いたが、まだ顔色は真っ青のままだった。
「でも、怖いんだよ。怖くて怖くて、仕方ないの」
「大丈夫よ。わたしとチャーリーがついてる。大丈夫だから」
「そうだ。私とキャロラインがいる」
妻の言葉に、チャールズ・ヘイワースは、いかにも刑事らしく……いや、男らしく言い切った。
「私が守る」
ごく短かったが、使命感に溢れた、熱のこもった一言だった。
だが、それには優しい笑顔で、彼の妻が言葉を継ぎ足す。
「わたしたちが、よ、チャーリー。この子はわたしたちの娘よ。ケイト、わたしたちがあなたを守る」
「そうだな。そうだ」
キャロラインの言葉に、チャールズは救われたような気持ちになったのかもしれない。
彼の生真面目で深刻な顔に、ようやくかすかな笑みが戻った。
それは、彼の義理の娘も同じだったようだ。少女はソファーにちょこんと座り直し、義母の顔を覗き込んだ。
「キャリー、嫌な話聞かせてごめんね」
「あなたが謝ることじゃないわ。話してくれてありがとう、ケイト。でも……」
キャロラインはようやくいつも通りの華やかな笑みを取り戻した。そして、美しいネイルアートを施した指を立てて、義理の娘にはっきりと言い聞かせた。
「ねえ、こう考えてみて。そのお金はあなたのために、あなたが幸せになるために使うの。あなたが幸せになることが、あなたを殺そうとしている連中への一番の仕返しよ。そうじゃない?」
「キャリーって、すごいこと言うんだね」
「そうかしら?」
彼女は空とぼけて微笑んだが、チャールズは全面的に妻を支持した。
「だが、今回はキャロラインが正解だ。君が幸せになることが一番だ、間違いない」
彼はそう言ってから、新妻と義理の娘の頬に続けてキスした。生真面目で堅物のチャールズ・ヘイワース刑事としては、滅多にないことだった。
「だからこそ、ケイティ。君はそろそろ進路を決めなくては。一度ちゃんとオリファン先生と話しなさい、五月には卒業試験だぞ」
「うん。そうよね」
ようやく少女は、義父の言わんとしていることに合点がいったようだった。
それから、しばらく両手を顎の前で組み、どこか祈りにも似た姿勢で考え込んでから、ようやく重い口を開く。
「パパ、パパはどう思う? あたしみたいな割かしおばかさんでも大学は入れるけど、卒業するのが大変なんだよね?」
「君の成績は悪くない。十分進学できるし、今のようにしっかりやっていけば卒業もできるさ」
チャールズは勇気づけるような口調で言ったが、義理の娘はどこか不安げに、というより落ちつかない様子で答えた。
「でも、このまま司書先生の下で司書の資格を取るのも悪くないかなあって。大学に行くんだと学費がかかるけど、司書のバイトなら、勉強しながらお小遣いももらえて、ちゃんとした司書の資格も取れるんだよ」
「だが、その経歴だと、どこか地方の小さな図書館勤務がせいぜいだろう。やはり、大学には進んだ方がいい。人生で、学歴は邪魔にはならないぞ」
チャールズの説教混じりの説得に、ケイトは思いがけない言葉を返した。
「でも、あたしは、その……どこか田舎の図書館みたいな、あたしのことなんか誰も知らないところで、ひっそり暮らしたいの」
少女は食べかけのドーナツを皿に戻し、口元をティッシュで拭ってから、笑顔を作ろうとした。
「ニューヨークはいいところだよ、ほんとに。あたしはこの窓からマンハッタンのビルを見るのも、地下鉄も夜景も、ニューヨーク・ニックスも、ヤンキースも大好き。パパに最初に連れて行ってもらったヤンキースタジアム、あのでっかいホットドッグのこと、あたし一生忘れないよ。本当に」
それは、この五年間、一緒に過ごした父娘の思い出そのものだった。
「ケイト。思い出の中にだけ生きてちゃいけない。前に進むんだ。君の未来は無限なんだよ」
チャールズが熱くなる目頭を意識しながら語りかけたとき、義娘はなんとか頷こうとした。
「ちょっと待って!」
そのとき突然、キャロラインはソファーから飛び上がるように立ち、義娘の小さな白い手を両手で支えながら叫んだ。
「そんなことより、あなたてのひらが血だらけよ。手当しなくちゃ!」
その言葉で、少女ははっと青い目を見開き、二度まばたきし……それから、目の前にある現実に、甲高い悲鳴を上げた。
「ああ、うわ、もったいない、あたしのドーナツ!」
床で砕けた皿やグラスの破片と、自分の血にまみれたドーナツを見た少女が発した台詞は、一家を日常に……今この現在に、ようやく引き戻した。
「ドーナツなんてどうでもいいから、ほら、手を出して、ケイト」
「ありがと、キャリー。でも、あたしのドーナツ……」
義母の手当を受け入れつつも、まだ恨みがましそうにドーナツの残骸を睨んでいる少女の姿に、チャールズはようやく日常が戻ってきたのだと悟った。
もう大丈夫だ。
「帰りにコロンバス・ダイナーに寄って、君の大好きなシュガードーナツを買ってくるよ。チーズケーキもな」
かすかに笑いながら、彼は慣れた手つきで床をモップで掃除し、割れた食器類をまとめて不燃ゴミの箱に放り込んだ。
「もう大丈夫だから、お仕事にいってらっしゃい、あなた」
少女の小さなてのひらからピンセットでガラスや陶器の破片を引き抜きながら、キャロラインは笑顔で夫を送り出した。本当にもう安心だと、彼女もまた理解しているようだった。
「ごめんなさい、パパ、遅刻しちゃったね」
「構わんさ」
それでも。
ケイト・ヘイワースは、両手を包帯と絆創膏で固められた無様な姿で、月曜は登校することになるだろう。
「素晴らしかったよ。実に名演だった、感動的だったね」
「うるさいわよ、帽子屋」
コロンバス・ダイナーの午後は静かだった。
シーバーグ・ピアノ・カンパニーのオリジナルのジュークボックスが、フランク・シナトラの『ストレンジャー・イン・ザ・ナイト』を流しているだけだ。音が飛ばないのが奇跡的だった。
客は黒髪の少女と、洒落た中折れ帽にジーンズ姿の、いかにも休日を楽しんでいるビジネスマン風の男の二人きりだ。
少女はカウンターの高いスツールに座って、絆創膏だらけの手でクッキーを食べ、帽子のビジネスマンはテーブル席で琥珀色の液体が満たされたティーカップを傾けながら、日曜はウォール街も休みだというのに、忙しなくノートパソコンをいじっている。
二人は全く視線を合わさないまま、互いにだけ聞こえるような小声で会話を続けた。
「キャロライン・ヘイワースって、実際のところはどうなの? 本当に殉職警官の妻?」
「ああ。彼女の夫は、四年前にマジソンスクエア・ガーデンの隣の郵便局で起きた乱射事件で死んだことになってるな、書類上は」
「もっとちゃんと調べなさいよ」
「まあ、そっちはヤマネと三月ウサギに任せておきな。うまくやるさ」
ビジネスマンを装った『帽子屋』は、人相風体は勿論、声すらもスティーブン・ブラッドベリやストリート・パフォーマーとは違った。同じなのは、少女に向かってわずかに見せる、口元だけの皮肉な笑いだけだ。
少女はチョコチップ・クッキーを退屈そうに齧りながら、独り言のように言う。
「とりあえず、こちらのカードは少しだけ見せてやったわ。あの女が敵なら……あたしはどんな形であれあの女は敵だと思っているけれど、本物の敵の手先なら、何か動くはずよ」
「もちろん乗ってくるだろう、何しろ撒き餌が美味い」
帽子屋はノートパソコンの画面から目を離さずに、それでも悠々とした態度で煙草に火を点けた。
「そこそこの額の金、それに一族皆殺しのメンツがかかってる。これに食いついてこないような相手なら、最初からこんな面倒な仕掛けは必要なかっただろうさ」
「でも、必要な仕掛けだったって証明されたわよ。あたしなら、結婚して二ヶ月足らずの旦那からあんなとんでもない話を聞かされたら、即日に裁判所に婚姻無効を申し立てるわ。ついでに精神的苦痛の損害賠償と、接近禁止命令も要求する」
少女の青い瞳に浮かんでいるのは、冷静な分析と楽しげな笑みだった。
「確かに。キャロライン・ヘイワース……君のママは善人過ぎる」
「せめてあの女がパニクって大騒ぎして、今すぐニューヨークを離れようなんて言い出してくれたら、少しは信用しても良かったんだけどね」
「約束するぜ、絶対にキャロライン・ヘイワースからは目を離しゃしねえ。安心してくれたまえよ、この帽子屋様の目の届かない場所なんてものは、このニューヨークにゃあ存在しねえんだからな。下水道に住んでる連中だろうが、FBIだろうが同じさ」
帽子屋の自信に満ちた言葉に、少女はそちらを見ないまま、にっこりと……なんとも愉快そうに愛らしく笑って、恐ろしい台詞を返した。
「もしキャロラインが切り札を持ってるんだとしたら、どんな手に出るのかな。あたしを殺して、法定相続人であるパパと山分けを狙う?」
「それは君のパパが納得しないだろう」
「そうね。あたしだったら、パパもまとめて殺すわ。不幸な事故がいいわね。どこかのハイウェイでダンプと正面衝突、車ごとクラッシュして親子仲良くミンチにするとか」
「いやあ、俺様なら、もうちょっとうまくやるね。パパは現場で殉職、娘はそれを悲しんで、発作的に飛び降りか手首を切って自殺。こっちのがずっと自然な流れだろ」
「なるほどね。そうすればいいのね、勉強になるわ」
当たり前のようにぞっとする会話が交わされている最中、奥の扉からこの店の店主が突然現れ、まっさらなエプロンをさっと手で捌いてから、カウンターに当たり前のように陣取った。
「コーヒーをもう一杯どう? アリス」
「ええ、貰うわ」
ジェームズ・コロンバス……いや、「イモムシ」は、彼の仕事である「料理」を終えてきたばかりなのだろう。洗濯したての洋服に着替えている。
湯気の立つコーヒーのマグカップを手元に引き寄せながら、少女は不敵な笑みを浮かべた。
「それで、あたしの誕生日が来たとき。ひっくり返るあの女の顔が見てやりたいわね」
彼女は、コーヒーに角砂糖は入れなかった。ただの一つも。ミルクすら。
相当に濃いブラックの、コーヒーオイルの浮いた一口目を少女が味わい、かすかに笑うのを見届けて、イモムシは長いつけまつげの目を満足げに細める。
「おあいにく様だけど、あんたもパパも死なないわよ。だけど、あんたのママがひっくり返るところは見られるだろうし、彼女の後ろにさらに黒幕がいるとすれば、それが戦いの火ぶたを切る合図になるわね。そこからが本当のゲーム、本物の殺し合い」
いつもの、ドラァグ・クイーン調の奇妙なアクセントと単語の組み合わせから成る言葉遣いが、今はさらに異様に、というより、不気味に響く。
「まあ、俺様は荒事は専門じゃないんでね、その段になったらとっととおさらばさせてもらうぜ」
「あらあら。『帽子屋』ともあろう男が、何を薄情なこと言ってるのかしら」
「いや。俺たちのアリスにゃあ、あのバケモンがついてる。俺様の出番なんぞねえのよ、役者は出番を心得なけりゃあいかん」
不可思議な雰囲気を放つ二人の男の応酬を横目で眺めながら、少女はまた冷たく笑った。
「そのキャリーの後ろの黒幕とやらを、さっさとゲームに引きずり出したいものね。そいつさえ地獄に送れれば、あたしは幸せよ」
彼女はコーヒーを舐めるように啜りながら、呪文でも唱えるように呟いた。
「みせしめが復讐を呼び、その復讐が更なる復讐を呼ぶ。そうしてこの世は続いていくものだけど。あんなみせしめくらいで、ブラックブッシュ家を潰せると思ってたあいつらは馬鹿よ。あたしは、あたしたちは復讐を完璧に終わらせる」
そのとき、彼女は初めて『帽子屋』の方を向き、彼と目を合わせた。
「復讐とは、成し遂げられて初めて意味をなす。魔法のようなものよ」
「確かに。君は正しい」
「そうよ。あたしはジェダイだもの。ゲームには必ず勝つ」
自信に満ちあふれた態度。いや、蛮勇にすら見える熱狂的な決意が、少女の青い目の底に燃え上がっている。
「ジャン・ジロドゥって人がこう言ったんだって。私は死を恐れない、人生は命を賭けたゲームなのだ、ってね。素敵じゃない?」
「クリミナル・マインドで見たんだろ。今時の若いもんは、本の一つも読みやしねえ」
ビジネスマンの姿をした『帽子屋』は、その光を数秒の間だけ愛おしそうに見つめると、不意に視線をノートパソコンに戻した。
メールの着信を確認して、彼は内容を読まずに立ち上がった。
「おや、時間だ。では俺様は仕事にかかるぜ。おやすみ、俺たちのアリス。フォースがともにあらんことを」
「長寿と繁栄を。おやすみ、帽子屋」
何もかも聞いているからこその受け答えに、少女も満足げに頷き返し、彼がノートパソコンをブリーフケースに収めて立ち去るのを横目で見送った。
恐らく、いや、彼女の予想通りに。
ビジネスマンが店を出たほんの数分後に、少女がよく知った顔がコロンバス・ダイナーの扉を開けたのだ。
「パパ」
彼女は大袈裟に驚いたふりをして、チャールズ・ヘイワースを迎える。
「ケイティ、来てたのか」
「ドーナツとチーズケーキの予約に来たのよ。ね、コロンバスさん」
日曜日の夕暮れ時だ、ティーンエイジャーがこういう場所にいたとしても不自然ではなかった。むしろ、刑事である彼の方が、こんな時間に帰宅の途につく方が珍しい。
恐らくチャールズは、出勤前に起きた出来事を相当気にしているのだろう。少女が予想よりもずっと普段通りなことに、彼は内心、胸を撫で下ろしていたかもしれない。
「はい、ご注文のケーキとドーナツよ。それからこっちのクッキーは、ケイトちゃんのお見舞い」
「いつも済まないな、ジェームズ」
「いいのよ。あなたたち家族は、うちのお得意様だもの」
きちんと包まれた紙袋を手渡されて、チャールズ・ヘイワースは感謝のこもったまなざしを店主に向けた。
「ママがね、今夜はミートパイを焼いてくれるんだって。パパが早く帰ってきてくれてよかったよ、でも、もうお仕事おわりなの?」
「ああ、今日はもう上がったんだ」
「じゃあ、三人でディナーだね。コロンバスさん、バーイ」
少女は嬉しそうに笑って義父の腕を取り、巨漢の店主に軽く片手を振って店から出た。
そうしていると、実に仲の良い、ごくありふれた父と娘のように見えた。
扉が閉まると同時に、店主はカウンターの裏からスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかける。何を言っているのかは誰にも聞き取れなかったが、ただ、ジェームズ・コロンバス……いや、『イモムシ』が心から楽しんでいるのは、窓ガラス越しにも分かったかもしれない。
それを見られないように、コロンバス・ダイナーの窓は、全て磨りガラスに、古めかしい酒や煙草のメーカーのロゴがプリントされているのだ。そう気付く人間がいたら、彼はきっとCIAか、ホワイトハウスで大統領補佐官になれる程度の洞察力の持ち主だろう。
あるいは、本物の殺し屋か。
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