第7話 ビルの森とキノコの森

 雪がちらついている。

 細かな雪だ。どこかから飛ばされてきた風花だろうか。この、頭上を覆う夜空の澄み切った高さと、そこに散りばめられた星々の、それぞれにつんと尖ったきらめきを思えば。

 だが、今はその暗い空を見上げるものなどいない。

 一月二十二日、午後六時。ニューヨークの街は、足早に我が家を目指す人々が一斉にオフィスから解き放たれて、どんなカーニバルよりも賑やかに、また殺気立っていた。舞い散る小雪の冷たさも、サラリーマンたちの怒りにも似た焦燥を沈めることはできない。いや、この身の縮むような寒さこそが、彼ら彼女らの苛立ちの一因になっていた。

 その人ごみの中……帰りの通勤客でごった返すウォールストリート駅の七番線、二つ目のベンチに、男が一人、ぽつんと座っていた。

 細身のジーンズに鋲のついたブーツの足を、モデルのように優雅に高く組み、毛皮の飾りのついたジャケットを羽織っている。横には革張りの、小さめな楽器ケースが置かれている……トランペットやホルンに特徴的な朝顔型のふくらみがないところを見ると、サックスかクラリネットだろうか。何にせよ、いかにもミュージシャンという風情の、スタイルのいい二枚目だ。

 いささか頬のこけた、細面の整った顔には、かすかな笑みが浮かんでいる。

 男はコーデュロイの鳥打ち帽を目深に冠り、ときどきスマートフォンを取り出してメールを確認したり、紙コップからコーヒーを啜ったりしている。見るからに、この駅に馴染んだセミプロの音楽家……いわゆるストリート・パフォーマーだ。

 ずっとそこに座っていても駅員が咎めないのは、顔見知りか何かなのだろう。そうでなくとも、ここはニューヨークだ。鉄道や地下鉄の駅周辺にパフォーマーは多い。スターになることを夢見て、街角で音楽を奏でる人間はごまんといる。その一人が駅のベンチで時間を潰していたとして、気にする者など誰もいなかった。

 そう。誰も、彼のことを気にしてはいない。

 それが大都会のいいところ、最高の長所であり、同時に最悪の弱点だ。無数の人々が行き交う世界では、すれ違ったばかりの相手の顔など覚えてはいられない。むしろ、他人と目をあわせることはもちろん、顔もできるだけ見ないようにする。下手に目のあった奴がギャングやジャンキーだったら、あるいはサイコ野郎だったら面倒なことに巻き込まれてしまう。そんな目に遭わないために、あるいは、自分の顔を覚えられないために。

 人々は、視線をぼんやりと彷徨わせながら、暗い都会の中を歩いていく。わたしも、あなたも、誰もかも。

 その弱点をカバーするために至る所に監視カメラが配置されたが、機械が万能になる時代はまだはるか先のようだった。ニューヨーク市警が力のかぎりを尽くしているのは横に置こう。実際のところ、超強硬派のジュリアーニが市長だった時代に比べて、今は犯罪率が毎月目に見えて上がり、検挙率は下がっている。

 駅員もあらゆる人間に目を光らせていたが、どんなに警戒をしても、あのロンドンマラソンのように、何気ない市民がテロリストになる可能性はある。911以来、この自由の国アメリカでは、自分以外の全てを敵だと見なす自由も認められたのだ。南北戦争、西部開拓時代、大戦中、冷戦中……何度となく繰り返された、歴史のもたらす必然だった。

 そんな物騒な世の中だというのに、このベンチに腰掛けている人物は実に無害、というより、夢見がちな男に見えた。音楽パフォーマンスにふさわしい時刻、日暮れがやってくるのを待っているだけの。

 駅員がふと目を離した隙に、そのベンチの隣に、やはりパフォーマーらしい中年男が軽く腰掛けた。

 丸顔で蝶ネクタイ、きちんとした服装で、持っている黒革の楽器ケースは年季の入ったものだ。

 だが、それ以外に彼の特徴を証言しろと言われたら、駅員は困っただろう。この中年男は、いささか太り気味の白人、明るい色の髪……そうとしか表現のしようのない、個性のない人物だった。ピンストライプのシャツもグレーのスーツも、洒落てはいたが量産品で、そこらの古着屋で十ドル出せば揃えられる程度の、よくある代物でしかない。

 誰の印象にも残らない人物、あるいは人の顔というものがあるとしたら、まさにこれだった。

 ぱっと見たところ、彼が何を考えているのかさえ分からない。楽しげに笑っているようにも、寂しげに顔をしかめているようにも、また、心ここにあらずというような惚けた表情にも見えるのが不思議だった。まるでつるりとした卵の殻の上に、適当に目鼻を置いただけのようだ。

 それが本当は異質なのだと理解できているのは、当の本人と、今は鳥打ち帽の男だけだろう。

 中年男は、鳥打ち帽のミュージシャンの横に軽く腰掛けると、電車の時刻表を腕時計と照らし合わせながら、隣を少しも見ないで言った。

「ハンプティダンプティの靴下は何色だ?」

「お前が履いてるのがその色だ」

 鳥打ち帽のサックス奏者は答えながら、ちらりと横を見た。

 中年男の革靴の足下からは、白と紺の縞模様の靴下がわずかに覗いている。

 そのとき、駅員が定刻から少し遅れたアナウンスをした。

「七番線に、グランドストリート方面行き、到着です」

 同時に、古くさい銀色に輝く車両が、構内へと滑り込んでくる。

 けたたましいブレーキ音、激しく舞う火花、警笛。それらに続くドアの開く音に、いっせいに人々が動き出す。機械的な音の連続の中に、有機的な靴音や話し声が加わった。列車から降りる人より、乗り込む人の方が多い。

 そのめまぐるしい雑踏に紛れて、縞模様の靴下の中年男は、楽器の入ったトランクを手にして立ち上がり、そのまま七番線のプラットホームへと向かった。

 ただし、彼が握ったのは、さっきまで自分が持っていた楽器ケースのハンドルではなく、そのすぐ隣に置かれた、そっくり同じトランクの取っ手だった。

 電車のドアが開き、彼がその電車に乗り込むのを、鳥打ち帽のパフォーマーは一瞥すらしなかった、ただ、少しだけ離れた場所にある黒革の楽器ケースのトランクを、自分の手が触れるちょうどいい位置に引き寄せただけだ。

 彼はしきりにスマートフォンをいじりながら、周囲の人々になど全く興味がない様子で座っている。

「ハニー、キャンディー、五百ずつ。ハンプティ・ダンプティに渡した」

 彼はどこかにそうメールを送り、すぐさまその履歴を消した。

 それだけで、じゅうぶん満足そうな笑みが、その口元にかすかに浮かんでいる。

 男は七番線の二つ目のベンチから立ち上がると、黒革の楽器ケースを片手に携えて、駅の改札に続く階段へと向かった。

「おや、もう行くのかい、芸術家」

「のど飴と蜂蜜を切らしちまったんで、買いに行ってくらあ」

「そいつは生憎だったな」

 ブロークンな英語を話すマンハッタンっ子の駅員に声をかけられても、彼は堂々としたものだ。

 その姿を見たら、古書鑑定士スティーブン・ブラッドベリ氏を知る者なら仰天するだろう。

 いや、彼だとは絶対に気づかない。

 今の彼は、服装や声音はおろか、人相や言葉遣い、目の色まで違う。髭はなく、表情は生気に満ちている。同一人物だと判断するには、最高にして最新鋭の骨格分析ソフトと、それを使いこなすだけの観察力の持ち主が必要になるだろう。もちろん、そんな遣り手の捜査官は、ドラマの中にしか存在しない。

 だが、そこにいるのは彼なのだ。

 つい数時間前まで死を間近に控えているブラッドベリ氏だったはずのサックス奏者は、悠々と駅の改札を出て、長い階段を優雅な足取りで歩いてから、何の迷いもなく進んでいく。もしも彼が見た目どおりのストリート・パフォーマーならば、恐らく、いつもの縄張りとでも言うべき決まった場所、すなわちそこそこ小銭を恵んでくれる人通りのあるスペースがあるのだろう。

 しかし……この男は誰だ。


 ウォールストリート駅からグランドストリート方面への列車が出てから間もなく、日没がやってきた。

 太陽が沈むとき、無数に立ち並ぶ高層ビルの窓に夕焼けが反射して、ニューヨークの街は見渡すかぎりオレンジ色に輝く。

 アスファルトにすら燃えるような輝きが差し込み、道路で乱反射して、何もかもが眩い金色に染まるのだ。

 まるで黄金でできているような世界。

 だが、それもほんの一瞬のこと。

 陽が落ちると、ニューヨークいう街は、昼とはまるで違う表情を見せる。

 ここでは、摩天楼で日陰ばかりの昼間に比べて、もしかしたら夜の方が明るいかもしれない。日没と同時に点灯される無数のイルミネーション、ライトアップされたいくつもの歴史的建設物、窓から漏れる照明でメッセージやコマーシャルを描くビジネス街の建物、一晩中明かりが消えることのないファッションビル、車道は渋滞のヘッドライトでいっぱいだ。通りに面したショーウインドゥには、凝りに凝ったディスプレイが輝きを放っている。

 その全てが、冷たい空気の中で、世界をきらきらと輝かせている。

 そして、それらを背景にして、ニューヨーク育ちの全ての人々と、全米で最高のクリスマスを味わいにきている観光客に向かい、自由の女神がマンハッタン島から美しい微笑みを向けていた。彼女の掲げるトーチの光は、見上げる人々をいわく言いがたい魅力で惹き付ける。

 そんな、さまざまなきらめきを背にして。

 黒革の楽器ケースを片手にした鳥打ち帽の男は、音を立てて吹き抜ける風も舞う雪も気にせず、颯爽と歩いていた。

 やがて彼は、ウォールストリート駅東口前のターミナルの向こう、終業したトリニティ銀行の玄関先の、広々とした階段に陣取る。そこはちょうど、銀行のシンボルである鷲の彫像の後ろに照明が設置されていて、銀行の重々しいドアを背景にした小さなステージのようにも見える。

 そこで彼は革のトランクを開き、自分の商売道具であろう、美しい楽器を取り出した。

 金色に輝くサキソフォンだ。

 それは、本当に純金で出来ているいるかのように輝いている。彼がどれほど自分の楽器を大切に扱っているのか、その光り方だけでもよく分かった。

 彼は自前の楽器を手早く組み立てながら、目の前を行き過ぎようとする人波の群れから、ひとりの少女に声をかけた。

「やあ、可愛いお嬢さん」

 目が合う。

 はじめ、誰だか分からなかった。

「ぼ……」

 そして、彼が何者かを理解した瞬間、思わず喉から飛び出しそうになった名詞を、長い黒髪の少女は全身全霊でのみ込み、精一杯の作り笑いを浮かべた。

「こんばんは、芸術家さん」

「初めまして。何か、リクエストはないかな」

 楽器の組み立てが終わると、彼は軽い調子でいくつかの短いフレーズを演奏し、今のコンディションに満足したように頷きながら訊ねた。

「何でもやるよ、クラシックから、今時の流行の曲まで」

 すると、黒髪の少女は、地味なコートの胸元を寒さにかき合わせるようにしながら、単語だけで告げた。

「ツェッペリン」

「渋いね」

 その名詞にピンと来ないなら、ニューヨークでのパフォーマーなど、いや、ミュージシャンなどやめてしまえ。

 英国のバンドだが、国籍など関係ないほどの大メジャーだ。

 だが、少女が続いてリクエストしたのは、誰でも知っているが故に、ストリートパフォーマンスで表現するには壮大すぎる名曲だった。

「カシミール」

 しかし、鳥打ち帽の男は、口元だけで笑ってその注文を受けた。

「いいね」

 彼はおもむろに金色の楽器を構えると、歌口をくわえ、リードを下唇で支えた。

 そして、唐突と言えるほど不意に、その曲は始まった。

 そのイントロの、異国情緒と不可思議な幻想の混じり合った部分は、サックスだけでも確かに表現できるだろう。

 しかし、その後の……最も盛り上がる、あの最高のメロディーは? ここにボーカルはいないのに。

 と、そのとき。

 不意に演奏に参加したのは、近くのコンコースで演奏していたバイオリニストだった。

 ごく若い女性だったが、バイオリンの技術は一流だった。彼女は打ち合わせでもしていたかのような阿吽の呼吸で、サックスの響きの上に厳かな弦楽器のメロディーラインを乗せる。

 音楽が静かにコンクリートの上に溜まって、やがて耐えきれずに空へと弾け、自然と高らかに舞う。

 そして、最高の瞬間が訪れた。

 音が溢れる。

 物珍しそうに眺めていた聴衆だけではなく、ただごく普通の通勤客、道を行き交う人までふと足を止めるほどの衝撃だった。

 誰もが聞き惚れた、歌詞を口ずさむのを忘れるほどに。

 雪の舞い散るニューヨークは、そのとき灼熱のカシミールだった。ジミー・ペイジが天才の創造力だけで訪れた、あの幻の場所に、冷えきった駅前のコンコースは変貌していた。

 最後の一音は、サックスの切なげな揺らぎ。

 最高のサビ、あの最高の聞かせどころを、二人は見事に演じ切った。

 演奏が終わった瞬間、静寂がやってきて……少し遅れて拍手が鳴り響き、口笛や指笛が飛び、ブラボーの声があちらこちらからかかった。

 サックス奏者が自分の前に置いた楽器ケースには、次々とコインや一ドル札が投げ込まれた。中には高額紙幣を放り込む者もいた。

「ありがとう、皆さん、ありがとう」

 ここはニューヨークだ。即席のセッションが突然始まるのは、そう珍しいことではない。しかし、確かにこれは名演だった。何年も一緒に組んでいるかのように、バイオリンとサックスの息はぴったりだった。

「すごいな、こんなにお金が集まってるのを見るのは初めてだよ。どうぞ、半分はあんたの取り分だ」

 投げ込まれた金を無造作に掴むと、サックス奏者はバイオリンの女に手渡そうとした。しかし女は、笑って首を振る。

「あんたがリクエストされた曲だもの。あたしのじゃないわ」

「なら、バイオリニストさん、聞いてくださったお客さんも……よかったら、そこのスタンドで好きな飲み物をどうぞ。僕の奢りですよ」

「いいのかい、音楽家」

 しがないストリートパフォーマーにしては気前の良すぎる申し出に、観客の一人がいささか怪訝そうに訊き返したが。

 サックス奏者は自信たっぷり笑って答えた。

「もちろん遠慮なくどうぞ。こんなの、僕には過ぎた身入りだから。それに、僕はきっと来年には、カーネギー・ホールでコンサートをやってるよ」

「確かに、お前さんならそうかもしれねえな。いや、きっと満員にできるさ」

 そう答えると、観客の男は、愉快そうに声をあげて笑った。その目には、もはや疑念の色はない。むしろ、何か愛しいものでも見るようなあたたかいまなざしが、ストリートミュージシャンたちへと注がれていた。

 中年を過ぎても、まだ一流になる夢を追いかけ、かなわぬ夢にしがみつき続ける男がいるのも、やはりニューヨークらしい。それを素直に応援する、この聴衆のホワイトカラー風の男も、また根っからのニューヨーカーなのだ。

「破れた夢が積み上って出来たのが摩天楼なのよ。それじゃ、あたしにウイスキーを一杯。何でもいいわ」

 皮肉屋らしいバイオリニストのそっけない注文に応える、スタンドの親父の台詞も気が利いている。

「美人を口説くにゃあフォアローゼスと相場が決まってらあね」

 彼女は差し出された琥珀色のグラスを手にして、少し笑った。

「じゃあ、僕もフォアローゼスを一杯貰おうかな。オールドファッションで頼むよ」

「わたしはホットワインを頂戴、この人たちのギグに夢中になってたら冷えちゃったわ」

「はいよ、お待遠。さあさあ、そこのあんたも一杯やってあったまっていきなよ、今日はサックスの奢りだ」

 屋台の酒がすかんぴんまで売り切れそうな勢いで、スタンド引きの男の顔は陽気に輝いていた。

 紙コップを受け取る人々も、アルコールを飲まない人々も、みな笑顔だった。誰もが満ち足りた顔をしていた。

 バイオリニストが紙コップを高く掲げる。

「メリー・クリスマス。乾杯」

「かんぱーい」

「乾杯、お姉さん!」

「乾杯!」

「メリー・クリスマス!」

 歓声の輪が広がり、先ほどまでとは打って変わって、あたりは賑やかな雰囲気で満たされた。

「いいパーティーだね、芸術家」

 と、聴衆の一人が振り向いた時にはもう、最高のパフォーマンスの主役の一人は、そこにはいなかった。

 まるで煙のように、鳥打ち帽の男は消え失せていた。

 自分でも思いがけないほどの、あんまり見事な演奏だったがゆえに、観衆がバイオリニストの美女の乾杯の音頭に気を取られている隙に、気恥ずかしくなって逃げ出したのだろうか。

「おや……」

 と、スタンドの親父が、人々に酒を振る舞う手をとめて、ダッフルコートのポケットに右手を突っ込んだ。

 彼が手を引き出すと、そこにはくしゃくしゃになったドル紙幣が何枚も握られていたものだ。

「うっひょお、千ドル近くあるぜ。おいらが貰っちまっていいのかね」

 それは、一晩の稼ぎとしては十分すぎる額だった。気づかぬうちに、彼のポケットに詰め込まれていたのだろう。

「なあ、バイオリニストのお姉ちゃん、あんた、あいつにこれ、少し返しちゃくれねえかな。いくらなんでも、こりゃあ貰いすぎだよ」

「そんなこと言われても困るわ。あたしもあのオッサンのこと、何も知らないもの」

 水を向けられたバイオリニストの女は、しかし、軽く肩をすくめただけだ。

 だが、彼女の答えは、スタンドのあるじには満足のいくものだったのだろう。彼は小さく頷いた。

「謎の音楽家か。いいねえ。これぞニューヨークだ」

「謎でもないわ。月に二、三度、あそこで吹いてる。気が向けばね」

「なんて名前だい、あいつと、それにあんたは?」

「あたし? あたしはマリリン・モンローよ。彼はきっとJFKね」

 手にしたストレートのバーボンを飲み干すと、女はまた皮肉めいた笑みを浮かべて、バイオリンを片手に路上へと戻っていく。まるで何事もなかったかのように、彼女は静かに『天国への階段』を弾きはじめた。

 ほろ酔いの客、あるいは一日の仕事を終えた人々に、そろそろ帰る時刻だと教えているようにも聞こえた。


「あら、いらっしゃい、ケイティちゃん」

「こんにちは、コロンバスさん」

 少女がコロンバス・ダイナーにやってきたのは、午後七時の少し前くらいだっただろうか。

 レトロなドアベルを鳴らして店に入るなり、少女はカウンターの大男に駆け寄り、赤い革張りの高いスツールによじ上りながら笑った。

「ねえねえ、聞いて。さっき、ウォールストリート駅の前で、すごいパフォーマンスやってたの」

 店内には、大男の店主と、少女以外には誰もいない。大きなガラス窓と戸口が面している通りにも、人影は疎らだった。まるで世界に動いているものはここにいる二人だけと錯覚しそうなほど。

 だが、それがただの気のせいだということを教えるかのように、年代物のジュークボックスが耳障りな音を立てながら、新しいレコードをつまみ上げて針を落とした。

 流れてきたのは、ローリング・ストーンズの『ペイント・イット・ブラック』だった。

 少なくとも、六十年代からは時が進んでいると、その小さな機械は主張していたのかもしれない。

 そんな二昔以上前の、もはや古典とでも言うべき音楽には耳もくれないのか、黒髪の少女は楽しげに語る。

「ほんとにすごかったんだよ。めっちゃ盛り上がってた」

「それはよかったわね、アリス。いい取引の後で、帽子屋も三月ウサギも機嫌が良かったんでしょう」

 その場を全て見ていたかのように、ジェームズ・コロンバス店主は満足げに頷いた。

 にこやかな言葉の端々に奇妙な符牒のような名前が並ぶのを、しかし何の疑念も抱かない様子で、少女はガラスのクッキーボトルに手を伸ばす。

「いただきまーす」

 と、自分のてのひらより大きなチョコチップクッキーを瓶から引っ張り出し、軽く口にくわえてから、彼女は不意に思い出したように訊ねた。

「ところで、どうして『ハニー』とか『キャンディー』とか、あんたの作るヤクは可愛い名前なわけ?」

 少女の方も、コロンバスと同じくらい何もかも理解しているような口調なのが奇妙だった。

「ヤクって言い方は品がないわ。お薬、でなきゃお料理って言って頂戴」

 だが、コロンバスはある種の蛾の幼虫に似た太い指を一本立ててたしなめただけで、当たり前のように続ける。

「キャンディーっていうのはね、そこらで売ってる咳止めシロップから作ってるからよ。ジヒドロコデインリン酸塩とメチルエフェドリン塩酸塩を咳止めから抽出して、純コデインとエフェドリンを分離するの。材料は割と簡単に手に入るけど、手間がかかるから料理人の腕が試されるわね。でも、あたしの作るのは純もののカクテルだから、ぶっ飛べるわよ」

「難しい話、あたしきらーい」

「簡単よ。要するに、アルコールで流し込めば体の中で勝手に覚醒剤が合成される。もちろんあたしはお料理のレシピにはこだわってるし、ちょっと他に特別な味付けをしてるけど、まあこれはおまじないみたいなものね」

「おまじない?」

「グレープフルーツのオイルをちょっとだけ垂らすのよ。グレープフルーツの成分は、早く素敵な気分にしてくれるってみんな信じてるの」

 本当にお菓子の話でもするように、コロンバス……いや、「イモムシ」はにこやかに語った。

「ハニーは?」

「あれは、純度八十パーのコカインを糖蜜で固めてあるの。あなた、アニメの『くまのプーさん』、新作の方ね、見たことない? 蜂蜜でプーはもちろんだけど、あの陰気なロバのぬいぐるみまでラリってたわよ。あれ絶対コークかメタンフェタミン入ってるわ、上物よ」

 あまりに物騒な関連付けだ。天国のウォルト・ディズニーとクリストファー・ロビン・ミルンが聞いたら卒倒するだろう。いや、あの作品を好んでいなかったというロビン・ミルンは、むしろ地獄で大笑いしてくれたかもしれないが。

「ふうん」

 しかし、彼女は子供向けのアニメーションには興味がないようだ。大きなクッキーの詰められたレトロなガラス瓶に手を突っ込んで、実に気のない返事をした。

「それでイモムシ、今回はどのくらいの儲け?」

 チョコチップクッキーを齧りながら、少女は店の売り上げでも知りたがるかのように無邪気なまなざしで訊ね、イモムシもごく自然に答える。

「そうね、そんなに大きな取引じゃないから、ちょっとした額よ。キャンディーの純利だけで五万ドルってとこかしら。心配しないで、後で白ウサギにきっちり報告しておくわ」

「よろしくね」

 と、少女は二枚目のクッキーをボトルから取り出しながら、口元に……十代の小娘とは思えないほど冷徹な微笑を浮かべた。

「にしても、帽子屋の変装はすごいわ。最初、あたしも分からなかったくらい」

 それでも、イモムシの答は落ち着き払ったものだった。

「本当にあの男ときたら、大したものよ。同時に七、八人か、もっとたくさんの人生を生きてる」

「そうね」

 頷く少女が知っているだけで、『イカレ帽子屋』には五つの顔があった。

 古書鑑定士で余命わずかなブラッドベリ、アンティークショップの経営者のシュナウザー、紅茶卸業者のギャラハッド、駅前の名もなきパフォーマー、そして、得体の知れない『帽子屋』。

 だが、それはごくほんの薄皮、ぺらぺらの上っ面だけだ。彼女の与り知らぬところで、ずっとたくさんの人間を、彼は演じているというより、実際に生きている。

「ほんと、たいしたもんよね」

 少女は口元だけで笑ってから、今まで知ろうともしなかったことを訊ねた。

「捌くルートは帽子屋が仕切ってるの?」

「あら、そんなこと、あなたは知らなくていいのよ」

「ちょっと興味があっただけ。聞かない方がいいなら、聞かないわ」

「いいえ。あなたに隠すことないものね」

 イモムシ、すなわちミスター・コロンバスはにこやかに頷く。

「ディーラーは卵のおじさん、ハンプティ・ダンプティよ。あなたはまだ会ったことがなかったかしら?」

「信用できる人間なら会うわ」

「あたしが昔から使ってる売人の元締めだから、そこは安心して」

 巨漢が少女に向かって自信たっぷりに微笑みかけると、彼女も当たり前のように答えを返した。

「そう。なら、わざわざ会う必要はないわね。うまくやって」

「そこまであたしを信用してくれるのね、嬉しいわ」

「イモムシも、白ウサギも、帽子屋も、ヤマネも、三月ウサギも、偽海亀も信じてる。そこまで駒が揃ってて、ハンプティ・ダンプティを信じないなんて、馬鹿な話でしょ」

 言いながら、少女は青い目を細めて、クスクスと笑った。

「そうね。あなたは、あたしたちにとって最高のアリスよ」

 イモムシは豪快な笑い声を上げると、少女の前に見るからに濃いブラックコーヒーを、ファイヤーキングのハートのマークのマグカップに入れて差し出した。

「どうぞ。美味しいわよ」

「ありがと」


 そのとき、店の前に車が止まる音がし、続いて扉が開いた。

 立っている人影が見慣れているものだったことに安心したように、ジェームズ・コロンバスは満面の笑顔で迎える。

「あらぁ、ヘイワース警部補、いらっしゃい。ケイティちゃん、パパのお迎えよ」

「あ、パパ! おかえりなさい、今日は早かったんだね」

 少女は一気にコーヒーを飲み干してから、にっこり笑って養父を振り返った。

「ああ、ちょうど今コーヒーを買おうと思ったら、かわいい娘の姿が見えたんでね」

「パパ、お世辞はいいから、早く新しいコーヒーメーカー買ってきて。でなきゃあたし、さっさとアマゾンで注文しちゃうよ」

 不満げに口元を尖らせる娘に、チャールズ・ヘイワース刑事は苦笑いを浮かべた。彼としては、少し後ろのネジを開けて、配線をいじればコーヒーメーカーが生き返ると信じているようだ。

 そんなことは全く気づかぬ様子で、少女は新しいクッキーをくわえながら言う。

「ほら、エスプレッソもいれられるヤツあるじゃん、あれがいいなあ。あわあわのミルクがブシューッて作れるヤツ」

「あら、そんなもの買ったら、うちにコーヒー飲みにきてくれなくなっちゃうじゃないの」

「大丈夫よ、あたしもママも、コロンバスさんみたいなバリスタでも腕利きの料理人でもないから。こーんなカフェオレも、美味しいケーキも、サラダもローストチキンも作れない」

 店主の異議も、少女は容易く却下した……さっきまで口にしていた飲み物の名前だけは嘘を吐いて。

 しかし、その嘘が完璧なのだと分かっているのだろう。彼女は愛らしい顔に最高の笑みを浮かべて、義理の父に駆け寄った。

「ああ、それからドーナツ! コロンバスさんのドーナツは誰にも真似できないよね、サイコーだもん! パパ、ママにドーナツお土産に買って行こうよ、クリームの入ってるヤツ」

「それはいい。キャロラインが喜ぶな」

「コロンバスさんのドーナツは、中毒性マジヤバイもん。ねえパパ、どっかに通報した方がいいよ。これって、FDA? FBI? それともCIA?」

 ドラマによく出てくる捜査機関の名前を挙げ連ねる少女のことを、父親は目を細めて眺めていた。

「あらあら。そんな怖いこと言わないで頂戴、ケイティちゃん」

 巨漢の店主は芝居がかった身振りで大きな体を自ら抱きしめたが、少女は可愛らしい眉間に皺を寄せ、大真面目な顔で父親に詰め寄った。

「だってさ、こないだ、土曜日のお昼と日曜日の朝にみんなで食べようと思って、一ダースも買ったのに! 土曜日のお昼で完食したもんね、あたしとママで」

「私は日曜の朝からシリアルなんて羽目になったな、そういえば」

「美味しすぎるのがいけないのよ。ていうか、ママにも道連れで一緒に太ってもらうからね。デブの妻子に負けたくなかったら、パパも食べなよ」

「刑事さんなんて大変なお仕事だもの、いくら食べても太らないのよ。特に、あなたのパパはきちんと節制している感じがするわ」

 店主の取りなすような言葉にも、少女は唇を尖らせて不満を示した。

「パパのそのスタイルの変わらないところは褒めてあげるわ、でも羨ましい」

 チャールズ・ヘイワースは、私服刑事らしい地味なスーツにコートで、きちんとネクタイを締めている。ニューヨークの街に馴染む、グレーの濃淡で構成された衣服だ。それが、少女の知るかぎり五年前から一度も仕立て直しに出していないのが、スタイルに何よりも気をつかうティーンエイジャーにとっては大問題なのかもしれなかった。

 ヘイワース刑事は苦笑いを浮かべながら、義理の娘の細い方を抱き寄せて微笑みかける。

「ケイティ、君はダイエットの必要はない。痩せすぎているくらいだ」

「ただスレンダーなだけってね、胸がカッティングボードって言うんだって、ジャパンのスラングで。モーリーが教えてくれた」

「あんたはカッティングボードじゃないわよ、これから膨らむわ」

 その言葉には、店主のコロンバスが声を上げて笑った。

 女性の胸を取り上げてカッティングボードとは。日本人というのは、温厚そうなふりをして、案外きつい悪態をつく。

 しかし、まだ彼女は十代も半ばだ。確かに今は少年のような胸だが、女性にしろ男性にしろ、スタイルはこれから数年感のうちに急速に変化していくものだ。もしかしたら彼女だって、いずれ素晴らしい体型の持ち主になるかもしれない。

「まあ、あのカンディちゃん、司書先生みたいにはね、なかなかならないわよ。豊胸手術しないであのスタイルは、正直憧れちゃうわね」

「ボイーンボイーンだもんね、ボンキュッボンのがいいかな」

「ちょっとケイティちゃん、どうしてあなたは、そういちいち表現が古くさいのかしらね? 親の顔が見てみたいわ、って、いま目の前にいるけど」

「ははは……」

 店主の冗談に、チャールズは声を上げて笑った。

 確かに、少女の言い回しは、ときどきひどく古くさい。それが自分の影響なのだと、ヘイワース刑事はしっかり理解していた。

「ジミー、それじゃあドーナツとカフェオレをテイクアウトで。そうだな、ご自慢のグリルチキンとシュリンプサラダも頼むよ」

「分かったわ、チャーリー。でもそれだけじゃちょっと栄養バランスが良くないから、こっちのローストマッシュルームのサラダもサービスするわ。お得意さんだものね」

 ヘイワース刑事は丁寧に礼を言って、その申し出を受けた。

「それはありがとう。うまそうだ」

「すごく綺麗なパープルだね、コロンバスさん」

 華やかな色合いの、つやつやしたキノコのサラダに、少女は目を輝かせる。

「ありがと、ケイティちゃん。見た目だけじゃなくて味も保証するわ、とってもグリルチキンに合うのよ。ブラウンマッシュルームとホワイトマッシュルームをオーブンで焼いて、紫キャベツと紫タマネギのコールスローで和えてあるの。ビールのお供にもぴったりなのよ、チャーリー」

「今からよだれが出そうだよ、ジミー」

「あたしもー!」

「じゃあ二人とも、ちょっとお味見していく?」

「やったぁー!」

 愛称を交えての会話、顔なじみならではの気安さは、こんな都会では特に有難いものだと、彼は職業柄よく知っている。

「持ちきれないくらいになるけど、パパの車があるから大丈夫よね、ケイティちゃん?」

「うん、なんならそっちのチーズケーキも包んでくれてもいいよ、コロンバスさん!」

 少女が身を乗り出してケーキドームを指差すのを、義父は苦笑しながら止めた。

「おいおい、そんなに甘いものばっかり食べるから太るんだぞ」

「ちぇー。じゃあケーキはキャンセルー」

「分かってるわよ」

 コロンバスはクスクス笑ってから、刑事の前にもブラックのコーヒーを差し出し、そのソーサーの横に、そっと煙草のボックスを添えた。

「チャーリー、コーヒーのお供に、よかったら一本どう?」

「いや、私は禁煙してるんだ」

「ママには黙っといてあげるよ」

 少女は今回もウインクを試みたようだが、やはりぱちくりと両目を閉じただけだった。だが、それでも十分意図は伝わったらしい。

「じゃあ、一本だけ貰おうか、ジミー……悪いな」

 店主が慣れた手つきで煙草の箱の底を叩くと、何かのトリックのように、フィルターを茶色い紙で巻かれた煙草が一本だけ、それもちゃんと指で挟める程度の高さにひょっこりと顔を出す。

「アメリカン・スピリッツのペリックブレンド。あたしはこれが一番好き」

 コロンバスは古めかしい置き型の、いかにもタイニーなキノコの形のライターもカウンター越しに差し出した。赤に白い斑点のあるエナメル細工のかさが、きらきらと愛らしく首を傾げて、一瞬の快楽へと誘惑を続けていた。

「ありがとう」

 刑事の無骨な指が紙巻き煙草をつまみ、ライターの花を模した着火ボタンを押すと、キノコのかさの白い斑点の一つが横にずれて、現れたステンレスの火口の先にちいさな炎が燃え上がる。

 生まれたばかりの蝶のようにゆらめく炎を、刑事はしばらく見つめていた。

「うまいな」

 煙草に火を点け、一息吸い込むと、チャールズ・ヘイワースは懐かしそうな微笑を浮かべた。

「でしょう?」

 数年ぶり……いや、はっきりと年数まで分かっている。五年ぶりの新鮮な煙は、額の裏を軽く叩くような痛みと快感を味わわせてくれた。

 彼がかつてヘビースモーカーだった頃、本当に孤独だったことを、ケイトは知っている。

 そしてチャールズは、不意に隣の娘を振り返って言った。

「ケイティ、君は駄目だぞ」

「分かってる。あたしは煙草もアルコールも興味ない。ケーキやクッキー、それからキャンディなら大歓迎だけど」

「ジミーの特製のお菓子は、みんな美味しいからな」

 当たり前のように頷く少女に、ヘイワース刑事は安心した顔で頷き返した。

 彼が店主を見ると、コロンバスも無言で微笑む。

 チャールズ・ヘイワースは、この五年間でよく分かっていた。この店は安全な場所だ。ジェームズ・コロンバスは風体こそ奇妙だが、子供には子供のための、大人には大人のための心遣いが出来る、貴重な人物だと理解していた。

 そう、五年前、ちょうど今と同じくらい寒い夕暮れ。

 ケイトを連れて今のマンションに引っ越してきた時、家主と電力会社の連絡が行き違っていて、まだ電化製品が使えなかった。電子レンジもオーブンもただの箱。ニューヨークの寒さなら冷蔵庫が使い物にならなくても数日は何とかなったが、親子が求めていたのは、火傷しそうなほどあたたかな飲み物と食事だった。

 仕方なく親子で夕食を食べられそうな店を探していて、偶然入ったのがこのコロンバス・ダイナーだった。小雪の舞い散る青い世界の中で、オレンジのライトが優しく光っていた。

 あの、あのお店はどうですか?

 そう訊ねた時の、ケイトの遠慮がちな顔を、チャールズははっきりと覚えている。あの頃はまだ、パパなんて呼んではもらえなかった。

 いいね。素敵なお店だね。

 そう微笑みかけたとき、彼の娘となったばかりの少女は、大きな青い目を輝かせたものだ。

 初めて立ち入る場所に脅えた様子の小さな女の子に、この風変わりな亭主がかけた言葉は、今でもチャールズの心に残っている。

「どうしたの、お嬢ちゃん。何かお困り?」

 さりげない一言だったが、優しさに満ちた言い方だった。

 砂糖を目一杯入れたカフェオレは、あの夜の思い出の味だ。

 以来二人はこの店の「常連さん」になった。


 ゆっくり時間をかけて過去と煙草を懐かしんでいた彼に、また唐突に、少女が興奮した様子になって言った。

「そういえばパパ、さっきウォールストリート駅の近く通った?」

「いや?」

「なら後で、お友達の巡査さんとかに訊いてみて! 駅前でね、すっごい即興のコンサートがあったの。最初はサックス奏者の人が一人だけだったんだけど、バイオリンの人が後から合わせて、本当に、めっちゃかっこよかったんだよ」

「ほう。それは見たかったな」

「あたし動画撮ったよ、ほら、これ」

 少女の差し出したスマートフォンには、いくらか遠目から、人垣越しに撮ったらしい動画が映っていた。

 切れ切れの音楽がジュークボックスからの曲に混ざって、奇妙なざわめきとなって店内へと還元されている。

「ほう。確かにクールだ」

「あたしにも見せて。あら、こんなの今の若い子は知らないでしょうね、レッド・ツェッペリンよ」

「懐かしいな」

 二人の大人が小さな画面を楽しげに覗き込んでいると、ドアチャイムが軽やかに鳴った。

 チャールズが職業病とも言える警戒心で即座に振り返ると、鍔広のフェルト帽子をかぶった長いシルエットが、ドアを開けてゆっくりと店に入って来たところだった。

「あら、ジャックちゃん、いらっしゃい」

 やけに長い影に見えたのは、客が司祭服を着ていたからだろうか。

「これは……ああ、びっくりしましたよ。こんばんは、ヘイワース刑事、ケイトさん」

 彼は帽子から雪を払いのける手をとめて、はじめ驚いた顔で、続いて、眼鏡の奥から屈託なく笑いかけた。

「こんばんは、神父様!」

「こんばんは、ラドクリフ神父。あなたもこの店にいらっしゃるとは思わなかった。今日はどんなご用件です?」

 いかにも刑事らしい質問に、新たな客……高校詰めのカウンセラーであるジャック・ラドクリフ神父は、生真面目な態度で答える。

「ええ、私はときどき日々のついえを購いに、こちらにお邪魔させて頂いています。今日は生徒さんのご家族からご相談があって、お話を伺っていたらこんな時間になってしまったので、誤算を用意するいとまがありませんでした」

「チャーリー、ジャックちゃんは週に一度は来てくれるうちのお得意さんなのよ。いつもベジタリアンメニュー。神父さんなら当然よね」

 とりなすような店主の言葉に、神父は何のやましさも曇りもない、正直そうな顔で頷いた。

「本当に助かっています。ありがとうございます、ミスター・コロンバス」

 確かに、ベジタリアン用のメニューのあるレストランはニューヨークならいくらでもあったが、大抵はジャンクフードの店よりずっと高級だ。その点、この店はどんな料理も安くてうまい。たった八ドルでサラダとメインのベジタリアンシチューにパン、食後のコーヒーまでたっぷりと味わわせてくれる。

「そうでしたか」

 チャールズ・ヘイワースは、不躾な質問をした己を恥じた。尋問に聞こえたかもしれない。

 しかし、そんなことは全く気にしていない様子で、ラドクリフはにこやかに訊ねる。

「ケイトさんは、お父様とお食事ですか?」

「ううん、ママにお土産買って、これから帰るとこ。です」

 取ってつけたような丁寧語にも、神父は落ち着き払った態度だ。まるで愛しい子羊を見るようなまなざしで、彼の職業が天職なのだと誰もが納得するであろう姿だった。

 ようやく和んだ雰囲気に安心したのか、コロンバスが満面の笑顔を作って話しかける。

「ジャックちゃん、今日は空いてるから、どこでも好きなところに座ってね」

「できれば、静かな席がいいのですが……少し、翻訳したい写本があるのですよ。高校の図書館に、素晴らしいコレクションを寄贈して下さった方がおられまして」

「まあ、それはよかったわね。あなたもやりがいがあるでしょう」

「ええ、もちろんです」

「だったら、こちらへどうぞ」

 彼は、店主が導くままにコロンバス・ダイナーの奥へと進んだ。

「この席でいいかしら?」

「はい。ありがとうございます」

 ラドクリフ神父は、店の一番奥のテーブルに座った。そこは、古くさい曲をがなり立て続けるジュークボックスからも、出入り口のドアからも最も遠い、少しだけ照明の落とされた静かな席だった。

 壁際には革張りのベンチがあり、向かいにはイームズチェアが二客置かれている。彼は長椅子の方へと腰を落ち着けると、行儀よくスカーフと手袋をたたんで、持っていたブリーフケースとともに傍らに置いた。

 それを見届けてから、店主はにこやかに彼の席へと水の入ったグラスを差し出す。

「今夜はね、ベジタリアン用のメニューはトマトベースのシチューだけなんだけど、あなたの分はちゃんと取ってあるわ。もちろんバターも卵も入ってないわよ。無添加で天然酵母の無塩のパンもね」

「いつも変わらないご配慮に感謝します。ミスター・コロンバス、あなたに神のご加護がありますように」

 と、いかにも厳粛な店主の言葉だったが、そのなにげない会話に、少女は敏感に反応した。

「ちょっと待って、何それ、無添加で天然酵母のパンって」

 コロンバスは少し驚いた様子で両手を軽く広げ、神父を改めて紹介するように一度見てから、新商品らしきブレッドの説明を始めた。

「ジャックちゃんは、ほら、お仕事柄、なるべく神様が人に与えてくださったのに近い形のお食事が好きなのよ。それに、動物由来の食べ物もできるだけ摂らないようにしていらっしゃるの。それであたし、バターもイーストもなしの、天然酵母のパンを始めてみたのよね。まだチャレンジ中なんだけど、酵母って案外面白いわ。フルーツなんかから取れるんだけど、種類がたくさんあって、これは研究の余地があるわよ。まだまだ実験段階だから、うまくいかないことも多くて、お店には並べてないんだけれど。ジャックちゃんにはお味見をお願いしているってところね、モニターってやつかしら?」

 彼の話を半分も聞いたかどうか分からないが、たいそうな勢いで少女は父親におねだりの目を向けた。

「ねえパパ。あたしもそれ食べてみたい、いいでしょ?」

「分かった」

 仕方なさそうに、ヘイワース刑事は軽く肩をすくめ、胸ポケットから財布を取り出した。

「済まないが、ジミー。その天然酵母のブレッドを私たちにも少し売ってもらえるかな?」

「ええ、もちろんよ。だけどまだ試作品だから、パンのお代はいただけないわ。ドーナツにローストチキンにシュリンプ・サラダで、十四ドルでいいかしら」

 その金額に、少女が軽快かつ正直に口を挟む。

「コロンバスさん、カフェオレ三つ分忘れてるよ」

「あら、ほんとだわ、ごめんなさい。じゃあ、十五ドルきっかりでお願いね。あたし、小銭のやりとりって好きじゃないのよ」

 ジェームズ・コロンバスは手早く注文の品を紙袋やプラスチック容器に入れ、温度別に手提げ袋へと詰めていく。温かいものと冷たいものは別々にするのは基本だが、常温がちょうどいいものだって当然存在するのだ。そう、例えばドーナツやパンのように。

「では、これで」

「お預かりするわね、チャーリー」

 ヘイワース刑事が財布から取り出したクレジットカードを、店主は彼の見ている前でレジスター横のスロットに通した。さすがに、外観がいくらレトロでも、金銭のやり取りばかりはデジタル化しなければ立ち行かない世の中なのだろう。ぱっと見は六十年代風のレジスターが、当たり前のようにつやつやした感熱紙のレシートを吐き出す。

 少女はクリーム入りドーナツと天然酵母のパンの詰め込まれた紙袋を宝物のように抱え、片手にサラダの入ったビニールを掴むと、元気よく挨拶した。

「それじゃコロンバスさん、神父様、ごきげんよう、おやすみなさい!」

「お先に失礼、神父さん。じゃあ、またな、ジミー」

 ヘイワース刑事も、奥の座席の神父とカウンターの中の店主に声をかけてから、ローストチキンのボックスを手にした。

「毎度あり。また来てね」

「おやすみなさい、ヘイワースさん、ケイトさん」

「おやすみなさい、いい夢を」

 親子がドアチャイムに見送られながら出て行くと、店内はしばし重苦しい静寂に包まれた。

 やがて、古いジュークボックスが、マーヴェレッツのプリーズ・ミスター・ポストマンを奏で始めた。

 その間に、ジェームズ・コロンバス、このダイナーの店主は、一度キッチンの方へと消え……それから、普通ならば一家族で分け合うほど大きな四十センチはあろうかという深皿を、いかにも重たげに運んで来て、「神父」の目の前のテーブルにどんと音を立てて置いた。

「はい、ベジタリアン用のトマトシチューよ」

 それが強烈な皮肉、いや、質の悪いジョークだということに気付く者は、もはやこの店にはいない。

 深皿に盛られていたのは、色こそトマトを思わせる赤だったが、表面を軽く焼いただけの、ブルーと呼ばれる生肉だった。

 トマトどころか、つけ合わせの野菜も、パンもワインもない。

 厚さは二インチ、大きさは人の顔くらいありそうな、分厚い肉の塊。ステーキと呼ぶほど火が通ってはいない。ざっと七、八百グラムはありそうに見えた。そこに、少しばかりの塩と荒削りな胡椒がかけられているだけの様は、神父どころか、まともな人間の食事ではなかった。

 いつの間にか、ジュークボックスがサイモン・アンド・ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンスを奏でている。

 物悲しいギターの響きが流れ、店内に音が戻るとともに、狂気も戻ってきていた。

 ふう、と、短い溜息を漏らしてから、神父……ジャック・ラドクリフは、無言で、特に神への感謝の祈りを捧げるでもなく、ただその肉の塊に食らいついた。

 がぶり、がぶり。

 ギターの音に被せるように、濁った音がする。

 店主が出したフォークとナイフは無視して、自分の司祭服の懐から引っ張り出した刃渡り二十センチはありそうな折りたたみナイフを肉に突き刺し、刃で切り取るというよりただ口元へ引きずっていって、鋭い犬歯で噛み切っているように見える。

「肉を食ってる時のあんたは、本当にケダモノみたいね」

 店主の呆れたような声も、彼の耳には届いていたのかどうか。

 ナイフを突き刺すたびに、あるいは直接食いちぎるたびに、生焼けの肉からはぼたぼたと赤い肉汁が滴り落ち、深皿の底に溜まっていく。

「神父」はただひたすらに肉を噛みちぎり、飲み込み、水で流し込む。味わっているとはとても思えなかった。彼はただ、血と肉に餓えているだけのように見えた。きちんとした司祭服に、少しも汚れが飛ばないのが不思議だった。

 深皿の底に溜まった真っ赤な肉汁を、彼は甘いデザートワインのように一気に啜り、生焼けの脂と肉汁でべたべたと赤く染まった口元で当然のようにオーダーした。

「これじゃあ足りない。あと二キロくれ」

「まだ食べるの? なら、もう三キロくらい焼くわね。いくらなんでも、そんなには食べきれないでしょうから、テイクアウトの用意もしてあげる」

 客へと笑いかけながら、コロンバス、いや、イモムシは、軽く肩をすくめる。

「でも、あの地下室で血の滴る肉を食べてるあんたを想像するだけでぞっとするわ」

「牛肉でも、ラムでも、豚でも鶏でもヒトでも構わない。肉なら何でもいい」

 そう低い声で呟きながら、男は目の前から荒っぽく空の皿を押しのけ、カトラリーの乗っていた紙ナプキンで自前のナイフを拭った。

 刃物を拭いた紙も口元も、ただひたすら血の赤で染め上げられている。彼の表情は冷たく、ただ目だけが、地獄の業火のように爛々と光っていた。口元を手の甲で拭う仕草も、店主が気を利かせて差し出したミネラルウォーターを一気に煽る姿も、とても同じ人間だとは思えない。

 これがあの、温厚で物静かな、子供好きのジャック・ラドクリフ神父その人だろうか?

 ただ、よく似た双子の兄弟がいるとか、他人のそら似だとかいう話ではないのは、彼の衣装を見れば一目瞭然だった。司祭服、十字架、傍らにぞんざいに打ち捨てられたままになっている眼鏡と聖書も。

 そこにいるのは、神父の服を着ているだけの、いや、ラドクリフ神父の皮をかぶっているだけの動物のようだった。

 しかも、飼い主を目の前で連れて行かれて、ひどく苛立っている、餓えた獣だ。

「見てるだけで胸焼けするわ」

 並の人間ならぞっとするような光景だが、店主はいささか食傷しかけている程度に見える。

「肉を出せ、早く」

 低い溜め息をついたのは、果たしてどちらだっただろうか。


 そのとき、立ちこめていた悪夢めいた空気を、軽やかなドアベルの音が打ち破った。

 カランカラン。

「あら、いらっしゃい」

 戸口に立っていたのは、中折れ帽を洒脱に冠ったサングラスの男だ。

 男は手袋の右手でわざとらしくクリスティーズ・クラウンの帽子を斜めに冠り直す。彼は、もう日暮れから大分立つ時刻だというのに、色の濃いサングラスをスタイリッシュにかけていた。洒落たブラックチェックの上下に銀色のスーツケース、ピンとした細いネクタイにぴかぴかの靴。どれもがポール・スミスやアルマーニといった流行のブランドものだ。まるきりホワイトカラー側の人間に見えた。

「ハーイ、いい夜だね、イモムシ」

 男は帽子を上げながら陽気に笑うと、ビジネスバッグから何か奇妙な形の、湾曲した筒のような金属を取り出す。注意ぶかいものならば、あるいは金管楽器の構造に精通している人間ならば、それがサキソフォンの一番管と朝顔管だと分かるだろう。

 中折れ帽子の紳士は、店内奥のテーブルからわざとらしく目を背けながら、店主に向かって言う。

「イモムシ、話は通ってると思うが、ちょいとお前さんの調理場を貸りるぜ。こいつを金の延べ棒に変えなきゃならんのさ。アメリカ造幣局の刻印とカナダ造幣局の刻印、どっちらっにしようっかなぁっと。あ、いっそメイプルリーフコイン作る? それともトラキアあたりの黄金像作っちゃう?」

「好きになさいよ、帽子屋」

 コロンバスはいささか呆れたような調子も込めて言い返した。

 帽子屋が「こいつ」と言いながら取り出したのは、金色に輝くサックスの朝顔管の部分だった。彼のブリーフケースには、書類の入ったファイルの下が中空になっていて、そこに四組の朝顔管と一番管が入れられていた。

 そう。まるで別人だが、彼だ。

 つい一時間前まで駅前で見事な演奏を披露していたはずの音楽家は、今やその姿形さえ変え、余裕に満ちた様子で、コロンバス・ダイナーのドアをちらりと見た。

「今日はもう店じまいの札にしといたぜ。俺様の仕事を邪魔されたくねえし、神父様が生肉がっついてるザマも、いい加減イカレてやがるからな」

「ぶち殺すぞ帽子屋」

 新しく運ばれて来た皿の肉……今度は骨がついているから、ラムチョップか何かだろうか。その骨を手で掴んで貪りながら、聖職者のはずの青年は、端正な顔に憎悪の表情を浮かべる。

 彼はどうやら、このストリートミュージシャン……いや、「帽子屋」のことが好きではないようだ。

 許可さえ降りれば、今すぐにでもその喉笛を切り裂いてやると、血走った目が伝えている。

 しかし今は、その命令を下す主人がいない。だからこそ、帽子屋は余裕たっぷりの様子で、カウンターのスツールに華麗に腰掛け、お気に入りのコイーバの葉巻に火を点けた。

 神父の形をした獣をなだめるように、コロンバスこと「イモムシ」がにこやかな作り笑顔で言う。

「まあまあ、いいじゃないの、ジャックちゃん。帽子屋のおかげでハニーとキャンディーは無事にハンプティ・ダンプティのところまで行ったんだし、帽子屋はお駄賃のお金を持ってきてくれたんだもの。後は全部、卵のおじさんに任せておけばいいわ」

 黙って肉を口に運びながら、神父の形をした怪物はその声を聞いている。

「あたしたちの大事なあの子には、何の証拠も残らない。あたしたちは誰にも気付かれずに、あの子のためのビジネスをこなして、確実にあの子を守るの。必要なお金は手間を惜しまずに、少しずつきっちりと稼ぎ出すものだわ。帽子屋はそれに力を貸してくれてるのよ。そうでしょう? だから、そんなにいちいち噛み付かないで」

 その言い方は、少しだけ彼女に似ていた。屈強な巨漢のドラァグクイーンと、無邪気な高校生の女の子。二人とも、うまくその役目を演じているだけなのが伝わるような台詞だった。

 だからこそ、あの「帽子屋」がこんなことを言い出したのかもしれない。

「お前がどう思おうと知ったこっちゃねえよ、バケモン。俺様は、あの子の恨みを晴らす。あの子をあらゆる敵から完璧に守る。そのためになら何でもする……そういう契約だからな。一度サインした契約書からは、俺様は何があろうと逃げたりしねえ。俺様はビジネスに関してなら完璧だぜ、契約は完璧に履行する。何しろ……」

 帽子屋は純金でできた楽器の一部を片手で撫で回しながら、実ににこやかに、しかし瞳の奥には少しの油断もなく言い放つ。

「何しろ俺様も、この面白いお話の登場人物に選ばれたんだからな」

 さよう。

 その言葉が全てだ。

 この物語の登場人物に名を連ねたからには、物語が終わるまで、その役割を演じ切らねばならない。彼も、彼女も、誰も彼も。

 血の味とともに肉塊を飲み下しながら、神父を演じている男が笑いそうになった、そのとき。

 帽子屋が、この店の主に向かって不遜に笑った。

「ようイモムシ、こないだアイリッシュウイスキーがどうとか言ってたよな? ティーカップになみなみ入れて一杯くれよ、ちょいと血が巡るくらいの方が仕事が捗るってもんだぜ」

「アイリッシュね、オーケー。ロックスもミルズもあるわよ、それとも、やっぱりブラックブッシュ?」

「ブラックブッシュだ、オフコース! そんならティーポットで持ってきてくれや!」

「一瓶じゃないの、あんたって本当にイカレてるわ」

 英国には、アイリッシュ・ウイスキーは何十という銘柄がある。幾人もの醸造主が大切に酒を作り出し、その多くが消えていった。今でも生き残っているのは、風味がずば抜けて優れているか、労働者でも手が出る安酒かだ。中でも、彼が選んだのは超一流のウイスキー、アメリカどころか本場アイルランドでも高値で取引される逸品だった。

「どうぞ、ブラックブッシュよ」

「ああ、最高だ」

 ボーンチャイナのティーカップに注がれた琥珀色の液体に高いかぎ鼻を近づけ、その香りを肺いっぱいに吸い込んでから、帽子屋は作り笑顔を浮かべて言う。

「お前さんも飲むかい、バケモン」

「今は、酒はいい」

 過去の栄光を懐かしむような「帽子屋」の言葉に、「神父」はかすかに首を振った。

「肉を食いちぎるだけで忙しいってか。やっぱりお前さんは化け物だよ」

「貴様もな」

 吐き捨てるような神父の言葉に、帽子屋はウイスキーをティーカップで煽りながら、ケタケタと声を上げて笑った。

「とんだ見当違いだね。俺はただ、イカレてるだけの人間さ」

 と、不意に彼は真顔になり、手にした黄金細工の楽器を軽く指先で弾いた。

「だから、こいつを人間社会、この現世で使いものになるための仕事をする。さあ、そろそろいっちょ、おっ始めるか。時は金なりだ」

 その頬には、言葉とは裏腹に、既に仕事をやり遂げたかのような微笑みが浮かべられていた。

 彼は赤の他人、名もなきストリートミュージシャンとして数ヶ月を暮らし、このニューヨークの地下鉄のどこにいても怪しまれない程度に街に馴染んだ。誰もが彼を知っている、しかし誰も彼を知らない。そんな状況を作り上げてから、ラッシュアワーの直前に、衆目の面前で、彼は堂々と仕事をした。

 取引は一瞬だった。そっくり同じ形の楽器ケースに詰め込まれた、違法薬物と金塊をすり替える。それを怪しまれないように運び出し、群集に紛れて姿をくらます。ついでに、人々の前で黄金細工のサキソフォンの演奏を披露してやった。違法なブツを持っているハンプティ・ダンプティが、その隙に壁を飛び越えて煙のごとく消えられるように。

 だが、帽子屋の役目はそれで終わりではない。楽器の形に仕立てられている純金を、どこかの国でまともに流通している金貨か延べ棒に作り替えなくては。何の刻印もない金塊は、盗品と同じくらい売りさばくのに苦労する。だからこそ彼は、インゴットの偽造を楽しんでいるのだ。

「まずはオーストラリアあたりのコインを作るかなぁー」

 鼻歌混じりなのが信じられない。

 とてつもなく手間のかかった仕事だ。

 そこまでする価値があるのか。あるとしたら、何のためだ。

 そんな迷いを吹き消すように、ジャック・ラドクリフ神父……いや、それが本名かも分からない青年が、低い声で言った。

「イモムシ」

「なあに?」

「俺にも煙草を一本くれ」

 予想はついていたリクエストだ。

「ええ。あんたにはアメリカン・スピリッツなんて出さないから安心して」

 だからこそ、イモムシは彼が、そして彼を知る全ての人間が満足するであろう銘柄を、彼のために取り寄せた。

「どうぞ、とっておきよ。ちゃんと英国製」

「ああ。『デス』か」

 懐かしい、髑髏のマークのパッケージ。

『死神』という名の煙草だ。

「あんたにはこれが一番似合うって、あの子が言ってたから」

 その言葉に、神父はまだ血の付いた唇で煙草を一本くわえた。

「確かに」

 アメリカの魂なんぞくそくらえ。アイルランド人に一番ふさわしいのは、この銘柄だ。

 茶色の吸い口に、血染めの唇の跡が残る。

 パッケージに隠されたバーコードの中の「666」を見つめて、彼はかすかに笑った。

 悪魔の数字。英国人らしい、性質の悪い冗談だ。

「やっぱり、俺にも一杯くれ。ブラックブッシュを」

「ええ」

 その酒の名前は、彼にとってもまた、特別な思い出。

 黒い茂みの奥。

 死の煙の中で。

「ゆらゆら揺れるジャバウォック、か。素敵ね」

 イモムシの声は、果たして聞こえているのだろうか。

 差し出されたショットグラスを掴んで一気に煽ってから、神父のふりをした男はかすかに呟いた。

「あのとき決めた。彼女のために、俺は死ぬ」

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