第6話 わたしを食べて
ニューヨークのイーストエンドは、マンハッタンやブルックリンとはまた違った趣がある。アッパー・イーストサイドの外れは、高級住宅地から少し外れ、またビジネス街でもない。険しい顔をしたビジネスマンたちが足早に行き来することもなければ、着飾ったセレブがカメラに囲まれていることもない。由緒ある建物を残した、美しい市街地が広がっている。小さなマンションや昔ながらの店舗が軒を連ねる、比較的閑静な地域だ。
その一角、裏道を一本入ったところにある店へ、一組のカップルが向かっていた。
ここは摩天楼の街だ、こうした狭い道に日向はほとんどない。ましてやこの夕暮れ時では、赤い日没の炎がビルの窓から照り返す以外、街灯が灯るまでの時間、世界は薄暗く、また仄明るくと移り変わる。その明滅する光の中を、ただ冷たい空気が流れていた。斜めに伸びる街路樹の影と、地下鉄から定期的に吹き上がる水蒸気の煙が、一段と街並の雰囲気を盛り上げている。
その日陰がちな歩道を颯爽と、ローヒールのパンプスの靴音を高らかに響かせ、キャメルブラウンのコートをなびかせながら、美しい女性が一人歩いていた。
彼女は自分の右側、すなわち歩道側を進んでいる自動式車椅子の紳士に、しきりに微笑みかけている。
女性に車道側を歩かせるというのは、ニューヨークではごく当たり前の作法だ。車道をBMXで駆け抜けるひったくりに合わないように、あるいは車からの無差別な発砲事件に巻き込まれないようにという配慮だった。実際、通行人がいきなり殺人者になるよりも、暴走して歩道に乗り上げる車両の数の方がずっと多いのがこの街だ。
しかし、どんなに当然のことであろうとも、そんな気遣いを、こんな不自由な体でも忘れない紳士のことを、連れ立って歩く女性は、さぞかし自慢に思ったに違いない。
ましてや、その紳士は見るからに上等の、今時では珍しいくらい上品なシルクハットを、実に洒脱に冠っていた。襟の細いツイードのスーツにつややかなシルクのタイ、色を合わせたダークブラウンのスエードのコートという出で立ちだ。体にぴったり合っているところを見ると、腕のいいテーラーにオーダーした品物かもしれない。胸元から覗く金色の輝き、あれは懐中時計の鎖だろうか。痩せぎすだが整った顔立ちを引き立てるように、半月型の眼鏡が、どこかの窓からの照り返しにきらりと光る。
彼が車椅子に座した姿は、古き良き英国紳士そのものと言ってもよかった。
そう、ラングレーアカデミー高校の司書であるカンダハール・パラッド女史が、約束どおり、稀覯本の寄贈者であるスティーブン・ブラッドベリ氏をお茶の席に招待したのだ。自宅ではなく、お気に入りの店に。
「こちらですわ、ミスター」
「では、お邪魔しますよ。こんにちは」
ブラッドベリは、彼女の言葉に従って器用に車椅子を操り、カンダハールが片手で開け放っておいてくれる扉から、車輪の音とともに建物の内側へと入り込んだ。
「ほう、これは素敵なお店ですね」
案内されたのは、古き良きアメリカのダイナーとでもいうような、六十年代から七十年代の内装にこだわったレストランだった。古めかしいジュークボックスからは、ラプソディ・イン・ブルーが流れている。
その聞き馴染みのある一曲に、紳士は目を細めた。
「ガーシュウィンとは。いかにもニューヨークだ」
店の入り口近くには、キャンディーや丸いガムの、端の塗装の錆びた自動販売機が並んでいる。そこにコインを投げ込んでも動くものかどうか。
広いカウンターには、オールド・パイレックスらしい分厚いガラスの大きなクッキーボトルや、鮮やかな緑……ファイヤーキングのジェダイの塩胡椒入れが置かれ、ところどころにはスチールのナプキン入れに入った紙ナプキンが白い輝きを加えている。
壁にかかっているのはマリリン・モンローやエルビス・プレスリー、あるいはフランク・シナトラのポスターで、天井からは、今ではもはや骨董品扱いの、セルロイド張りのランプがいくつもぶら下がっている。
カウンターの奥にしつらえられている木製の棚には、食器類がきちんと置かれている。それらはどれもミルクガラスや古めかしいバブルガラス、またはボーンチャイナで、火にかけられているのは琺瑯の赤い薬缶だ。店内を満たしているかぐわしいコーヒーの香りの源は、昔ながらのアルミのコーヒーセパレーターだった。
何もかもが古めかしい。
信じられないほどの懐古趣味か、それとも親子代々受け継がれた雑貨を大切に扱っているかのどちらかだ。
禁煙派全盛のアメリカで、これだけ堂々と店内に灰皿やスモーカーズタワーが置かれていると、むしろ潔い。その灰皿も、ヴィンテージ好きの若者が見たら大金をはたきそうな、マールボロやキャメルのオールドのロゴが入っているような代物だった。
そして次の曲が流れる。ニール・セダカのカレンダー・ガールだ。
初めてここを訪れる客は、誰でも不意に気づくだろう。
ここは、時が止まっている。
そこまで思わなくとも、まるでタイムスリップでもしたような気分に襲われるのは間違いない。少しでも観察力がある者ならば。
そして、その程度の観察眼の持ち主ならばすぐに判断できるはずだ。
ここに存在する雰囲気は、店主の好みやこだわりで意図的に作り出されたものではない、と。
六十年代からずっと、この店はここにあって、親から子へと当たり前のように譲り渡されて今の姿となり、これからも変わることなく、この古めかしい、オールド・アメリカンなスタイルを守っていくのだろう。
そんなことを思いながら見ると、リノリウムの床のタバコの焼けこげさえ、風情のようにすら思えるから不思議なものだ。
連れの男の目が穏やかに細められるのを、黒髪をポニーテールにした女はほっとしたように見てから、磨き上げられたカウンターの向こうにいる人物に片手を振りながら言った。
「こんにちは、コロンバスさん」
「いらっしゃい、カンディちゃん」
と、司書の挨拶に満面の笑みを浮かべてカウンターから出てきたのは、どうやらこの店の店主らしいが……妙に女性めいたというか、奇妙な言葉遣いをする大男だった。
「あら、今日は、素敵なお連れ様がいらっしゃるのね。ようこそ、ハンサムな紳士はいつでも歓迎よ」
ヒスパニックか黒人系だろう、浅黒い肌に、身長は二メートル近く、体重は軽く百キロはあるだろう。筋骨隆々、まるでボディービルダーのように、無駄な肉などどこにもない。首と腕は太く、倒三角形の体は腰あたりで急にすぼまって、いっそう胸や腹の筋肉を引き立てている。
「ごめんなさいね、うちの店ったら、本当に狭くて。いま椅子を一つどけるわ、お席を作るわね」
そんな屈強な男が、鼻にかかった高音、まるで女のような話し方で言うだけでも異様だが。
その出で立ちときたら、もっと衝撃的だ。
黒いレースのブラウスから透けて見えるのは同じく黒のキャミソール。それから、膝上十センチのデニムのミニスカートと黒いエナメルのピンヒール……黒い花柄の網タイツは、太腿とふくらはぎの張りつめた筋肉のせいで、今にも弾け飛びそうだ。
さらにはじゃらじゃらと音を立てるグラスパールと金属のハートモチーフのネックレスに、お揃いのイヤリングとビーズ細工のバングルを身につけ、糊の利いたピンクのエプロンで立ち回っているのだから、一見の客はたいてい面食らう。
何より、二センチはあろうかという派手なつけまつげと、ギラギラしたラメ入りアイシャドウにパープルのくっきりした頬紅、小麦色の肌にひときわ映えるバールピンクのつややかな口紅が目を引いた。
もちろん、ここはニューヨークだ。ドラァグクイーンなど珍しくもないと言ってしまえばそれで終わりだが、この男は、どこかそれだけでは片付けられない、まるで違う世界からやってきたような印象を与える。
「さあ、カンディちゃん、ジェントルマン。こちらのお席でいいかしら」
しかし、愛想の良さは、さすがに客商売というところだろうか。車椅子の紳士がゆったりとくつろげるように、壁際の席の椅子……レプリカだろうがイームズだ……を片付けながら、真四角な顔に人好きのする笑顔を浮かべて言った。
無骨な指が、さりげなくメニュー帳をテーブルに置く。
「本日のおすすめは、ターキーのグリルのローストポテト添えよ」
「それは、実にクリスマスらしい」
そう笑い返しながらテーブルに着いた紳士が、合皮で装丁されたメニューを開いた。
彼がふと眼鏡を押し上げたとき、その眉から気難しさが消えた。観察力の高いものなら、彼が手にしたメニューの一覧が、予想よりもずっと充実していたと分かっただろう。
そこには、午前七時の開店から、日付をまたいで午後二十六時までの、店からの提案が詳細に記されていた。いかにもニューヨーカーが好みそうな料理と飲み物が羅列されている。
どうやら、この店のシェフはニューオーリンズか、もしかしたら、本場フランスで料理を学んだ経験があるらしい。ケイジャン料理の親しみやすさと、本格フレンチの厳格なコースとが両方味わえるのが魅力のようだ。
何しろ、モーニングセットは、分厚いトーストにベーコンとサラダ、卵はゆで卵か目玉焼きかスクランブルエッグかチーズオムレツかが選べ、コーヒーのお代わりは無料。十一時からのランチの料理は日替わりで、野菜とハムがたっぷりのサンドイッチやスタンダードなバーガーやスパイシーなホットドッグなど、曜日によってメニューが割り振られている。午後のティータイムはケーキやパイやドーナツが日替わりで数種類用意され、夜のディナーはおすすめ料理がメインのハーフのコースか、アラカルトかを好きにオーダーできる。フィッシュ、チキン、ビーフ、それから、ベジタリアン向けの料理もあった。チキンだけでも、スモーク、ボイル、ロースト、コートレットと調理法別にページが分けられている。ついでに、テイクアウト向けのメニューだけでもゆうに三ページ。特に、ケーキは全て写真付きで、詳しく説明書きが添えられていた。
「ね、ミスター、ご覧になって。このベリーのケーキ、とっても綺麗でしょう。コロンバスさんのケーキは、ニューヨークでも一番ですのよ」
「そりゃちょっと言いすぎだわよ、カンディちゃん。トゥー・リトル・レッド・ヘンズのチーズケーキのファンから苦情が来るわ。あたし、ダロワイヨやジョエル・ロブションと喧嘩するつもりなんて最初からないし。あちらは一流向け、こちらは家庭向けよ」
主人のコロンバスは巨体を揺らしながら笑った。彼が口にしたのは、ニューヨークで最も有名な、観光名所にもなっているほどのスイーツショップやレストランである。
「あたしはこの店を守るだけよ、分かるでしょ」
そう愉快そうに笑いながら、彼はカンディににこやかに言った。
「でも、あたしの店をデートの場所に選んでくれるなんて嬉しいわ。こちらの素敵な英国紳士を紹介してくださる?」
その問いには、彼女ではなく、車椅子にシルクハットの紳士の方が答えた。
「ははは……残念ながら、私は英国紳士ではないのですよ。確かにコーンウォールの生まれですが、国籍はアメリカですしね。スティーブン・ブラッドベリと申します、あー……」
と、言いよどんだ彼に、巨体の男は胸の筋肉を揺らしながら、声高く笑った。
「コロンバスでいいわよ。あたしのことは、みんなアンクル・コロンバスって呼んでるわ。実際、こんななりしてるけどオッサンだしね。でなきゃ、ジェームズって呼んで。あたしのファーストネーム。もちろんジミーでもいいわよ」
「よろしく、ジェームズ」
ブラッドベリが眼鏡の奥から穏やかに笑いかけると、コロンバスもウインクで返した……とてもエレガントとは言えない、むしろワイルドなウインクで。
「あたしは性別とか、宗教とか、職業や年齢や肩書きにはこだわらない主義なのよ。お客様には、誰とでも正直に向き合いたいの。大切なのは魂だけ、人生に必要なのは愛と光よ。そう思いませんこと、スティーブン?」
「愛と光ですか。素晴らしい。私はどちらも、死の間際にようやく見つけたような気がしているところです」
その言葉に、隣に座ったパラッド女史がさっと頬を赤らめたのを、大男の店主は見て見ぬふりをしつつ、にっこりと笑う。
「生きているうちに見つけられたなんて、あなたはとっても幸運よ。なかなかいないわ、運命の人、魂でつながっている相手に出会える人間なんて。そうでしょ?」
「ええ、その通りです」
「ところでカンディちゃん、オーダーはケーキとカフェオレでいいのかしら? それとも紳士は紅茶がお好み?」
ブラッドベリはシルクハットを品よく膝に置いて、静かな声で注文を出した。
「私は紅茶を、ブラックで」
「アイリッシュウイスキーならあるわよ、ミスター。サービスするわ」
「いえ、ジェームズ。私は血圧の薬を服用しているものですから、アルコールは遠慮しますよ」
「あら、そうなの。大変ね」
そこで大袈裟に同情した様子を見せないところが、この屈強な大男の人柄を物語っている。
たとえそれが終わりに近かろうと、人生を楽しんでいる人間に同情するのは失礼なことだ。そう、微笑んだ目は見透かしているようだった。
「紅茶に合わせるなら、そうね、ケーキはうちの自慢のベリーのパイにしましょう。それでいいかしら? カンディちゃんも同じオーダー?」
「ええ、もちろんそれでお願いするわ、コロンバスさん」
カンダハール・パラッドは内心の興奮を押し隠すように、わざとらしく店内を手で示しながら、クッキーの入った瓶や、ケーキの入ったガラスドームが並んだ棚を指差した。
「ここのお菓子は、生徒たちにもとても評判がいいんです。さっきのケイトやモーリーも、クリスマスのバザーの時、コロンバスさんが特製のケーキを持ってきてくれるって大喜びだったんですのよ」
その話に、紳士は感心したように大きく頷いた。
「ほう。クリスマスにバザーとは感心です。さすが、慈善にも力を入れておられる校風なのですな」
「あ、いえ、それは昨年からなんですのよ。教会の方で持ち上がったお話で……ラドクリフ神父様がお申し出になったんです。素敵な企画でしょう? 生徒や保護者の皆さんに不要品を持ち寄ってもらって、売り上げを動物保護団体に寄付したと聞きました。売れ残りのものは、近くのホームレスの支援施設に持っていって、欲しいという方に無償でお分けしたそうですよ。クリスマスディナーにふさわしいようなシチューの炊き出しもなさっていましたし……どんな宗教の方でも隔てなく召し上がれるようにって、無農薬の野菜だけのシチューとイーストなしのパンを配られたんですの」
いささかのぼせ上がっているとはいえ、パラッドは賢明な女だ。訊かれてもいないことまでつい口に出していることに途中で気づいて、細かな場所や個人名は話さなかった。
だが、それだけでもブラッドベリ氏を感服させるには十分だったようである。
「ほうほう。それは実に熱心で、お志の高い神父様だ。それに、お心遣いが行き届いておられますね。正直なところ、あんなにお若い方だったので、初めてお目にかかった時には驚きましたよ」
「ええ、ラドクリフ神父様は、本当にすごい方ですの。飛び級で高校、大学まで行ったのに、そのキャリアをなげうって、ある日単身バチカンへ行かれたのですって。神様のご啓示を受けたとか」
「ほう。私のような凡人には信じがたい人生だ、すごいね」
カンディの言葉をいささか大袈裟だと受け取ったのか、ブラッドベリは軽く肩をすくめたに留めたが、彼女の話を大男の店主が受け継いだ。
「ジャックのお話ね。はい、ブラックティーよ、ダージリンしかなくてごめんなさいね。こちらはうちの自慢のベリーパイ、ラズベリーとブルーベリーとブラックベリーがぎっしりよ。英国紳士のお口に合うといいんだけれど」
と、コロンバスは巨漢にしては信じられないほど器用な手裁きで、銀のケーキナイフとフォークをテーブルに並べ、その真ん中に宝石のように美しいベリー類がぎっしり詰まったケーキの乗せられた皿を置き、ソーサーとティーカップを揃え、ポットから湯気の立つ紅茶を注いだ。
「どうぞ、召し上がってね」
「ありがとう」
カップとソーサーがあらかじめ温められていたこと、ティーポットに被せられたポットカバーが上品な北欧デザイン調のフエルトだったことに、紅茶好きの紳士が微笑みながら、完璧なテーブルサービスに対する礼を述べた。
店主は彼に向かって軽く頷く。
「こちらこそ、お誉めにあずかって光栄よ」
と、コロンバスは太い指先を顎に当てて考え込むような仕草を作り、少し前の話題を振り返った。
「ジャック・ラドクリフ神父だったわね。あたしはジャックって呼んでるけど、あの子はあの子なりに苦労してると思うわよ。もちろん、あの子は天才肌で高学歴だろうけど……どんなにいい学校を出ていようが、スクールカウンセラーの資格があろうが、心理学の学位があろうが、神様の前じゃたいして意味ないでしょうしね」
冷静に分析しているが、あたたかい物言いでもあった。
と、コロンバスは目を閉じて微笑む。
「あの子は、神様を心から信じてるの。あの子は言ってたわ……神様はいつでも、人間が神様の方を向いていられるように、そんなふうに人間を作ったんだってね。アハハ、あたしは神様なんて興味ないけど、でも、神様を信じる人のことは信用できると思ってるわ。だからジャックは、信用できる若者だと思う。うちのお客さんの中でもお行儀がいい方だしね」
彼の言葉を引き取るように、ブラッドベリ氏が穏やかに言った。
「なるほど、ここが人気店の理由は、あなたのお人柄が素晴らしいからですね、ジェームズ。もちろん、紅茶もたいへん美味しいが」
「あら、ありがとう」
満足げに笑う大男に、パラッド女史はいささか不安げに訊ねた。
「あの、うちの生徒で、お行儀の悪い子なんています?」
「そうね、カンディちゃん。あなたのお気に入りの、あのケイト・ヘイワースってお嬢ちゃんは、ケーキを手で食べるのよ。コーヒーの味が分からないくらいお砂糖を入れるし。まったく、今時の若い子ったらなってないわ」
店主の言葉に、パラッド女史はほっと胸を撫で下ろした。その程度の行儀の悪さなら、高校では問題にならない。もっと悪い答、すなわち煙草だの酒だの、薬物だのの話が出ることを心配していたのだろう。
「大丈夫よ、安心して、カンディちゃん。あたしは、あたしの店で悪いことをする子はちゃんとお説教するから」
確かに、これだけの巨漢に睨まれたら、ちょっとしたギャングだって震え上がるかもしれない。パラッド女史は安心した様子で笑顔に戻った。
と、そのとき。
「ちょっと、コロンバスさん。あたしがなんですって?」
「あら、ケイティちゃん。いらっしゃい」
店主が振り返ると、ドアを開けて入ってきた黒髪の少女が、カウンターの前で両腕を組み、仁王立ちになってあごを突き出していた。
少女は奥の席に座った顔見知りに気づくと、途端にちょっと恥ずかしそうに笑って居住まいを正した。
「あ、ごめんなさい、司書先生とブラッドベリ先生のデートの邪魔しにきたわけじゃないから安心して。ついでに、今度からケーキは紙ナプキンで掴んでから食べるわよ」
「もう、この子は! ナイフとフォークってものがあるのよ、この文明的な世の中にはね。まったく、親の顔が見てみたいわ」
「パパもよく来るじゃない、ここんち」
「今朝もいらしたわ。刑事さんは大変なお仕事よね、とびっきり濃いコーヒーで気合いを入れてもらったわよ」
コロンバスが引き締まった腹を揺らして笑うと、少女はカウンターに身を乗り出し、背伸びしてスツールに飛び乗りながら注文する。
「それがさあ、うちのコーヒーメーカーぶっ壊れちゃったんだよ。まあ寿命だね。だから、カフェオレ三つ、テイクアウトできるようにしてもらえる?」
「いいわよ、もちろん」
「あとね、キャリーが……うちのママが、コロンバスさんのシュリンプとアボカドのサラダ、すごく気に入ってくれたの。だからお土産にしたいのよね、ちょっと多い目に包んで」
「あら、新しいママもうちの常連さんになってくれそうなの? 嬉しいわ」
店主は大きな手を乙女のように叩いてはしゃいだ仕草を見せてから、その太い人差し指を立てて、例のワイルドなウインクをした。
「テイクアウトの容器を持ってくるから、ちょっと待ってて頂戴。そこのクッキーはつまみ食いしてもいいわ」
「もう、だからコロンバスさん大好き」
少女もウインクを返そうとしたのだろうが、うまくできずに両目を瞑ってしまう。その実に可愛らしい様子を横目で眺めた紳士と司書先生は、ただ目を見交わして微笑み合った。
蓋付きのポリ容器に入れたサラダの重さを量るのも、昔ながらの針と上皿のついたアナログなキッチンスケールだった。彼はグリーンとピンクの鮮やかなサラダを三百グラムほど計ると、手早く蓋をし、保温性の紙コップの入った袋とは別に紙で包んだ。
「じゃ、全部で八ドルちょうどでいいわ。端数はサービスよ」
「ありがと、コロンバスさん。クッキー美味しかった」
少女はポシェットから財布を取り出すと、紙幣をきっちり揃えて渡す。
「あいかわらず几帳面ね。毎度あり」
「じゃあコロンバスさん、またね。パラッド先生、ブラッドベリ先生、バイバイ」
「さよなら、気をつけてね」
「御機嫌よう、お嬢さん」
少女は紳士の挨拶に軽く会釈して、希望の買い物を手に、再び放たれた矢のようにニューヨークの夕陽へと駆けていった。
その行く先が自宅の方向だと確認して、パラッド女史は安堵の微笑を浮かべる。もちろん、エビとアボカドのサラダを手に寄り道など出来ようはずもなかったが、それでも心配だった。
それに、こうしてブラッドベリ氏と二人でいるのを見られたのは、少し面倒かもしれない……と、カンダハール・パラッドが考えかけたとき、その思考を消し飛ばすように、山羊髭の紳士は優しく笑った。
「元気のいいお嬢さんだ。実に羨ましい」
そう言ってから、彼はルビーやアメジストがちりばめられたような美しいパイを、その美観を損ねないように実に器用に切り分け、そのひとかけらをフォークで口に運ぶ。その動作だけで、カンディはまるでバレエでも見ているような気分になった。
ベリーパイの一口をたっぷり時間をかけて味わってから、ブラッドベリ氏は満足げに頷く。
「このケーキはとても素晴らしいですね、紅茶も、私はこのくらいの濃さが好きだ」
「そうでしょう? このお店は、小さいけれど素敵な……特別な場所なんです。ぜひ、ミスターをお連れしたかったの」
パラッド女史の言葉に、ブラッドベリは小さく頷いてから、彼女の大きな琥珀色の瞳を見つめて、うっとりした口調で囁いた。
「あなたのような美しい方と過ごせるなら、どんな場所でも素敵ですよ」
「またそんな、お上手なことばっかり」
恥ずかしげに身をよじって距離を取ろうとした彼女の、そのきめ細やかなオリーブ色の手の甲に、ブラッドベリは自らのてのひらを重ねて、穏やかに言う。
「美とは、容貌で決まるものではありません。コロンバスさんの仰るとおりだ。宗教や性別や年齢に意味などない。肉体というものにも意味はないのかもしれないと、私は最近では思っています。あなたは素晴らしい知性と感性の持ち主だ。あなたは輝いています。その輝きがあなたの瞳から溢れている。あなたとこうしてお話していると、私は肉体の苦痛を忘れてしまいます」
半月型の眼鏡の奥から、スティーブン・ブラッドベリは真摯なまなざしで、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「あなたは私の魂を救ってくれた。私の心を光で満たしてくれた。生きているうちに、こんなに美しい輝きを間近に見られる者は少ない。私は幸運です」
そのとき、ブラッドベリはかすかに微笑んだ。もうすぐ近くに死を感じている人間には、ここまでしか言えないとでも言うように、彼は言葉を飲み込んだかに見えた。
「ミスター……」
カンダハール・パラッドは、彼の手を握り返しながら、必死に涙を堪えようとした。
だが、その優しく穏やかな視線に包まれているうちに、自然と両目から涙が溢れ出す。
彼女自身、分かっているはずだ。余命幾ばくもない男と、こんな風に見つめ合うなど、女の人生としては愚の骨頂だ。
それでも。いや、だからこそ。
彼こそが運命の人なのだと、彼女は確信した。たしかにそのとき、はっきりと。
「ミスター、少し……あの、わたし、お化粧を直してきますわ」
「どうぞ」
そう席を立ったとき、目元を拭いながらも、パラッド女史の顔つきは、店に入ってきた時とは変わっていた。
化粧室のドアの鍵がかかった途端、中から女性の泣き声が漏れ聞こえてきた。はじめは悲鳴に近い号泣で、数分後にはしゃくりをあげる嗚咽へと変わった。
その様子を耳だけで聞きながら、ジェームズ・コロンバス……この店の主は、巨体を揺らしながら、紳士が一人残されたテーブルへと近づいた。
「ちょっと露骨に口説きすぎじゃないの、帽子屋」
「あのくらいでちょうどいいんだよ、夢見る行き遅れにゃあな」
しかし、「ブラッドベリ先生」は、何事もなかったかのように紅茶を楽しんでいる。女の泣き声など聞こえていない……いや、聞き慣れているような様子だった。
巨漢の店主は、一度カウンターの後ろへと戻ると、ケーキ類の収められたガラス張りの冷蔵庫の一番下の段から、ビニールのパックに入れられた、黄色とピンクの錠剤の袋を取り出し、テーブルの上に……紳士とケーキ皿とのちょうど真ん中に置いた。
「ハニーとキャンディーよ。五百グラムずつ。ウォールストリート駅の七番線、二つ目のベンチ。よろしくね」
「了解」
その奇妙な符牒を理解したのか、ブラッドベリ氏は二つの包みを、奇術師のような手つきで自分の書類ケースに滑り込ませた。
そして二人とも、何事もなかったかのような顔で女性を迎える。
「お待たせして済みませんでした。わたし、今日は本当に感動することばかりで……」
「マスカラとアイラインは、ちょっと滲んでる方が色っぽくていいのよ、カンディちゃん。そう思うわよね、スティーブン?」
カンダハール・パラッド女史の言葉に、コロンバスは巨体を揺らして笑い、わざとらしく紳士の方へと話を振った。
カンディははにかんだように伏し目がちになったが、ブラッドベリ氏は当然のように頷く。
「あなたに化粧など必要ありませんよ、カンディ。そうして立っているだけで美しいのだから」
その言葉が、まるで恍惚と、あるいは陶然としたような、崇拝に近い視線の上に乗せられていて。
彼と目が合った時、ついにカンダハール・パラッドは確信してしまったことだろう。
自分は恋をしている。
たとえ、彼がもうすぐこの世を去る運命であろうが、そんなことは重要ではない。
「ミスター、病室までお送りしますわ」
「それは有難い。本当なら、男がレディーをお送りするものなのだが」
「いいんですの。もう少しだけ、お話したいですわ」
「ありがとう」
彼女の申し出に、ブラッドベリは優しく応じ、全自動式の車椅子でありながら、その手すりにそっと手を添えるカンディの手を力強く握った。
「では、迎えの車を呼びましょう。私の住まいでは、こういう乗り物が乗れる車がいつも待機してくれているのでね」
「え、ええ、はい……」
「少しお待たせしますよ」
彼女の当惑を無視して、ブラッドベリは懐から取り出したスマートフォンの液晶に触れると、誰かと話しはじめた。
「いま、イーストエンドの、コロンバス・ダイナーという店にいるのだがね。迎えを寄越してくれるかな」
車椅子の紳士がそう告げた五分後には、電動車椅子がそのまま乗車できるリフトの取り付けられたメルセデスが、コロンバスの店の前に道路に横付けされていた。
「お迎えが来たようね、スティーブン」
「ええ、そのようです。美味しいケーキをありがとう、ジェームズ。では、行きましょうか、カンディ」
彼のにこやかな笑顔に、少し緊張した面持ちでカンダハール・パラッドは頷き、紳士に促されるままに居心地のいい店を出た。
メルセデスの前で待っていたのは若い看護士だった。淡いグリーンの制服が目を引く。彼女は慣れた様子で、ブラッドベリの車椅子を誘導しながら訊ねる。
「こちらの方もご同乗ですか?」
「ああ」
迎えに訪れた車には、ダウンタウン近くにある『聖マイケル記念病院』のロゴマークが蛍光塗料で印刷されていた。ペインクリニックや末期医療で有名な大病院だった。
大きな眼鏡をかけた看護師は、最高級のハイヤーがリムジンに乗り込む客に気を遣うのと同じくらい凄惨な心遣いで、ブラッドベリとカンディを車に乗せる。
「先生、上げますよ。お連れの方も、少し揺れますからお気をつけて」
「ああ」
しかしブラッドベリは、当たり前のように頷いて、カンディの手を取った。
「さあ、乗って下さい」
「は、はい」
カンディが戸惑いながらも、ブラッドベリに手を引かれて車に乗り、そのまま連れていかれたのは、マジソンスクエアガーデンにもほど近い、ニューヨークのど真ん中だった。真っ白な壁に嵌め込みの窓が張り巡らされた、いかにも病院らしい建物の、その少し横を抜けたところに車は止まった。
「お帰りなさい、ブラッドベリ先生」
ガラスの扉から出てきたのは、小柄な看護師か、介護助手の女性だ。やはり淡いグリーンの制服で、にこやかに迎えてくれる。
入り口の看板には、『ベルビューホスピタルセンター分院ホスピス・末期医療・無痛治療科』と書かれていた。
「無痛治療ホスピス、ですの……」
パラッドは思わず息を飲んだ。
「ええ、そうです」
彼はしかし、当たり前のように頷く。
「ここが私の家です。私はここで、死と向き合っていますよ。肉体の苦痛は、まだ自分が生きているという証拠のようなもので、今となっては福音にすら感じます」
「そんな……」
彼女が思わず言葉に詰まったのも無理はない。それにふさわしいだけの謳い文句が、でかでかと掲げられた看板から否応なく目に飛び込んでくるのだから。
つまりここが、スティーブン・ブラッドベリが余生を過ごす場所なのだ。その猶予も、長いものではない。現代医療の最先端を持ってしても、彼にしてやれることと言ったら、絶え間ない苦痛を和らげることだけだ。死を先送りすることですらできない患者だけが来るのが、ベルビューのホスピスなのだった。
そう思うと、周囲を見回すカンディの目には、様々なものが映っただろう。その視界は、自然と涙で曇ったかもしれない。
しかし、そんなことはお構いなしに、出迎えてくれた看護助手が、せわしない早口でブラッドベリに報告する。
「先生、三通お手紙が届いていましたので、お部屋のほうにまとめておきました。えーと、オックスフォード大学と、ナショナル・ジオグラフィック社と、あとBBCから」
「ありがとう」
気安く礼を言ってから、彼は自室への廊下を進みはじめた。
緑の壁と床を照らす、ひどく明るい照明の中、自動式車椅子のモーター音と、カンディの靴音だけが建物内に響く。
四つほど全く同じ設えの扉を通り過ぎてから、紳士は自らの操る車椅子を止めて、鍵のない扉を開けて部屋に入った。
「ようこそ。私の部屋です。カンディ、こんな狭いところですが、良かったらお入りなさい」
確かに、彼の言う通り、広々とした優雅な部屋ではなかった。だが、同時に狭苦しくて息が詰まるような酷い有様でもなかった。エアコンの利いた室内には、一人暮らしの男性には十分な設備が揃っている。テーブルと椅子とチェストは英国趣味の紳士には似つかわしくないありきたりのものだったが、テレビとオーディオシステムは上等で、彼が多くの時間を音楽や映像に費やしているのが分かった。コンロは一つきりの電熱式のものだったが、ちょっとお茶を沸かすには十分だろう。洗い物をする小さなシンクも設置されていた。
車椅子でも自由に使えるように、トイレつながりのバスルームは広々としていた。窓は大きく、床まで続いていて、窓枠もサッシも全てバリアフリーになっている。おかげで、一階の彼の部屋からは、すぐに芝生張りのプライベートな庭に出ることも出来た。
ただ、居間兼寝室の一室に置かれたスチールの書架は、無惨なほどにガラガラで、数冊の辞書とウォールストリートジャーナルが積まれているだけだった。
それから、テーブルの上には、何通かの開封済みだったり、未開封だったりの手紙が無造作に置いてある。そのどれもが、いつもケーブルテレビで目にしているような高名な歴史番組プロデューサーや、ドキュメンタリー風番組のホスト役で人気のタレントばかりだった。
「あの、BBCからお手紙ですって?」
「ああ、そのようですね。また何か、古書の鑑定の依頼でしょう。彼らは金払いがいいのですよ、おかげで余生の暮らしには困らずに済んでいます」
ブラッドベリ氏は当然のように言い、デスクの上に置かれた封筒のいくつかに、差出人の欄だけ目を通した。興味なさそうに放り出した紙束の間から、二万ドルの小切手が見えた。
それから彼は、不意に思い出しように言う。
「私はここでの暮らしを不自由だと思ったことはないのですよ。ご覧なさい、私のような人間が住むには悪くない部屋でしょう。とはいえ、なんのおもてなしも出来ないのが申し訳ないのですが」
「いいんですの。ミスター」
彼女の控えめな言葉に、彼は力強く答を返した。
「スティーブンと呼んでもらえませんか、カンダハール」
「スティーブン」
そのありふれた名前がまるで聖句のように、彼女は繰り返す。
潤んだ女の目を見つめながら、彼は訴えるように言った。
「あなたを愛していると言ったら、あなたは怒りますか?」
「いいえ……いいえ。とても嬉しいですわ」
その瞬間、紳士の瞳の底に光っていたのが、とどめでも刺すような鋭い視線だったことに、彼女は気づいただろうか。いや、分かっていたからこそ、頷いてしまったのかもしれない。
「ありがとう、カンダハール。あなたに出会えただけで、私の人生には意味があったと確信できた」
「ミスター……いいえ、スティーブン。この本は?」
彼女が不意に目を止めたのは、からっぽの本棚に置かれた、真新しい文庫本だった。
「ああ、それだけは、手放す気にならなかったので。貴重な本ではないので、私が死んだら棺に入れてください」
彼の言葉に、カンダハールは夢見るようにタイトルを読みあげた。
「不思議の国のアリス」
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