第5話 イカレ帽子屋
青い空の合間合間に、小雪がちらつく。
冷えきった空気は、何もかもを美しく見せているようだ。それは、この白っぽい筒のような、殺風景な建物についても例外ではない。
ニューヨークのイーストエンド、ラングレーアカデミー高校の図書館に、全自動の車椅子に乗った四十絡みの紳士がやってきたのは、二月に入ったばかりの頃だった。
図書館のカウンターに置かれた、木製のブロックを動かすタイプの無限カレンダーで、その日が二月三日なのだと分かった。
車椅子の紳士は、黒いシルクハットをやせ細った膝の上に乗せ、少し癖のある栗色の髪を綺麗に左右に分けて、ダークグレーの三つ揃えのスーツに糊の利いたシャツ、その上にベルベットの黒い蝶ネクタイという出で立ちだった。頬はこけ、目元には黒々としたくまがあり、顔色も決していいとは言えない。見るからに彼が病人なのは分かったが、同時に、彼がかけている半円形の古くさい眼鏡は、その面長の顔をいかにも知的かつエレガントに見せていた。
司書のカンダハール・パラッドは、彼の姿を見るなり、輝くばかりの笑顔になって駆け寄った。
「ミスター・ブラッドベリ、よく来てくださいましたわ」
「こんにちは、カンディ」
と、車椅子の紳士は痩せた顔に生やした山羊髭を撫でながら、司書の胸元にかけられている名札に目を細めた。
「ミス・カンダハール・パラッド。いつもながら、あなたのお名前はまるで詩のようだ。こうして口に出すと、その響きの美しさをいっそう強く感じます。あなたの崇高な美しさに、実にふさわしい響きです」
いかにもロマンチックな台詞に、アラブ系の血が入っているらしい司書の女性は、浅黒くきめ細やかな頬に軽く手を添えながら、気恥ずかしそうに視線をそらした。
「ブラッドベリさんだけですわ、そんな風に仰ってくださるのは」
司書の女性は、車椅子の紳士の言葉に、明らかに嬉しそうな反応を示した。
黒髪に黒目、アラビアン・カラードという、911、あの悲惨なテロ以降には最も異端視される容貌ではあったが、彼女自身は敬虔なムスリムというわけではないらしい。髪は普通にクリップでまとめているだけだし、首もとには十字架も見えた。
その豊満な体つきは、カットソー生地のゆったりとしたカシュクールにフレアスカートという服装だけではとても隠しきれない。たわわな胸とふくよかな尻、それに波打つ長い髪は、実に肉感的だ。加えて、彼女は実に整った顔立ちだった。まあ、ちょっとした美人の類と言ってもいいだろう。
その、知性を感じさせる大きな目が、今はじっと車椅子の紳士に注がれている。
「ミス・パラッド、いえ、カンディ。それは誰もが、あなたの美しさに敬意を表して、それを口にするのを憚っているのですよ」
シルクハットを膝に乗せた紳士は、年齢は四十か、それを少し出たくらいだろうか。服装や持ち物は古風というより懐古趣味的で、その全てが最高級の品物に見える。
「まあ、そんなお上手なことばっかり」
司書は自分の頬が熱くなっているのに気づいているのだろう、あえて図書館利用のカウンターの方へと戻って、病身の紳士と距離を置こうとした。
しかし彼は、電動車椅子を器用に乗りこなし、それでも礼儀をわきまえた様子で、カウンター越しににこやかに言った。
「校長先生には、先ほどもうご挨拶を済ませてきました。今日は、あなたにお礼を申し上げに」
「わたしに?」
驚いた表情の彼女に、車椅子の紳士は当然のように微笑みかけた。
「ええ、私の蔵書を全てこちらに寄贈する代わりに、こちらの図書館へ、私がたまに本を読みにくる権利を獲得してくださった。セザール……いえ、校長先生を説得してくださったのは、カンディ、あなただとお聞きしたので」
「それは当然ですわ、あの本はもともとミスターの財産で……こう申し上げては何ですけれど、こんな小さな図書館には勿体ないほど貴重なものばかりです。博物館クラスのものもありますわ」
「ええ。古書のオークションに出したら、一冊あたり何万ドルもの値がつくものもあるでしょうね。ですが、私にはもう、いくらお金があっても、それを使う時間がない」
「ミスター……お気の毒ですわ」
その言葉の意味を知っているカンダハール・パラッド司書は、オリーブ色の瞳を悲しげに潤ませた。
「癌は珍しい病気ではありません。私は長生きしている方でしょう」
しかし、車椅子の紳士は実に穏やかな口調で語った。
その目に宿る、一種独特の潔い光を見れば、誰でも理解するだろう……この男は、ものごとに頓着しないというより、全てを諦めているのだと。
なるほど、シルクハットの紳士が車椅子に乗っているのは、そのような理由からだったのか。
「それに、皆さんが怖がるほどには、癌は恐ろしい病ではありません。むしろ、私にとってはいい病ですよ。余命が分かりましたからね。その間に、身の回りの始末をつけられます」
と、彼は明るい笑みを浮かべた。
「ただ、自分が死んだ後、オークションで売られていった先で、誰とも知れない人物が私の本を我が物顔で読むのは、いささか癪でしてね。それに、今まで大切に集めてきた本が散逸してまうのも嫌だった。それでこの学校に寄贈することを思いついたのですよ……と、このお話は、最初にお目にかかった時にしましたね」
「ええ。この学校の創立者、マーク・ラングレー先生とミスターとは、ご親戚なのですよね」
「はい。とても遠い親戚ですが。私の祖母のいとこが、彼の母上でした。マークとは、彼の生前には何度か会ったはずですが、残念ながら私には、彼のお葬式の記憶しかありません」
「今の校長先生はご理解のある方です。創始者のラングレー先生のことをとても尊敬していらっしゃいます。ブラッドベリさんのお申し出も、本当に喜んでおられました」
それは、誰が聞いても喜ぶ話だろう。
一冊あたり数万ドルもの値打ちものの古書を、数百冊単位で寄贈したいという好事家が突然登場したのだ。それが学校の創始者の遠縁で、末期癌で余命はせいぜい数年、しかも遺産の相続人となるべき妻子もいない。
新興のラングレーアカデミー高校としては、願ってもない申し出だった。図書館に箔が着くだけではない、学校そのものの名声が高まる。
ましてや、その本の一冊一冊に関する鑑定書は完璧なものだったのだ。何しろ、当の寄贈者が、古書の鑑定士としての資格を持ち、病魔に侵されるまではロサンゼルスの公文書館に勤務していたという正式な書類が一式ついてきた。容易く手に入れることはできない、素晴らしいコレクションだ。
名門と呼ばれる学校には、素晴らしい蔵書がつきもの、いや、必要なのだ。今の校長であるセザール・ルーカスが二つ返事で了承したのも無理はなかった。
「今のセザール……いえ、ルーカス校長は、実に心の広い、いい人物ですね。私のような人間のことも、とても歓迎してくれます。友人として扱ってくれる」
「あなたを歓迎しない人なんていませんわ」
パラッド司書は、どこかうっとりしたような視線で紳士を見た。
確かに、病魔のせいでいくらかやせ衰えているとはいえ、スティーブン・ブラッドベリは魅力的な人物だった。紳士的で教養があり、穏やかな口調の中に豊かなウィットを潜ませている。そのいささか懐古趣味的な服装も、彼には実に似合っていた。
「あなたにそう言ってもらえると、私も安心しますよ、カンディ。校長先生、セザールは、私にたいそう心を砕いてくれるのですが、あんなに気をつかっては、彼が疲れてしまうのではと心配になるのですよ。私はそんなに、今にも死にそうに見えますか?」
自分の人生すらも軽く笑い飛ばすような態度が、いかにも洒脱と酔狂を好む趣味人の真骨頂と言わんばかりで、彼女は思わずその笑顔に見ほれてしまう。
と、つい会話から魂が離れていたことに気づいたのか、パラッド司書は仕切りなおすようにコホンと軽く咳払いしてから、にこやかな笑顔を作って、事務手続き用のテーブルの方を指し示した。
「ああ、ミスター。ちょうどいい機会ですから、新しいわたしの助手を紹介しますわ。二人とも、この学校の生徒ですけれど、学校の人事部が正式に雇用した司書助手のアルバイトなんです。こちらはケイト・ヘイワース、こちらがモーリス・タートルズ。この子たち、とても本が好きなんですのよ。ブラッドベリさんのご寄贈下さった本の整理は、この二人に手伝ってもらいます」
そこにいたのは、ごく地味な服装の瓶底眼鏡の少年と、見るからに大人しそうな黒髪の少女だった。
「それはよろしく。初めまして、スティーブン・ブラッドベリです」
「初めまして、ブラッドベリ先生。ぼく、モーリスって言います、お目にかかれて光栄です」
ブラッドベリの挨拶に、眼鏡の少年は車椅子の膝元に駆け寄り、身を低くして視線を合わせながら、敬意に満ちた表情で……ほとんど崇拝に近いようなまなざしで瓶底眼鏡の奥の目を輝かせながら、いささか興奮気味に言った。
「ぼく、ブラッドベリ先生の書かれた、手彩色の聖書に関する羊皮紙の保存の論文、あれ何度も読みました。すごく感動しました、あんな方法があるだなんて!」
「おや、タートルズ君と言いましたかね? 君はあんな下らない駄文を読んでくれたのか、すごいな」
「もちろんです、ただ徹底的な殺菌では意味がない、必要な細菌を適切に残してこそ、有機物を使った絵の具は色彩が保存されるなんて、すごい逆転の発想です。僕は湿度と室温にしか考えが至りませんでした……それに、文体が素晴らしいです。本当に美しい文章です、論文だなんて思えないくらい」
「素晴らしい、君は優秀だね」
意外そうに肩をすくめてから、ブラッドベリは少年に優しく片手を差し伸べ、握手を交わした。そのときのモーリス・タートルズは、本当に誇らしげだった。
その様子を眺めていたパラッド司書先生は、不思議そうに訊ねる。
「モーリー、ミスター・ブラッドベリの論文をどこで?」
「パラッド先生、雑誌『古書研究』の1998年の夏号に載ってます。是非読むべきですよ、本当にすごい! ブラッドベリ先生は、まだオックスフォードの学生の時にあの論文を寄稿なさったんですよね?」
「はは、昔の話だよ、タートルズ君」
「いま持ってきます、ちょっと待ってて」
モーリス・タートルズは周囲の答えも待たずに、古い文学雑誌が分類されている棚に向かって駆け出していった。
その様子を見ながら、少しはにかみがちに少女が言う。
「あの子ったら、あんなにはしゃいじゃって……お気を悪くなさらないで下さいね、ミスター・ブラッドベリ。モーリーは本当に本が好きなんです、きっと、ミスターが蔵書の寄贈を決めた時に、お名前で論文を検索したんですわ」
「気を悪くするだなんて、とんでもない。とても嬉しいことです、私の本を、あんな優秀な子が管理してくれるだなんて。やはり、この学校に寄贈することに決めて正解でしたよ、カンディ」
「そんなふうに言って頂けるなんて、光栄ですわ」
そう答えたパラッド司書は、浅黒い頬を紅潮させ、両目は見開かれて輝き、今にも感激のあまり泣き出しそうだった。
と、彼女の涙を、駆け足の足音が遮る。
「はい、パラッド先生。ここがブラッドベリ先生の論文です。ぼく、ブラッドベリ先生のことを本当に尊敬してます」
モーリス・タートルズが持ってきた古ぼけた雑誌は、彼女を釘付けにするには十分だった。
『古書研究』1998年六月号。
開かれた目次には、黄ばんだ紙に薄れかけた文字で、「中世羊皮紙の保存と修復、写本聖書の保存について」と題字が記されていた。その下段には、スティーブン・ブラッドベリ、オックスフォード大学との著者名がある。
「まあ……」
パラッド司書が賛嘆の溜め息をついた。
「ありがとう、モーリー。ミスター、わたしも、この論文はゆっくり拝読させて頂きますわ」
「今ではとうに時代遅れの論文ですよ、何でもデジタルで複写できますからね」
ブラッドベリはいささか照れたような苦笑いを、痩せた口元に刻んだ。
「それでも、自分が若い頃に、希望に胸を膨らませて書いた論文に目を留めてくれる人がいるというのは、本当に嬉しいし、身が引き締まる思いがしますね。気持ちが新たになったよ、モーリス君、ありがとう」
車椅子の紳士は厳かかつにこやかに、瓶底眼鏡の少年へと右手を差し出した。
はじめ、モーリス・タートルズはおずおずと手を差し伸べ返しただけだったが、ブラッドベリが弱った力ながらも精一杯握手してくれたのが分かったのが、やがて眼鏡の奥の目に感激の涙が浮かぶ。
「ぼく、あなたのファンなんです」
思い詰めたように呟いた少年に、ブラッドベリは穏やかな笑顔で頷いた。
「私も君のファンになったよ。君になら全てを任せられる」
モーリス・タートルズは声を詰まらせた。感激のあまり泣き出しそうになるのを、必死に堪えているようにも見えた。
それを見計らったように、ケイトが遠慮がちに口を挟んだ。
「ねえ、ブラッドベリ先生」
「はい?」
「あの、もしよかったら、特別な本……先生がこの学校にプレゼントしてくださったような貴重な本をしまっておく、特別な部屋があるんですけど、一緒に見に行きませんか? あたしたち、ちゃんと先生の本を整理して、管理できてるか見て頂きたいんです。あたしはモーリーみたいに優秀じゃないけど、ちゃんとできるように頑張ります」
そのたどたどしい話し方、人見知りな態度が、むしろ真面目らしさと受け取られるのだろうか。パラッド司書は、古びた雑誌を片手に、にこやかに頷いた。
「それはいい考えね、ケイティ」
と、彼女はいったん、手にした雑誌をテーブルに置いてから、ブラッドベリの車椅子の横に寄り添うように跪いて言う。
「ご安心なさって、ミスター。地下書庫はすべてエレベーターがありますし、ご存じの通り、うちの学校は全てバリアフリーです。ケイトとモーリーの仕事ぶりを見てあげてください、二人とも本当に頑張ってくれているんです」
「それは喜んで」
スティーブン・ブラッドベリは半月型の眼鏡を押し上げながら、にこやかに頷く。
その彼に、パラッド司書は一枚のカードキーを手渡した。
「特別書架のある地下階には、このIDカードがあればいつでも入れますわ。貴重な品物ばかりなので、一般の生徒には毎回許可を申請させますが、ミスターにはこのキーを差し上げます。どうぞ、いつでもご自分の大切なコレクションを読みにいらしてください」
あらかじめ用意してあったのだろう、そこには、名前のところにS・ブラッドベリと刻印がされている。
事実上、このカードさえ持っていれば、学校の図書館は好きに入れるし、好きな時に出て行ける。
「この、ケリーさんとモーリス君も、このキーを?」
「ケイトです、先生」
「おお、これは失敬。レディの名前を間違えるだなんてね」
「いいんです。先生が大変なご病気だって知ってるし、あたしも人の名前覚えるの、得意じゃないから。いつも間違っちゃうの」
「ははは……ありがとう。君は優しい子ですね」
少女のちょっとした訂正を笑い流してから、ミスター・ブラッドベリは彼女の言葉に耳を傾けた。
「カードキー、あたしとモーリーは持っています。生徒は、司書の助手しか持てないんだけど、あの、あたしたちは、学校のアルバイトってことになってるから」
「なるほど、そうして生徒さんが、勤労の意欲と責任感を持てるようにしているわけですね。実に素晴らしい方針だ」
頷きかけられて、パラッド司書は誇らしげに微笑み返した。
「もちろんこの鍵、司書先生や、先生方はみんな持ってるんじゃないかな。でも地下だから、携帯電話は通じないの。内線電話がありますから、何かあったらそれで連絡する感じでお願いします……ああもう、ごめんなさい、あたし敬語下手だよね」
「大丈夫だよ、ケイトったら、緊張しすぎだってば」
「ごめんモーリー、あたしほんとにこういうの苦手なの。見てよ、こんなに手が震えちゃって」
そんな少女と少年のやり取りを、紳士は実ににこやかに眺めている。いかにも子供好きという様子だ。
その、いかにも穏やかな様子に、ふと思い立ったようにパラッド司書が訊ねた。
「そういえば、ミスターにはお子様は? 相続人がいらっしゃらないと伺いましたが……」
「ええ、仕事ばかりしていたら、結婚はおろか、恋をする暇がありませんでした。というより、若い頃の私は、仕事に……美しい古書たちに恋をしていたので。このくらいの子供がいてもおかしくない年齢ですのに、お恥ずかしい限りです」
「とんでもありませんわ。わたしも似たようなものですもの」
パラッド司書はそう言ってから、思わず恥ずかしげに口元を押さえた。
それに気づかぬふりをしながら、紳士は施設を見回して賞賛の言葉をかける。
「小さいなどとはご謙遜だ、実に立派な図書館ですよ。外観もモダンで美しいですが、中も実に管理が行き届いている。とても素晴らしいです」
彼の言葉どおり、この図書館はただの筒のような見た目より、はるかに現代的だった。
先代の校長、この高校の創始者であるマーク・ラングレーは、スポーツで名前が売れた新興校という立場だけでは飽き足らず、学術の部門にも心を砕いた。名門大学への進学率に力を入れたのは当たり前だが、図書館による箔付けにも熱心だった。一流校の仲間入りをするためには、一流の図書館がなくてはならないことくらい、アメリカに生まれた者なら誰でも知っていることだ。
だからこそ、ラングレー高校の図書館はコンクリート作りの塔のような外観と、最新のコンピューター・プログラムによって管理されている内部とを得たのだ。
自動ドアから続く一階のエントランス・ホールは、広く設けられた窓から入る自然光で明るく照らされ、その内装は全体が優しげなナチュラルカラーで統一されている。壁や床は節目のあるパイン材で、建築されてからの歳月のおかげで落ちついたクリーム色へと変わっていた。設置されている椅子や机も、合板ではあったが、同様に沈んだ色合いの木製だった。新聞や雑誌、文庫本の新刊や学校の推薦図書などが、表紙が見えるように並べられた本棚がいくつか設置されている。
いくつかのドアには、自習室だとか研修室だとかオーディオルームだとかの金属のプレートがかけられ、その全てを見渡せる位置に司書のカウンターがあった。
書籍を満載したカートを搬入するためか、エレベーターはかなり大きい。エレベーターの横には階段もあり、このフロアから上へと続いている。中央には大きな吹き抜けが有り、上の階を見渡すことができた。
その二階と三階には広いバルコニーへと通じるガラス扉があり、生徒たちがめいめいに、外の空気を楽しみながら読書に耽ったり、自販機のカフェオレとスナックで休憩しているのが見える。和やかな雰囲気が手に取るように分かった。恐らく、この図書館のバルコニーは、学生たちの人気のランチスポットだろう。
「こんにちは、パラッド先生!」
司書先生に気付いたのか、こちらへと元気よく挨拶してくる生徒の姿も見えた。
ケイト・ヘイワースとモーリス・タートルズの二人は、子供らしい笑顔で駆け寄ってくる。
階段の横には、鍵のついたロッカーが並んでいた。そのロッカーの一つに、ケイトは自分のリュックを投げ込み、目につく私物は肩からチェーンで下げるだけの、小さなポシェットだけになった。同様に、モーリスも自分のバッグをロッカーに入れて鍵をかける。
その様子について、パラッド司書は的確かつ当たり障りのない説明を試みた。
「大きなバッグはみんなそこのロッカーに入れてからでないと、地下階には入れないようになっていますの。貴重な学術書については、持ち出しも禁じていますわ。複写は、わたしの許可を取ってから、そちらの電子複写機で写真を撮るか、既にあるデータベースの中から印刷するか、どちらかにしておりますのよ。もちろん、貴重品だけは生徒たちに自分で管理するように指導していますけど」
「実に完璧な管理ですね、カンディ。これなら私も安心してコレクションをお預けできますよ。あなたは本当に優秀な司書だ。あなたの情熱には頭が下がります。モーリス君、ケイトさん、こんな立派な先生の助手が出来るなんて、君たちは幸運ですよ」
「ええ、先生。ぼく、カンディ先生のことも本当に尊敬してるんです」
モーリスが瓶底眼鏡の奥でにっこりと笑う。
ブラッドベリは膝の上の帽子と、車椅子の横の書類ケースを指先で示して訊ねた。
「私の帽子は預けなくてよいのかな?」
「どうぞ、それはそのままお持ち下さい」
「このカードをこうやって、ピッてしないと、エレベーターの地下書庫へのボタンが押せないようになってるんです。上の階へ行くのには、これはいらないの。ハイテクでしょ? 映画みたい」
「実に、技術の進歩を感じますよ、ケイトさん」
かくして、スティーブン・ブラッドベリ、モーリス・タートルズ、ケイト・ヘイワース、カンダハール・パラッドの四人は、電子情報の詰まったカードを出入り口の鍵として、図書館の地下階へと降りるエレベーターに乗り込んだ。
まず一度、地下一階でドアが開き、パラッド司書が説明する。
「こちらが地下書庫です。こちらは比較的、生徒たちの勉強の時の資料になるような書籍が置いてありまして。地下に降りるに従って収蔵品の価値は上がりますわ。ですから、もちろんミスター・ブラッドベリのご本は、もう二階ほど地下、この図書館の最も地下に近い場所に保管されていますわ」
「では拝見しましょうか」
そうして彼らは、そのまま地下三階まで降りた。
エレベーターの扉が開くと、まず皆の目に飛び込んできたのは、古い書籍を傷めないための青色ダイオードの照明だ。
分厚いコンクリートの壁と完璧な空調システム、可動式の書架には、ひとつひとつに温度計と湿度計が取り付けられている。通路は思っていたよりも広く、室内の一角には、古い書物を模写するためのかなり本格的な羊皮紙とインクの収められた棚や、長時間の作業にも耐えられるような椅子とデスクもある。そこには、白色光のライトも設置されていた。
また、ちょっとした休憩か、あるいはじっくり本を読むためなのか、規則的に並んでいる無数の本棚と壁との間には、アンティーク調の……どうせどこかの誰かの寄贈品だろうが、立派な革張りのソファーもあった。
「いいですね。たいへん結構です」
満足げに、ブラッドベリは頷いた。
「私の家に置いておくより、ずっといい」
「そう仰っていただけて光栄ですわ、ミスター」
パラッド司書は心から嬉しそうに、車椅子の紳士の手を取った。握手を返されただけで、彼女の頬が薔薇色に染まるのが遠くからでも分かった。
「では、わたしは司書の仕事に戻ります、他の生徒も来ますので。後はこちらの二人にお訊きください、ミスター。モーリー、ケイト、ミスターに失礼のないようにね」
「はい、先生」
ケイトとモーリスは言い、ブラッドベリの車椅子の両側に立った。
一人エレベーターの中に残ったカンダハール・パラッド司書は、いったんドアが閉まりかけたのを手で押さえて、身を乗り出すようにして言う。
「あの、ミスター。見学が終わったら、またご一緒にお茶でもいかがですか? ミスターのご都合さえ良ければ」
「喜んで、カンディ。お茶は大好きです。では、こちらの見学が終わりましたら、後ほど」
ブラッドベリがにこやかに答えると、彼女はほっとしたような笑顔になり、そのままエレベーターのドアが閉まった。
そして訪れる、ほんの一瞬の静寂。
エレベーターのワゴンがはるか地上へと過ぎ去ったのを耳で確認してから、少女のけたたましい笑い声が、静まり返った図書館地下三階に響いた。
「おっかしいわよねー。で? 誰が末期癌ですって?」
それには、車椅子の紳士が堂々と答える。
「スティーブン・ブラッドベリ氏がだよ。彼はコーンウォールの出身だが、幼少期からバークレーに住んで地元の大学に通い、大学院を経て、ロサンゼルスの公文書保存館で古書鑑定士の仕事をしていたが、一年前に転移性かつ進行性の膵臓癌のステージ四、すなわち末期の診断を下されて、家を引き払い、ここ、ニューヨークの無痛医療専門のホスピスである聖マイケル記念病院に転院してきた。毎日ウォールストリート・ジャーナルを読むので、病室に配達してもらっている。病院の診断書と入院記録が見たいか? 出生証明書もある。ほら、この通り」
彼の手には、車椅子の横に取り付けられたバッグから取り出された細かな書類が、巨大なトランプのカードのように広げられている。
そして、そう言いながら、全自動の車椅子に座っていたはずの彼が軽快に立ち上がったことに、奇妙にも、二人の生徒たちは驚かなかった。
「公文書館に問い合わせても、ちゃんとスティーブン・ブラッドベリの勤務評価や給与明細が出てくるよ。三月ウサギが全部書き換えてくれた」
「さすがウィザードだね。憧れちゃうな」
「弟子入りするなら早い方がいいぞ、偽海亀」
スティーブン・ブラッドベリと名乗ったこの男は、皮肉めいた笑みを浮かべながら、堂々とした態度で古文書の所蔵された室内を、ダンスのステップを踏みながら歩き回った。
「それにしても、その嘘くさい偽名、どっから引っ張ってきたのよ?」
「ああ、名前? スティーブン・キングと、レイ・ブラッドベリだよ。ホラーとサイエンス・フィクションの大御所だ」
「それでよくバレないもんよね。もうほんと感心する」
「コナン・エドガワよりマシだろうよ」
「あんた、ジャパニメーションにも詳しいの。すっごい」
ケイトは堪えきれない様子で、クスクス声を出して笑った。
「ところであの論文って何よ」
「古い雑誌の目次と論文を、スティーブン・ブラッドベリ氏の作品に入れ替えただけだがね。作り直した方を、偽海亀がちょっと本棚に戻してくれた。まあ、間違ったことは書いちゃいねえよ。羊皮紙は俺様には専門分野みてえなもんだ」
「まったく帽子屋、あんた相変わらずたいしたもんね」
確かに、八十年代あたりの文学雑誌に掲載された論文なんぞを偽造するのは、この男には朝飯前の仕事だろう。
だが、ここに寄贈されたという膨大な量の本は違う。
「この稀覯本とやら、全部偽造品でしょ」
「だからオークションには出さないっつっただろ。ふふ……ハハハ」
スティーブン・ブラッドベリこと「帽子屋」は、優雅な足取りで自分の作品を眺めた。自信に満ちた態度だった。もしかしたら、本当にオークションに出しても相応の値がつくほどの出来映えなのだろう。中には『ドリアン・グレイ』の初版本もあった。
「あたしこれ欲しーい」
「おいおい、『ドリアン・グレイ』はやめとけ。『幸福な王子』の方がケイト・ヘイワースのキャラには合ってるだろ」
「パパー、ツバメさんが可哀想なのよーってまた泣けばいいわけ?」
「ちょっと。それじゃあんまりお父さんが可哀想だよ」
ケイトと「帽子屋」の会話に、モーリス・タートルズは、言葉とは裏腹に……普段の彼からは想像もつかないくらい、ゲラゲラ笑った。
「さあてと」
帽子屋は室内をぐるぐると、ある種の鳥か爬虫類が獲物を探す時のような仕草で見回し、やはり踊っているかのような大袈裟な身振りで、何カ所かの空間を指差した。
「ここと、あそこと、あそことあそこに監視カメラを設置しよう」
彼が示したのは、書架の棚の高さを変えるためのネジ穴だった。
そして、信じられないことに……絹の重さしか感じられなかった帽子の中から、小型の本を数冊取り出した。表紙を開けると中身は空で、本の形をしているただの箱なのだと分かる。そしてそこには、さらに小型の機械がすっぽり収められていた。
彼は慣れた手つきでネジ穴の高さを調べると、ハットピンを引き抜く。ピンには螺旋が切ってあり、ただの鳥の羽のついたハットピンが、一瞬にして小型のドリルへと早変わりした。
そのドリルが本の裏表紙に穴を開け、そこに機械の位置を合わせると、ぱたりと閉じた。それだけで、もうただの古い革装丁の本にしか見えない。同じ作業を繰り返してから、帽子屋は自分の作品を一つ一つ、必要だと判断した場所に設置した。それらの本は、地味すぎて誰も興味を持たないような、古びた聖書だったり、詩集だったりした。
「録画と録音を同時にできる。もちろん生で監視できるようにもなっているが、ここの壁は意外と頑丈で電波が通じない……というわけで、後で配線をちょこっといじくらせてもらうとしよう」
「どうするの?」
「配管工の格好で堂々と入って、堂々と作業して、堂々と玄関から出る。他に何があるよ?」
と、帽子屋はこの学校に出入りしている配管業者の社員証を……もちろん精緻かつ、本社に連絡が入ったとしても露見するはずがないほど完璧な偽造の身分証を取り出して、少女の眼前に突きつけた。
そこには当然、社員の写真と名前が印刷されていたが、写真の男は実に器用そうで生気に満ちあふれ、青い作業着を着た、要するにありふれた職人タイプの中年男であり、名前はトム・ベレンジャーとなっていた。
もし配管工の格好をしていたとして、ほんの数センチの距離でパラッド司書とすれ違ったとしても、帽子屋は気づかれたりはしないだろう。彼の名前など誰も気にしないからこそ、映画スターの名前を平気で拝借したのだ。
誰も、彼の本当の顔など知らない。
ケイトですら、帽子屋の本名も、素顔も、何も知らなかった。ただ重要なのは、彼が協力してくれるということだけだ。
「映像と音声は、うまいことやるさ」
帽子屋は当たり前のように笑った。
「教会の地下室から見られるようにしておけば白ウサギも、あのバケモンも安心だろ」
その発言には、少女が細い眉をかすかにしかめて咎める。
「上の階も全部?」
「オフコース。ふふん」
しかし少女は、まだ納得いかないと言いたげに、仕掛けのされた本の一冊を取り上げて切り捨てた。
「こんな本、地下階はともかく、地上階にはあったら不自然よ」
しかし、それに対する最適解も、このエレガントな紳士……いや、帽子屋は、当然のように用意している。
「そっちは堂々と監視カメラが回ってるじゃねえの。ほら、ホールの窓の向こう、校庭にさ、警備室につながってるカメラがあったろ。あれの一台、向きをちょこっとだけこっち側へ変えて、ちょろっとハッキングする方が手間がかからんよ、俺様は面倒なことはしない主義でございます」
確かに、彼の言う通りだった。
ラングレーアカデミー高校の校庭には、陸上用のトラック、その内側には投擲競技向けの練習場、その両脇にはサッカー場とアメリカン・フットボールの広大なフィールド、さらには野球場とテニスコートまで備えられている。それらを照らす常夜灯のいくつかには監視カメラが取り付けられていて、守衛室からいつでも確認できるようになっている……つまり、ここは比較的中流から上、上流を目指すような家柄の子供が通う学校だ。
実際、そこまで目を光らせていなくとも、新聞沙汰になるような犯罪……ドラッグの密売やレイプや殺人は起きるはずもないと誰もが無邪気に信じているから、守衛も教師たちも、当の生徒たちも、ぼんやりとした、柔らかな安心感とでも言うようなもの包まれていて、警戒心など欠片も持ってはいなかった。イーストエンドは、ニューヨークでは最も治安がいい地区でもある。
ここではコロンバイン高校の悲劇は起きない。いや、そんな事件があったことすら忘れていた。
だから、少しくらい監視カメラの位置がずれたり、映像にノイズが混ざったところで、誰も気づきはしないだろう。
それこそが付け目だ。
「さあ、仕事にかかろうぜ諸君。気分はミッション・インポッシブルだ」
「了解。なお、このテープは自動的に消滅する」
「それ古い方よ、モーリー」
「僕はドラマ版の方が好きなの」
モーリス・タートルズは、普段の彼とは別人のように生き生きとしていた。おどおどした、人の顔色をうかがうようなところはなく、率先してカメラの配置を決め、素早く仕事をこなしていく。
それを眺めながら、少女は軽く腕組みをして、ちらりと壁際に置かれたヴィクトリアン・スタイルのソファーへ視線を投げた。
「ここの部屋にカメラははやめない? 特にあのソファーあたりは映らないようにしてよ」
「デート用の部屋ってわけか? 別にポルノビデオとして売り飛ばしたりはせんから、気にせずやりたいことをやりやがれ」
「三月ウサギにネットに流されたらどうしてくれんの」
「おいおいおい、ご挨拶だな。そんなことやらかすほど馬鹿じゃねえよ、うちのかっわいい小動物どもは。ほんとにかわいくて無邪気なんだからな、あのバケモンに生きたまま首引っこ抜かれるなんてかわいそうだろ。ついでに俺様も、脳みそとはらわたぶちまけながらグラウンドゼロのメモリアルプールでダンスしてるところを見つかる羽目になる。そんなのはご免だぜ」
ハロウィンのジョークにしても物騒な台詞を吐いてから、帽子屋は口元に不敵な笑みを浮かべて、エレベーターの扉を見た。
「むしろ、あのへんに麻酔薬バーンと噴射するブービートラップでも仕掛けとけ。神父と女学生がよろしくやってるところはマズイだろうがよ、あの司書先生気絶するぜ」
と、帽子屋はわざとらしく後ろにふらついてから、冷たいリノリウムの床に片手をついて、華麗に立ち上がった。まるでダンスのように滑らかで、自然な動きだった。
「その前に、あんたがそうやってるところ見て失神するから大丈夫よ」
少女の苦笑いも無理はないだろう。
だが、モーリス・タートルズ少年は、敬愛するブラッドベリ先生こと「帽子屋」の行状に何の違和感も持った様子もなく、ごく当たり前の連絡事項を伝えるかのように、いささかも臆することなく提言した。
「ああ、ひとつお願いなんだけど、『ブラッドベリ先生』から、この部屋に空気清浄機を置いてくれるように言ってほしいな」
「あら。あんた、タバコ吸いたいのね、偽海亀」
少女の相槌に、帽子屋は華麗なステップで踊るように書架の間を歩きながら答えた。
「安心できる喫煙所、そいつあサイコーだね。よろしく進言しておこう。このあたりがいいかな」
と、帽子屋が古めかしいソファーの周囲を見回っていると、エレベーターのドアの付近に設置されている内線電話が鳴った。
「もしもし、タートルズです」
モーリスは駆け寄ると、すぐさま受話器を取り、当たり前のように静かな声で答えた。その間、少女と「帽子屋」も、時間が止まったかのようにその場に制止している。
「はい、ええ、いらっしゃいます、もちろん。分かりました」
モーリスが受話器を置くと、即座に時間が動きだし、少女が鋭い口調で訊ねた。
「何事?」
「何でもないよ。神父様がブラッドベリ先生にご挨拶させて頂きたいから、こちらにまだいらっしゃるかって訊かれただけさ」
眼鏡の少年の言葉に、帽子屋は奇妙なダンスめいた動きを一瞬にして止め、動物のような速度で車椅子へと駆け寄った。
「おいおい、ヤツが来るなら、俺様はフケるぞ」
「もう遅い」
その声とエレベーターのドアが開いたのは、ほぼ同時だった。
帽子屋はまだ、車椅子に軽く片足をかけたまま、油断なくエレベーターから下りてくる人物を見つめている。
「こんにちは、神父さん」
「こんにちは、ブラッドベリ先生」
二人の男は丁寧な口調で、儀礼的な、そして悪意に満ちた挨拶を交わした。
「くたばれ、バケモノ」
「お前が死ね、狂人」
無表情に言い放ちながら地下書架に降り立ったのは、この学校のスクール・カウンセラーにして付属教会の神父、ジャック・ラドクリフだった。きちんとした司祭服を纏い、十字架を首から下げ、左手には大振りな聖書を抱くように持っている。生真面目そうな顔に眼鏡をかけ、美しい金髪を後ろでまとめ、磨き上げられた靴とつややかな手袋をしている。何の欠点も瑕疵も見つからない、完璧な若き神父様。
だが。
「だいぶ手間取ってくれたな、帽子屋」
眼鏡の奥の瞳は、獰猛な獣のように、怒りと苛立ちに燃え猛っている。
それは、いつ殺意に点火してもおかしくないほど強烈だった。
「まあまあまあ、そう言いなさんな、怪物さんよ。こちとらこれだけの古書を手作りしたんだ、時間もかからあな。ついでにお前さんらの身分証だの何だの、みみっちい仕事も回ってくるし。どうぞひとつご勘弁をな、お願いしますでございますぜ」
スティーブン・ブラッドベリこと「帽子屋」は、先ほどまでとは口調も声音も打って変わった……まるで別人のような下世話な様子で、そこにいるのが神父の形をした動物か何かのように話を進める。
「だいたいね、お前らだけにかかりっきりってわけじゃねえのよ、この俺様は。万事ビジネスなんだからさ」
その言葉には、先ほどまでいかにも大人しそうな、内気を絵に描いたような姿だったケイト・ヘイワースが、クスクスと声をあげて横槍を入れた。
「ビジネスマンですって? そりゃ、ずいぶんとクレイジーなビジネスね」
「おいおいおい、一番クレイジーなお嬢ちゃんに言われる筋合いはねえなあ」
帽子屋のその軽い一言に、「神父」の目の色が変わった。
「狂人、その頭を引きちぎるぞ」
「おいおいおい。だから嫌だってんだよ、このバケモンと口きくのは」
帽子屋は車椅子にゆったりと腰掛け直しながら、実に迷惑そうに、わざとらしい渋面を作って見せた。
「まあまあまあ。落ち着けよ、バケモノ。とにかく、お前らのデートルームの用意はしたし、俺様もここに自由に出入りできる身分になった。それでいいじゃねえか」
言いながら、シルクハットを膝の上に戻し、ハットピンを元通りに帽子の飾りに戻す。その手際は見事そのものだった。
帽子屋の言葉を補完したかったのか、少女は二人の大人の男を代わる代わる眺めて言い放つ。
「それだけの時間と手間をかける価値があることをやってるのよ。文句があるならあたしに言いなさい、ジャックも、帽子屋も」
神父は無言のままだったが、帽子屋は陽気というより、どこか狂気を感じさせる明るさでケタケタ笑った。
「文句? そんなんねえよ、最高に楽しんでるぜ? 本当に、面白くって面白くって」
と、彼は半月型の眼鏡を中指で押し上げて整えながら、不意に思いがけないことを口にした。
「つうか、俺様そろそろマジでフケてもいいかな? あのオッパイでっけえ司書のオネエチャンとお茶すんの。これから」
「そう言えばそんなこと言ってたわね。でも司書先生、あの堅物が恋する乙女な目してたわよ、大丈夫?」
少女はいささか不審げな目で「ブラッドベリ先生」を見たが、彼はまた甲高い笑い声で答える。
「三十路も過ぎた行き遅れが、ようやく出会った運命の人。それが余命数年なんて、サイコーにドラマチックだろ?」
「ああ、そりゃ司書先生の人生は終わるわね」
「思い出の恋が永遠に残る、実にジャン・コクトーっぽいじゃねえのよ。まあ別にマンディアルグでもポーでもハインラインでも構わんが」
名を列挙されたのは、実に脈絡のない作家たちだった。思いつきだけで喋っているのかもしれないし、全て計算ずくなのかもしれない。それが、この「帽子屋」の得体の知れないところだった。
「お茶だけで済まないようなら、三月ウサギとヤマネに言いつけるわよ」
「どうぞご自由に。うちのウサギどもはそのくらいでゴタゴタ言うような無粋な奴らじゃねえんでございます、そこのヤキモチ焼きのバケモンと違ってな」
「あんた、司書先生に刺されて死ぬんじゃない?」
と、少女のからかうような言葉に。
帽子屋はふと、その目元に冷酷な輝きを刻んだ。
「その前に、彼女に手を取られながらスティーブン・ブラッドベリ氏は息を引き取る。素敵だろ?」
そう笑う彼の表情は、凄惨、あるいは残虐としか言いようがなかった。
少女のちょっとした反論すら、帽子屋にかかっては、素晴らしい演技の前振りでしかないらしい。
全ては予測済み。
彼は、そう言いたげに微笑んだ。
「……素敵ね」
この男が司書のカンダハール・パラッドの前で死んでみせる芝居を打つところまでを容易く想像できてしまって、ケイトはモーリスと顔を見合わせた。二人とも、自分たちが今抱いている感情が恐怖なのか好奇心なのか、それともロマンチシズムなのかすら分からなかった。
そんな生徒たちを横目に見ながら、ブラッドベリ先生に戻った男は、カードキーをエレベーターに差し出しながらにこやかに笑う。
「ではケイトさん、モーリー君、頑張りたまえ。神父様、お目にかかれて光栄でしたよ。ごきげんよう」
エレベーターの扉はすぐに開き、彼は全自動車椅子に乗ったまま、静かに地上の、日常の世界へと戻っていった。
これからスティーブン・ブラッドベリ氏は、司書先生の終業時間まで図書館のホールで時間をつぶし、それから二人で洒落たカフェへ出向くのだろう。美味しいケーキと紅茶が評判の店に。
「さすがは『イカレ帽子屋』さんだね。すごいや」
「そうでしょ?」
少年と少女が交わす賛嘆の声を遮って、神父は獣のうなり声のように呟いた。
「あいつはいつか、絶対に殺す」
「食らいつく顎、引き掴む鉤爪、ジャバウォックには用心しろ、かあ。僕も気をつけようっと」
モーリスの言葉に、少女は神父に向かってにっこりと微笑み、その首に腕を回しながら囁いた。
「その素敵な爪と牙は、後にとっておいてね。あたしのために」
「分かってる」
そして、長いくちづけ。
美しい恋人同士にしか見えない少女と神父を尻目に、モーリス・タートルズ……「偽海亀」は、悪戯っぽく笑って言った。
「じゃあ僕、上の階の本の整理してくるから。ごゆっくり」
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