第4話 ウサギ穴

 いかにもハイスクールらしい、美しい植え込みや花壇、広々とした芝生などから少し離れたところに、その教会は建てられていた。だが、ひっそりというのでもない表玄関は通りに面していたし、何より、建物そのものが小振りだが立派だった。

 マンションの一室が礼拝所になっているのも珍しくはないこのニューヨークで、ここはきちんと教会らしい体裁を整えているだけでもマシだった。時刻を知らせる鐘こそないが、神父の資格のゆえに礼拝堂も懺悔のための告解室も、しっかり用意されているし、同時にスクールカウンセラーでありセラピストでもある彼のために、二階には宗教色を配したいかにも近代的なカウンセリングルームまで用意されている。

 そこに一輪の赤い薔薇の花を手にした少女が足を踏み入れたのは、年が明けてすぐ……まだ、一月三日の正午頃のことだった。

 彼女は告解室の小さな木製の扉の前にじっと立っている。長いこと、彫像のように。

 その姿が、この世の全てから切り離されているかのように孤独に、寄る辺無さげに見えたのだろう。少女の肩越しに声をかけた者がいる。

「こんにちは。いいお天気ですね、ミス・ヘイワース」

 彼女は振り返ると、儀礼的な会釈を返した。

「こんにちは、神父様。いつも同じこと言うみたいで申し訳ないですけど、あたしのことはケイトか、でなきゃケイティでいいですよ」

 丁寧な口調ではあったが、いささか素っ気なく、あるいは投げやりに聞こえる少女の言葉にも、若い神父は穏やかに微笑み返す。

「それではケイティ」

 と、彼は親しげな呼び方を選んだ。

「どうかしましたか、ケイティ、何か悩み事でも? 私で相談に乗れることなら、スクール・カウンセラーとしてお話します。ただ聞くだけでいいなら、神父として伺いますよ」

 クリスマスが終わり、新年が始まり、それをきっかけにして、新しい悩みや葛藤に気づく生徒は少なくない。そのくらいは、カウンセラーでなくとも知っているだろう。

 そもそも、若い者というのは、ちょっとした休みでもすぐに羽目を外したがる。むしろ、あからさまな問題行動を起こす連中は単純なぶん対処もしやすい。本当に悩みを抱えているのは、それを外に出さない、生真面目で一見しっかりした風の子供だ。

 成績や進路、恋愛問題あたりは生易しい方だと言える。思い悩んだ末に、両親の離婚問題などの家族の葛藤を打ち明けるのはまだ健全な部類だった。恋人とのクリスマスのデートをきっかけにして純潔を失ったという後悔を抱いている生徒も、もっと最悪なことに、親からの性的虐待で自傷行為に走っただの、クリスマス休暇の間に妊娠が分かったがどうしたらいいか、見ず知らずの相手との一夜の過ちでHIVに感染したかもしれないが検査を受ける勇気がないという子供すら、入れ替わり立ち替わりやってくる。

「どんなことでも打ち明けて下さい」

 ラドクリフ神父の声が静かに響く。

 今は、礼拝堂の中には神父とケイトの二人きりだった。

 教会の入り口と礼拝堂の扉には、それぞれ「休憩中」と書かれた札がかけられているのだ。たったそれだけのことだが、目にした者は、神父が少しの間席を外していると信じて疑わないだろう。この高校併設の教会付きの神父は、ちょっとお茶を買いに出るだけでもその札を出すと知れ渡っていた。どんな悲惨な懺悔をしたい者でも、少し時間を潰してから再び訪ねれば、許しを請えるのだと誰もが信じていた。

 つまり。

 その、板切れに手書き文字の札が表の扉にぶら下がっている間は、もう邪魔が入る心配はない。

 ケイトは手にした薔薇を祭壇に捧げ、いくつも並べられた蝋燭の一つにマッチで火を点けた。いかにも物悲しげで、憂いさえ感じさせる姿だった。

 彼女が神への祈りを終えるのを待ってから、ラドクリフ神父は優しく声をかけた。

「お父様が再婚なさったのは伺いました。あなたがいろいろとお気をつかうこともあるでしょうね」

「ええ、まあ」

「ご家族の問題ではないのですね」

 ケイトの煮え切らない答えにも、神父は落ち着き払った様子で頷いた。

 父が新しい妻を家に迎えるというのは、それだけでもこの年代の少女にとってはかなりのストレスだろう。

 しかし、彼女が言いたいのはそんなことではないと、神父はとうに気づいていたらしい。

 蝋燭の炎に顔を向けてはいるが、ケイトは彼の様子を視界の中にしっかりと捕らえながら、かすかに脅えた調子で言う。

「はい……あたし、あの、告解っていうんでしたっけ? 神様に懺悔をしたいんです。でもあたし、あんまり熱心なクリスチャンじゃないけど、それでもいいです?」

「もちろんですとも。さあ、こちらの、奥の部屋に」

 ラドクリフ神父は、彼女……ケイト・ヘイワースを、小さな扉の並んだ告白用の部屋の、一番奥へ案内した。

最も奥の告解室は、片側が壁になっていて、その壁の向こう側は祭儀用の道具か何かが収められている倉庫として使われているらしい。

「こちらが告解の部屋です。前にも来たことがありますよね」

「はい……」

 さきほど彼女が見つめていた扉は、神父の手によっていとも容易く開かれた。その先には、人が一人座れるだけのごく狭い空間があり、小さな椅子が一客置かれている。

 片側を壁にした小部屋はまだ午後も早い時間だというのに暗く、薄い格子の仕切りを隔てて神父と一対一で話が出来るようになっている。

 神父の側も個室になっていて、他人には言いづらいことでも相談しやすいような、というより、自分の犯した罪を認め、打ち明けやすいような雰囲気が作られていた。プライバシーという概念がいつ頃生まれたのかは知らないが、この懺悔のシステムはよく出来ていると思えた。

 扉が閉まると、中からは簡単な掛け金が掛けられるようになっている。ケイトは公衆便所並の粗末な鍵を閉めてから、薄暗い室内の木製の椅子に軽く腰掛けた。

 少女と向き合うように、薄い格子模様の間仕切り壁が立っている。悩みを打ち明ける相手の顔をまっすぐに見なくてもいいように、長い歴史の中で作り上げられた様式だ。

 神父は反対側の扉から室内へと入る。

 彼が掛け金を降ろすのを待ってから、ケイトが重い口を開いた。

「あの……神父様には、何でも、どんなことでもお話していいんでしたよね。本当の秘密の話でも」

「ええ、もちろん。秘密の話も」

 ほとんど神父の顔を見えないくらいの、細かな格子の仕切りだ。

 だが、そのわずかな隙間から、二人は互いの目と目を見交わした。

「じゃあ、神父様。お話しましょ?」

「秘密の話を、ですね」

 ラドクリフ神父は、不意にかけていた眼鏡を外し、告解部屋の肘掛け机の上に投げ出した。木と金属の衝突する耳障りな音が響く。

 その瞬間、彼の目は鮮やかな青い宝石のように輝いた。

 そこに浮かんでいるのは、数秒前とは別人のように愉快そうな、どこか野性的にも見える笑顔だ。

「おいで、アリス」

 彼はまず自分の部屋の、倉庫側に面した壁に触れた。すると、奇妙なことに。

 ケイトが座っていた椅子の真横、分厚い板で作られている壁が音もなく動き、横開きの扉のように開いて、そこから地下へと下る金属の階段が現れた。

 その下に広がる真四角の空間からは、煙草の煙と酒の香り、そしてほの明るい……古めかしい青い光が満ちている。

 扉が開くや否や、少女はその薄暗い縦穴へ駆け下りた。低いヒールが金属の階段を蹴るけたたましい音を響かせて。

「ジャック! 会いたかったわ」

 ほぼ同時に地下の部屋へと降り立った神父に、ケイトは激しく抱きついた。

「俺もだ」

 神父の声も口調も、数秒前からは想像もつかないほどに変貌していた。

 穏やかで物静かな影は鳴りを潜め、野生の肉食獣のような獰猛さが、眼鏡を捨てた両目から鋭く輝いている。

「ずっと会いたかったよ、アリス」

 頷く少女も同じだった。長いまっすぐな黒髪に地味な色合いのワンピースという衣服は変わりがないのに、大きな空色の目は活気に満ち、ごく普通の高校生らしい表情が嘘のように、貪欲な笑みを浮かべている。

 しかもその笑顔は、見るもの全てが魅了されるほど美しい。真っ白な肌は高級な陶器のように透けていて、まるで血など通っていないかのようにさえ見えた。

 うっすらと錆の浮いた階段の途中では、脱ぎ捨てられた黒革のローファーが、まるでシンデレラの靴のように所在無さげに転がっている。

「早くキスして、ジャック」

「おかえり、アリス」

 ケイトと神父……いや、少女と青年は、どちらからともなく微笑み交わすと、互いの存在を確かめるかのようにしっかりと抱き合い、長い長い口づけをした。

 その熱っぽく狂的な抱擁を見ているものならば、誰でも一瞬で分かっただろう。この若く美しい二人は、スクールカウンセラーと生徒、あるいは神父と信仰心ある少女などという穏やかな関係ではないことを。

 ケイティは神父の首に抱きついて半ばぶら下がったまま、無言で布張りのソファーへと移動した。実に慣れた動きだった。

 神父は行き着いた先のソファーに座ると、司祭服の首元を面倒そうに開き、少女を横抱えに膝の上に乗せて、彼女の長い黒髪を労しげに撫でた。

「愛してるわ」

「愛してるよ」

 その答えに、彼女はクスクス笑い、彼も微笑み返す。

 そのまま二人はソファーへと倒れ込む。その間も、それからも、絶え間なく続くキスと抱擁の嵐。

「おやおや、相変わらずお熱いな。若さとかいうものは、実に羨ましい」

 そんな二人を冷やかすように、この部屋にいた唯一の人影である黒人の中年男……白髪混じりの用務員が、奥の冷蔵庫へと屈みながら笑った。

 教会から地下へと続いているこの空間は、驚くほど広々としていた。バスケットボールコートが一面取れるだろう。そこに、所狭しと古めかしい、時代錯誤と言ってもいいような調度品が置かれているのが奇妙だった。

 ほぼ正方形と言ってもいい、真四角なコンクリートの打ちっぱなしの床には、不釣り合いな四匹接ぎのふかふかなムートンが敷かれ、骨董品並に古びたロッキングチェアやティーテーブルなどが置かれている。二人が横たわっているゴブラン張りのソファーにも、床とお揃いの白いムートンがかけられていた。

 一応電気と水道は引いてあるのか、天井のシャンデリアは形も光も蝋燭に似せたLEDが、ご丁寧に明かりを揺らして灯っている。部屋の奥側にはやはりレトロなツードア式の小さな冷蔵庫と電熱線の加熱器、それから手が洗える程度の蛇口がある。

 同じく打ちっぱなしの壁には、暖炉もないのにマントルピースが設えられ、その上には古びた鳩時計と、一枚の写真が額に入れて飾られていた。

 写っているのは、どうやら家族らしい。金髪で整った顔の夫婦と、愛らしい姉妹だ。誰もが屈託のない笑顔をカメラに向けている。

 それをちらりと見てから、ようやく少女は落ちついた様子で目を伏せた。

 いや、何かを悲しんでいる、あるいは悔やんでいるかのような沈痛な表情だったが、それもごく一瞬のことだ。

「泣いてもいいよ、アリス」

「悲しくないわ、ジャック」

 そう答えた時にはもう、少女の目には悪戯っぽい輝きが戻っていた。

「ならいい」

 彼は安心したように、彼女の額にもう一度くちづけした。そうするのが当たり前だとでも言いたげだった。

 二人は既にくつろいだ様子だった。ソファーの上で、幸せそうに見つめあっている。

「何か飲むかい? 生憎とこちとら、イモムシや帽子屋みたいに気のきいたものは出せないんだが」

 白髪混じりの黒人の言葉にも、二人はごく自然に答えるだけだ。

「あたしはオランジーナにカンパリ入れて」

「俺は水でいい」

 黒人男の方も、まるで視界に入っていないような扱いを受けても、気に触った様子はない。ただ、二人の求めたものを用意して……よく冷えた炭酸ジュースに少し酒を混ぜただけのカクテルとも呼べない代物と、今では値打ちもののパイレックスのグラスに入れた水道水とを、彫刻の施されたティーテーブルに乗せる。

 だが、その仕草がやけに洗練されていることに、学校の用務員のマッケンジーおじさんを知っている人間ならば、奇妙な違和感を覚えたかもしれない。

 まるで、熟練のバーテンダーかギャルソンのような、垢抜けた身のこなしだ。

 もちろん見た目は何の変わりもない、いかにも善良で朴訥としている、ニューオーリンズ出身のマッケンジーおじさんだ。着ているのもいつもと同じMA—1にジーンズ、安っぽいが洗濯の行き届いた格好で、古びた赤いレンズのサングラスを室内でもかけたままなのだが。

 何もかもが、地上の世界とは……同じなのに、少しずつずれていた。


 運ばれてきたグラスを、司祭服の若者は左手で掴み、少女の口元へと近づけながら訊ねた。

「そっちはどんな様子だ?」

「大丈夫。誰にも疑われてないはずよ、今のところはね」

 少女は少し飲み物に口を付けただけで、後は甘える猫のように男の胸に頬をすり寄せる。

 その体を何とも愛おしげに抱きながら、彼は少女の髪に顔を埋め、耐えきれないようにため息をついた。

 少女も彼の頬を両手で挟み、その造形のひとつひとつまで記憶しようとするかのように撫でながら、冷たい声で言う。

「あたし、自分ではうまくやってるつもりよ。でも、やっぱりあいつは油断ならない男だわ」

「確かに、油断ならない男だ」

 神父も彼女の顔を指先でなぞりながら、にやりと笑った。鋭い犬歯が白く光る。

「いかにも刑事らしい、あの嫌な目つきで、握手をするとき、俺の手を見ていた」

「左撃ちでよかったわね」

「全くだ」

 二人はまたクスクス笑い合いながら、互いの顔を、体を確かめるように撫で合い、繰り返しキスをした。

 まるで、仲のいいありふれたカップルのような光景だが、実際はそれとはかけ離れている。片やハイスクールのカウンセラー兼任の神父、もう片方はそこの生徒だ。公になったら、さぞやひどい騒ぎになるだろう。

 そんな想像に、用務員のマッケンジーおじさんはニヤリと笑った。

 いや。この二人の関係を、理解できる奴なんていやしない。そのことを、誰よりもよく知っているのがこの中年男だった。

 だいたい、どうして彼女は、尊敬すべき神父のことを、ジャックなどとファーストネームで呼ぶのだろう?

 そもそも、アリスというのは誰だ?

 その答は、ここにいる者だけが知っている。

「そういうわけだから、第三者の冷静な分析が欲しくて来たの。どう、白ウサギ? あんたの目から見て」

「悪くないね」

 少女の問いかけに、白髪混じりの黒人男は……彼が「白ウサギ」と呼ばれていることそのものが強烈に皮肉めいていたが、そんなことは気にした様子もなく、ごく冷静に、まるで研究者か観察者のような言い方で答えた。

「ラドクリフ神父に関しては、俺から言うようなことは何もないよ。お前は完璧だ」

 眼鏡を外した神父は、また口元だけで笑った。

「それからアリス。君はケイト・ヘイワースとして、実にうまく立ち回っているように見える。家族……お義父さんとの関係は良好だし、義父の再婚にも協力的だ。高校生活も充実している。スクール・カーストの王様やその取り巻きとそこそこの距離を保ちつつ、彼の恋人とは仲良くやっている。学業の方でも、目立たない程度にほどほどに優秀で、校則を破るような馬鹿もしていない。数学以外はA+というところかな。お義父さんとしては、自慢の娘だろう」

 そう語る彼もまた、用務員の目をしてはいなかった。

 確かに、見た目は陽気で親切なエリック・マッケンジーおじさんの形はしている。だが、確実に違うのだ。身のこなし、言葉遣い、声の調子、何もかもが。「ホワイト・ラビット」という愛称でさえ不気味に聞こえるほど、一分の隙もない。

 微笑んではいるが、その目は冷たかった。

 何もかも観察し、情報を集め、分析する……科学者の目だ。

 彼の顔をまともに見たら、大抵の子供は泣き出すどころか、声も出せずに凍り付くだろうと思えるほどに。そこに光っているのは、冷たく、感情の動きなど一切ない目だった。

 しかし少女はいささかも臆した様子はない。

 むしろ、退屈そうに訊き返す。

「それだけ?」

「君がクスリやアルコールに手を出さないだけでも、親御さんは安心するだろう」

「あたしの通ってる学校にドラッグをばらまくほど、イモムシは耄碌してないわよ」

 アルコール入りのオレンジジュースに口を付けて、彼女は不敵に笑う。

「そうは言うがね、君の経歴だと、何をしでかしてもおかしくないんだからな」

「この経歴だからこそ、あたしは常に目立たないようにしているってつもりなんだけど」

「それも悪くない判断だ。心に傷を負っている少女というのは、同情を引くにはなかなかいい設定だよ。それに、身を慎むのは、証人保護プログラムの対象者の本能のようなものだと、君のパパは知っているからね」

 白ウサギと呼ばれる男は、かすかに笑ってから、油断ない視線で少女に告げた。

「ただ、君はちょっとばかり、お義父さんの恋人……新しい継母のキャロライン・ロックウェルという女に親切すぎるかもな。あっさりと受け入れるよりも、もう少し反発した方が、ティーンエイジャーらしい、かもしれない」

 その言い方もまた、観察者的だった……いや、どこか傍観者めいた印象すら与える。

 同時に、それだからこそ少女が、彼の意見を聞いているのも分かった。

 彼女の、ニューヨークの空そっくりの瞳が、怜悧に光る。

「キャロラインとは揉めたくないわ。あの女は信用ならない。取り越し苦労でも、監視はしておかなきゃ」

「ご明察だ、さすがはアリス。君の言う通り、君の両親なら、むしろ彼女の方に注意を割くべきだ。お義父さんは君を心から信用しているからね。本当によくやったよ、アリス。五年間、君は実にうまくやった」

 二人の会話を、神父……いや、司祭服を着た男は、水道水の入ったグラスの縁をくわえながら黙って聞いていたが。

 不意に思い出し笑いを浮かべ、耐えきれないように喉を鳴らして笑い出した。

「それにしたって、あれは名演技だった。まさか、パパとママの娘に生まれたかったと来るとは思わなかった」

 少女は彼の顎先に軽く口づけしてから、照れたように肩をすくめた。

「ちょっとやりすぎたのは認めるわ、でも盛り上がっちゃって」

「いや、最高の演出だ」

 彼は、司祭服とは全くそぐわない野蛮な笑顔のまま、愛おしそうに少女を抱き直す。

「お前のパパも新しいママも、キッチンにもリビングにも夫婦の寝室にも、コンセントの内側に盗聴器が仕込んであるとは気づいたりしないよ」

「ついでに、真上の階にヤマネが住んで、全部録音してるなんてね」

 悪戯っぽく笑う少女に向かって、青年は目の奥にかすかに嫉妬の色さえ浮かべて言った。

「短い距離しか届かない電波の方が、盗聴探知機には引っかかりにくいんだそうだ。だが、俺は……直接お前の声が聞きたい」

「毎晩聖書にお祈りするとき、あなたがくれたロザリオにキスしてるわ。それで我慢して」

 その言葉に、司祭服の男はさらに凶暴な視線に変わった。薄青い瞳の奥にぎらぎらと、荒れ狂う嵐の中の雷のような光が明滅する。

「俺は、神様なんて信じない」

 神父にはあるまじき言葉だった。

 しかし。

「ジーザスかあ……ジーザスねえ」」

 彼女は耐えきれないようにクスクスと笑う。

「マリアはうまくやったかもしれないけど、あたしは騙されないわ。男無しで子供なんて出来ないでしょ? ジーザスなんて、父親の知れないどっかの馬の骨よ。でもあたし、ジーザス・クライストのことは評価してるの」

 アリス……ケイティは、まるで史学家か宗教学者のように言い放ってから、すべてを笑い飛ばすかのように片手を振った。

「さすが、母親の遺伝子よねえ。あの磔刑からどのくらいになるのかしら、二千年くらい? そんなに長いこと、そして今でも、世界じゅうをキリスト教なんてペテンにかけてるんだから」

 と、明らかに不敬な言葉を吐きながら、少女は傍らの司祭服の男へとまた首を伸ばして、短くキスした。

「安っぽい詐欺師にヤキモチなんて焼かないで。あたしが愛してるのはあなただけよ」

 神様すら殺しそうな勢いを、少女はいとも容易くあしらってから、話題を変えるように、白ウサギことマッケンジーおじさんに顔を向けて言う。

「ああ、白ウサギ。あなたのよく聞こえる耳を頼りにさせてほしいのよ。うちに、盗聴器がもうひとつ欲しいわ、あたしの部屋に仕掛けておきたいの。帽子屋に頼んでおいて」

「分かった。よく聞こえるように、ヤマネにも手配しておこう」

「助かるわ、お願いね」

 少女は軽く手を振るだけで、とても女子高生とは思えないような依頼を完了させた。

 だが、司祭服を着ているだけの猛獣は、華奢な少女の体を力任せに抱きしめながら、呻くように呟く。

「お前がいない間に、お前の部屋を荒らす奴がいたら、それが誰か突き止めて殺す」

「誰でも彼でも殺せばいいってものじゃないわ、ジャック」

 骨が折れてもおかしくないほどの熱い抱擁に、少女は当然のように応じ、男のたくましい背中に腕を回して、また甘えるような仕草を見せた。

「あたしが殺せって言った奴だけ殺して」

「俺が殺したいと思う奴を殺す。必ず」

「しょうのない怪物ね、あなたって。でも、あたしはあなたのそういうところが一番好き」

 彼女が優しく男の金髪を撫でると、凶暴な獣は馴致された犬のように大人しく、何の混じりけもない目で少女を見つめ、言葉にならないため息をついた。いや、それは、彼の抱いている愛情という愛情の全てを、呼気として吐き出したようにすら見える。

 少女はしばらく、神父の膝の上にいながら彼の頭を抱くという、かなり不自然な姿勢でいたが、二人ともそれに違和感は覚えていないようだった。

「アリス、愛してるよ」

 呟きながら、男がもう一度息を吐く。目を閉じた彼は、幸福そうだった。

 少女は長いこと、彼の長い金髪を撫でていた。まるで躾の行き届いた犬の毛並みを整えるかのように。

 それから、白い指がグラスの方へと伸びる。

「ああ、それから、図書館の司書のアルバイトの件だがね」

 彼女がカンパリ入りのオランジーナを飲み干すのを見計らって、白ウサギは親切な用務員の作り笑顔で切り出した。

「学生のうちに司書の資格を取る、というのは、なかなかいい名目だったようだね。すぐに手を回せたよ。図書館に潜り込むのはいつでも大丈夫だそうだ。司書の手伝いのアルバイトは、偽海亀と君で決まりだよ」

「よかったわ。それって、白ウサギのお手柄? 神父様のお力?」

 少女の問いには、司祭服の猛獣が答えた。

「イモムシと帽子屋の手助けだ」

「後でお礼を言いにいくわ。ケーキを買うついでに」

 そう言ってから、少女は心底嬉しそうな嬌声をあげて、胸に抱いていた男の頭に、熱烈に口づけした。

「それなら、これからはいつでも、こうやって会えるんだね」

 キスを返す合間に、彼も幸福そうに答える。

「教会は人目を気にしないといけないが、図書館の古典書架が気兼ねなく使えるなら、もういつもどおりだよ。だろう?」

「ええ。あんなとこ、誰も来ないし、誰にも見られない」

 その言葉に、司祭服の男は不意に現世を思い出したのか、かすかな苦笑いを浮かべた。

「こんなところを人に見られたら困る」

「お互いにね」

 微笑み返す少女の方は、屈託がないと言っていいほど無邪気だった。

 まるで、これから起きること全てが、楽しみで楽しみで仕方がないようだった。

「三月ウサギとヤマネと偽海亀、それからグリフォンも、みんなうまくやってくれてる。疑われている様子はなさそうで安心したわ。もちろん、白ウサギが一番よくやってくれてるよ。あなたって最高ね、ありがと」

「いや、生憎と、私は大したことはしていないさ。そこは、帽子屋とイモムシの腕だよ」

 用務員であり白ウサギでもある男の言葉を引き取るように、司祭服の猛獣が声を出して笑った。

「帽子屋の用意してくれた身分は何から何まで完璧だ。それだけは感謝してる」

「それはそうね。でなきゃ、あたしたちみんな、ここにこうしていなかったもの」

 少女もクスクス声を出して笑った。心から楽しんでいる様子だった。

 それから不意に顔を上げ、空色の目に油断ない光を閃かせながら訊ねる。

「イモムシのビジネスの方はうまく回ってるの?」

「もちろん。君のお義父さんたちが優秀なおかげで、だいぶイタリアン・マフィアの密売ルートが潰れた。武器も薬もね」

「そう。空白地帯は全部イモムシの総取りってわけ。それはよかったわ、需要と供給にはバランスが必要だものね」

 また、愛らしいクスクス笑いが響く。

 司祭服の男は愛おしそうに彼女の額にまたキスしてから、からかうように訊いた。

「経済の授業で習ったのか?」

「経済? あんなの寝てても覚えられる」

「さすがは俺のアリスだ」

 賞賛の言葉にも、少女は当たり前のように頷くだけだった。

「テストは事前に答が教えてもらえるしね。高校生活って案外楽だったわ」

「偽海亀に感謝するんだね」

 用務員の黒人男は、少し皮肉っぽく笑ってから、新しい飲み物を用意しに、二人のグラスを下げた。

 そのタイミングで、ラドクリフ神父が司祭服の内ポケットから、可愛らしいピンクの花柄の紙袋を取り出した。

 プレゼント用のリボン付きのデコレーション・シールが、ルイス・キャロルの名作『不思議の国のアリス』にちなんだウサギと懐中時計にトランプというのが洒落ている。

「ほら、アリス。少し遅れたが、お前にクリスマスプレゼントだ。新年のお祝いという方がいいかもしれないが」

「わあ、ありがとう、嬉しい」

 紙袋を開けた彼女は、満足そうに微笑んだ。

「いいベレッタね」

 その手に握られているのは、少女の手にもすっぽり収まってしまう十二センチしかない拳銃、いわゆるベビーピストルだ。針金を使ったチップアップ・システムは単純だが、それゆえに信頼性も高い。

 護身用としては十分だ。そして、人を殺すのにも。

 だが、上流に片足をかけ、名門を目指しているような連中が通う学校の生徒には、こんなものが必要なはずはない。むしろ、銃どころか大型ナイフですら見つかれば没収される校風だというのに。

 少女は慣れた手つきで銃を握り、銃身を丁寧に撫で、親指で撃鉄を起こして動作を確認し、それが実に滑らかなことに満足げに微笑んだ。

「もちろん、前科のない銃だ」

 神父は当たり前のように笑う。

「シリアルナンバーは削ってあるし、線状痕もありふれているものを選んである」

 全く足のつかない銃を入手することは、このニューヨークでも難しい。新品を買うには登録証が必要だし、古い銃に手を出せば、過去の持ち主がずらずらと並んだ検索画面の末に加えられ、運が悪ければ使われた犯罪記録から警察に追われることになる。

 だが、彼女はそんな心配が一切ないのを知り尽くしているようだった。

「いいものもらっちゃった。できればかっこいいサブマシンガンがいいけど、これも悪くないわ、素敵」

「だが、いくらベレッタでも、いつも身につけておくのは案外面倒だぞ」

 と、外見からは思いもつかないような物騒な会話が続く。

「そのてん、司祭服って便利そうよね。隠すところがいくらでもありそう」

「ああ、確かにな。検問で止められたことはない」

「棺桶の中に機関銃が入ってるっていうのに? 警察ってほんとに馬鹿ね」

「お前のお義父さんほど有能な奴だらけなら、ニューヨークはとっくに犯罪のない街になってるさ」

 皮肉めいた台詞にも、少女はまた軽く肩をすくめて笑っただけだった。

「あたしはどうしようかな。『ショーシャンクの空に』じゃあ、アンディが聖書の中にロックハンマーを隠してたけど。パパはたしがあの映画を見てたのを知ってるから、すぐに見つかっちゃいそう。パパと二人なら生理用品の下に突っ込んでおけば絶対バレなかったんだけどね、キャロラインは侮れないわ。あの女なら平気で引っ掻き回すわよ、きっと」

 映画のタイトルを交えて冗談めかしてはいたが、それは確信に満ちた言葉だった。

 少女は、涙ながらに迎えた義母を全く信じていない。それだけは確かだ。

「大事なものをしまっておく場所がどんどん減るわね。宝石箱でも下着の引き出しでも、あの女は平気な顔して開けるわ」

 呟きながら、彼女は無意識に右手の親指の爪を噛んでいた。

 司祭服の男……ジャックが優しくその手を取らなければ、整った爪の形が変わっていたかもしれない。

 そのとき不意に、黒人の中年男が子供のように手を叩いて、いかにも名案とばかりに言った。

「かわいいぬいぐるみのマスコットなんてのはどうかね? バッグにつるしておけば、すぐに出せる」

 彼の提案に、少女はすぐさま乗った。

「それいいわね。少し大きくなりそうだけど、バカみたいにでっかいぬいぐるみ着けてる連中はいくらでもいるもの。用意してもらって」

 いま彼女の手にあるのは、ベレッタのM950モデルだ。アルミ製の銃は実に軽く、小さい。可愛らしいバッグチャームのぬいぐるみにも、すっぽりと隠せそうだった。

「ヤマネの手作りの、かわいいガンケースか。それは楽しみだ」

 神父服の男は、ようやく落ち着きを取り戻したのか、もともと感情の起伏が激しいだけなのか、先ほどまでの剣幕が嘘のように穏やかな調子で、別のポケットから五センチにも満たない紙袋を取り出す。

「それから、これはイモムシからだよ」

 その中身を覗き見た少女は、美しい顔に邪悪な笑みを浮かべて頷いた。

「あら、いいじゃない」

 軽い紙袋には、普通の薬局で処方されるような、紙袋で小分けされた白い錠剤が入っている。

「ありがと。いざって時には、パパとママにぐっすり眠っててもらわなきゃならないようなことになるかもしれないものね。イモムシにもお礼を言っておいてね」

 笑顔で受け答えする少女には、それが何なのか、理解できているようだった。

 少女は立ち上がり、自分のためのプレゼントをバッグの一番底に丁寧にしまってから、自分よりずっと背の高い男の首に手を伸ばして、にっこりと笑った。

「ほんとにありがとう、ジャック」

「お前のためなら、どんなことでもする」

 神父の格好をしただけの野獣は、飼いならされた犬の従順さで少女に誓った。

「愛してるわ」

「俺もだ」

 二人がゆっくりと、そして長いこと唇を会わせているのを横目で眺めながら、白髪混じりの黒人は辟易した調子で苦笑いする。

「アリス、頼むからそいつの手綱を締めておいてくれ、くれぐれも」

 その言葉に、少女は長い黒髪を後ろに跳ね上げながら、当たり前のように笑った。

「ゆらゆらゆらめく、人殺し鬼のジャバウォック。何をしでかすか分からない」

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