第3話 聖夜のあくる日に

 たとえそれがクリスマス休暇の真っ最中であろうが、ニューヨークの道路に大きな引っ越し用のトラックが止まっているのは、そう珍しいことではない。むしろ、休暇の間は引っ越し業者に取っては書き入れ時だろう。

 ただ、ヘイワース父子にとっては、それは特別な車だった。

 新しい家族の荷物を乗せたトラックだからだ。

 青と銀に塗られた車体から次々と梱包された家具や段ボールが運び出されるのを眺めながら、ケイトはまるで現場監督か軍人のように、わざとらしく腕組みして言った。

「今日から新しい生活が始まるのかと思うと、ちょっとわくわくするね」

「そうだな」

「キャリーはまだ来ないの?」

「もうすぐ来るだろう……ああ、ほら」

 チャールズの視線の先には、少し離れたところで停車したタクシーがあり、そこから出てくる女性と、大きなトランクを二つばかり歩道に下ろす運転手の姿が見えた。

 金髪の美しい女性に向かって、黒髪の少女は力いっぱい片手を振りながら叫ぶ。

「キャリー、もうトラック来てるよー!」

 呼びかけられた女は、にっこり笑って何か答えたが、距離と雑踏のせいで何を言っているのかは分からなかった。

 それがこの家への、キャロライン・ロックウェルの到着だった。


 チャールズとキャロラインが一緒に住むことを決めたのは、結局クリスマスの翌日で、引っ越しは年明けにと言っていたのだが。

 ケイトは、今すぐにでも引っ越しの手配をするべきだ、と言い切って譲らなかった。

「結婚式は春がいいっていうのは、それは知ってる。そりゃ、お花が咲いてる季節の方が綺麗だしさ。でも、結婚の誓いの前から一緒に住んでても、神様は怒らないと思うよ。パパとキャリーは、なんていうか……愛し合ってるんだし」

 そう少女は言い張った……いや、必死に訴えていると言った方が正しかったかもしれない。口調や表情で軽快さを装ってはいたが、それは上手な演技ではなかった。

「二人で一緒にいる時間が、できるだけ長い方がいいと思うんだ。パパが仕事から帰ってきた時に、キャリーが……ママが迎えてあげて、ちゃんとした夕食が出来てて、一日にあったことを、下らないことなんかを話したり、でなきゃ一緒に映画を見たりとかさ、とにかく二人でくつろいでほしいんだ。パパには、心からゆっくりできる場所が必要だし、そうしたら次の日も元気に仕事に行けると思うんだよ」

 顔こそ笑っていたが、目と声は真剣そのものだった。

「今みたいに別々に住んでたら、毎日パパはあたしに気をつかって、キャリーと過ごす時間が少なくなっちゃうし。あたしも、パパとキャリーに少しでも一緒にいてほしいからって、いろいろ気を回しちゃう。いらないことも考えちゃうし」

「この間のクリスマスみたいに?」

 キャロラインが場を和ませようと微笑むと、ケイトは助け舟を得たように笑い返す。

「クリスマスは、あれは楽しかったからいいの。コロンバスさんのケーキとバザーの余ったクッキーで太ったけど、クリスマス・ブレイクで太らない奴は連邦法違反だわ。そうよね、パパ?」

「私は太っていないぞ、一オンスもだ」

「ずーるーいー」

 いかにも節制を重んじる父らしい言葉に不満の意を表するのも、今だけは、どこか芝居がかって見えたかもしれない。

 それでも、ほとんどなりふり構わずに。

 彼女は、義父とその婚約者に、哀訴に近いほど切実に言った、

「ああ、ごめん、また脱線しちゃった……とにかく、キャリーにお願いしたいの。この家に来て。パパと、あたしたちと一緒に住んで。パパのベッドルームが気に入らないなら、好きにリフォームしていいから」

「ちょっと待って、ね、ケイト」

 婚約者である刑事が何か声を出すよりも早く、キャロラインは、いささか取り乱しているように見える少女に穏やかに語りかけた。

「それはあんまり急な話だわ。引っ越しって大変じゃない、いろんな手続きもあるし。結婚してから姓を変えるかも、わたしまだ決めてもいないのよ」

 キャロライン自身も、戸惑いを隠せてはいなかった。

 確かに人生に置いては大きな決断だ。若いカップルがくっついたり離れたりするのとは訳が違う。ある程度の年齢のいった女性と、子持ちの男が一緒に住むというのは、つまりその後の人生を共に歩む覚悟を迫られるということだった。

 もちろん、不安や当惑が次々にわき上がっては混ざり合う。

 だが、少女の澄んだ声が、一瞬にしてそれをかき消した。

「キャロライン・ヘイワース」

 そう呟いた後、ケイトは少しはにかんだように笑った。

「いい名前だと思うけどなあ」

「ケイティ……」

 その、明け方の空のような濃い青の目を見た瞬間、キャロライン自身にも理由は分からなかったが、突然胸の奥と、目頭に熱いものがこみ上げてきて、彼女は思わずソファーに座り込み、両手で顔を覆った。

 その傍らにそっと腰掛けて、ケイトは彼女に寄り添いながら訊ねる。

「挙式の前に、役所に結婚の届けを出すのは違法じゃないよね、パパ?」

「合法だ。今は、そういうカップルの方が多い。事実婚だけというのも多いが」

「事実婚なんて、パパが納得しないのはあたしもキャリーも分かってるから黙ってて」

 少女がぴしゃりと言うと、強面で鳴るチャールズの顔にもかすかな苦笑が浮かんだ。

 それからケイトは、キャロラインの手を握って再び訴えかける。

「ねえ、キャリー。お願い。一緒に住んで。急にあたしのママになってくれって言ってるんじゃないの、ただ、あたし、家族が増えるのが嬉しい。あなたがパパと結婚式を挙げるまでなんて、待ちきれないよ。お願い」

 それは心からの懇願に聞こえた。嘘偽りのない願い、少女の唯一の希望であるかのようにすら。

 だからこそ、それを間近で聞いたキャロラインは少女の手を握り返し、それでも涙を流し続けたのだろう。

 二人の間を取りなすつもりだったのだろうか、急に思いついたのか、前々から考えていたのかは読み取れなかったが、いつもと同じ静かな表情のまま、チャールズ・ヘイワースは重い口を開いた。

「キャロライン。もしこのマンションが手狭だと君が思うなら……どこか、新しい部屋に引っ越そう。もう少し広い間取りの、君の気に入るような家に。生憎、私の給料では郊外のプール付きの一戸建てなんてものは無理だが」

 と、それから義理の娘の顔を見て、かすかに笑う。

「ああ、もちろん、ケイティも気に入るような家じゃないと駄目だな」

「あたしはテレビとブルーレイ完備のリビングさえあればどこでもいい。キャリーがいいようにして」

 ケイトは迷うことなく答えた。

 彼女が提示した条件は、今のマンションのままでも何の問題もなかった。

 しばらくの沈黙の後、マスカラの滲んだ目元を押さえながら、キャロラインは婚約者とその義娘を交互に見つめた。

「あなたたち、わたし……わたしを、この家に迎えてくれるの?」

「キャリー」

 思わず声をかけたのは男の方だったが、それに気づかなかったのか、キャロラインは隣に腰掛けた少女の手を強く握り返して、潤んだ目で訊ねる。

「ケイト。私を、あなたのパパにふさわしい妻だって思ってくれるの」

「キャリー、あなたくらいあたしのパパとお似合いの人はいない」

 少女ははっきりと言い切り、これから義母になろうという女の手を取ってソファーから立たせた。

 そして、すっと義父の傍らへ近づき、鋭い目つきで命じる。

「ほら、パパもちゃんと言いなさいよ」

 娘に脇腹を小突かれて、さすがの敏腕刑事も容易く降参した。

「キャロライン。一緒に住もう。私たちはもう家族なんだ」

 そこから先には、少女の助けは必要なかった。

「愛している、キャロライン」

「わたしもよ、チャールズ!」

「もう一度、正式に申し込もう。私と結婚してくれ、キャロライン」

「喜んで……ええ、もちろんよ」

 愛し合う二人は、テーブルとソファーの間の狭い空間でしっかりと抱き合い、まだ涙を流している彼女に、恋人が優しくも熱烈なキスをして、もう一度キャロラインがチャールズのたくましい胸に抱き寄せられる。

 まるで映画の一場面のようなひとときが流れた。

 こんなに素晴らしい愛の場面は、なかなか出会えないだろう。

 それを見届けてから、ケイトはソファーの背もたれに引っ掛けてあったバッグから一枚の紙切れを取り出して、テーブルの上に置いた。

「よかった。ほっとしたわ。じゃあ、これ」

 と、バッグから安物のボールペンも投げ出して、当たり前のように笑う。

「その書類貰ってきといたから、さっさとサインして。明日出勤がてら、役所に持っていくといいよ、パパ」

 それは婚姻証書だった。ニューヨーク州に提出するための、姻戚関係を証明する書類だ。

「用意がいいな」

 二人がそこに署名し、ニューヨーク市役所か出張所に提出すれば、二人は正式に、というより、法的に夫婦だ。財産や全ての権利が平等になる。

「だが、届け出た住所からすぐに引っ越しするなら、越してから届けを出す方が合理的だ。変更の手続きは面倒だぞ」

「いいえ、いいえ。わたし、ここに住むわ。ここに……この部屋に住みたい」

 キャロラインはすっかりマスカラもアイラインも流れ落ちた顔だったが、それでも機嫌として、まるで誇り高い宣言でもするかのように言い切った。

 それから、急に視線を落とし、近い将来夫になる男の胸元に頬を預けて、再び声を震わせる。

「チャールズ……わたし、怖かったの。あなたとケイトの二人の世界に割って入るみたいで、勇気が出なかった。でも、二人ともそんな風に思っていてくれたなんて、わたし、嬉しくて……なんて言ったらいいか分からないわ」

 しっかりと抱き合う二人を少し離れたところから眺めて、ケイトは優しく微笑む。

「何も言わないでいいよ、キャリー」

 その言葉に、キャロラインは恋人の腕を離れ、少女の細い体を抱きしめて泣いた。

「大好きよ、ケイト」

「あたしも」

 これから母子になろうとしている二人の女のことを、その橋渡しとなるチャールズ・ヘイワースが両腕で力強く抱いて支えた。

 かくして、彼女はこの家に迎えられたのだ。キャロライン・ロックウェルは、ヘイワース夫人になった。行政への届け出が翌日になったとしても、その一瞬は永遠に変わらないだろう。


 こうして、キャロラインの荷物が全て運び込まれ、段ボールの山でリビングとダイニングが埋め尽くされた後。

 不意にケイトが壁を指差して言った。

「ちょっと早いんだけど、結婚のお祝いを買ったの。あの殺風景なリビングの壁にかけようと思って」

 と、少女は言いながら、荷物の山のにおざなりに立てかけられていた薄い段ボールを開けはじめた。

 ガムテープで貼り付けられ、ビニールテープと緩衝材で守られた品を取り出すのに、ケイトはだいぶ時間をかけた。チャールズが手を貸そうとしても、頑として聞き入れなかったのだ。

 そしてようやく、彼女の目当てのものが掘り出される。

 それは、薄っぺらいアルミの額に入れられた、青と黄色と……無数の色が印象的な、美しい一枚の絵だった。

 かなりの大きさだ。ケイトが両手で支えて、ようやくマントルピースの上の壁に、その絵はもたれる形で飾られた。少女は少し恥ずかしそうに笑う。

「ちゃんとしたフックとかは、パパが買って吊るしてよね」

 その特徴的な、幻想的を通り越して狂気を思わせる、しかしそれでいて強烈な魅力のある画風は、現代に生きているものならばたいていは知っているだろう。

「ゴッホの『星月夜』か?」

 チャールズ・ヘイワースの問いかけに、少女は自信なさげに頷いた。

「うん、ゴッホだよ。ていうか、あたし画家なんてゴッホとかダ・ヴィンチとかさ、教科書レベルのスーパースターしか知らないんだ。でも、綺麗だからこれにしたの」

 星降る夜を描いた、名作中の名作だ。ひまわりや自画像と並んで、いや、それ以上にゴッホの代表作と言っていい作品だろう。

 青と濃紺、紫の空に、明るい黄色や白の星々がいくつも、迫り来るように輝いている。空の下に描かれた人々の暮らしなどちっぽけで、ただひたすらに天にまたたく星だけを見つめて、それだけが尊いものだと、永遠に移ろわない美しいものなのだと、訴えかけているような絵だ。

「まあ、素敵」

 何も知らないキャロラインは感動した様子で、急ごしらえに飾られた絵へと歩み寄る。

 もちろん。この本物は、今は世界的名画として各国を巡業している。こんなマンションの一室にあるわけがなかった。だが、それでも。

 ケイトの生まれと育ちを知り尽くしているチャールズは、一瞬だけ少女に鋭い視線を送った。

「新しいタイプのポスターなんだよ。本物のキャンバスの上に絵をプリントして、樹脂で盛り上げて立体感を出してるんだって。これはあたしから、クリスマスプレゼントと結婚祝い」

 だが、ケイトは父が刑事の目になっていることなど気づいてもいない様子で、にっこりと笑った。

 実際、本当のゴッホならばこんなに薄い絵の具の塗り方はしないだろう。もっと盛り上げ、魂ごと塗り込めているはずだ。そこまでの迫力は、この複製画にはなかった。

「素敵……ありがとう、ケイト」

 だが、その美しい色合いは、キャロラインの心を動かすには十分だったようだ。彼女はもうすぐ我が子になるはずの少女を、もう一度優しく抱きしめた。

 

 まだ山積みの段ボールが半分も片付いていないところで、三人は少し遅い昼食を摂った。近くにあるミスター・コロンバスのカフェに、ケイトがサンドイッチとカフェオレを買いに走ったのだ。

 顔見知りのコロンバスさんは太った中年男で、だがどこか女性的な雰囲気もある……それでいてゲイという感じもしない、少し風変わりな人物だったが、彼の料理は常にこの地域では最高の評判で、特にケーキで右に出る者はいなかった。

「こっちがパパのね、ローストチキンとレタスとトマト、ピクルス抜き。これキャリーのだけど、アボカドとエビのオニオンソースでよかった? 嫌いだったら、あたしのBLTチーズ増し増しと取り替えるけど」

「アボカドシュリンプは大好きよ。本当に美味しいのね、コロンバスさんのお料理って」

「今度一緒に行こうよ。焼きたてのパンケーキはテイクアウトできないからね」

 引っ越し途中の、ちょっとした休息には、ミスター・コロンバスのサンドイッチは、確かに最高だった。焼き目のしっかりついたバケットにたっぷり塗られたバターのおかげで、ソースが多めの具が挟んであっても、冷めても水っぽくなかった。

「美味しかったよ、コーヒーは貰えるかな?」

「インスタントのブラックなら作ってあげてもいいわ」

 ケイトは言いながらキッチンに向かい、義父愛用のマグカップにインスタントコーヒーを口切りいっぱいまで持ってきてから、やおら切り出した。

「それからね、パパ、ちょっとお願いがあるんだけど」

「何だ、改まって」

 いささか身構えた様子のチャールズに、ケイトはいつもとは違う真面目な顔で言う。

「うちの学校の図書館でね、司書の助手っていうか、手伝いのバイトを募集してるんだ。あたし、それに応募したいの」

「アルバイト?」

 怪訝そうに訊き返す義父に、少女は真顔のまま説明を続ける。

「うん、司書の先生のお手伝いをするの。それで、ちゃんと司書の仕事の勉強ができるし、本当にちゃんとやってたら、司書の資格も取れるんだって。そりゃ、そこらのカフェとかコンビニでバイトするよりは時給はぜんぜん安いけど、お小遣いくらいにはなるしさ」

 そして、一番重要なことのように、少し身を乗り出して言う。

「それに、学校の中でのバイトなら、パパも安心でしょ?」

「それはそうだが」

 チャールズはまだ、事態を把握するのにいくらか脳神経を使役しているようだ。

 だが、父親としても刑事としても、反論は特に思いつかなかった。街の商店で働くよりはずっと安心なのは事実だし、高校という制約の中では、さらに危険は少ない。司書を目指すという彼女の希望もまた、実に建設的で、理想的にすら思える。

「確かに、刑事になりたいと言い出されるよりは安心だ」

「でしょう? キャリーもそう思うよね」

 水を向けられた殉職警官の妻は、思わずというより、反射的に頷いてすらいたものだ。

 二人の反応に、さらに説得が必要だと思ったのか、ケイトは右手の指を二本立てて、そのうちの一本を左手で握った。

「司書の助手のバイトの募集枠は二つなの。で、そのうち一人は、たぶんモーリー……モーリス・タートルズで埋まってると思う。彼、図書委員会の委員長だし、文学クラブの部長だから」

 モーリスのことは、義理の両親……まだ仮だが、とにかく、この二人も記憶しているだろう。あの、冴えない瓶底眼鏡のガリ勉優等生だ。

「だから、あたしが残りの一つの枠を取るには、パパの説得っていうか、推薦みたいなのが欲しいの。司書先生に、あたしは真面目にやれますって、面談で証言してもらいたいの」

 ケイトは、彼女にしては珍しく、熱っぽい視線でチャールズを見つめた。

「NYPDの刑事さんがどれだけ忙しいのかは分かってる。だから、パパがあたしのために時間が取れないなら、手紙でもメールでも電話でもいい。お願い」

「それは構わないが、ケイティ。そんなに司書になりたいのか?」

 意外そうなふりを装いながら、チャールズは訊ねた。ただ、それが「ふり」だけなのは、ケイトにもキャロラインにも分かる程度の演技に過ぎなかったが。要するに、刑事らしい、形式的な質問というやつだ。

 しかし、それにもケイトは、冗談めかしたことは言わず、真面目そのものに答えた。

「パパ、あたし、こんなこと言ったら、また変だと思われるかもしれないんだけど……」

 少女が言葉を濁したのは、あの悲惨な事件の後には、一定期間の混乱の時期があり、かなり強い種類の精神安定剤が処方されていたことを慮ってだろう。

「変だなんて思わない。続けてくれ」

 言われて、少女は少し目を伏せ、どこか困ったような、あるいは悲しげなような……複雑な表情を浮かべた。

「さっきの絵もそうだし、難しい本のこととかもね、あたし全然わかんないんだけど。綺麗な本が一杯ある、本棚が並んでる場所にいると、あたし、すごく落ち着くの。静かっていうか、安らかっていうか、なんて言ったらいいのか、よく分からないんだけど、何だかそんな気持ちになるの」

「それは少しもおかしなことじゃない、ケイティ」

 チャールズ・ヘイワースは、父親としてと同時に、警察官として、そして一人の大人の男として、いまだか弱い少女の両肩を力強く支えながら言う。

「君の、もともとの……生まれ育った家には、立派な書架と蔵書があった。壁には美しい絵画が飾られていたし、綺麗な絵本や素晴らしい図鑑に囲まれて、君は育ったんだ。それを懐かしいと思うのは当たり前だ」

「だけどあたし……そんなの覚えてないのに?」

 ケイトは義父の顔を見上げて、急に不安になったのか、突然目を潤ませた。

「記憶の底に、ちゃんと残っているんだよ」

 チャールズは出来るかぎり穏やかな声で、そう告げた。

「覚えていないのは、それはきっと、ケイティが……以前の生活、あの事件の記憶を封印したせいなんだ。自分の心を守るために。そうでなくては、耐えられなかったんだ」

 それほどまでに辛い経験だった。あまりにも悲惨で衝撃的な現実に直面した人間は、その記憶を脳の奥の小さな箱に封印することで、現実の今を生きていく。ケイト・ヘイワースの脳も、当たり前の反応をしただけなのだ。

 でなければどうして、正気を保っていられるだろう。こんな風に、普通の少女のように振る舞っていられるだろう。

 彼女は、たった十一歳の時に、両親と姉と妹、それに使用人の全てを目の前で銃撃され、皆殺しにされて、家に火を放たれた。彼女は血の海と業火の中でたった一人生き延びた、唯一の生存者なのだ。

「だったら、あたし……やっぱり司書のバイトはしない方がいいよね?」

「なぜ?」

「だって、以前の自分の記憶に縛られてるから、懐かしいだけなんでしょ? 今のあたしは、パパの娘で、ケイト・ヘイワースなのに」

 脅えた目で訊ねる少女に、チャールズは落ち着いた声で言い聞かせた。

「それは違う、ケイティ」

 涙で潤んだ彼女の瞳の奥に、生き抜く力があるのをチャールズは知っていた。

 だからこそ、あの地獄の底を生き抜けたのだ。

 そして、そんな少女だからこそ、我が子として迎える決断が出来たのだ。

 彼女と出会って、チャールズの人生が変わった。

「君という存在を作っている、たくさんのピースの一つに、そうした本や、書架の並んだ部屋があるだけなんだよ。今の君と、過去の君を切り離したい気持ちは分かる。だが、それは必ずつながっている。君は君なんだ、ケイティ。君だからこそ、私は君を愛している」

 心からの言葉。

 その優しい響きに。

「嫌だ」

 ケイトはきつく目をつぶり、耳を両手で塞いで、悲鳴のように叫んだ。

「嫌だ、ずっと、あたしは、生まれてからずっと、パパの娘でいたかった」

 悲劇以上のものを見てしまった絶望を、少女は泣きながら訴えた。

「あたしは、パパとママと、ずっとここで暮らしてた。ずっと一緒にいたんだ」

 それがただの、希望ですらない妄想なことを知りながら、少女は泣きながら繰り返した。

「そうしてよ、パパ、そうしてよ!」

「それはできないんだよ、ケイティ」

「嫌だよう。嫌だよう」

 少女の痩せた体を抱きしめながら、チャールズは少し困惑していた。

 ケイトがこんな風に感情を爆発させることなど、今までなかったのだ。

 実の家族が全員死んだと聞かされた時も、病院のベッドの上で、彼女はただ静かに、その事実を受けて入れていたように見えた。この世にただ一人になった絶望にも、一人で耐えようと努力しているように見えた。

 だが、ずっと……ずっと、この五年間、彼女はその絶望と戦い続けていたのか。

 いや、彼女自身気づかぬように目をそらして、ただ歳月だけをやり過ごすだけで精一杯だったのだろうか。

 父親の立場を引き受けながら、そんなことにも気づいてやれなかったのかと思うと、チャールズは自分が情けなかった。ただ、義娘を強く抱きしめるしか、選択肢が浮かばなかった。

 そんな時だ。

「泣かないで、ケイト」

 まるで、救いの天使のように。

 キャロラインが、少し目を潤ませながらも、あたたかな、優しい笑顔で二人に告げた。

「大丈夫よ。わたしとチャーリーがついてる」

 もしかしたらそのとき、より助けられた気がしたのはチャールズの方だったかもしれない。

 キャロラインは目元を拭いながら、ケイトの傍らに寄り添って、その細い手をそっと握った。

「司書先生のお手伝いのアルバイト、保護者の面接が必要ならわたしが行くわ。明日あの書類を出したら、法律上は、もう違法じゃないんでしょう? わたしが、あなたなら大丈夫だってちゃんと説明……ええと、警察式に言うなら証言ね、証言するわ。カフェやスーパーより、ずっとあなたには向いている仕事よ」

 軽口を適度に差し挟みながら、少女を安心させるように泣き止ませ、驚くべきことに、笑顔まで取り戻させた。

「ありがとう、ママ」

 ケイトはミスター・コロンバスの店のペーパーナプキンで涙まみれの顔を拭き、恥ずかしそうに鼻をかんでから、びっくりするほど大声を張り上げた。

「じゃあ、とりあえず……図書館の本を片付ける練習がてら、ママの荷物を片付けよう!」

「そうだな」

 チャールズは苦笑のふりをしながら、内心では安堵の笑みを浮かべていた。


 今日中には無理だろうが、二、三日のうちには、キャロライン・ヘイワース夫人がこの狭いマンションを自分の家だと、心から思えるようになるだろう。

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